
大人も子供も「正しさの証明」に必死である
最近6歳の娘の「口答え」が本当に凄いことになっている。
「テレビを見るのは、やめようよ」と言うと
「お父さんが見てもいいよと言っていたよ」
「お片づけしようよ」と言うと
「まだ使うんだもん」
と言うように。
そこで、気づいたことが、「口答え」というのは「自分の正しさ」で自分を守るための行為なのだと言うことだ。
自分の娘のことで言うと、つい最近まで、私のお腹の中で、内臓の一部のように蠢いていた私のようで私でない「存在」が「自分の正しさ」を証明しようとしていることに変な感慨を覚えてしまう。
そんな娘に対しては「大人の正しさ」で握り潰す事はなく、一旦は「彼女の正しさ」を受け入れようと思っている。
しかし、虐待を受けて育った子供は
口答えすることがなくなると言う。それは「どうせ言っても無理」とか、
「受け入れてもらえない」とか、経験的に学んでしまうからだと言う。
つまり、甘えられる人がいないと、口答えもできない。
裏を返すと「口答え」も「正しさの証明」も、相手の「甘え」の裏返しとも言える。
また、先日ちょっと面食らうようなことが起こった。これは「正しさ」と言う面では、私が完全に正しくない話なのだが、
自転車に乗って、スーパーに行く際、ちょっとの距離だからいいや、と思って逆サイドの車道を走っていたら、、
歩道から大声で、
「逆サイド行くなやボケ!」
と言う怒鳴り声を浴びせれた。
驚くことに、その声の主は、女性だった。
それも若い、私から見ると若い30代後半くらいの女性。しかも杖をついて杖にはヘルプマークのバッジを付けていた。
歩道にいた人だから、自分自身が危ない思いをしたわけではないが、とにかく私の間違った行為を指摘したかったのだろう。
なんだか恥ずかしい気持ちになり謝ったが、
彼女の「正しさへの主張」が、なんだか彼女自身の生きづらさの裏返しにも見えてしまった。
、、このエピソードは自転車マナーを守らない私や内部障がいがある人を勝手に「生きづらい」と断じているから間違いなく炎上案件だが、感じたままのことをそのまま残しておく。
「正しさの証明」は私も含めて
人間なら誰でも行う。
誰だって怒られたくないし、自分を守りたいし、相手に強く出たい。
SNSを見ても
「正しさの証明」、
「私は正しくてあなたは間違っています」
と、いう言葉に溢れている。しかし、立ち止まってみたい。
匿名とか安全な場所から「正しさの証明」をするのは、何を言ってもいいんだと言う「甘え」に繋がりやすい。
またSNSは「事実」と「認識」の混同や自他の「境界線」の曖昧が起こりやすく、ますます感情に飲まれた「正しさの証明」合戦が起こる。
そもそも「正解」や「正しさ」って何だろうか。私は、「事実」は球体のようなものだと思っている。

見る人や角度によって、見え方も捉え方も大きく変わる。
またそもそも「完璧な人間」っているんだろうか。矛盾を抱えたり、欠けているところがあったりするのは、誰にでもあることだ。
だからこそ、「私は正しい」を証明することよりも、「あなたにはそう見えているんだね」と立ち止まれることの方が大切なのかもしれない。
娘の口答えも、大人同士の言い争いも、SNSでの論争も、その奥にはきっと「わかってほしい」という気持ちが隠れている。
正しさを振りかざすことよりも、お互いの不完全さを少しだけ認め合えること。
そのほうが、息苦しさの少ない社会に近づくのではないか。