
文字の起源を3万5000年さかのぼる——石器時代の刻み目が持つ「情報密度」の謎

2025年、人類の知的能力に関わる重大な発見が学術誌PNASに掲載されました。ドイツ・ザールラント大学の言語学者クリスチャン・ベンツ教授と、ベルリン国立博物館の考古学者エヴァ・ドゥトキービッチ博士が率いる研究チームが、旧石器時代の遺物に刻まれた記号列を計算科学の手法で解析し、驚くべき結論を導き出したのです。
舞台はドイツ南西部のシュヴァーベン・アルプス、通称「シュヴァーベン・ジュラ」の洞窟群。ここで発掘された遺物のなかに、今回の研究の中心的な存在があります。1979年の発掘でガイセンクレスターレ洞窟から見つかった「アドラント(拝礼者)」と呼ばれるマンモス象牙の小板です。
この小板は縦38ミリ、横14ミリという手のひらに収まる大きさで、表面には両腕を広げた人物像が浮き彫りにされています。そして裏面には、規則的に並んだ88個の刻み目が整然と刻まれていました。年代測定の結果、製作時期は約4万年前、すなわちホモ・サピエンスがアフリカを出てヨーロッパへ拡散し、ネアンデルタール人と出会っていた時代にあたります。

この遺物だけでなく、同じ地域で出土したマンモス像には十字と点の列が、ライオン人間の彫刻には規則的な刻み目が施されていました。こうした記号は長らく「装飾ではないか」「何らかの数え方ではないか」と解釈されるにとどまり、体系的な分析は進んでいませんでした。
ベンツ教授らはここに、定量言語学と機械学習の手法を持ち込みます。260点の遺物に刻まれた3000を超える記号を数値化し、統計的な特性を算出しました。注目したのは「エントロピー」、つまり情報密度を測る指標です。

結果は研究者たちの予想を覆すものでした。旧石器時代の記号列のエントロピー値が、メソポタミアで紀元前3000年頃に登場した初期の楔形文字(プロト楔形文字)のそれとほぼ同等だったのです。両者の間には4万年近い時間差があるにもかかわらず、記号の繰り返しパターンや予測可能性という観点では驚くほどよく似た特性を持っていました。


プロト楔形文字もまた、記号が繰り返し使われる傾向が強く、現代の文字のように音声言語を忠実に表現する高密度な情報体系ではありませんでした。ベンツ教授はこの点について、現代的な文字と石器時代の記号は異なる系統にあると説明しています。現代文字は約5000年前に比較的突然に出現したもので、それ以前の記号体系とは統計的な特性が大きく異なるというのです。
言い換えれば、私たちが「文明の産物」と考えがちな情報記録の能力は、実はホモ・サピエンスがヨーロッパに渡ってきた直後の段階からすでに芽生えていたことになります。ドゥトキービッチ博士は「遺物の多くが手のひらに収まるサイズで、持ち歩かれていた形跡がある」と指摘しています。プロト楔形文字の粘土板もまた同様に手で持てる大きさでした。この物理的な類似もまた、偶然ではないかもしれません。

研究チームはヨーロッパ中の博物館や発掘現場を巡りながら記号をデータベース化し、その作業の様子をYouTubeチャンネル「Stone Age Signs」で公開しています。「まだ表面を引っかいたに過ぎない」というドゥトキービッチ博士の言葉は、この分野の研究の奥深さを示しています。
歴史の教科書では「文字の発明=文明の始まり」と教わることが多いのですが、今回の研究はその前提を静かに揺さぶります。記号を使って情報を伝えようとする衝動は、教科書が描くよりずっと古い時代から人間の中に宿っていた——そのことを、4万年前の小さな象牙の板が今に語りかけているのです。


参考記事
〇Signs on Stone Age objects: Precursor to written language dates back 40,000 years(2026年2月23日)
〇Stone Age symbols may push back the earliest form of writing(2025年)
〇Study pushes back the date of the appearance of the first forms of writing by 35,000 years(2025年)
〇Adorant from the Geißenklösterle cave(Wikipedia)
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