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ブラウニー・ワイズ パーティで売るという発明

    部門は「#お仕事小説部門」、字数は3万字程度です。

    【あらすじ】
     1950年代アメリカ。発明者アール・タッパーが作ったプラスチック容器タッパーウェアは、百貨店では売れず、返品の山になっていた。
     ブラウニー・ワイズは、その商品を各地のリビングへ持ち込み、実演と口コミによって、タッパーウェアを家庭から家庭へ広げていく。彼女に見出された女性たちは、自分の名前で呼ばれ、自分の手で商品を売り、暮らしを少しずつ変えていく。
     やがてブラウニーは副社長となり、会社は急成長を遂げる。しかし、製品を生んだタッパーと、売り方を作ったブラウニーのあいだには、少しずつ見えない溝が生まれていく。売れない容器を時代の象徴に変えていく、ブラウニー・ワイズと、彼女に背中を押されて売り手となった女性たちの物語。

    【登場人物】
    ブラウニー・ワイズ
     元販売員。タッパーウェアをパーティで売る方法を見出し、女性たちを売り手へと育てていく。人の様子を見て、場を動かすことに長けている。

    アール・タッパー
     タッパーウェアの発明者で創業者。素材と製品に強い誇りを持つ一方、会社の顔がブラウニーになっていくことに複雑な感情を抱く。

    マージ・ホランド
     内気な主婦。ブラウニーに見出され、失敗を重ねながらディーラーとして成長していく。ブラウニーの教えを受け継ぎ、自分の暮らしを変えていく。

    ローズ
     ブラウニーの母で元組合活動家。歯に衣着せぬ言葉で、娘の商売と人生の核心を突く。

    ジェリー
     ブラウニーの息子。病弱だったが、フロリダで回復していく。ブラウニーが働き続ける理由のひとつ。

    第一話


     七人の主婦の顔と手を、ブラウニー・ワイズはひとりずつ見ていった。

     顔は笑っていても、手元が落ち着かない人が、右端に二人。ソファの肘掛けを指でなぞって、コーヒーのおかわりの頃合いばかり気にしている。デトロイトの十月の夜、石炭ストーブの効いたリビングは人いきれで暖かく、そして部屋の空気は、まだ温まりきっていない。

     悪くない。ここからが、腕の見せどころだ。

     玄関で外套を預けるとき、鏡の前で口紅だけ引き直してきた。いつもの儀式だ。舞台に上がる役者が襟を正すのと同じで、これをやると背筋が伸びる。今夜のお客様は七人。名前は全部頭に入れてきた。ドロシー、ヘレン、アイリーン――名前で呼ばれて嫌な顔をする人には、会ったことがない。

    「ドロシー、お台所を少しだけ借りるわね」

     今夜のホステスのドロシー・メイソンが、どうぞどうぞと立ち上がる。フォードの工場に勤める旦那さんの自慢は、ローンで買ったばかりの白い冷蔵庫。その冷蔵庫から、ブラウニーは昨日のうちに預けておいたセロリを取り出した。

    「みなさん、冷蔵庫って便利よね。でも、ひとつだけ苦手なことがあると思わない?」

     七人の顔がこちらを向く。

    「入れておいた葉物が、三日でしなびるし、ゆうべのローストの残りには、匂いが移るの。冷蔵庫って、冷やしてはくれるけど、保存するのは苦手なのよ」

     あちこちで頷きが起きた。ソファの端の二人の手が、肘掛けから離れる。話を聞く顔になっている。

    「そこで、これを使うの」

     ブラウニーはかごから、半透明のボウルを取り出した。ワンダーボウル。蝋を固めたような、乳白色のプラスチックだった。順に回すと、主婦たちは代わる代わる指でつつき、軽くて拍子抜けだの、石鹸箱みたいだのと笑い合う。

    「ただのプラスチックでしょう、って顔ね。ええ、そう思うわよね。じゃあ、フタをしてみせるわ」

     ボウルに水を張る。フタを載せる。それから、フタの真ん中を手のひらで軽く押さえて、縁をわずかに持ち上げた。

     ぷしゅっ。

     小さな音がして、フタが吸いついた。

    「いまの音、聞こえた?中の空気が抜けた音よ。真ん中を押さえて、縁を少し浮かせる。中の空気が抜けると、そのぶんフタが吸いついて張りつくの。――さて、ドロシー。お宅の絨毯、もし濡らしたら弁償するわね」

     そう言うなり、水を張ったボウルを、ひっくり返した。

     悲鳴が上がる。上がって、止まる。一滴も、落ちない。

     逆さのまま、ゆっくり左右に振ってみせる。それでも落ちない。仕上げに、逆さのボウルをそのまま絨毯の上にぽんと落とした。ボウルは軽い音を立てて弾んで、転がったが、フタは外れない。拾い上げてフタを取ると、ボウルの中の水が静かに揺れていた。

     七人が、いっせいにしゃべり出した。

    「奥さまがた、しなびたセロリと、匂いの移ったローストを、先週いくつ捨てました?」

     ざわめきの中から、ブラウニーは続ける。

    「捨てた分まで、ちゃんと食費として払っているのよ。このフタがあれば、その捨てる分を減らせるの。フタひとつにしては、いい働きだと思わない?」

     食費の話になると、反応は早い。安物のプラスチックが、自慢の白い冷蔵庫に居場所を得る瞬間だ。

    「はい、今度はみなさんの番。コツはね、真ん中を押さえて、縁を少しだけ浮かせること。中の空気が抜けたら、ぷしゅっ、て鳴るの」

     ボウルとフタを回していく。最初のうちは、うまくいかない。ヘレンという赤毛の女性は、三度やって三度とも失敗して、耳が赤くなった。

    「ヘレン、手のひらの真ん中で押さえて。指じゃなくて。そう――」

     ぷしゅっ。

    「鳴った!」

     ヘレンが叫んで、部屋中から拍手が起きた。ブラウニーは笑いながら、その顔を頭の片隅にそっと留めた。自分の手で音を鳴らせた人は、もうただのお客様ではない。買ってくれる。なかには、いつか売る側に回る人もいる。

     それからは早かった。輪投げの余興で景品の栓抜きを配り、コーヒーケーキのおかわりが行き渡るころには、注文用紙も回りはじめていた。ボウルは二つずつ、フタつきのタンブラーは六つ組で、次々に名前が書き込まれていく。ドロシーの冷蔵庫のどこに置くかまで、その場で決まっていく。

     ホステスのドロシーには、売上に応じて謝礼の水差しを。これで彼女は来月、誰かのパーティで今夜の自慢をするだろう。

     アイリーンだけは、最後まで注文用紙に手をつけなかった。今夜は買わないと家で決めてきた顔だ。ブラウニーは勧めなかった。代わりに帰り際、輪投げの景品の栓抜きを、彼女の手に握らせた。買わなかった人を手ぶらで帰さないこと。輪に入った人は、いつか必ず戻ってくるからだ。

     帰り支度の頃、ヘレンがそっと寄ってきた。

    「あの、うちでもこの集まり、できるかしら。狭い家だけど」

    「狭いほうがいいのよ。声が届くもの」

     ブラウニーはヘレンの両手を取った。この瞬間が、今夜いちばんの売上だ。ボウルは工場で何百個でも作れる。けれど次の家と、次の集まりは、こうやってしか増えない。

     最終バスに揺られながら、百貨店の暗いショーウィンドウが窓の外を流れていくのを見ていた。あの店のどこかにも、同じボウルが並んでいる。値札をつけられて、説明の一枚も添えられず、埃をかぶって。店の中では、誰もあのフタを鳴らしてみせてくれないからだ。

     揺られながら、今夜の勘定をする。売上四十七ドル。ヘレンの家のパーティが再来週。うちのディーラーは、これで市内に十九人。十九人が開くパーティのあちこちで、週に何十回、フタが鳴っているだろう。百貨店の棚で埃をかぶっているワンダーボウルも、リビングに連れてくると飛ぶように売れる。

     理屈は簡単。

     棚は口をきかないけれど、わたしたちはしゃべるからだ。

    ※ ※ ※

     借家の台所には、灯りが残っていた。

     母のローズが、やかんを火にかけて待っている。ブラウニーは外套を脱ぐ前に、壁越しに音を確かめた。ジェリーの部屋。咳が、二つ。それから静かになる。今夜は、体調が悪くはないらしい。

     そっと扉を開けて覗くと、ジェリーは毛布に顔を半分うずめて眠っていた。枕元に、読みかけの冒険小説と、咳止め用の匙。医者は先月も同じことを言っていた。デトロイトの冬は、この子の胸に合わない。できることなら、暖かい土地へ――その「できることなら」に、いちばん金がかかった。

    「四十七ドル」

     薄いコーヒーを受け取って、椅子に座る。

    「上々じゃないか」

    「月末の家賃と、お医者さんへの支払いで、きれいに消えるけどね」

    「文句を言うんじゃないよ。ちゃんと働いた金は、きれいに消えるもんだ」

     母は昔、組合の演壇に立っていた人だ。十四歳のブラウニーを初めて演壇に上げたのもこの人で、金勘定と、人を動かす話し方については、たいてい母のほうが正しい。

    「今夜もあれかい。逆さにして、悲鳴を上げさせたのかい」

    「上げさせたわよ。それから全員に、自分の手で鳴らしてもらったの。ヘレンって人なんか、三度しくじって、四度目に鳴った時には踊り出しそうだった。その人が今度、自分の家でパーティを開くのよ」

    「その人の旦那は、何て言うだろうね」

    「さあ。うちの十九人も、半分は旦那さんに嫌な顔をされてる。もう半分は――妻の稼ぎを見て、黙るの」

     母が、ふん、と鼻で笑った。誉め言葉のときの鼻だ。

    「ふうん」

     母はやかんの火を止めて、こちらを見ずに言った。

    「あんたのそれは、ボウルを売ってるんじゃないね。奥さんたちをその気にさせてるんだ。いっぺんその気になった人間は、あとへは引かないからね。組合と同じだよ」

     ボウルを売っていない、は言い過ぎだと思う。売上は四十七ドル、れっきとしたボウルの代金だ。それでも、ヘレンの四度目の「鳴った!」を思い出すと、母の言うことも、少しはわかる気がした。

     コーヒーを飲みながら、つい、指がテーブルを叩く。家賃、医者代、ディーラーたちへの前貸し、ジェリーの冬の上着。お金はいつも、足りるか足りないかのぎりぎりで、その綱渡りがもう何年も続いている。

     それでも、勤めを辞めてこの売れないボウルに賭けたことを、悔やんだ晩は一度もない。売れないと言われた品が、リビングでは飛ぶように売れる。今夜の拍手を聞けば、賭けたことを悔やむ理由などなかった。

     スタンレー社にいた頃、一度だけ、売るだけの立場から抜け出せないかと考えたことがある。

     販売大会の会場で、創業者のビバリッジ氏をつかまえて、支部の経営をやらせてほしいと言った。売上なら誰にも負けていなかった。氏は葉巻を挟んだまま、悪気もなく、こう言ったのだ。

    「経営は女の仕事ではないよ、ミセス・ワイズ。あなたは売るだけでいい」

     あの言葉は、まだ胸のどこかに刺さったままになっている。抜こうとしたことは、ない。抜いてしまえば、怒りまで薄れそうだった。

    「ああ、そうだ。あんた宛てに手紙が来てたよ」

     母が食器棚の上から、封筒の束を取って寄越した。電気代、支払いの案内、教会からの便り。その一番下に、見慣れない封筒があった。

     厚手の、事務用の封筒。宛名はタイプ打ちの、素っ気ない事務的な文字だ。消印は、マサチューセッツ州。

    「マサチューセッツ?あんた、東部に借金でもあるのかい」

    「失礼ね。貸しはあっても借りはないわよ」

     デトロイトから六百マイルも東の州に、知り合いはいない。差出人の名を、ランプの下で読む。

     アール・タッパー。

    「タッパー……」

     思わず声に出た。台所の隅、かごの中では、持ち帰ったワンダーボウルがいくつも重なっていた。ワンダーボウルの、生みの親の名前だ。会ったことも、見たこともない。百貨店の棚でこの子たちを埃まみれにしている張本人でもある。

     その人が、わたしに何の用だろう。

     ブラウニーは冷めかけたコーヒーを脇へ寄せて、封を切った。封筒の中には、フロリダでの販売を任せたい、とだけ書かれた短い手紙が入っていた。

    第二話


     その手紙から、二年が過ぎていた。

     アール・タッパーは、返品されてきたボウルをひとつ手に取り、縁を親指でなぞった。

     成形に歪みはない。傷もない。完璧な品だ。完璧なまま、ニューヨークの百貨店の棚で十一か月眠って、箱ごと送り返されてきた。事務室の壁際には、同じ箱が四十七箱も積んである。

     箱にはバイヤーの手紙が添えてあった。品質に問題はないが、客が使い方を理解しない。フタが固いという苦情が多い。以上。タッパーは手紙を二度読んだ。フタが固い。あれは固いのではない。密閉というのだ。閉め方を知らないだけだ。知らないなら、教えればいい。教えるのは、誰の仕事だ。

     少なくとも、棚に並べただけで売れる品ではないらしい。それだけは、十一か月と四十七箱が証明していた。

     工場のプレス機は今日も規則正しい音を立てている。床ごしに伝わるその振動だけが、この頃は確かなものに思えた。

     ポリT――タッパーがそう名づけた樹脂は、もとは製油所が捨てていた真っ黒な残りかすだった。デュポンにいた頃、誰も見向きもしなかったあの塊を、タッパーは何年もかけて精製した。割れない。軽い。熱湯を注いでも匂わない。

     あの捨てられていた黒い塊は、ガラスが百年かかってもなれないものになったのだ。大恐慌で造園の商売を潰したとき、身に染みてわかったことがある。天気と人間は裏切る。素材は裏切らない。

     だから、売れない理由が素材にないことだけは、確かだった。

     机の上には、月次の報告がある。全米の取引先の数字は、ほとんどが横ばいだった。伸びているのは、二か所だけだった。デトロイト、そしてフロリダ。どちらも、店ではない。ワイズという女が仕切る、ホームパーティとやらの数字だ。

     フロリダの伸び方は、率直に言って、異様だった。二年前、デトロイトの実績を買ってフロリダの販売を任せたときは、余興のつもりだった。いまやその余興の売上が、全米の百貨店の合計を上回っている。

     派手な売り文句で数字を作る人間を、タッパーは信用しない。売り文句だけでは長くは持たない。翌月の数字が落ちるからすぐにわかる。だがフロリダの数字は、この二年、月を追うごとに伸び続け、一度も落ちていなかった。

     成績が落ちない売り文句というものがあるなら、それは売り文句ではない。別の何かだ。妙な数字は、不純物と同じだ。取り除くか、正体を突き止めるか、どちらかにしなければ気が済まない。

     電話が鳴ったのは、その週の木曜だった。

    「フロリダのミセス・ワイズという方が。その、たいへんお怒りで」

     秘書が困惑している。タッパーは受話器を取った。長距離の回線の向こうで、女の声はまるで隣の部屋から話しているようによく通った。

    「ミスター・タッパー。はじめまして。単刀直入に言うわ。先週、注文の半分が届かなかったんです。今週は届いたのが四割だけでした。うちのディーラーは五十人、毎晩どこかの家でお宅の製品の実演をして、注文を取って、それからお客様に謝っているの。肝心の品物が届かないんですから」

    「出荷の件は、担当の――」

    「担当の方と三度話したわ。だからあなたと話しているの」

     タッパーはポケットの中で、プラスチックのかけらをこすった。無礼な女だ。そして、電話代を無駄にしない女だ。

    「ミスター・タッパー、お宅の容器は世界一よ。それは認める。うちのパーティでは毎晩、奥さんたちが悲鳴を上げるもの。でも、届けるほうは話にならない」

    「……ふむ」

    「商品さえ届けば、うちは百貨店のひと月分を一晩で売る。数字はそちらの帳簿にあるでしょう。確認してから、折り返しをくださいな」

     電話は切れた。タッパーは受話器を置き、帳簿を引き寄せ、フロリダの行をもう一度なぞった。

     数字は、見るまでもなく頭に入っている。かけらをこする指が、いつのまにか止まっていた。

     悲鳴を上げる、と女は言った。ボウルを見て悲鳴を上げる人間がいる。この工場の誰も、百貨店の誰も、そんな報告を上げてきたことはない。

     タッパーはノートを開き、新しいページにひとことだけ書いた。

     ワイズ夫人に会う。

     それから少し考えて、その下にもう一行、書き足した。

     出荷を調べる。

    ※ ※ ※

     工場の廊下を案内してくれた若い工員の胸には、ピートという名札が付いていた。

    「ありがとう、ピート。いい工場ね。床がきれいだわ」

     工員は自分の名札を見て、耳を赤くした。ブラウニーの前を行く秘書は、その工員を「君」と呼んで扉を開けさせた。この会社では、名前は胸に付いているだけで、誰も口にしないらしい。

     会議室に通されたブラウニーが最初に見たのは、テーブルを囲む男たちの顔と手だった。

     顔は微笑んでいても、手元は退屈そうに遊んでいる。デトロイトのリビングと同じだ。違うのは、その暇そうな手元に警戒がにじんでいることと、テーブルの奥に座っている一人だけが、微笑んでさえいないことだった。

     アール・タッパー。写真より痩せていて、目は灰色だった。挨拶の握手は短く、乾いた手はすぐに引っ込んだ。

     出涸らしのコーヒーが配られた。倹約の味がした。飾らない会社は嫌いではない。

    「ミセス・ワイズ。出荷体制は改めた。今日は、あなたの売り方について聞きたい」

    「では、話すより見ていただくわ」

     ブラウニーは鞄からボウルを出し、水差しから水を注いで、フタの真ん中を手のひらで押さえた。

     ぷしゅっ。

     男たちの前で、逆さにする。ざわめき。振ってみせる。会議室の絨毯の上に、ぽんと落とす。転がるボウル。外れないフタ。隣の重役に手渡した。

    「どうぞ、ご自分で。真ん中を押さえて、縁を少しだけ浮かせるの。中の空気が抜けたら、すぐ戻して」

     重役は三度しくじって、四度目にうまくいった。五十過ぎの紳士が、一瞬、少年のような顔になった。ブラウニーはその顔を見届けてから、テーブルを見渡した。

     タッパーだけは、回ってきたボウルに手を伸ばさなかった。自分の発明の使い方を、いまさら習う必要もないのだろう。それとも――もうとっくに、誰もいない部屋で何度もやってみたのか。どちらでも、悪い気はしなかった。

    「いまのが、うちのパーティで毎晩起きていることよ。奥さんたちは実演を見て、自分の手でやってみて、それから買うの。ではみなさん、いまのことが、百貨店の棚にできるかしら」

     誰も答えない。

    「棚は説明をしないわ。この商品は、説明のない場所では、ただの安っぽいプラスチックに見える。安っぽく見える場所に置き続けることは、看板に泥を塗り続けるのと同じことよ」

     息を吸って、言った。ここからが、フロリダを発つ前から言うと決めてきたひとことだ。

    「店頭から、全部引き上げなさい。百貨店も、雑貨店も、全部。売り場は、アメリカ中のリビングにする。売り手は、アメリカ中の主婦よ」

     会議室が、今度こそ本当にざわめいた。正気か、という声が上がりかけたが、タッパーは静かなままだった。タッパーはポケットに手を入れて、灰色の目でこちらを見ていた。

    「販路を全部捨てろと言っている自覚はあるのか」

    「捨てるんじゃないわ。売れない場所から、売れている場所へ移すの。そちらの帳簿で、いま数字が動いているのがどこか、あなたがいちばんご存じでしょう」

     長い沈黙だった。プレス機の律動が、床ごしにかすかに伝わってくる。

    「ふむ」

     タッパーは短く言って、隣の重役に何か書きつけを渡した。それから、事務の連絡でもするような声で続けた。

    「ホームパーティ部門を独立させる。タッパーウェア・ホーム・パーティーズ」

     隣の重役が顔を上げたが、タッパーはそちらを見なかった。

    「指揮はあなたに任せる。役職は――副社長でいい」

     副社長。

     その役職名を聞いた瞬間、葉巻の煙の向こうから、古い声が蘇った。

    「経営は女の仕事ではないよ、ミセス・ワイズ。あなたは売るだけでいい」

     ハンドバッグの口紅に伸びかけた手を、膝の上で握り込んだ。ここはデトロイトのリビングではない。けれど、やることは同じだ。目の前の人間に、欲しいと思わせる。

    「お受けするわ、ミスター・タッパー。ただし、ひとつだけお願いがあるの」

    「伺おう」

    「いずれ、本部はフロリダに置きたいの。売るのは、人を集め、自分の手で試させるあの人たちよ。指揮する場所は、工場のそばじゃなくて、売る人のそばであるべきだわ」

     タッパーは灰色の目でしばらくこちらを見て、それから、検討する、とだけ言った。この人の「検討する」が値切りの言葉なのか本物なのか、まだ読めない。読めるようになる日が来るのだろうか。

     立ち上がって、手を差し出す。タッパーも立って、その手を短く握った。乾いた、機械の部品みたいな手だった。彼は、握った手を離す前に、初めて少しだけ言葉を探す顔をした。

    「ひとつだけ、言っておきたい」

    「どうぞ」

    「会社の顔は、製品だ。それを忘れないでもらいたい」

    「ええ。製品と――それを見せる人たちよ」

     話が噛み合わないまま、手が離れた。タッパーは何も言わず、ブラウニーも食い下がらなかった。言い合う場面ではない。今日のところは。

     帰りの列車は、暗くなったニューイングランドを南へ走った。窓に自分の顔が映っている。副社長。ビバリッジ氏が聞いたら、葉巻を落とすだろう。

     家に電報を打っておいた。母は明日の朝、新聞より先にこの報せを読む。ジェリーを連れてフロリダへ移ってから一年、あの子の咳はもうほとんど出ない。太陽と、湿った暖かい風と、そして今日からの新しい仕事。あの子に必要なものは、どうやら全部この州に揃っていたらしい。

     浮かれるのは今夜だけにして、ブラウニーは手帳を開いた。店頭全廃。つまり、明日からこの国でタッパーウェアを売るのは、棚ではなく人だけになる。デトロイトに十九人、フロリダに五十人。それでは足りない。百人でも足りない。

     棚を捨てたのだから、人を育てるほかない。

     手帳の新しいページに、ブラウニーは大きくそう書いて、下線を二本引いた。窓の外を、灯りのついた家々が流れていく。あの窓の向こうには、それぞれ別のリビングがある。そしてそのどこかに、まだ会っていない売り手がいる。

    第三話


     隣人のベティのリビングに座りながら、マージ・ホランドはさっきから、よその家の台所ばかり見ていた。

     うちのより新しい。それに、コーヒーカップが人数分そろっている。うちで八人もお客を呼んだら、ジャムの空き瓶が二つ、食卓に乗ることになる。だからマージは今日まで、人を呼ぶ側になったことがない。呼ばれる側なら、エプロンを外して来ればいいだけだから。

     今日の集まりは、噂のパーティというやつだった。プラスチックのボウルの。

     実演する婦人は、思っていたのと違った。もっと押しの強い、保険の外交員みたいな人を想像していたのに、現れたのは栗色の髪をきれいに巻いた、よく笑う人で、部屋に入って五分で八人全員の名前を呼び分けた。

     マージ、と最初に呼ばれたとき、思わず背筋を伸ばした。初対面の人に名前を呼ばれるのは、教会の集まりと病院の受付以外では、ずいぶん久しぶりだった。

     ぷしゅっ、とフタが鳴り、水を張ったボウルが逆さになって、リビングは悲鳴と拍手でいっぱいになった。

     ゲームの時間には、買い物の値段当てで、マージが一等を取った。牛ひき肉一ポンド、石鹸三個、コーヒー一缶。ぜんぶ小数点の下まで言い当てたら、実演していた婦人が目を丸くした。

    「お見事。家計簿の女王さまね」

    「ご、ごめんなさい。ただの主婦ですから、値段くらいしか」

    「あら、値段がわかるのは立派な特技よ。それを言ったら、わたしだって最初はただの主婦よ」

     そのあと、コーヒーのおかわりを注いで回ったのは、癖みたいなものだった。ベティは実演の手伝いで忙しそうだったし、隅の初めて来たらしい奥さんが、カップを空にしたまま所在なげにしていたから。コーヒーを注いで、二言三言、天気の話をして、また注いで。気がつくと、あの婦人がこちらを見ていた。

     帰り際、玄関で呼び止められた。

    「ミセス・ホランド。あなた、売る側をやってみない?」

    「わ、わたしが?ごめんなさい、わたし、人前で話すなんてとても」

    「今日、初対面の奥さんと笑い合っていたでしょう。コーヒーを注ぎながら。あれができる人が、話せないってことはないのよ」

     婦人はマージの両手を取った。あたたかい、働き者の手だった。

    「見本のセットを貸すわ。だめなら返してくれればいい。考えておいて」

     その晩、夕食のミートローフを切り分けながら、マージは思い切って切り出した。ハンクはフォークを置いて、長いこと黙った。

    「……おれの稼ぎじゃ足りないって話か」

    「そうじゃないの。そうじゃなくて」

     そのあとの言葉が続かなくて、結局、ごめんなさい、と言った。ハンクは何も言わずに皿を下げた。その話は、すぐ義姉の耳にも入った。日曜の教会の帰りに、あの人らしい親切な声で言われた。ハンクに恥をかかせるつもりなの、と。

     それでも見本のセットは、返さなかった。

     月末の夜、家計簿に、マージはいつものように残った額を書き入れた。その額は、息子の靴一足の値段にも届かなかった。爪先の破れかけたあの靴を、あとひと月は履いてごまかすことになる。

     鉛筆を置いて、リビングの隅の見本の箱を、長い間眺めた。箱を眺めているほうが、家計簿の数字を眺めているより、いくらか気が楽だった。

     口上の練習は、皿洗いのあとの台所でやった。鏡代わりの窓ガラスに向かって、奥さまがた、と呼びかける。

     三日目の晩、背後で音がして振り向くと、パジャマ姿の息子が戸口に立って、真顔でこっちを見ていた。ママ、だれと話してるの。それから一週間、マージは息子が寝つくのを待って練習した。

     最初のパーティは、義姉が「見物してあげる」と言ってホステス役を買って出た。客は義姉の友だちが六人。

     惨敗だった。

     鏡の前で百回練習した口上は、三行目で飛んだ。フタは、緊張で手が滑って、三度やって三度とも鳴らなかった。ぷしゅっ、とは鳴らなかった。リビングが一瞬、妙に静かになった。義姉の口元だけが、かすかに笑っていた。

     値段を言うと、高いわねえ、お勉強してよ、と言われて、言われるままに値引きした。売上は、ボウルがひとつ。値引きした分で、手数料はほとんど消えてしまった。

    「ね、言ったでしょう」

     帰り際、義姉は満足そうだった。

    「あなたには向いてないのよ、こういうことは」

     その晩、マージは台所で見本のセットを箱に詰め直した。ごめんなさい、と箱の中のボウルに言ってから、自分がボウルに謝っていることに気づいて、少し泣いた。

    ※ ※ ※

     見本を返しに行くと、本社はオレンジ畑の中に建つ、白くて低い建物だった。

     受付で箱を差し出して、お世話になりましたと頭を下げていたら、廊下の向こうから声が飛んできた。

    「ミセス・ホランド。ベティの家で、コーヒーを注いで回っていたわね」

     あの婦人が、書類を小脇に抱えて立っていた。ワイズ副社長。一度会っただけの主婦の名前を、この人は覚えている。あの副社長が、廊下の真ん中で、わたしの名前を呼んだ。

    「箱を返しに来たのね。その前に、五分だけちょうだい」

     通された小さな部屋で、マージは初めてのパーティの一部始終を話した。口上が飛んだこと。フタが鳴らなかったこと。値引きしたこと。話しながら、ごめんなさい、を何度も挟んだ。副社長は笑いも慰めもせず、指を折って聞いていて、話が終わると言った。

    「いまの話の間に、あなた、ごめんなさいを七回言ったわ」

    「ご、ごめんなさ――」

    「八回目」

     言いかけた口が、止まった。

    「マージ。今日から、ひとつだけ約束してもらうわ。パーティの間、ごめんなさいは禁止。あなたが売るのは謝罪じゃないの。うちの商品の中に、謝罪は入っていないのよ」

    「でも、フタが鳴らなくて」

    「鳴らなかったら、もう一度笑って。わたしなんて重役会議で落っことしたことがあるわ」

     それから副社長は、机の上のボウルをこちらに寄せた。

    「値引きをせがまれたら、値段の話をやめて、もう一度実演するの。高いと思われるのは、値打ちをまだ見せきれていないだけ。あとね、お客さまの名前を、パーティの間に三度呼びなさい。名前を呼ばれた人は、ただのお客さまじゃなくて、仲間になるの」

     練習は、その場で始まった。副社長が意地悪な客の役をやった。高いわねえ、お勉強してよ。うちはビンで間に合ってるの。あら、そのフタ、うちの犬でも開けられそう。

     マージは三度つっかえて、四度目にボウルへ水を張った。ぷしゅっ、と音がした。逆さにしても、水は落ちない。副社長は客の役のまま、思わず「まあ」と声を上げた。それから役を忘れて笑った。

    「それよ。それがあなたの口上。動きを覚えていれば、口上は三行で足りるのよ」

    「あの……その意地悪なお客さまの役、ずいぶんお上手なんですね」

    「そう?山ほどお会いしてきたもの。デトロイトの冬にね」

     副社長は事もなげに笑った。この人にも、うまくいかなかった夜があったのだろうか。聞いてみる勇気は出なかったけれど、そう思うだけで、箱を返さずに済みそうな気がした。

     帰りがけ、廊下で年配の事務員たちがひそひそ話しているのが聞こえた。副社長さんは湖のほとりのお屋敷にお住まいなんですって。会社が用意したのよ、まるで映画スターねえ。マージには縁のない話だったから、聞き流した。太陽がどこにいようと、日光が当たる分にはありがたいだけだ。

     その週の金曜、本社で新人の集まりがあった。壇上の副社長は、リビングで見たのと同じ声の大きさで、二百人に向かってこう言った。

    「会社はボウルを作るわ。でもね、それを売る場を作るのは、あなたたちよ。人が集まれば、次の家が生まれる。だからわたしの仕事は、ボウルを数えることじゃなくて、あなたたちの名前を覚えることなのよ」

     二百人が笑って、拍手した。マージは拍手しながら、廊下で名前を呼ばれた朝のことを思い出していた。あれは、癖でも奇跡でもなくて、あの人の仕事だったのだ。それなら――わたしにも、覚えられる。名前なら、値段と同じで、覚えるのは得意だ。

     二度目のパーティは、ベティがホステスを引き受けてくれた。

     前の日に、コーヒーケーキをふたつ焼いた。得意なものを持っていくのよ、と副社長に言われたからだ。あなたの得意は、値段を覚えることと、名前と、焼き菓子。三つもあれば、十分戦えるわ、と。台所に甘い匂いが満ちて、窓ガラスが湯気で曇った。

     口上は三行に減らした。フタは、家で百回どころか千回も鳴らしてきた。高いわねえ、と言われたとき、喉まで出かかった値引きを飲み込んで、笑って、もう一度水を張った。ぷしゅっ。悲鳴。拍手。お客の名前は、ひとりにつき三度。

     ノーマ、これは冷蔵庫の二段目にちょうどいいの。

     ノーマ、ご主人はお弁当を持っていく方?

     売上は三十一ドル。値引きは、一セントもしなかった。

     そして帰り際、ノーマがもじもじと寄ってきて、言ったのだった。うちでも、この集まり、できるかしら。

     翌週、給料袋が届いた。マージの名前が、タイプ打ちで印字されていた。ミセス・マージョリー・ホランド。金額は大きくない。けれど、この袋の中身は、ハンクの給料でも、家計のやりくりの残りでもない。

     ドラッグストアで、口紅を一本買った。

     銀色の筒を開けて、鏡の前で、ゆっくり塗る。結婚してから七年、口紅は特売の日に買うものだった。今日のは違う。値札は見た。見た上で、値引きも特売も待たずに買った。そういう買い物を、自分の稼ぎでする。それがどういう気持ちのするものか、二十七年間、知らなかった。

     夕食の席で、ハンクは長いことミートローフを黙って食べていた。それから、皿から目を上げずに言った。

    「……その口紅、いいな」

    「ありがとう」

     ごめんなさい、とは言わなかった。

     秋までに、パーティを十一回も開いた。ノーマの家、ノーマの従姉妹の家、裁縫の会の人の家。数珠つなぎというのはこういうことかと、注文用紙の束を揃えながら思う。義姉は何も言ってこなくなった。正確には、日曜の教会で、マージの新しい帽子を見て、思わずもう一度目をやっただけだった。

     年が明けて、一通の封筒が届いた。金の縁取りに、金の文字。ジュビリーへご招待します、キシミー本社にて四日間。新人で成績のよかった人が呼ばれるのだと、あとでベティが興奮して教えてくれた。マージとハンクは、食卓でその招待状を、黙って二度ずつ読み返した。

    「ジュビリーって、なんだ?」

    「わからないけど……お祭り、ですって。会社の」

     四日間のお祭り。会社の。マージは想像がつかないまま、家計簿の表紙の裏に、招待状をそっと挟んだ。

    第四話


     千人あまりの顔と手が、四月の朝日の中で笛の合図を待っているのを、ブラウニー・ワイズは演壇の上から見渡していた。

     顔は日焼けして、手はシャベルを握っている。カウボーイハットにギンガムのワンピース。各州から集まった千人あまりのディーラーたち――そのほとんどが、一年前か二年前まで、よその家のリビングで所在なげに膝をそろえて座っていた主婦たちだ。

     その千人がいま、本社の敷地の芝生を前に、息を弾ませてシャベルを構えている。

     三日前の開幕の日、キシミーの小さな駅に、寝台列車が続けざまに到着した。ホームに降り立った主婦たちは、旅行鞄とよそゆきの服と、州の名前を書いたお手製の旗を持っていた。生まれて初めて州を出ました、という人が何人もいた。

     生まれて初めて、亭主と子供の食事を三日ぶん作り置いてきました、という人は、もっといた。その全員を、オレンジ畑の中の白い本社が、ブラスバンドと幌馬車で出迎えたのだ。

     東部から来た経済誌の記者が、ずっと張り付いている。お祭りの取材のはずが、質問は会社のことばかりだった。店舗なしでどうやって、広告費はいくらで、この催しはどれだけ売上に結びつくのか。

     ブラウニーはひとつだけ訂正した。お祭りではないの。うちの会社の、いちばん大事な日です。来年まで働く力を、みなさんに持って帰ってもらう日なのですから。

    「みなさん、地図は確かめた?賞品は正直者の足元に埋まっているとは限らないわよ」

     笑い声、それから、笛。

     千人がいっせいに芝生へなだれ込んだ。ジュビリー最終日の呼び物、宝探しだ。敷地のあちこちに、夜のうちに埋めさせてある。ミンクのストール。腕時計。冷凍庫の引換券。シャベルが土を掘る音にまじって、何かを掘り当てた歓声が、あちこちで上がる。泥だらけの手がミンクのストールを空へ突き上げるたび、周りから歓声が湧いた。

     花壇の際で、オクラホマから来た白髪まじりの人が、箱を抱えたまま座り込んで泣いていた。掘り当てたのは、ミンクのストールだった。ブラウニーはそばに膝をついて、名札を読むまでもなく名前を呼んだ。この四日で覚えた名前だ。

    「エセル、似合うわよ。羽織って掘れば?」

    「亭主に内緒で来たんですよ、あたし」

     エセルは泥のついた頬で笑った。

    「これを着けて帰ったら、白状しなきゃならないねえ」

    「白状じゃないわ。自慢しておやりなさい」

     馬鹿げている、と言った新聞もある。大の大人に土を掘らせるのか、と。

     わかっていない。掘り当てたミンクは、ただの賞品ではない。あの人たちが本当に持って帰るのは、泥だらけの手で何かを掴んだという記憶と、それを千人が拍手してくれたという記憶だ。

     ミンクは擦り切れるが、記憶はなくならない。来年の冬、雪の日の玄関先で断られたとき、あの記憶が外套の下でもう一度自分をあたためてくれる。

     バーベキューの煙とレモネードの匂いの中を、ブラウニーは歩いて回った。名前を呼び、両手を取り、泥を褒める。四日のあいだに、覚えている限りの名前を全部使った。足りない分は、今夜までに覚えればいい。

     午後は、表彰式だった。

     地区ごとの女王たちが呼ばれ、王冠ならぬ飾り帯が渡され、そのたびに万雷の拍手が鳴る。賞品は口紅から冷蔵庫まで。けれどいちばんの品物は、賞品ではない。

     それは、名前が呼ばれることだ。千人の前で、フルネームで。洗礼と結婚式のほかに、女性がフルネームで呼ばれる場所は、この国にはまだ少ない。

     だからこの壇では、名前をけちらない。

     スタンレーにいた頃の販売大会を、ときどき思い出す。あの会場で、成績一位の女性は壇に三十秒だけ上げてもらえた。賞品を受け取って、写真を一枚、それですぐ降ろされた。話す時間は、与えられなかった。女性の話を聞く時間は、あの会場のどこにもなかったのだ。

     うちの壇で受賞者に五分ずつ話させるのは、趣向ではない。あの三十秒に対する、わたしなりの返事だった。

    「新人賞――フロリダ地区、ミセス・マージョリー・ホランド!」

     フルネームで呼ぶ。それがこの壇の流儀だ。

     マージは、去年の春にベティのリビングでコーヒーを注いで回っていたときと同じ顔で、ただし背筋だけまっすぐに、壇を上がってきた。握った両手には、一年前にはなかった固いところができていた。注文用紙をめくり、見本の箱を運び続けた手だ。

    「さ、マージ。規則を覚えてる?」

    「はい。ごめんなさいは、禁止」

     客席がどっと笑った。マージはマイクの前で息を吸い、それから、話した。

    「一年前のわたしは、謝ってばかりの人間でした。台所と教会のあいだで暮らして、自分の名前で呼ばれることが、一年に何度もありませんでした。最初のパーティでは、三度やって、三度とも失敗しました。義理の姉に、あなたには向いてないと言われました」

     会場が静まった。千人が、少しずつ静かになっていった。

    「いまは、値段と、名前と、焼き菓子で戦っています。先月、息子に新しい靴を買いました。わたしのお金で。――それだけの話です。でも、ここにいるみなさんなら、それだけの話がどういう話か、ご存じのはずです」

     拍手は、この四日間でいちばん長く続いた。

     家族席のほうで、日焼けした大柄な男が、手のひらが赤くなるほど拍手していた。マージの視線がそちらへ一度だけ飛んで、戻ってくる。ああ、あれがハンクか。いまのあの拍手は、人にどう思われるかを気にしている姿ではなかった。

     ブラウニーは袖でそれを聞きながら、この拍手を会社の帳簿に載せる方法はないものかと、ありもしないことを考えた。載らないのだ、これは。載らないものだけが、この会社をここまで連れてきたのだけれど。

     最終夜、キシミーの駅で千人を見送った。寝台列車の窓という窓から身を乗り出して手を振る人たちに、来年もここでね、と声を張る。列車の赤いランプが見えなくなるまで、ブラウニーはホームの端で手を振り続けた。駅長が隣で、こんなに賑やかな駅は開業以来だと笑っていた。

    ※ ※ ※

     その号がブラウニーの手元に届いたのは、ジュビリーの土埃もおさまった頃だった。

     最初に気づいたのは受付の子で、廊下を走る足音が執務室まで届いた。規則違反の全力疾走を、その日ばかりは誰もとがめなかった。昼までに、一冊の雑誌が本社中の机を回った。

     ビジネスウィーク誌、四月十七日号。表紙に、自分がいた。

     執務室で、ブラウニーは雑誌を机の上に置き、少し離して、しばらく眺めた。栗色の髪、実演のときの手つき、社名。その経済誌の表紙に、女性がひとりで載っている。記事の見出しには、店を持たない会社が二千五百万ドルを売る、とある。

     記事の中ほどには、ジュビリーで記者に答えた言葉が、そのまま引かれていた。人を育てれば、人が事業を育てる――副社長ワイズ女史の経営哲学である、と。数字の話ばかりしていたあの記者は、結局、帳簿に載らないものを書き留めて帰ったらしい。いい記者だ。

     タッパーの名前も、記事の終わりのほうにあった。天才的な発明者として、二段落。写真はない。写真嫌いのあの人のことだから、それで文句はないはずだ。表紙に比べて、たった二段落。その釣り合いを、あの人がどう受け止めるかまでは、考えもしなかった。

     最初に頭に浮かんだのは、送り先の住所だった。

     スタンレー・ホーム・プロダクツ社、ビバリッジ様宛て。一筆添えて。拝啓、女には務まらないはずのお仕事の近況をお知らせします――。

     思い浮かべて、笑って、やめた。

     切手代の無駄だ。あの人はもう、わたしの名前も覚えていないだろう。それに――あの言葉に対する返事は、こうして表紙になることでも、雑誌を送りつけることでもない。返事は、ジュビリーの芝生にいた千人だ。あの人たちが毎週、どこかのリビングでフタを鳴らしていることだ。だからこの表紙は、額に入れておいて、返事はしない。

     あの葉巻の煙とともに胸に残っていた棘が、いつのまにか、痛まなくなっていた。抜けたのではない。棘のまわりに別のものが増えて、いつのまにか棘が小さくなっていた。

     夕方、湖畔の家に帰ると、母がリビングで雑誌を振っていた。

    「町の店を三軒回ったよ。三冊買っといた」

    「三冊も、どうするの」

    「一冊は保存。一冊は回し読み。一冊はね、あんたが落ち込んだ日のためさ」

     ジェリーは学校から帰るなり表紙と母親を三度見比べて、口笛をひとつ吹き、それから照れ隠しに、夕食はなんだいと訊いた。十六歳の息子にしては、上出来だった。

     祝電は、翌日から束になって届いた。

     各地のディーラーから。問屋時代の古い知り合いから。デトロイトのドロシーからは、あのときのリビングの全員の寄せ書きを。マージからの一通には、こうあった。

     規則を守って書きます。おめでとうございます。この手紙に、ごめんなさいは入っていません。ブラウニーは声を出して笑って、その一通だけ返事を先に書いた。

     残りも一通ずつ読んで、返事の下書きを箱に溜めていった。

     その束の中に、マサチューセッツからの一通があった。

     薄い、事務用の電報だった。ブラウニーは、少しだけ急いで封を切った。あの人が祝いの言葉を打つとしたら、どんな文面になるのか、三年つき合ってきたが、まだ見たことがなかったからだ。

     電報は、一行だった。

    『四月分ノ祝賀行事ノ経費報告ヲ求ム T』

     読んだ。読み返した。裏を返した。裏は白紙だった。

     口紅を引き直したくなる指を、机の縁で止める。笑おうとした。半分は笑えた。いかにもあの人だ、お祭りの請求書から先に見る人なのだ――そう思うことにして、電報を祝電の束の一番下に差し込んだ。

     差し込んでから、机の上の表紙と、その電報の端が、同じ視界に並んだ。

     「会社の顔は、製品だ」

     三年前の乾いた握手と、そのときの声が、タイプされた文字の後ろから聞こえた気がした。表紙の中のわたしは、二千五百万ドルの会社の顔として笑っている。それをあの人がどう見るか――そこまでは、考えもしなかった。

     その夜、湖畔の家のリビングで、届いた祝電を母が一通ずつ読み上げた。ジェリーが茶々を入れ、そのたび母が眼鏡越しににらむ。賑やかな夜だった。

     母は、束の一番下の一通だけは、読み上げなかった。黙って束に戻して、次の話を始めた。昔から、読まないほうがいい手紙を見分けるのは、誰より早い人だった。

    第五話


     夜の事務室で、アール・タッパーはハサミを使っていた。

     秘書が集めてくる新聞と雑誌の記事。集めろと命じたのは自分で、命じた理由は市場の調査ということにしてある。今週は九枚あった。九枚のうち、製品の写真が載っているのは二枚。残りの七枚は、栗色の髪の副社長が笑っている。

     タッパーは一枚ずつ、記事の縁に沿って丁寧に切り、読み、それからくずかごに落とした。切らずに捨てればいいものを、切ってからでないと捨てられない。この手順の意味を、考えないことにしてもう三年になる。

     最後の一枚で、ハサミが止まった。

     婦人誌の見開きだった。タッパーウェアの母、と見出しにある。母。発明したのは私だ。金型を起こしたのも、樹脂の配合を決めたのも。だが記事の中で、私の名前は一度出てきただけだった。あの女を説明するための、注釈のように。

     世間では、もう答えが出ているということだ。タッパーウェアはあの女のもので、私は脇に添えられた名前にすぎないのだと。

     机の引き出しには、この三年の手紙の写しが綴じてある。経費の照会。装飾費の照会。ジュビリーとやらの予算の照会。返信はどれも長く、明るく、要領を得ず、そして数字の代わりに人の名前が並んでいた。

     誰それが今年何人育てた、誰それの地区が倍になった。私が訊いたのは金額だ。返ってくるのは、いつも人の名前だった。三年間、この調子だった。

     今年の秋には、あの自伝が出た。

     『ベスト・ウィッシュズ』。表紙にはまた、あの笑顔。中身は会社の歴史のように書かれていて、書店では実際、会社の歴史として売られている。タッパーは一晩で読んだ。読んでから、巻末の索引で自分の名前を数えた。

     四回だった。樹脂の発明者として二回。彼女を招いた人物として一回。工場の所在地の説明で一回。

     二百八十ページのうち、四回。

     数え終えた本は、くずかごではなく、机のいちばん下の引き出しに入れた。切り抜きと違って、こちらは捨てられなかった。しまい込んだ理由も、考えないことにした。

     夕食の席で、妻が言ったことがある。あなたのところの奥さま、今週も雑誌に出ていらしたわね。悪気のない一言だった。悪気のない一言というのは、どういうわけか、いちばん長く胸に残る。

     幹部のひとりが、先週、妙な話を持ち込んできた。副社長は新型の容器を、自宅で犬の餌入れにしているそうで――出所の知れない、下世話な話だ。事実かどうかも怪しい。

     事実かどうかも分からないのに、タッパーはその晩、風呂の中でもう一度その話を考えていた。こういう噂というのは、事実かどうかと関係なく広まるものらしい。出所を調べろ、とは言わなかった。調べさせれば、気にしていることが記録に残る。

     問題を整理する。

     感情の話ではない。これは、素材の話だ。

     会社は、売ろうと思えばいつでも売れる。売上はあの女が表紙になってから倍になり、ディーラーは三万人を超え、買い手はいくらでもつく。主治医は先月、聴診器で心音に雑音を拾った。休め、と医者は言う。税務署は年々、取り分の計算だけが精密になっていく。

     潮時を示す条件は揃っている。

     揃っていないのは、売り物としての純度だ。

     いまこの会社を市場に出せば、買い手はこう訊くだろう。ワイズ女史は残るのか、と。残るなら、買うのは会社ではなく彼女の人気ということになる。人気というものは、私には作れない。精製も、保存もできない。あんな不安定な物質の上に、私の三十年を預けることはできない。

     会社の顔は製品だ。最初の日に、私はそう言ってある。言ってあるのだ。

     タッパーは受話器を取り、顧問弁護士の家に電話をかけた。

    「夜分にすまん、ひとつ確認したい。ワイズ女史との契約は、どうなっている」

     受話器の向こうで書類をめくる音がして、それから、淡々とした声が答えた。

    「雇用契約のみです。株式の割当はありません。住まいは会社名義、社用車も同様。退職金の定めは、特にありません」

    「契約を終える場合、会社の義務は」

    「慣例として、給与の一年分ほどをお支払いになれば、体裁が立つかと」

    「もうひとつ。会社を売却する場合、彼女の同意は」

    「不要です。株式はすべて、あなたお一人のものですから」

    「ふむ」

     タッパーはポケットの中で、プラスチックのかけらを親指でこすった。長年こすられて、角の取れた、丸いかけらだ。

     電話を切って、タッパーは発明ノートを開いた。数千の思いつきを書き溜めてきた、いつものノートだ。新しいページに、日付と、一行だけ書いた。

     純度の件、年内に片をつける。

    ※ ※ ※

     十二月のキシミーは、北部から来た客がみんな上着を脱ぐ陽気で、ブラウニーの執務室の窓からは、芝の上で研修中の新人たちが見えた。

     今週の新人は二十六人。窓越しでも、半分は名前が言える。あの背の高い人がヴァージニアから来たルイーズ、その隣でフタを何度も落としているのがジョージア訛りのパンジー。落として笑われて、笑い返せている。あれなら育つ。

     それが見えるのに、今年はどうも、手元の書類ばかり見る羽目になっている。

     ジュビリーの予算案が、三度目の差し戻しで机に戻ってきていた。理由の欄は今度も空白で、経理部長は気の毒そうに肩をすくめるだけだった。本社の経理は今年から、北の言葉でしゃべるようになった。

     祝賀費、装飾費、要再考。要再考。要再考。

     差し戻された封筒の下には、来年のジュビリーの構想を書いた紙がある。来年は南の島がテーマ。会場に砂浜を作って、宝は椰子の木の根元に埋める。衣装の絵まで、もう描いてあるのだ。二万人にとって一年に一度の晴れ舞台を、要再考の三文字で済まされてたまるものですか。

     おかしいのは、それだけではない。あの人からの手紙が、夏から弁護士の署名で来るようになった。文面はいっそう短くなった。もともと素っ気ない人だけれど、素っ気なさの質が変わった。前のは倹約家の素っ気なさで、いまのは――何だろう。向こうに、人がいないような素っ気なさだ。

     わたしが見るのは、いつも顔と手だ。リビングでもクラブでも、会えば場の温度は読める。たいていの相手は、それで読めた。けれどあの人は、もう二年、南に来ない。会えない相手の温度は、手紙の紙の厚みからは読みとれないのだ。

     一度、知らせずに北へ出向くことも考えた。考えて、やめた。呼ばれてもいないのに出向くのは、詫びに行くようで癪だった。場の温度が読める人間も、場の外では案外、ただの意地っ張りになる。

    「数字を見せれば、大丈夫よ」

     声に出して、自分に言った。今年の数字は過去最高だ。数字の好きな人には、数字がいちばんの手紙だ。新年の会議でそれを並べれば、冷えた空気くらいは変えられる。今までも、そうだった。

     夕方、湖畔の家に帰ると、母が台所でシチューの鍋をかき回していた。

     食卓には、マージからの手紙が来ていた。マネージャー昇格の報せ。自分の下に十二人のディーラーを持つことになりました、最初の集まりで、規則を配りました――なんの規則かは、書くまでもないので書きません。ブラウニーは笑って、手紙を母に読んで聞かせた。

     返事には、お祝いと一緒に、マネージャーの心得をひとつだけ書き添えた。部下の手柄は、部下の名前で壇に上げること。自分の名前は、いちばん最後でいいの。

     ジェリーは十九になって、州立大学の寮にいる。今週の葉書は三行で、二行が仕送りの礼、一行が、母さんの雑誌を寮の友人たちに自慢したという話だった。三行で足りる息子に育ったことを、フロリダの太陽に感謝している。

    「いい弟子だね」

    「弟子じゃないわ。同業の後輩よ」

    「同じことさ」

     母は鍋の火を弱めて、こちらを見ずに続けた。

    「ときにあんた、株はもらったのかい」

    「株?」

    「会社の株だよ。十九人が三万人になったんだろう。育てたのはあんただ。分け前の株は、持ってるのかい」

    「わたしは給料をもらっているのよ。それに、この会社は家族みたいなものだから」

    「家族ねえ」

     母は味見のスプーンを置いた。

    「組合にいた時分、山ほど聞いたよ、その言葉。家族って言葉で給料を値切る工場主を、嫌というほど見てきた。家族なら、なおのこと約束は紙にしておきな。家族こそ、揉めるときはいちばん揉めるんだ」

    「この家だって会社の――」

     言いかけて、やめた。この家は会社名義だ。社用車も。それは知っている。ずっと知っていて、気にしたことがなかった。気にする理由が、なかったからだ。

    「……来年の会議のあとで、考えるわ」

    「そうしな。考えるのはただだ」

     クリスマスカードの季節が来て、宛名書きの山を三晩で片づけた。あの人宛ての一枚には、今年も文面に迷って、結局、良いお年を、とだけ書いた。返事は来ない。毎年来ないのだから、今年来ないことに意味はない。ないはずだ。

     年が明けてすぐの夜、書斎で書類に目を通していると、本社からの封筒が一通、混ざっていた。

     一月二十七日、マサチューセッツ本社にて重役会議。出席を求む。

     それだけだった。議題の欄が、ない。毎年の予算会議の通知には、議題は三行は並ぶものなのに。

     ブラウニーは通知を二度読み返して、それから手帳の一月二十七日の欄に、予算会議、と書いた。書いてから、鉛筆が少しのあいだ、紙の上で止まった。

     議題のない会議というものを、この会社で見たことがない。

     窓の外で、冬の雨が湖を叩きはじめた。フロリダの雨は温かい。温かいはずなのに、その夜の雨音は、どうしてだか北の音がした。

    第六話


     一月のマサチューセッツは、七年前と同じ匂いがした。

     プラスチックと、金型の油と、凍った駐車場。ブラウニー・ワイズは会議室の扉の前で、癖で口紅を確かめようとして、鏡を出す前に扉が内側から開いた。

     テーブルを囲む顔ぶれを、いつものように見ていく。顔と手。今日の顔ぶれには、儀礼的な笑顔すらなかった。そしてテーブルの奥に、あの人がいなかった。

    「会長は本日、出席いたしません」

     会社の顧問弁護士が、書類から目を上げずに言った。七年前、出涸らしのコーヒーが出た部屋だ。今日は、コーヒーもなかった。

     同じテーブルだった。あの日、わたしはこの部屋で水を張ったボウルを逆さにして、絨毯の上に落としてみせた。ざわめきが起き、誰かが息を呑んだ。あの絨毯が張り替えられたのか、同じものなのか、足元を確かめる余裕は、今日はなかった。

    「では、始めましょうか。予算のお話でしたら、数字はすべて――」

    「ミセス・ワイズ。本日の議題は、あなたの契約です」

     弁護士は一枚の書類を、テーブルの上で滑らせて寄越した。

     通告書、とあった。貴殿との雇用契約を、経営方針の相違により、本日をもって終了する。退職に際し、給与一年分を支払う。社宅ならびに社用車は、三十日以内に返却されたい。以上。

     三十秒で読める書類だった。七年間を終わらせるのに、三十秒。

    「……理由を、伺いたいわ」

    「経営方針の相違です。書面のとおりに」

    「方針というなら、数字を見てちょうだい。昨年の売上は――」

    「数字の問題ではありません」

     弁護士は初めて目を上げた。悪意のない、事務的な目だった。

    「では、何の問題なの」

     答えはなかった。テーブルの男たちは書類を見ていた。七年前、四度目でようやくフタを鳴らして、少年のような顔を見せたあの重役もいた。今日は一度も、こちらを見なかった。

     ブラウニーは口紅のことを思い出した。扉の前で確かめそこねた、いつもの儀式。直しに立つ気は、もう起きなかった。ここは舞台ではない。舞台なら、客席のどこかに、必ずひとりは顔を上げる人がいるものだ。

    「三万人のディーラーは、どうなさるおつもり」

    「会社は継続します。ご心配なく」

    「後任は」

    「追って決定します」

    「ジュビリーは。今年の準備は、もう」

    「未定です」

     未定。会場の砂浜も、椰子の木の根元の宝も、描き上げてある衣装の絵も、未定、というたった二文字に折り畳まれた。二万人の一年に一度が、この部屋では、経費の項目のひとつでしかない。

    「彼女たちの名前を、あなたがたのうち誰か一人でも――」

     言いかけて、やめた。この部屋で人の名前の話をしても、誰にも届かない。

     ブラウニーは万年筆を出し、受領の欄に署名した。ブラウニー・ワイズ。この署名を、講演のあとで求められて何百回も書いた。今日のは、それらとまったく同じ形で、まったく別の意味を持っていた。

     通告書は、四つに畳んで鞄に入れた。畳み方だけは、丁寧にした。

     帰りの列車は、七年前と同じ路線を南へ走った。

     あのときは、窓の外の家々の灯りを数えた。リビングの数だけ売り子がいる、と。今夜も灯りは同じように流れていく。あの灯りの下で、今夜もどこかのリビングでフタが鳴っている。あの音は、もうわたしのものではなかった。

    ※ ※ ※

     フロリダの春は、ブラウニーの事情におかまいなしに明るかった。

     荷造りは、三日で済んだ。済んでしまった、と言うべきか。七年住んだ家の中で、わたしの物は思いのほか少なかった。家具は会社の物。カーテンも、桟橋のボートも。ビジネスウィークの表紙の額は、わたしの物。それを掛けていた壁は、会社の物。

     いちばん重い荷物は、手紙の箱だった。

     七年分。ディーラーたちから届いた手紙を、わたしは一通も捨てていなかった。初めての売上の報告。夫が味方になった報せ。子供の靴の話。箱にして九つ。運び出しながら、ジェリーが呆れた顔をした。母さん、これ全部読んだの。全部読んで、全部返事を書いたのよ。九箱が、わたしの七年の帳簿だ。この帳簿だけは、会社名義ではない。

     母は何も言わずに、皿を新聞紙で包み続けた。株はもらったのかい、と言った人だ。言ったろ、とは一度も言わなかった。ジェリーが大学から戻って、黙って重い箱だけを運んだ。十九歳の息子の無言は、下手な慰めより効く。

     最後の朝、湖は晴れていた。桟橋の突端まで歩いて、水の音をしばらく聞いた。この景色は会社名義ではないはずだけれど、あいにく、持っていく鞄がない。

     借家はキシミーの町なかに見つけた。台所の窓から、オレンジ畑の端が少しだけ見える。母は引っ越しの晩、その台所でいつものシチューを作った。鍋ひとつあれば、台所は変わっても同じ味になる。

     弁護士を立てて、会社を訴えた。契約違反、百六十万ドル。数字はわたしの弁護士が決めた。七年でディーラーを三万人にし、売上を三十倍にした対価としては、控えめな見積もりだと彼は言った。

     春の間じゅう書類の往復だけが続いて、結局、三万ドルで和解した。相手の弁護士たちは辛抱強く、こちらには長引かせるだけの金がなかった。それだけの話だ。それだけの話だ。裁判所の階段で写真を撮られるようなことは、何もなかった。

     喪失というのは、存外、あっけない書類仕事の形でやってくる。

     和解の書類に署名した日、こちらの弁護士が済まなそうに言った。契約の条文が、何から何まで向こうに有利にできています。ええ、と答えた。知っていたのよ。知っていて、七年間、読み返さなかったの。

     考えるのはただだと、母は言った。ただのものを、わたしは後回しにし続けたのだ。誰より段取りのいい女が、自分の契約だけは、手つかずにしていた。

     退社の報せは、ディーラーたちのあいだにも、少しずつ広がっていった。辞める、と言い出したディーラーが三人いる、と昔の部下が知らせてきた。あなたが切られる会社なら、いる意味がない、と。

     ブラウニーはその晩、三人に宛てて手紙を書いた。文面は三通とも違ったけれど、頼みはひとつだった。辞めないで。あなたが辞めれば、あなたから生まれるはずの百のパーティが消える。あのパーティは、会社のためにあるのではないでしょう。

     書きながら、われながらおかしくなった。切られた人間が、会社の心配をしている。いいえ――会社の心配など、していない。していないから、書けるのだ。

     わたしの名前は、それよりも静かに消されていった。

     昔の部下がこっそり送ってくれた新しい社内報には、創立からの歩み、という記事が載っていた。一九五一年、当社はパーティ販売に全面移行――主語は、当社。研修資料のわたしの講義録は、編集部の名義になっていた。写真は差し替えられていた。三万人が毎週使っている売り方の手順書から、それを書いた人間の名前だけが、きれいに消し去られていた。

     五月のある夕方、電話が鳴った。相手は本社の倉庫係だった男で、声は最初から沈んでいた。

    「ワイズさん、あの……知らせるべきか、ずっと迷ったんですが」

    「どうぞ、フランク。悪い報せなら、早いほうがいいわ」

    「本のことです。あなたの、あの自伝の。裏の敷地に穴を掘って……トラックで、全部。自分は、埋める作業をやらされました。すみません。ほんとうに、すみません」

     受話器を持ったまま、ブラウニーはしばらく黙った。

     それから、笑った。声に出して、ひとしきり。徹底するにも、ほどがある。絶版なら倉庫で眠らせておけばいい。古紙にすれば、いくらかにはなる。それを、わざわざ穴を掘って埋めた。焼きもせず、売りもせず、土をかけた。

     笑い終えて、フランクに礼を言って、電話を切った。

     職を切られた日も、家を出た朝も、和解の小切手の薄さにも、泣かなかった。台所の椅子に座ったまま、ブラウニーは泣いた。この春はじめて、一度だけ。

     二百八十ページの、たいして上等でもない自伝。あの中には、デトロイトのリビングと、十九人の名前と、母の料理と、ヘレンが四度目にフタを鳴らして笑った夜のことが書いてあった。

     母は何も言わなかった。鍋の火を弱めて、シチューを深皿にたっぷりよそって、卓に置いた。泣いている人間の前に温かい皿を置くのは、慰めの言葉より効くということを、あの人は組合の時代から知っている。

     六月、新聞が教えてくれた。

     経済面の小さな記事。タッパー・プラスチックス社ならびに販売子会社、レクソール社へ売却。売却額、千六百万ドル。創業者タッパー氏は経営から退く意向――。

     千六百万ドル。

     ブラウニーは記事を二度読んで、湯気が立たなくなったコーヒーを一口飲んだ。

     ああ、そういうことだったの。

     数字の問題ではありません、と弁護士は言った。嘘ではなかったのだろう。あれは数字の問題ではなくて、値札の問題だったのだ。会社を売り物にするために、売り物の顔から、わたしを消しておく必要があった。三十秒の通告書も、消された名前も、埋められた本も、全部そのための、店じまいの掃除。

     千六百万ドルと、給与一年分と、和解の三万ドル。それがあの人の出した、最終的な勘定だった。あの人は最初から、言っていたではないか。会社の顔は、製品だと。わたしはあの言葉の意味を、七年間、取り違えていたのかもしれない。

     経営は女の仕事ではないよ、ミセス・ワイズ。

     古い葉巻の声まで、十年ぶりに耳の奥でよみがえった。いいえ、と胸の中で返す。経営はできたわ。三万人と三十倍が証拠よ。できなかったのは、たったひとつ。自分の身ひとつを守る算段。それを経営と呼ぶのなら――呼ぶのなら、どうなのか。その先は、いくら考えてもまとまらなかった。

     夕方の郵便に、見知らぬ筆跡の封筒が一通、混ざっていた。

     オハイオの消印。差出人の名前に、覚えはなかった。

     拝啓、ワイズ先生。お会いしたことはありません。三年前、あなたの講習の資料でこの仕事を覚えました。新聞で読みました。会社がどう言おうと、わたしの先生はあなたです。先週のパーティで、はじめて二十ドルを超えました。規則も守っています。ごめんなさいは、言っていません――。

     規則。わたしの規則が、会ったこともないオハイオの誰かのリビングで、まだ働いている。

     ブラウニーは手紙を二度読んだ。返事を書こうとして、便箋を出して、一行も書けなかった。いま書けば、礼状ではなく泣き言になる。この人に泣き言を送るくらいなら、書かないほうがいい。

     便箋はしまった。手紙のほうは、しまわなかった。台所の卓の上、いちばんよく目に入る場所に、置いたままにした。

    珏七芹


     新しい会社の事務所で、ブラウニー・ワイズは今日も、見本の口紅を並べた部屋の温度を測りかねていた。

     シンデレラ・インターナショナル。和解の三万ドルと残りの蓄えで興した、化粧品のパーティ販売の会社だ。口紅、白粉、香水。どれも品物はいい。パーティのやり方なら、この国の誰よりも知っている。知っているはずだった。

     社名を決めた晩は、上出来の皮肉だと思ったのだ。シンデレラ。魔法は十二時に解けるけれど、ガラスの靴は残る。わたしの魔法は一月に解けた。なら今度は、魔法が解けても残るものを売ればいい。

     ひとつだけ、最初に決めたことがあった。タッパーウェアのディーラーたちには、声をかけない。三万人のつながりはわたしが育てたけれど、もう、わたしの物ではない。あそこから一人でも引き抜けば、わたしはあの人と同じやり方で、人を持ち物のように数えることになる。

     切られた人間の意地の張り方としては、われながら上等の部類だと思う。おかげで、まったくの素人八十人から育て直すことになった。

     資金も足りなかった。銀行の支店長は、事業計画より先に保証人の欄を指で示した。ご主人は、と訊かれた。十七年前に別れました、と答えた。融資の話も、だいたいそこで終わった。四十五歳の女が一人で興す会社に金を貸すという発想を、この州の銀行はまだ持っていなかった。

     最初のパーティの晩から、何かが物足りなかった。

     客は集まる。ゲームも盛り上がる。名前も呼ぶ。それでも実演の段になると、部屋の温度が上がりきらない。口紅を塗ってみせる。色は綺麗ね、と客は言う。言って、それっきりになる。

     三か月ほど経った雨の晩、事務所でひとり見本を眺めていて、ようやく分かった。

     口紅は、ぷしゅっと言わないのだ。

     水を張って逆さにできない。絨毯に落として拍手は起きない。客の手に持たせて、四度目で鳴った、と叫ばせることができない。あのリビングの魔法は、わたしの口上が半分で、残りの半分は、あの半透明のボウルのおかげだった。

     会社の顔は、製品だ――あの人の言い草を、よりによってこんな夜に思い出してしまう。思い出して、口の中が苦くなった。わたしは七年間、あの言葉を、冷たい人柄の証拠だと思っていた。半分は、ただの事実だったのだ。

     わたしの口が売っていたのではない。口と、あのボウルたちとで売っていた。片割れだけで舞台に立って、それで客が沸かないのは、当たり前の話だった。

     会社は、一年ももたなかった。

     畳むと決めた朝、ブラウニーは事務所の洗面所で、口紅を丁寧に引き直した。一月のあの日以来、久しぶりに意味のある儀式だった。舞台の幕を開けるためではない。閉めるときにも、背筋は伸ばしていたい。

     畳む前に、やったことがひとつある。八十人のディーラーの行き先の世話だ。よその化粧品会社、台所用品の会社、南部の書籍の訪問販売。一人ずつ、売り口上の癖に合う先を選んで、紹介の手紙を書いた。会社は畳んでも、人を放り出すわけにはいかない。

     従業員は五人だった。最後の給料を、封筒に入れて手渡しで配った。それから、五人の顔を順に見て、言った。

    「ごめんなさい」

     五人が驚いた顔をしたのは、金額のせいではないと思う。規則はどうしたんですか、と一番若い子が半分泣きながら言った。パーティの間はね、と答えた。

    「パーティは、もう終わったの」

     会社の鍵を返すとき、その冷たさで、一月の会議室のテーブルを思い出した。失敗の温度というのは、北も南も変わらないらしい。

     新聞の経済面の隅で、タッパー氏が国を出たという短い記事を読んだのは、その頃だった。行先は中米の小さな国だという。感想は、湧かなかった。湧かないことに、少しだけ驚いたが、それだけだった。

    ※ ※ ※

     借りた家の郵便受けは、会社を二つ失った女の家のものとは思えない賑わいを続けていた。

     ブラウニーは毎朝、郵便受けのフタが、ぱたん、と鳴るのを聞いてから取りに出る。請求書と広告の間に、ほとんど毎日、あの手紙たちが挟まっている。

     オハイオ、テキサス、オレゴン。

     会ったことのある名前と、ない名前。文面は違っても、書いてあることはだいたい同じだ。教わった通りにやっています。今週もリビングでフタが鳴りました。あなたの規則を、新しい子に配りました。

     母はいつからか、この束を、あんたの商売道具、と呼ぶようになった。商売はしていないのだけれど、と言いかけて、やめた。母の言葉は、たいてい半年以上たってから、正しかったとわかる。

     読む。読めるようになった。返事は、まだ書けない。便箋を出すところまでは行く。一行目で手が止まる。礼を書けば嘘になるし、本音を書けば泣き言になる。

     教わった通りに、という言葉が、いまのわたしには、失くしたものをひとつずつ数えられているようにも聞こえるのだ。あの規則も、あの口上も、配った先では生きていて、配った元には、もう何も残っていない。

     六月の午後、スコールの上がった庭先に、車が停まった。

     降りてきた人は、ワンピースの膝の皺を伸ばして、それから焼き型の包みを抱え直した。麦色の髪。そばかす。猫背は、もうどこにもない。

    「マージ・ホランド。あなた、アポなしの訪問なんて覚えたの」

    「教わったんです。パーティの客は、玄関で断られてからが勝負だって」

    「わたし、そんな行儀の悪いことを教えたかしら」

    「あのときのジュビリーで。壇の上で」

     庭先の車の運転席で、大柄な男が帽子のつばに手をやった。ハンクだ。中で待たせるつもりらしいのを、ブラウニーは手招きで呼んだ。日焼けしたハンクは、玄関で帽子を胸に当てて、家内が世話になりました、とだけ言った。

     世話をしたのはお宅の奥さんのほうよ、と返すと、耳を赤くして、それきり黙ってケーキを三切れ食べた。無口にも、感じのいいものと、そうでないものがある。

     台所に通すと、マージは包みを開いた。コーヒーケーキ。母が黙って皿を三枚出して、やかんを火にかけた。

     近況は、聞かなくても半分は知っていた。部下は十四人になったこと。今年から研修の当番を持たされていること。息子さんが十歳になって、パーティの日は父親と二人で夕食を「男の当番」と呼んでいること。

     手紙に書かれていなかった話は、ひとつだけだった。

    「新しい子の初めてのパーティには、必ずついて行くんです。それで、始まる前に、規則をひとつだけ渡します」

    「……そう」

    「ごめんなさいは、禁止。それから、お客さまの名前を三度。教わった通りに、やっています。それだけを、直接言いに来ました」

    「……規則を渡すとき、誰に教わったかは、どう言っているの」

    「言いかけて、いつも迷います。あなたの名前を出すと、会社が、その」

     マージが言い淀んだ先は、聞かなくても分かった。消された名前は、いまの本社では口にしにくい名前でもあるのだ。

    「あなたの規則として、配りなさい」

    「でも」

    「規則というのはね、マージ、作った人の物じゃないの。使う人の物よ。あなたが十年使ったなら、もう、あなたの規則。あなたの下の子が十年使えば、その子の規則。いい規則ほど、最初の持ち主から離れていくものなのよ」

     言ってから、少しだけ、自分の言葉に自分で驚いた。

     ブラウニーはコーヒーケーキを一口食べた。甘さの奥に生姜が少し。初めて会った日のマージを思い出す味だった。そう気づいて、胸のどこかが軋んだ。

    「ワイズ先生」

    「先生はやめてちょうだい。もう副社長でもないんだから」

    「では、なんとお呼びすれば」

    「決まってるでしょう」

     うちのディーラーは三万人、全員がわたしを名前で呼んだのだ。あなただけが、いつまでも副社長だの先生だの。

    「ブラウニー、と呼びなさいな。みんなには、最初からそうさせているでしょう」

     マージは一度、口の中で練習した。それから、顔を上げて、言った。

    「ブラウニー。ケーキ、もう一切れどうですか」

    「いただくわ、マージ」

     名前というのは、呼ばれてみると、思っていたよりずっと温かいものだった。三万人に名前を呼ぶよう教えておきながら、呼ばれる側の気持ちを、わたしは今日まで正確には知らなかったのかもしれない。

     夕方には、ジェリーからの電話もあった。大学は残り一年、夏のあいだの仕事の面接を受けて回っている。今日の会社でね、と受話器の向こうで笑う。履歴書の家族の欄を見た面接官が、身を乗り出してきたんだ。お母さまは、あのワイズさんですか、家内が昔ディーラーで、って。

     社史から消された名前が、社史の外では、まだ勝手に働いているらしい。

     マージが帰ったあと、卓の上のオハイオの手紙を、もう一度読んだ。

     便箋を出す。一行目で、今度は手が止まらなかった。

     お手紙ありがとう。規則を守っているあなたは、わたしの自慢です。二十ドルの次は、二十五ドルを狙いなさい。狙い方は、あなたのマネージャーが知っています。いないのなら、あなたがいずれ、なりなさい。

     署名は、少しだけ迷って、ブラウニー、とだけ書いた。肩書の欄は、便箋にはもともとない。

     書き終えた封筒を卓の端に置くと、母が眼鏡越しにこちらを見た。

    「一通目かい」

    「一通目よ」

     台所の隅には、九つの箱がまだ積んである。七年分の手紙と、これから来る分。母はやかんの火を止めて、いつもの調子で言った。

    「長い商売になるね、その手紙屋さんは」

    「ええ」

     ブラウニーは封筒の口を、指の腹でゆっくり撫でて閉じた。

    「でも今度の商売は、元手が切手代だけで済みそうよ」

    最終話


     コーヒーカップを数えなおしながら、マージ・ホランドはリビングの時計をちらりと見た。これで、朝から三度目だ。

     カップは十四。ケーキはふたつ。折りたたみ椅子は足りている。数は全部合っているのに、朝から何度も数えてしまうのは、カップのせいではない。

     今日、あの人が来る。

     うちの組織の通算で千回目になるホームパーティを、自分の家でやると決めたとき、招待状は一枚だけ手書きにした。宛先はキシミーの、湖の近くの小さな家。返事は一週間後、四つに折った便箋で来た。行きます。ただし客として、座らせてちょうだい。お披露目はなし。紹介もなし。それが条件らしかった。

     最後の条件だけは、守るつもりがなかった。十三年も文通しておいて、それくらいの企みを許してもらえない仲だとは思っていない。

     ケーキは朝のうちにふたつ焼いた。生姜をひとつまみ。昔、ブラウニーは言った。得意なものを持っていきなさい、と。

     マージにとって、それがこのコーヒーケーキだった。いまでは、うちの若い子たちも焼ける。レシピも規則も、人から人へ渡っていく。

    「母さん、椅子はこれで最後?」

     二十三になる息子が、工場勤めで鍛えた肩で、折りたたみ椅子を三脚まとめて担いでくる。ハンクは庭で車の誘導係だ。パーティの日の男の当番は、この家では二十年続く伝統になっている。

     二時前に、若い子たちが集まりはじめた。組織の五十三人のうち、今日は近場の十四人。パンタロンの子、髪を腰まで伸ばした子。ステレオから低く音楽を流して、窓を開けると、春の芝の匂いが入ってくる。

     二時十五分、庭先に古い型の車が停まった。

     降りてきた婦人は、白いものの増えた髪をきれいに巻いて、口紅は完璧だった。五十九になっても、玄関までの歩き方で人の目を集めてしまう人だ。マージは駆け寄って、両手を取られる前に、自分から両手を取った。

    「いらっしゃい、ブラウニー」

    「お邪魔するわ、マージ。……あら、いい匂い。あなたのコーヒーケーキね」

    「ええ。今では、うちの若い子も焼けるようになりました」

     若い子たちには、こう紹介した。わたしの古いお友だちの、ブラウニーさん。名字は、言わなかった。

     開始までの三十分で、ブラウニーは初対面の十四人の名前を、全部覚えた。

     ゲイル、さっきの駐車の誘導、上手だったわねえ。シェリル、その髪、手入れが大変でしょう。若い子たちは、感じのいい年配の奥さまだと思って笑っている。わたしは知っている。名前は、あの人の癖ではない。あの人の仕事なのだ。十九年前、本社の廊下でフルネームを呼ばれた朝から、わたしはそれを知っている。

     千回目の実演は、ゲイルに任せてあった。

     二十三歳、入って半年。緊張で、注文用紙を何度も揃えている。気持ちは分かる。十九年前のわたしは、その紙を揃える手すら震えていた。

    「はい、じゃあ……みなさん、冷蔵庫って、ひとつだけ苦手なことがあると思いません?」

     口上は、組織に代々伝わる型だ。誰が最初に言ったのかは、もうたぶん、このリビングでわたししか知らない。

     ゲイルはレタスの器を掲げ、新型のタンブラーを配り、そして肝心のボウルのフタで、一度しくじった。ぷ、と間の抜けた音がして、若い客たちが小さく笑う。ゲイルの喉が、ごめんなさ、の形に動きかけて――止まった。

     止めた。えらい。

    「もう一回いきます。今度は鳴ります」

     ぷしゅっ。

     鳴った。拍手。ゲイルは真っ赤な顔で、水を張ったボウルを逆さにして、絨毯の上でぽんと弾ませてみせた。歓声。それから客たちにボウルを回す。はい、今度はみなさんの番。コツは、真ん中を押さえて、縁を少しだけ浮かせること。

     その口上も、型のとおりだ。誰が始めた型かは、言うまでもない。ここまでくれば、あとは注文用紙が埋まっていく。

    「あのですね、うちのマネージャーの受け売りなんですけど」

     注文を取りながら、ゲイルが客たちに言う。

    「人を育てれば、人が事業を育てる、って言葉があるんです。誰が言ったのかは知らないけど、いい言葉でしょ。わたし、この仕事で人に育ててもらってる真っ最中なんです」

     マージは台所の入口で、トレイを持ったまま動けなくなった。

     誰が言ったのかは知らない。そう、知らないのだ。知らないように、わたしが配ってきた。あなたの規則として配りなさい、と言われたとおりに、十三年。規則は根づいた。けれど、その規則を最初に教えた人だけは、この輪の外にいる。

     ――いいえ。

     今日は、中にいる。

     客の実演の番になった。ボウルとフタが、若い手から若い手へ回っていく。鳴ったり、鳴らなかったり。笑い声。そして、銀髪の婦人の手に回った。

     婦人は、フタをひと撫でした。それから手のひらの真ん中で押さえ、縁をわずかに浮かせる。

     ぷしゅっ。

     いままでの誰よりも短く、綺麗な音だった。

    「わ、奥さま、お上手!」

     ゲイルが手を叩く。婦人は目元だけで笑って、お宅の先生がいいのよ、とだけ言った。

     マージはエプロンの縁をつかみそうになって、やめた。十九年前に直した癖だ。

     規則は使う人の物、とあの人は言った。いい規則ほど、最初の持ち主から離れていくのだ、と。規則は、ありがたく貰った。この組織の隅々まで配った。けれど、あの人がいなかったことにするつもりはない。

     会社があの人のことをなかったことにしたのなら、語り直すのは、育ててもらった側の仕事だ。今日のために千回目まで待ったのだと言ったら、あの人は笑うだろうか。

     前掛けを外して、マージはリビングの真ん中に立った。

    「みなさん、ちょっとだけ、いいかしら」

     客たちと、ゲイルがこちらを向く。

    「今日は、うちの組織の千回目のパーティです。千回のあいだに、わたしたちのリビングには、規則がふたつありました。ごめんなさいは禁止。お客さまの名前を三度。……その規則を誰が作ったのか、今日だけ、紹介させてください」

     銀髪の婦人が、こちらを見た。止めるかしら、と思った。止められても、言う。

     婦人は、止めなかった。膝の上で両手を重ねて、ただ、背筋を伸ばした。

    「この方が、わたしにこの仕事をくれた人。ごめんなさいの禁止も、名前を三度も、コーヒーケーキを武器にすることも、ぜんぶこの人の規則です。――ブラウニー・ワイズ。タッパーウェアを、リビングで売る道を作った人よ」

     リビングが、しんとなった。

     銀髪の婦人は、膝の上の手を動かさなかった。ただ、完璧な口紅の唇が、一度だけ小さく動いた。声にはならなかったけれど、読めた。マージったら、と動いたのだ。読めたのは、たぶんこのリビングでわたしだけだ。

     ゲイルの口が、小さく開いた。受け売りの言葉と、目の前の婦人が、若い頭の中でゆっくり繋がっていくのが、傍から見ていて分かった。

     それから、拍手が起きた。

     小さなリビングには、大きすぎる拍手だった。

     ブラウニーは立ち上がって、若い子たちをぐるりと見て、演説はしなかった。ひとことだけだった。

    「規則はもう、わたしの物じゃないのよ。あなたたちの物。……ようく使い込んであって、安心したわ」

     そのあとは、若い子たちの質問攻めだった。ジュビリーって本当に庭からミンクが出たんですか。出たわよ、冷凍庫も出たわ。ビジネスウィークの表紙って、どんな気分でした。肩が凝ったわねえ、と答えて、リビングを笑わせる。

     ゲイルは輪のいちばん前で、さっき奥さまお上手なんて言っちゃいました、と首まで赤くなっていた。ブラウニーはその両手を取って言った。

    「褒め言葉はね、ゲイル、誰に向けたものでも正しいのよ。それより、あなたの二度目のぷしゅっ、あれは千回目の名に恥じない音だったわ」

     お開きの前に、マージは本棚から、あの一冊を持ってきた。

     ベスト・ウィッシュズ。一九五七年に本屋で買った初版。背は割れ、ページの角は丸くなっている。研修のたびに引いて読んだ線が、鉛筆で何十本も入っている。埋められずに済んだ一冊です、と差し出すと、ブラウニーは何も言わずに受け取って、表紙を長いこと、長いこと撫でた。

     それから顔を上げると、目元にいつもの笑みが戻っていた。ブラウニーは万年筆を出した。マージは一度だけ、鼻をすすった。それ以上は、言葉にしなかった。

     扉に書かれたのは、二行だった。

     マージへ。

     わたしの自慢の、規則の持ち主へ。

     署名は、名字まで、きちんと書いてあった。

     夕方、客が帰ったあとのリビングで、二人でケーキの最後のひと切れを分けた。ハンクと息子は庭で椅子を畳んでいる。ブラウニーは湖の家の話をした。教会のバザーの話と、陶芸の話。窯の話を訊くと、粘土にはフタの付けようがないのよ、と笑った。

     日が落ちる前に、古い型の車は帰っていった。助手席の窓が下りて、ブラウニーが手を振った。マージはその手の振り方を知っている。ジュビリーの晩、キシミーの駅のホームで、寝台列車の千人に振っていたのと同じ振り方だ。

     見えなくなるまで振るのだ、あの人は。

     だからこちらも、車が角を曲がりきるまで、振り続けた。

     台所ではゲイルたちが残って、洗い物のあいまにフタの練習をしている。

     ぷしゅっ。ぷしゅっ。

     鳴るたびに、若い笑い声が上がる。マージは思う。社史には載らない。名簿からも消された。けれどあの音が鳴るリビングの数だけ、あの人は今日も、この国のどこかで呼ばれている。

     千一回目は、来週の火曜。ゲイルの初めての、ひとり立ちのパーティだ。

    (了)


    画像
    ブラウニー・ワイズ(wikipediaより)


     
     
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