「このままでいいのだろうか」眠れぬ夜に出会った船頭|舟の語り#1🐯🛶
毎日、仕事や家事に追われている。
やるべきことは終わらないのに、自分のための時間だけが減っていく。
「このままでいいのだろうか。」
そんな思いを抱えた男が、眠れない夜に見つけたのは、いつもの道にはないはずの鳥居でした。
こんにちは、久居です。
ここから、男と船頭の舟旅が始まります。
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日中は仕事。
夕方には家に帰り、家事と育児。
子どもを寝かしつけ、今日の片付けをして、明日の準備をする。
すべてを終える頃には、時計の針は日付をまたごうとしていた。
明日のために眠らなければならない。
そう思って布団に入っても、なぜか心だけが休まらない。
男は暗い天井を見つめながら、小さく息を吐いた。
「一日って、あっという間だな。」
やるべきことは毎日ある。
けれど、自分がやりたいことはいつも後回しだった。
「こんな毎日を繰り返して……歳をとっていくのかな。」
目を閉じても、一度浮かんだ言葉は頭から離れない。
――このままでいいのだろうか。
男は静かに布団から出た。
家族を起こさないよう、物音を立てずに玄関へ向かう。
「少し、夜風にでも当たるか。」
外へ出ると、夜中だというのに空気は生ぬるい。
湿気を含んだ風が肌にまとわりつく。
男はあてもなく歩いた。
見慣れた町並み。
見慣れた街灯。
いつもと変わらない夜道――のはずだった。
「……あれ?」
男は足を止めた。
道の先に、古びた鳥居が立っている。
「こんなところに神社なんてあったか?」
この辺りは何度も歩いている。
見落とすはずがない。
鳥居の向こうは暗く、奥の様子は見えなかった。
普段なら入らない。
ましてや、こんな時間だ。
それでもなぜか、その夜だけは足を引き返す気になれなかった。
男はゆっくりと鳥居をくぐる。
その瞬間だった。
虫の声が消えた。
遠くを走る車の音も聞こえない。
「……え?」
足元から白い霧が立ち上り、瞬く間に辺りを包んでいく。
視界が揺れた。
男はその場に膝をつき――意識を失った。
◇
――ちゃぷん。
水をかく音がする。
――ちゃぷん。
一定の間隔で繰り返される、静かな音。
男はゆっくりと目を開けた。
「……ここは?」
身体を起こすと、小さな舟の上に寝かされていた。
辺りは白い霧に包まれ、水面は鏡のように静かだった。
そして、舟の先に誰かがいる。
藍色の着物。
深くかぶった三度笠。
男に背を向け、静かに櫂を動かしている。
その腕には、橙色と黒の縞模様が見えた。
「……虎?」
すると、その人物は櫂を動かしたまま口を開いた。
「目が覚めたようだな。」
男は慌てて辺りを見回した。
「ここはどこですか?」
船頭は答えず、ただ静かに櫂を動かした。
「私は家の近くを歩いていて……鳥居をくぐったら霧が出て、それから……。」
男が言葉を探していると、船頭が振り返った。
三度笠の下から覗いたのは、虎の顔だった。
鋭い目。
けれど、不思議と恐ろしさは感じない。
船頭はわずかに口元を緩めた。
「ここは、お前の心が流れ着いた場所だ。」
「心……?」
「身体は毎日、家と職場を行き来している。」
船頭は再び前を向く。
――ちゃぷん。
「だが、心はどうだ。」
男は答えられなかった。
「随分と前から、行き先を見失っているように見えるがな。」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
「……別に、迷ってなんか。」
言いかけて、やめた。
迷っていないのなら、なぜあんなことを考えていたのだろう。
――このままでいいのだろうか。
舟の上に沈黙が流れる。
聞こえるのは、櫂が水をかく音だけだった。
しばらくして船頭が尋ねた。
「一つ、聞いてもいいか。」
「……はい。」
「お前は、どこへ向かっている?」
「え?」
「毎日、随分と懸命に漕いでいるようだ。」
そのとおりだ。
仕事をして。
家事をして。
子どもの世話をして。
明日の準備をして。
毎日、必死に生きている。
「なら、その舟はどこへ向かっている。」
男は口を開いた。
けれど、言葉が出てこない。
仕事。
家族。
自分の時間。
やりたいこと。
頭の中にはいくつもの言葉が浮かぶ。
それなのに、どれが答えなのか分からなかった。
「……分かりません。」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
船頭は小さく頷く。
「そうか。」
「それだけですか?」
男は思わず身を乗り出した。
「じゃあ、私はどうすればいいんですか。」
「仕事も家のこともある。自分の時間だって欲しい。でも、どこへ向かいたいのかも分からない。」
「だから……どうすればいいのか教えてください。」
船頭は男を見た。
そして、少し笑った。
「それを俺に聞くのか。」
「え?」
「お前の舟だろう。」
男は言葉を失った。
船頭は櫂を水から上げた。
雫が落ち、水面に小さな波紋が広がる。
「俺が代わりに航路を決めれば、お前は俺の決めた場所へ着くだけだ。」
男は黙った。
「お前の人生なら、最後に行き先を決めるのはお前だ。」
「じゃあ……あなたは何をしてくれるんですか。」
船頭は再び櫂を水へ下ろした。
「一緒に考えることならできる。」
「一緒に……。」
「ああ。」
舟がゆっくりと向きを変える。
「漕ぐことに夢中になると、行き先を見るのを忘れる。」
「時には櫂を止めて、自分に聞いてみろ。」
船頭は男を見る。
「私は、どこへ向かいたいのか――とな。」
霧の向こうに、ぼんやりと鳥居が見えてきた。
船頭は舟を岸へ寄せる。
「もう終わりですか?」
「今日はな。」
「でも、私はまだ何も分かっていません。」
船頭は笑った。
「それでいい。」
「え?」
「分からないと気づいたのなら、少なくとも昨日までとは違う。」
男はゆっくりと舟を降りた。
鳥居へ向かって数歩進み、振り返る。
「また……会えますか。」
船頭は三度笠を少し持ち上げた。
「ああ。」
「でも、ここへ来る方法が分かりません。」
「探す必要はない。」
船頭は櫂を握る。
「心が迷って、それでも自分と向き合おうとした時――」
舟がゆっくりと岸を離れていく。
「この舟は、またお前を迎えに行く。」
やがて船頭も小舟も、白い霧の中へ消えていった。
◇
鳥居をくぐる。
気がつくと、男は見慣れた夜道に立っていた。
遠くから虫の声が聞こえる。
湿った夜風も変わらない。
夢だったのだろうか。
仕事が減ったわけでもない。
明日になれば、またやるべきことが待っている。
何か答えが見つかったわけでもなかった。
それでも。
不思議と胸の重さだけは、少し軽くなっていた。
男は夜空を見上げる。
「……もう一度、自分に聞いてみるか。」
私は、どこへ向かいたいのか。
まだ答えは出ない。
それでも男は、その問いを忘れないよう胸に置いた。
そして、ゆっくりと家路についた。
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この物語で描いた「立ち止まって、自分の航路を考えること」。
「自分がどこへ向かいたいのか分からない」
そんな時に、日常の中でどう立ち止まり、自分と向き合えばいいのか。
考え方と実践方法をもう少し具体的に書いています。↓
「人生で一番危険なのは、立ち止まれないこと」船頭の道しるべ#1
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