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『命を捌けず、ただ食べていた僕 ― 父の蒲焼きと、継がれない包丁』

    父が包丁を入れる音を、僕は黙って聞いていた。

    頭を落としても、うなぎは動く。

    捌く父の手は、迷わない。

    僕には、そこから先ができない。

    なぜ僕は、捌けないのだろう。

    1、捌けないまま、食卓に座っている



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    「……今日のは太いな」父がぽつりとつぶやいた声に、僕は小さくうなずいた。

    父は、黙ってうなぎを捌く。
    ぬめりを取り、頭を落とし、骨をすべて避けながら、包丁を滑らせていく。
    その手元を見つめるたび、私は「漁の続きを見ている」ような気がしていた。


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    でも自分では、まだうなぎを捌けない。
    命を前にして、躊躇してしまう。
    それでも、父が捌いてくれた蒲焼きを、今日も美味しく食べている。

    2、命は焼かれて、縮んでいく


    天然うなぎは、焼くと大きく縮む。
    火を通すたびに3割ほど小さくなるその身は、まるで命の抵抗のようにも見える。

    天然うなぎは力強く、頭を落としても動くほど生命力がある。
    包丁を入れるには、それなりの覚悟がいる。
    焼くだけでは硬すぎて食べられないから、蒸してから焼く。
    手間も、想いも、かかる。

    3、筒を仕掛けるたび、祈ってしまう


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    天然うなぎをとるには、筒漁という方法がある。
    エサなしで、うなぎは涼みに筒に入る。
    でも、筒がきれいすぎると警戒されて入ってこない。

    漁に出るたび、「入っててくれ」と祈っていた。

    獲るために仕掛けた筒なのに、僕は祈っていた。


    4、見ているだけだった


    あるとき、父がうなぎを捌く横で、僕はその手順を頭の中で追っていた。

    ぬめりを取る。頭を落とす。骨を避ける。

    自分では一度もやったことがない。

    それなのに、次に父の手がどこへ動くのか、僕にはわかった。

    いつから覚えていたのだろう。

    「継ぐ」とは何だろう。

    僕の手は、まだ動かなかった。


    5、母のタレ



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    うちの蒲焼きには、もうひとつ欠かせないものがある。

    母が作るタレだ。

    うなぎの頭を煮出して、みりんと醤油を合わせる。焼けたうなぎに、そのタレを塗る。

    市販のものとは違う、昔から食べてきた味だった。

    父がうなぎを捌く。母がタレを塗る。

    僕はそれを食べる。

    いつからそうだったのか、もう覚えていない。

    母に作り方を習ったことはない。

    それでも、鍋から立つ匂いは覚えている。


    6、包丁を渡された


    一度だけ、父が手を止めたことがある。

    何も言わず、包丁をこちらへ差し出す仕草をした。

    僕は受け取らなかった。

    父も何も言わなかった。

    そのまま父は、またうなぎを捌きはじめた。

    ぬめりを取る。頭を落とす。骨を避ける。

    次に父の手がどこへ動くのか、僕にはわかっていた。

    焼けたうなぎには、母がタレを塗った。

    僕は食べた。

    昔から、そうだった。

    食べ終えたあと、父の包丁はいつもの場所に戻っていた。

    僕はまだ、その包丁を握ったことがない。















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    文藝春秋SDGsエッセイ大賞2025グランプリ/『文藝春秋』本誌掲載。 サンクチュアリ出版「第3期 正直レビュアー」選出。 市場調査、漁師、船乗りを経て、人生の分岐点を書くエッセイスト。 10月、武蔵大学社会学部ゲスト登壇。メディア取材対応実績あり。

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