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エクリチュールの未記 番外編―湖畔私記【6】湖畔の舞踏会

    『エクリチュールの未記』番外編。
    少し不器用で、とびきり甘い湖畔の二人の日々。


    湖畔私記6 湖畔の舞踏会


      仮面には、外す理由がある。

      外さない理由もある。

      傷を隠すため。

      過去を隠すため。

      そして、もう二度と誰にも素顔を覚えさせないため。

      だから、その日ピエールが仮面を外したのは、本当に偶然だった。


    「あら。」

      律は思わず声を上げた。

    「ピエールさん......」

      仮面が、外れていた。

      鼻筋が高く、目は切れ長だが虹彩の色味が違う。睫毛が少し長い。律が前から気になっていた髪の毛は生えていて、黒に近い濃い茶色をしていた。目元から頬にかけて大きな傷があった。

    「まぁ......男前なのね」

      律は、思わずそう言った。

      ピエールは慌てて塗り薬から手を離し、仮面を手に取った。

    「......その瞳、とても綺麗」

      律はピエールの灰青色の虹彩に目を奪われていた。

    「父譲りでございます」

      ピエールは少しだけ照れて慌てて仮面をつける。

      そこに折笠が入ってきた。

    「ピエール、仮面をつけておけ」

    「もうつけております」

    「まぁ、もう少し見たかったわ」

    「十分だ」

      折笠は怒ったように言った。

    「その......日本の方ではないのね?」

      律は初めてその異国の気配に気がついた。ピエールの顔を見たことがなかったし、日本語も普通に話していたから何も気づかなかったのだ。

    「ええ......私の祖国はベルギーでございます。ドイツに踏みにじられましたが、私の祖国です。母は日本人なので、このような顔立ちをしております」

      もう折笠と律が出会うきっかけになった第一次世界大戦が終わって十年ほどになっていたが、ピエールの言葉にはまだその名残があった。

    「そうなの......ピエールさんのお話、お聞きしたいわ」

    「やめておけ。お嬢さんは戦争のことを知らなくていい」

    「中佐殿、知ることを求めるのは罪ではありませんよ。それにお嬢さんは子供ではありません。私はお嬢さんが聞きたいのならお話します」

      折笠は、大日本帝国軍の中佐で情報部の参謀でありながら、ドイツ帝国軍諜報員でもあり、その任務で律の屋敷に押し入った。迷わず、律の家族や使用人たちを全員粛清し、そして、律だけを残した。あの時の記憶を、また律に思い起こさせたくなかった。

    「私、知りたいわ」

    「ええ、知ったことで選べる未来もあります。お嬢さんは聡明なお方ですから」

      ピエールは静かに微笑んだようだった。

    「でも、ドイツに踏みにじられたって......私が出会った時、折笠さんはドイツ帝国軍の諜報員でもあったわ。折笠さんとは敵同士だったの?」

      律は勇気を出して聞いた。

    「ええ。開戦の前からでございます。欧州の空気は、もう随分前から焦げ付いておりましたので」

    「余計なことまで話すな」

      折笠は不機嫌そうな声で言ったが、律はぎゅっと手を握り締めてピエールをじっと見つめていた。知ってしまった痛みごと相手を見たい。そのまま見たい。それが、律の性格だった。

      ピエールが、口を開いた。

    「中佐殿とは、当時、宿敵でございました。情報戦、暗号解読、それに銃撃戦。社交界での情報収集でも、何度も顔を合わせました。互いに相手の腹を探り合い、先に機密へ辿り着こうと競ったものです」

    「......よく喋る」

    「事実でございますので」

      折笠は、部屋の椅子に掛け、足を組んで苛々としていた。床に座すピエールの前に、律が座ってまっすぐに聞いていた。

    「ですが、一度も勝てませんでした」

    「え?」

      ピエールの言葉に律は驚いた。

    「戦場でも、社交界でも。私が先回りしたつもりでも、中佐殿はいつも一歩先を読んでおられました」

    「運が良かっただけだ」

      折笠は、ふんと鼻を鳴らした。
      律は思わず息を呑んだ。

    「まぁ......ピエールさんと折笠さんは、そんな関係だったの? 銃撃戦まで......怖くはなかった?」

      ピエールは少し口元を緩める。

    「ええ。それはそれは、恐ろしいお方でした」

      律は思わず折笠を振り返ったが、いつもの仏頂面を崩さず無表情だった。

    「私も拳銃にはそれなりに自信がございました。抜く速さだけなら、そうそう遅れは取りません。ですが、中佐殿は違いました。撃つまでが速いのではありません。当てるのです」

      律の心臓が跳ねた。

    「しかも、急所ではなく、こちらが戦えなくなる場所だけを」

    「......話を盛るな」

      折笠がぼそっと文句を言った。

    「一度も盛ってはおりません」

      ピエールは笑った。

    「何度挑んでも。銃を落とされ、足を撃たれ、肩を撃たれ。気づけば、私は地面に転がっておりました」

    「そんなに......」

      律は信じられなくて、想像することができなかった。

    「私は、追い詰められ、死を覚悟しました」

      律の顔が曇る。あの人は私の家族もそうやって......とあの日が蘇りそうになる。

    「しかし、中佐殿は私に止めを刺しませんでした」

    「......無駄に命は奪わん」

      折笠はすっと顔を逸らした。

    「私は、撃って下さい、と言いました。ああ、この男には私は負けた、と観念したのです。しかし、中佐殿は言いました『無駄に命は奪わん。生きろ』と」

    「ふん、随分記憶力がいいな」

      折笠は腕を組んだ。

    「ええ、決して忘れぬ言葉です」

      ピエールはゆっくりと折笠を見上げた。


    「すごいわ。お話でしか読んだことがないわ。本当に戦うのね」

      律は途中から胸が高鳴りっぱなしだった。
      一瞬、部屋が静かになった。

    「ええ。戦います。そして、お話のようには終わりません」

    「そう......よね」

      色んなものを失って、奪って、私もその延長線上にいる、律は思った。

    「ですが......こうして中佐殿に仕え、お嬢さんに昔話をしているのですから、人生とは不思議なものです」

      それを聞いて、律はやっと安心して笑った。

    「本当に、不思議ね」

      折笠が、席を立ち、床に座る二人に近づいた。

    「昔話はそのくらいにしておけ」

    「えー。もう少し聞きたいわ。それでどうして折笠さんのところに来たの?」

      律は食い下がった。

    「俺は、当時、ある屋敷に住んでいた。表向きは中佐だが、潜伏にも使える場所だった」

      珍しく折笠が口を開いた。

    「ある日、こいつが来た。『執事をお探しと伺いまして』と胡散臭い挨拶をする。『どこで聞いた?』と俺は聞いた」

    「そのような空気のお屋敷ですので」

      ピエールは当時の挨拶をなぞって、微笑んだ。
      律は思わず、くすくす笑った。

    「ピエールさんらしいわ」

      折笠はため息をついた。

    「有能なのは知っている。饒舌なのがたまに傷だが、雇うことにした」

    「良かったわね。素敵な執事さんが来てくれて」

      律がそう褒めると、ピエールは軽くお辞儀をして見せた。

    「あのね、傷があっても男前よ」

      律はそう付け加えた。すると折笠が、すっと律の腕を取った。

    「何?」

    「あまりその男に近づくな。そいつはその傷でも社交界に通用する。いや、仮面でも人気がある。危険だ」

    「嫉妬しておられますか?」

      ピエールが聞いた。

    「違う。お嬢さんがおまえをあまり褒めると気分がよくない」

    「でも、本当に男前だったもの」

    「......」

    ――当時、自分が何度も闘いを挑んで勝てなかった男は、こうも一人のお嬢さんに弱い。今はその光景を見ている。仕事柄、色んな屋敷を出入りはするが、しかし、この男に仕えようと決めた自分が、この男のこんな姿を見る日が来るとは。不思議な夜だ。生きて、良かったのかもしれない。

      ピエールは静かにそう噛みしめていた。


      翌日の夕方。湖畔の寺子屋には子供たちが十五人ほどやってきていた。

    「今日は礼儀作法の授業ですよ。ピエールさんが教えてくれます」

      律はピエールに微笑みかけた。

    「仮面だ! 仮面先生だ!」

    「仮面! 仮面!」

      子供たちが囃し立てる。

    「ではまず、礼儀作法の基本のお辞儀をしてみましょう」

      ピエールはすっと背筋を伸ばして立ち、優雅に一礼、お辞儀をして見せた。

      すると、拍手が沸き起こった。

    「すごい!綺麗!」
    「仮面先生すごいんだな!」
    「かっこいい!」

      生徒が急にピエールに羨望の眼差しを向けた。子供とは素直なものである。

    「基本は背筋を伸ばして立つことでございます。皆さん、起立して私を真似てみて下さい」

      すると教室中の椅子から生徒が立ち上がった。
      ピエールはまっすぐ立っているだけで、美しいと感じさせる姿だった。

    「おかしいな、俺も立ってるのに違うぞ」
    「ああいうふうにぴしっとしてみたいわ」

      子供たちがお互いに自分たちの姿勢を見て、試行錯誤する。

    「今日はさらに、ピエール先生が社交界の礼儀であるダンスも見せてくれますよ」

      律がみんなの様子を見て声を掛けた。
      するとピエールが教室の前の隅に座っている折笠を一瞥した。

    「ダンスなら中佐殿もお得意ですよ」

      すると一斉に折笠に子供たちの視線が集まる。

    「え! 折笠先生のダンス? 見たーい!」
    「踊ってー!」

      女子たちが一気に賑わった。

    「おまえがやればいいだろう。俺は社交界でも踊らなかった」
    「ええ。ですが、今日は教育です」
    「......」

      折笠が少し考えた末立ち上がった。
      拍手が沸き起こる。

    「では、お相手を」
      ピエールが、軽く礼をした。

    「お嬢さん、手を」
      折笠は教室の前でみんなを見ている律に恭しく手を差し出した。

    「え、私?」
      律は突然の出来事に驚く。

    「きゃー!」
      と女子たちから歓声が上がった。

    「では、ワルツを一曲お弾きしましょう」
      ピエールは教室の隅に岩男が先日運び込んでくれたピアノの椅子に座った。
      丁寧な指先が鍵盤を押し、優雅な音色が流れ始める。

    「すげー! 仮面先生、ピアノも弾けるのか」
      子供たちはピエールの多才さと、これから始まると思われる、折笠と律のダンスに息を呑んだ。

      折笠は律を導き、二人でステップを踏んだり、律をくるりと回転させたり、初めて踊るのに、これまで練習してきたかのようなぴたりとしたダンスをした。

    「わぁー! 先生たち素敵ー!」
      子供たちは拍手喝采であった。

      ピエールはピアノから立ち上がると、先ほど教えたお辞儀を深々として見せた。それに合わせて、折笠と律も丁寧にお辞儀をした。

    「舞踏会に来たみたい!」
    「律先生、くるくる回ってお姫様みたいだった!」
    「折笠先生、かっこよかった!」

      子供たちは大賑わいで、僕も、私も、礼儀作法たくさん練習したい!と三人の共同の授業は大人気だった。

    「すごいわ。折笠さんってこんなに踊れるのね」
      律は実はそんなに踊りが得意ではなかったが、折笠が導いてくれると、綺麗に回れることに驚いていた。
    「軍で社交界に出入りするために習った」
    「まぁ。うふふ」
    「何かおかしいか」
    「ちゃんと練習したのね」
    「......」


      その授業の終わり頃、階下からいい香りが漂ってきていた。

    「みんな。お菓子。ある」
      岩男がのそっと教室に現れた。

    「岩男先生だ!」
    「え!お菓子? 僕たちの?」
      子供たちは口々に叫んだ。

    「台所。食べる。いい」

      わぁっと子供たちが慌てて荷物を取って立ち上がる。

    「はーい! みんな台所へどうぞ。岩男さん、よろしくね」
      律は岩男に微笑んだ。
      岩男はみるみる赤くなって、慌てて子供たちを先導して台所へと降りて行った。律もその後ろに続いた。


      教室の夕暮れに、折笠とピエールが残った。

    「やはり......踊りも見事ですね」

      ピエールは折笠に言った。

    「ふん。おまえはよく踊っていた」

    「ええ。令嬢たちからお話をお聞きするには踊るのが良いですから」

    「任務の情報収集だろう。そんなものは、観察で構わん」

      実は、折笠は社交界では一度も踊らなかった。社交場に礼服で来てはいるが、壁際で腕を組んで突っ立っているのだ。
      それでもその顔と姿、それに職階から、令嬢たちはこぞって「私と踊って下さいませんか?」と声を掛けた。
      しかし折笠は、誰に対しても「申し訳ない」と断って、舞踏会の様子をただ眺めているだけなのだった。
      そのため、「踊れないのかしら?」と囁く者もいた。しかし、同じ筋の社交場に出入りして、その優しさや踊りの優雅さに、折笠と並ぶ人気のピエールは感づいていた。
      踊れないのではない、踊りたい相手がいないだけなのだと。

    「今は、踊りたいお相手がいるのですね。踊りでも敵わないとなると、いよいよ困りました」

    「ふん。おまえみたいに、相手を喜ばす言葉は言えん」

    「それも中佐殿らしゅうございます。今日のお嬢さんは喜んでおられましたよ」

    「ならいい」

      この、軍事有能だが実に不器用な男と、実に真っすぐに相手を受け止めようとするお嬢さんを、お側でお守りする人生も悪くない。あの惨い戦争の果てに、いや、そういう悲劇を世の中は繰り返してしまうのかもしれないが、せめて束の間でも、生きてできることがあるのなら。

      ピエールは、湖の向こうに掛けていく子供の姿を、何も言わず、折笠と並んで見つめていた。


    ひとこと

      空を飛びながら書きました。機内の有料 WiFi パスを買っておいて、『湖畔私記』も創作大賞用にタグ付けしたり。そしてこの話を書きました。グリーンランド上空はネットが使えなかったり、ところどころつながらないのでその都度試してはつながらない時はワインを飲んで眠り……。日本時間の 22:35 に書き上げたのですが、つながらない場所が続いて、ようやく 2:33 すぎに公開です。ピエールの祖国があきらかになりましたが、私も欧州にしばらく居るので、欧州の気配を滲ませられたらいいなと思います.

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