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『フーテン漁師と、朝の迷い猫』

    朝の潮風がまだ残る台所で、焼きたてのサザエがコツンと音を立てた。
    ウメ昆布茶の湯気が、ゆらゆらと天井を撫でる。冷えた床に座り込んで、私は、ただ静かにその香りを吸っていた。

    黒電話が鳴った。

    もう10年は鳴ったことのないその黒電話が、突然目覚めたように、ブゥーンと低く唸った。
    少し躊躇ってから、受話器を取る。

    「……はい、フーテン漁師探偵事務所です」

    思わず出たのは、名乗ったこともない肩書きだった。

    「猫を……探して欲しい?」

    相手は無言のまま、微かにノイズだけを残して電話は切れた。

    昼にはクライアントが来るという予感がなぜかあった。時間はある。朝の獲物でも焼いておくかと、台所に戻った。


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    サザエ
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    焼き魚(たかべ)

    サザエの殻が熱を帯びて、パチパチと弾ける。焼き魚の香りが部屋を満たしたときだった――

    視線を感じて、振り返る。
    窓の向こうに、猫がいた。焦げた魚の香りに誘われたように、じっとこちらを見ている。

    ほんの数秒目を離した隙に、その猫は焼き魚をくわえ、玄関から飛び出していった。

    「こらぁあああ!」

    私は思わず裸足のまま、魚のあとを追った。浜辺に出ると、猫の足跡が砂にくっきりと続いていた。

    そのとき、近くの防波堤に座っていた初老の女性が言った。

    「あら、その子……私が探してた猫ですわ」

    私は立ち止まり、振り返る。

    「えっ……?」

    猫は立ち止まり、こちらを一瞥して、にゃあと小さく鳴いた。

    その瞬間――

    目が覚めた。

    あれは、夢だったのか。
    焼け焦げたサザエの香りだけが、まだ鼻先に残っていた。

    でも――

    玄関の前に、小さな魚の骨が、ひとつだけ落ちていた。


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    文藝春秋SDGsエッセイ大賞2025グランプリ/『文藝春秋』本誌掲載。 サンクチュアリ出版「第3期 正直レビュアー」選出。 市場調査、漁師、船乗りを経て、人生の分岐点を書くエッセイスト。 10月、武蔵大学社会学部ゲスト登壇。メディア取材対応実績あり。

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