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決裁堂 第5話「一日三百件」

    【前回まで】 切られた六十三の中のひとり、佐々木印房の娘が堂を訪ねてきた。父は誰も恨んでいない。だから娘には、恨む場所がない。娘は、誰の名も彫られていない無垢の印材を置いていった。同じ日、株式会社アセントの執行役員・東雲が現れた。一日三百件を決める会社は、決裁堂の看板を買いたいと言った。二階堂は、断らなかった。「預かる」と、それだけを言った。

     一

     招待状は、一週間後に届いた。  厚い紙に、箔押しの社名。株式会社アセント、決裁事業本部。文面は短かった。——先日は失礼いたしました。ご判断の材料に、私どもの現場をご覧いただきたく。 「行って、見てこい」  二階堂は、招待状を長机に置いて、言った。 「僕が、ですか」 「お前と、芽以だ」  芽以が、給湯室から顔を出した。 「あたしも、ですか」 「決める側になりたいんだろう」二階堂は、湯呑みに口をつけた。「なら、あっちの決め方も、見ておけ。見ずに嫌うのは、決めたことに、ならん」  沢渡は、行かなかった。  誘われもしなかったし、自分からも、何も言わなかった。ただ、桐生たちが出る朝、戸口まで来て、一言だけ言った。 「土産は、いらんぞ」  冗談の形をしていたが、目は、笑っていなかった。

     二

     アセントの関東拠点は、東京駅から歩いて七分の、鏡のようなビルの、十七階と十八階を占めていた。  東雲は、受付まで、自分で迎えに来た。 「ようこそ。狭いところですが」  狭くは、なかった。  フロアの奥まで、白いブースが、整然と並んでいた。ブースひとつに、決裁士がひとり。三面のモニタ。手元に、印判と、電子署名のパッド。話し声は、ほとんどない。キーを打つ音と、紙の擦れる音だけが、空調の音の下に、敷き詰められていた。 「現在、この拠点で稼働している決裁士は、六十二名です。全国で百四十名。今日はここまでで」東雲は腕時計を見た。「百八十七件、決裁が済んでいます。夕方までに、三百を超えます」 「一件、十一分」 「平均では。もちろん、ばらつきます。五分で済むものもあれば、一時間かかるものもある。一時間かかったら、その決裁士のその日の件数は、減ります。減っても、構いません。当社が管理しているのは速さではなく、誤り率です」  東雲は、手近なブースの脇に立った。中の決裁士は、顔も上げなかった。モニタに、書類が映っている。上段に、AIの答え。中段に、争点が三つ。下段に、判断の期限。 「AIが、事前に案件を洗います。九十七パーセントは、争点が三つ以内に絞れます。決裁士は、三つだけを見る。三つを見て、答えに判を捺すか、差し戻すか」 「絞りきれない三パーセントは」 「別班に回します。時間無制限の班です。御堂のやり方に、いちばん近い班ですよ」東雲は、少し笑った。「うちにも、あるんです。ちゃんと」  フロアの端で、若い決裁士が、席を立った。休憩らしかった。すれ違いざま、桐生の胸元の来客証を見て、足を止めた。 「……決裁堂の、方ですか」 「見習いですが」 「そうですか」若い決裁士は、何かを言いかけて、やめた。やめてから、結局、言った。「僕、試験の前に、御堂の判例集で勉強しました。ひまわり銀行の四百件。あれで、この仕事を選んだんです」 「いまも、選んで、よかったですか」  訊いたのは、芽以だった。  若い決裁士は、芽以を見た。それから、自分のブースの方を、ちらりと見た。 「……一日に、十七件、決めます。夜、覚えているのは、二件か、三件です」  それだけ言って、頭を下げて、行ってしまった。  東雲は、その背中を、咎めるでもなく見送った。 「正直な男です。ああいうのが、長く保ちます」

     三

     応接室で、東雲は、例の冊子をもう一度出した。 「決裁保険。前回、御堂には、あまり歓迎されませんでしたが」 「間違えたときの、賠償を、保険が払う」 「ええ。決裁士個人は、破産しない。家を失わない。だから、決められる。——桐生さん。人間が判断を誤る最大の要因を、ご存じですか。能力じゃありません。恐怖です。身ぐるみ剥がされる恐怖の中で、人間は、安全な方に、決められない方に、逃げます。保留です。保留は、誰も破産させない代わりに、誰も救わない」  言っていることは、正しかった。  少なくとも、半分は。桐生は、堂の長机を思い出していた。四百件の綴り。あの重さに、もし、自分の家と、家族の暮らしが載っていたら。それでも猶予百二十七と言えたか。言えた、とは、言い切れなかった。 「九割が消えた国で」東雲は、続けた。「それでも毎日、決裁は要ります。融資。契約。認可。支給。決める人間が足りなければ、決裁の順番待ちで、会社が潰れる。支給を待つ人が、冬を越せない。私どもは、決裁を、水道にしたいんです。蛇口をひねれば、出る。誰がひねっても、同じ水が出る。——四十年に一人の名人の井戸より、全戸に届く水道です」 「井戸の水と、水道の水は」芽以が言った。「味が、違います」 「違います」東雲は、あっさり認めた。「ですが、渇いて死ぬ人の前で、味の話は、できません」  芽以は、黙った。  黙ったが、引き下がった顔では、なかった。しばらくして、別の場所から、刺した。 「東雲さん。ここの決裁が、間違えたら、誰が謝るんですか」 「保険が、支払います」 「支払うのと、謝るのは、違います」  東雲は、初めて、少しだけ、間を置いた。 「……お嬢さん。謝罪というのは、いい言葉ですが、腹は、膨れません。潰れた店は、謝罪では、戻らない。金は、少なくとも、届きます」 「届いた金で、うちは、潰れました」  芽以の声は、大きくなかった。大きくないまま、部屋の温度を、一度、下げた。  東雲は、それ以上、その話を続けなかった。続けない、という判断の速さだけが、この男の誠実さだった。  帰り際、東雲は、冊子と、もう一冊、薄い綴りを持たせた。 「決裁保険の、事故事例集です。匿名化してあります。保険が機能した実例を、ぜひ、二階堂先生に。——それと、桐生さん」  エレベーターの扉が閉まる、直前だった。 「先日の、判子屋の娘さんの件。噂で、聞きました。ああいう訪問を、正面から受けるのが、御堂の流儀だ。敬意を表します。当社では、ああいう訪問は」  扉が、閉まり始めた。 「——受付で、止まります」  閉まった。  敬意の形をした、いちばん深い刃だった。

     四

     帰りの電車は、混んでいなかった。  夕方の下り。窓の外を、倉庫と、太陽光パネルと、動いていない工場が、順番に流れた。 「桐生さん」  芽以は、窓の外を見たまま、言った。 「あたしの実家、山の方で、旅館やってたんです」 「……うん」 「潰れました。あたしが高校のとき。——潰れた、っていうか。誰も、潰すって、決めてくれなかったんです」  芽以は、膝の上で、指を組んだ。 「客は減ってて、借金はあって、どう考えても、続かないんです。父も、たぶん、分かってた。銀行は、追加融資も断らない代わりに、貸しもしないんです。判断保留。役所の相談窓口は、制度の紹介だけして、次の窓口を教えるんです。AIの経営診断は、改善余地あり、って出すんです。改善余地。あの四文字、あたし、一生忘れません。誰も、駄目だとは、言わないんです。駄目だと言ったら、言った人の責任になるから」  電車が、鉄橋を渡った。音が、しばらく、会話を消した。 「三年、保留のまま、続けました。三年分、借金が増えて、三年分、両親が古くなって、それから、潰れました。最初の年に誰かが駄目だと決めてくれてたら、残ったものが、あったんです。建物とか、お金とか、じゃなくて。……父の、なんていうか。まっすぐ立つ感じ、みたいなものが」  芽以は、そこで、一度、言葉を切った。  切ってから、静かに、言った。 「猶予は、希望のある人への時間です。希望のない人への猶予は——優しさの顔をした、いちばん残酷な、選択です」  桐生は、何も言えなかった。  合議の日、猶予百二十七、と読み上げた自分の声を、思い出していた。あの百二十七の中に、希望のない者が、ひとりも混ざっていないと、言い切れるか。切る六十三を数えた夜より、その問いの方が、深いところに、刺さった。 「だから、あたし」芽以は、窓の外に目を戻した。「早く、決める側に、なりたいんです。あそこの人たちみたいに一日十七件は、決められないけど。……ねえ、桐生さん。ああいう決め方でも、決めないよりは、マシなんですか」  桐生は、答えられなかった。  答えられないまま、電車は、暮れていく町を、いくつも通過した。

     五

     堂に戻ったのは、夜だった。  沢渡が、まだ、残っていた。土産はいらんと言った男が、報告は聞く、と言って、湯を淹れた。  桐生は、見てきたものを、順番に話した。ブース。三面のモニタ。争点三つ。十一分。夜には二、三件しか覚えていないと言った、若い決裁士。 「保険の、事例集も、渡されました」  薄い綴りを、長机に置いた。  沢渡は、湯呑みを持ったまま、しばらく、それを見ていた。見てから、手に取った。義理で頁をめくる速さだった。その速さが、七枚目で、止まった。 「……桐生」 「はい」 「これを、読め」  事例七。  匿名化された、短い記述だった。——地方都市。公共料金の自動決済システム。高齢利用者の口座残高不足に対し、システムは規定に基づき供給停止を判定。決裁保険の適用により、遺族へ見舞金が支払われた。再発防止策として、判定分岐に人的確認工程を追加。  それだけだった。  社名も、地名も、年も、洗ってあった。  だが、沢渡は、湯呑みを、置いた。置いた手が、机の縁を、掴んだ。 「……この分岐は、俺が、消せなかった分岐だ」 「……」 「規定に基づき、じゃない。規定を書いたのは、人間だ。消そうとして、工数の話をされて、引っ込めた人間が、ここにいる」  沢渡は、事例七の頁を、開いたまま、伏せなかった。 「年に、四・二人。顔なんて知らないと、ずっと、言ってきた。知らないのは、本当だ。……なのに、な。洗って、番号にして、見舞金の実績にした紙の方から、顔が、来るんだ。八十いくつの、冬の、誰かの顔が。俺はこの人の、名前すら、この紙のせいで、一生、知れん」  見舞金は、支払われた、と紙は言っていた。  金は、届いた。  謝罪は、どこにも、書かれていなかった。  電車の中の芽以の言葉が、桐生の中で、別の角度から、もう一度立ち上がった。支払うのと、謝るのは、違います。あの若さで、あの子は、両方を知っている。  奥の机で、二階堂が、湯呑みを両手で包んだまま、言った。 「沢渡。その頁、破って、捨てるか」 「……いえ」  沢渡は、綴りを、閉じた。閉じて、自分の抽斗に、しまった。 「持っときます。番号の向こうに顔があることを、忘れた日が、俺の辞め時なんで」  二階堂は、頷きも、しなかった。  しないことが、この老人の、いちばん深い頷き方だった。  桐生は、自分の机に戻った。  白い無垢材が、夜の中で、まだ、白かった。一日三百件の街から帰ってきた目に、その一本は、ひどく、遅く見えた。遅いものだけが持っている速さが、あるのかどうか。それを確かめるのが、たぶん、この先の自分の仕事だった。

    (第5話 了)

     
     
    Claude Codeに書かせて、判断は自分が握る。複業のソロ開発(321テスト・DDD違反0・ADR運用)で、何を任せて何を握ったかの実録を連載『判断ログ』で週1〜2本公開中。 Zenn本『判断を委譲しない設計』著者。近未来小説『決裁堂』連載中。

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