メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bykokagetosho

ほんとうは、こっちがいい

    ※いくつかに分けて過去に投稿した記事を、起きた時系列にまとめ直したものです※


    人が集まっている中にいました。
    なんの集まりかは分かりません。

    私はその場にいながら、なにか別のことを考えていました。

    私に近づいてきて、楽しかった旅行で見た景色の話をしてきた人がいました。
    私は適当に返事をしました。

    人混みになじめずに、一人になりたいと思って、私はだだっ広い駐車場に行って座りました。

    横に座ってくれる人がいました。
    目を合わせて話しかけようとしてきました。私は黙って立ち去りました。

    人混みの中にもどると、さっき旅行の話をしてくれた人がいました。

    私はさっきの景色のことを話そうとしました。
    でも、その人は別の人と話していて、私は話の腰を折ってしまったようでした。

    私の話に軽く相槌を打ちつつも、その人は少し困惑しているように見えました。
    私は静かにその場を離れました。

    「お待たせしました。準備ができました」
    という声がしました。

    これからここを観光するのだと分かりました。
    人はたくさんいるけれど、個人行動のようでした。

    みんな楽しそうにしていて、気づけば評判の中華料理屋の前に並んでいました。

    私以外の人たちは、メニューを見て色々と話しています。
    私はそこから逃げたくなりました。

    横の路地を見ると、名物のどんぶりの看板が見えました。

    私は中華料理屋の列から抜け、一人でどんぶり屋に入りました。

    「一人なのですが。」
    遠慮がちに店の人にそう言いました。

    「おひとりさま大歓迎です!」
    満面の笑みで迎えられました。

    私はホッとしました。

    注文が届くまでの間、あぁこれでよかったんだと思いました。

    でも、ほんとうは、そういうことにしようとしていました。

    注文したどんぶりがテーブルに乗せられました。
    とてもツヤツヤして美味しそうでした。
    でも、なにかが違いました。

    美しいのに温度がなく、固まっているように感じました。
    良くできた食品サンプルのようでした。

    自分のなかの違和感に、ほんとうにこれでいいのかと問いかけられているように感じました。

    そのときから、じわじわと不安でどんよりとした気持ちがやってきました。
    手触りのある感情でした。
    まるで「起きたあと」のようでした。

    このまま「起きたら」こうなるのだ。

    私は、これは夢なのだと分かりました。

    このまま起きたらダメだ。

    夢をここで終わらせてはいけない。

    いまからでも、ここからでも、なにかを変えるんだ。

    私は立ち上がり、手を付けていないどんぶりをテーブルに残したまま、さっきの中華料理屋に行きました。

    みんなが中に居るのが見えました。

    「ほんとうは、こっちがいいんだ。」
    私のなかで声が響きました。

    この言葉が浮かんだとき、不安は残ったままだったけれど、どんよりした感覚は消えました。

    まだ続きはあるように思えたけれど、それをやろうとしたけれど、でも、いまそれをやるのは、どこか無理やりのように感じました。

    ゆっくりでも、丁寧に扱いたいと思いました。

    気がつくと、目が覚めていました。
    夢と同じ感覚に包まれていました。


    その夢を見たあと出勤したら、職場で揉めたんです。
    相手は職場で親父的な存在の人でした。

    私も含め、行く場のない流れ者のような人が多い職場の中で、親父さんはもともと会社を経営していたらしいけど、なにか事情があっていまの職場にいるらしいと聞いていました。

    そんな親父さんと、ある作業の進め方について、真っ向からぶつかったのです。

    最初はその作業について、互いの方法の正しさを主張していました。

    いっこうに溝は埋まりません。

    なぜその方法がいいのかをもう一度話そうとしたとき、「こうなったら嫌だから」そう考えていたのだと気づきました。

    親父さんは「あぁ、そうか。」と言いました。


    親父さんは「こうなったほうがいいから」

    私は「こうなったら嫌だから」

    という地点から、その作業の進め方を考えていたのです。

    「あぁ、そうだったのか。」と思いました。

    持ち場の交代の時間が来て、親父さんとの話はいったんそこで終わりました。

    数時間後、親父さんと顔を合わせたとき、いつもと変わらない雑談で笑い合っていました。


    その夜、また不思議な夢を見ました。

    スーパーカーに乗っていました。

    私は助手席で、運転席は無人でした。

    後部座席には、レーサーと、その横に一人が乗っていました。
    車は、レーサーが遠隔操作で運転しているようでした。

    車のスピードは、どんどん上がっていきます。

    凄腕のレーサーは、さほど道幅の広くない直角のカーブを、スピードを落とさず、スレスレのところで曲がっていきます。

    走っているのは、住宅地の中でした。

    レーサーの横で座っている人は、楽しそうでした。

    私は、このままだと、そのうちぶつかると思って怖くなりました。
    いくら凄腕レーサーでも、後部座席からだと前がよく見えないはずだからです。

    なんどもギリギリのところでカーブを曲がるうち、ぶつかることに備えなければならないと思いました。

    シートベルトの存在を思い出した私は、急いでベルトを着け、しっかりと座席に身体を固定させました。

    あとは、その時を待つだけだ。

    そう思ったとき、目覚ましのアラーム音が聞こえてきました。

    このまま起きてはいけない。

    いつかの夢の目覚めのときと、同じ感覚に襲われました。


    私は目を開けずに、枕の近くにある携帯に手を伸ばし、アラームを止めました。

    私はまだ車のなかにいました。

    助手席に身体を固定してはいけない。
    空の運転席に移るんだ。

    「こうなったら嫌だから」という、最悪の事態を避けるためのシートベルトではなく、ハンドルを握るんだ。

    私は運転席に移りました。

    でも、そこにハンドルはありませんでした。

    走るのは、住宅地ではないんじゃないか。

    なぜか、ハンドルを探すより、まずは道を変えたほうがいいような気がしました。

    私は、まっすぐ一直線に伸びていくアウトバーンに車を移しました。

    ゆとりのある道幅と、その左右には広大な景色が開けていました。

    「これは、かつてこのレーサーが見てきた景色だ。」

    目の前が、とても鮮やかに見えました。
    私は、レーサーと同じ道を走ろうとしているのだ。

    レーサーを助手席に乗せて、こんどは私がこの景色を見せてあげたかったのだ。

    心身のすべてがそう感じていました。
    私は泣いているような気がしました。

    半透明のハンドルが、運転席に浮かび上がってきました。

    だけど、色鮮やかな景色は、レンジファインダーのカメラのようにズレた二重になっていました。

    私のなかに、喜びと不安が同時に存在していました。

    「この景色を見せてあげたかったのだ。」

    これは、そこへと向かおうとする未来への希望なのか、できなかった過去への後悔なのか。

    またアラームの音がしました。

    まだここでは終われない。

    私はアラームを止めるために伸ばした手で、閉じたままの目をこすりました。

    指先は濡れていました。

    急に、放ったらかしにしている後部座席の人が気になり始めました。
    私はその人の存在を知っていながら、無視をし続けていました。

    その人は、ハンドルと同じ半透明になっていました。

    この人を消すのではなく、輪郭をハッキリさせることで、ハンドルもそうなるような気がしました。

    私はまた深く眠りに入りました。


    気づくと、畳敷きの大部屋にいました。

    夢の中のスポーツカーの半透明のハンドルと、後部座席の半透明の人には、なにか繋がりがあるんじゃないか。

    畳敷きの大部屋には、布団がたくさん並べて敷いてありました。
    部活かなにかの合宿で、私もそれに参加しているようでした。

    私はその部屋から出て、別の小部屋に入りました。レーサーがいました。

    レーサーの話がとても面白くて、私は聞き入ってしまいました。
    同じ部屋には、車の後部座席に座っていた半透明の人もいました。

    レーサーが、ドライブに連れていってくれると言いました。
    私は嬉しくなりました。半透明の人は聞こえていないようでした。

    半透明の人が気づく前に、準備をして出発してしまおうと思いました。

    誰にも見つからないように、大部屋は通らないようにしました。洗面所で2人組の女性に会いました。
    1人が私をキツく見つめて言いました。
    「隠れて行こうとしていたでしょう」
    その人の言う通りでした。

    もう1人が少し離れたところから、私を軽蔑の目で見ていました。
    「ごめんなさい。みんなで行こう。」
    私は崩れそうになりながら言いました。

    でも、なぜか気持ちが少し軽くなりました。
    問いただしてくれてよかったと思いました。

    真正面に立って、こちらを見ているその人の瞳は澄んでいて、キラキラとしていました。
    凍りついた静寂が、突き刺さるようでした。

    ドライブはみんなで行ってもらって、私なんていなかったことにしてしまいたい。
    ここから逃げ出して消えてしまいたい。

    でも、このなかに留まらないといけないのだ。
    そう思いました。
    ここを通過しなければならないのだと感じました。

    そこからも、夢の続きを見ようとしました。
    一瞬、車が見えたような気もしました。

    でも、誰が乗っているのかまでは見えませんでした。

    何度めかのアラームが鳴り、私は目覚めました。



    それからほんの数日後、私は電車に乗っていました。

    目的地は初めて行くところで、府中駅のすぐ近くにありました。

    まだまだ東京に不慣れな私は、乗り換え案内で乗る電車の行き先と途中の駅をなんども確認していました。

    間違いないと乗った電車は、まだ席が少し空いていました。

    少しずつ速度を上げていく電車の揺れを感じながらぼんやりしていると、ふと、先日の『訳アリ親父』について、文章を書こうと思い立ちました。

    文字を打ち込むうちに、私はそこへ没頭していきました。


    しばらくすると電車は速度を落とし、駅に止まりました。

    でも、いっこうにドアが開く気配はありませんでした。

    「調整のため戻ります。」
    アナウンスが入りました。

    オーバーランしたようでした。


    電車はゆっくりバックしました。
    ホームの乗客も車内の人達も、落ち着いて立っていました。

    ドアが開き、乗降が終わって、電車は動き出しました。 
    車内の席は埋まり、座席の前に立っている人達の影が目の端に入りました。

    「遅れましたことをお詫びします。」

    しばらくしてから、ひとことアナウンスがあって、その後は何事もなかったかのように電車は走りました。

    そこそこ乗客はいるのに、車内は静かでした。

    私は携帯の画面に集中していて、一連のできごとを街頭モニターで流れる映像のように感じていました。
    『訳アリ親父』はもうすぐ完成しそうでした。

    心地よかった揺れが止まりました。

    「調布です。」

    車掌の声が聞こえました。

    私はハッとして焦って立ち上がり、急いでドアに向かいました。
    電車を降りてホームに立った瞬間、胸騒ぎがしました。

    「調布でよかったんだっけ?」

    なにかしっくりこない感覚がありました。
    でも、正解の駅名が思い出せませんでした。
    確認しようと思いました。
    だけど、確認していたら電車は行ってしまいます。

    ドアの前で立ち止まる私を避けるようにして、並んでいた人達の波がうしろに吸い込まれていきます。

    間違えたかもしれない。
    「そうなったら嫌だ。」
    だから、確認しなくちゃ。

    この電車を諦めて、次の電車にしようかと思いました。

    いや、なにか違う。

    正解が分からないまま、私はとっさに電車に乗りました。

    車内に戻ると、立っている人がたくさんいました。
    立つ場所を探そうと目をやると、私の座っていた座席が、なぜかそのまま空いていました。

    ここでまた座ったら、間違えて降りて戻ってきたことが丸わかりだ。
    私は恥ずかしさを感じていました。

    心のなかで笑われるかもしれない。
    「そうなったら嫌だ。」
    そんな思いにとらわれそうでした。

    でも、完成目前の文章を、ここで止めたくありませんでした。

    恥ずかしくても、続きを書きたい。
    「そうしたい。」
    この思いを優先しよう。

    私は空いたままだった席にためらいなく座り、何事もなかったかのように、画面をひらき、文字を打ち込み始めました。

    これでぜんぶを文字に置き換えられた。
    そう感じたとき、速度を落とした電車が次の駅に止まりました。

    そこは府中駅でした。


    ふと、「調布」と「府中」って、音の響きが似ているな。
    他にも間違える人もいるだろうな。
    そんなことに興味を持って、地名について調べてみたんです。

    両方とも、地名の由来は奈良時代に遡ります。
    「調布」は、奈良時代の税の租庸調の「調(特産物)として納める布」を作っていた土地。
    「府中」は、地方を治める政府があった場所。

    「調布(ちょうふ)」は国(地方)に税を「納める」
    「府中(ふちゅう)」は国(地方)を「治める」

    音と意味合いが、それぞれひっくり返っているのです。
    面白いなと思いました。


    ふと、ここ最近の夜に見た夢のことが浮かんできました。

    調布で降りそうになった。
    けれど、やっぱり違うと車内に戻った。
    恥ずかしいけど、こうしたいと思うことを選択し、笑われるかもしれないけど人混みの中に入る。
    そして、府中駅で降りた。

    誰かに委ねるのではなく自分でハンドルを握ろうとすること。
    恥を晒してもみんなでいること。
    不思議なくらいに夢と重なったのです。

    もしかしたら、いまこの現実も夢なのか?
    そんなことを思い、混乱しそうになりながら、目的の店に向かいました。

    月に一度、いろんな店に行き、白髪用のヘアカラー剤を売るのです。

    店に入ると、ガラガラで、実に暇な日でした。

    私は商品棚を見ていたお客さんに声をかけました。

    そのお客さんは、話に乗ってきてくれました。
    どのメーカーのものを試しても、すぐに色落ちするらしく、私の担当しているメーカーの商品も使ってみたけどダメだったそうです。

    若白髪があった頃からずっと悩んでいるという話を聞いていたら、ほんとうに大変そうでした。

    自社製品に関係なく、なにかいいものがあればと思い、私は一緒にいろんな商品の箱の裏を見て探そうとしました。
    お客さんは、なかば諦めているけれど、それを笑いに変える明るい人で、話していてとても面白かったのです。

    そのうち、違う売り場を見ていた大学生くらいの息子さんが来ました。

    お客さんの毛染めを手伝ったり、お客さんには合わなかったヘアカラーの残りを、白髪でもない彼が使ったりしているそうで、
    「でも、これがなぜか僕には染まるんですよね。」
    と笑って話してくれました。

    「娘が韓国の人と結婚して向こうに住んでるから、韓国コスメも試したけど、やっぱりダメ。」
    という話をキッカケに、娘さんの話になりました。

    韓国の結婚式や、親子や夫婦の役割なんかが日本と全然ちがって、韓流ドラマはリアリティがあったんだと驚きました。

    話を聞いていると、ダンスの技術を磨いて韓国に渡り、向こうの家族からも大事にされている娘さんを、お客さんはとても誇りに思っているようでした。

    韓流ドラマさながらの娘さん夫婦の話が面白すぎて、私は販売を忘れ、息子さんを巻き込んでの韓国話に夢中になっていました。

    しばらくして話が落ち着いてきたころ、静かだった売場にお客さんが増え、騒がしくなってきました。

    私とずっと雑談していたお客さんが急に、
    「あら?この商品は見たことがないわ。」
    ある商品を指さしながら、そうつぶやきました。
    それは新商品でした。

    でも、これまでの話を聞いてる限り、このお客さんにはきっと効果は薄いかもしれない。
    私は、とくに勧めるつもりもなく、簡単に新商品の特徴を伝えました。

    「それで、これはどんなふうに使うの?」
    お客さんは、さらに詳しく聞いてきました。

    私が商品のことを話せるように、わざわざ質問をしてくれているのだと分かりました。

    その気持ちをうれしく感じました。

    せっかく用意してくれた機会なのだから、商品の紹介だけでもさせてもらおう。
    私は話し始めました。

    新商品の説明が、終わるか終わらないかのタイミングでした。

    「試してみようかしら。」
    お客さんは言いました。

    私はびっくりしました。
    そしてなぜか、販売のために一押しをすることをためらってしまいました。

    会話がふっと止まった、そのときです。

    「やってみたら?ダメだったら俺が使うよ。」息子さんが、笑って言いました。

    息子さんもたぶん、この商品はお客さんには効果がないかもしれないと思っているはずなのです。

    でも、二人はなにかを買ってくれようとしている。
    そしてそれは、お客さんと息子さんなりの表現なのだ。
    もしかしたら、私がその思いを受け取ることが、お客さんの望みなのかもしれない。

    私は、へアカラーを買い物カゴに入れて、お客さんに渡しました。
    お客さんは、横に置いてあった別の新商品も、ついでに使ってみるわと言って、自分でカゴに入れました。

    なぜか目が潤んできました。

    お客さんがこれまで使ってきたものは、ダメだったかもしれない。
    でも、今回は違うかもしれない。
    そうあってほしい。

    私は祈りました。

    「来月に帰省するお嬢さんに、韓国話をちょくせつ聞いてみたいです。」
    私はお礼を言ったあと、見送りの際にお客さんにそう伝えました。

    「あなたは月イチしか来ないから、タイミングが合うか分からないけど、いちど覗きにくるわね。」
    いたずらっぽい笑顔で、お客さんは息子さんと一緒に帰っていきました。

    交換されたのは、かたちのない、見えないなにか。
    そして、なにかを受け取ったのは私のほうだった。

    それが真実のように思えました。



    そのお客さんが帰ったあとも、私のなかには暖かいものがずっと残っていました。

    いい気分のまま、府中からの帰りの電車に乗り込みました。 

    電車の一番前の車両、向かい側の一番前の椅子。
    一人の男子中学生が座っていました。

    隣の席の人から、身体を切り離すように、男子中学生は前のめりに座り、一定の速いリズムでカシャカシャとルービックキューブを回していました。

    ペン回しみたいな手遊びだと思っていました。

    彼の周囲の空気だけが違っていました。
    透明なシェルターの中に、彼一人だけがいるように思えました。

    そこは、彼とルービックキューブだけが存在する世界でした。

    あるとき、リズムが止まりました。
    彼の手のなかに、真っ白な一面が見えました。

    彼は素早くすべての面をチラリと見て、またすぐにリズムに戻りました。

    ちゃんとルービックキューブをやっているのだと分かりました。

    次の瞬間、白は見事なまでにバラバラになりました。
    ルービックキューブは、最初のデタラメと全く同じように見えました。

    またリズムが止まりました。

    白の面の横に、青の面がありました。
    彼は素早く全体を見て、即座に同じリズムが始まりました。

    振り出しに戻ったかのように、白と青は無残にも散り散りになっていきました。

    次に止まったときには、白と青と緑の面が見えました。
    そして、白と青と緑は、またすぐに完全に解体されました。

    その次に静かになったとき、こちらから見える面はすべて揃っていました。
    でも、向こう側がどうなっているのかはもう見えませんでした。

    そしてまた、いろんな色がごちゃ混ぜになっていきました。

    駅に近づき、電車が速度を落としました。
    彼は相変わらずリズムを崩しません。

    電車は停車しました。
    ゆっくりとドアが開いていきました。 

    とつぜん、打上げ花火のフィナーレみたいに、彼の奏でるリズムが速くなりました。

    彼は半分腰を浮かせながら、手元の一点のみに全てを賭けるように、もうこれ以上は無理という猛烈な速さで回し続けました。

    私は息をのみました。
    彼が完全に立ち上がる寸前でした。

    カシャッ

    音は止まりました。

    その直後、彼はルービックキューブのことなんて全く忘れたかのように、電車のドアに視線を移し、なにごともなかったかのように歩き始めました。


    凄いものを見た気がしました。
    彼が手にしたルービックキューブが見えました。
    こちらから見えた面は、すべて揃っていました。

    完璧に整った立方体の塊からは、触れることが許されないような、冷たい美しさを感じました。
    ふと、夢で見た、ツヤツヤとした無機質などんぶりを思い出しました。

    私は、降りていく彼の背中を見送りました。なぜかひどく孤独に見えました。

    そこは調布駅でした。


    男子中学生と入れ替わるように、一人のサラリーマンが乗ってきました。
    きちんとした印象で、清潔感のあるスーツの着こなしでした。

    手には大事そうにお弁当の入った袋を持っていました。

    私の横に座り、膝の上にしっかりとお弁当を乗せて、両手で包むように添えました。
    きちんとした折りに入った、高級そうなお弁当でした。

    動き出した電車のリズムに揺られて、サラリーマンは眠り始めました。

    ふと肩に重さを感じました。
    彼がもたれ掛かってきているのだと分かりました。

    なぜか不快な気はしませんでした。

    疲れてるのかな、帰ってからお弁当を食べるのを楽しみにしてるんだろうな。
    そんなことを思うと、なんだか微笑ましくなって、ちょっとくらいならまぁいいか、そのままにしておいてあげよう。
    そんなふうに自然に思えていました。

    うたたねをしている最中も、お弁当にはしっかりと手が添えられていました。

    新宿に着いて電車が停車すると、彼はゆっくり立ち上がり、ドアに向かいました。

    袋が傾かないように、やっぱり大事そうにお弁当を持って降りていきました。


    どんなお弁当なんだろう。

    私はその袋を見ながら、美味しそうに頬張っているサラリーマンの姿を想像していました。

     
     
    1975年10月4日生まれ。 カタリスト。キャプションセラピーは、自身の創作や人生のなかに散りばめられていた伏線に気づかされる体験です。 ※事例はご本人の了承を得た上で、個人が特定されない形で掲載しています。 卵かけごはんには、醤油もなにも入れないのが一番おいしいと思っている。

    あなたへのおすすめ