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月夜が2人を照らす夜

    ※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません

    この世界は理不尽で溢れている。今日も今日とて憂鬱だ。
    重い瞼と体を無理やり起こし、常温水で顔を洗いトイレを済ます。
    普段通りにリビングへ向かうと、朝食と昼用の弁当が用意されている。
    「お父さん。いつもありがとう」
    既に仕事へ出かけた父へLINEで感謝を伝え、ありがたくご飯をいただく。
    「うん、今日も美味しい」食事を終え、食器をシンクへ持っていき、歯磨きをする。いつもの朝ルーティーン。
    嫌々と制服に着替え、父作の弁当を持ち家を出る。朝日が気持ちいい、なんて悠長なことは言ってられない。登校中はため息の連続だ。
    目的地、東京都立〇〇中学校。ここに憂鬱な原因は存在した。校門を過ぎると、案の定声をかけられる。憂鬱の原因に。「おう千鶴ー、おはよう」
    元気に挨拶をされるのは嫌な気はしないが、首を腕でホールドされ、喉を締め付けられる。
    「く、苦しい。やめて……」後ろでケラケラ笑っている取り巻き女2人。こいつらはいつもなんなんだろう。腕を数回タップすると息ができるようになり、安堵する。
    「いつも苦しいからやめてよ」
    首謀者の男はケラケラと笑い、私の首に腕を回したまま下駄箱の方へ歩き出す。
    上履きに履き替えようと手を伸ばした時、中にキラッと光る異物が見えた。
    「画鋲……」背後からケラケラと2人の女の笑い声。
    「千鶴ー、いじめられてんのー?」しらばっくれ声で私を煽ってくる。
    「中野、やったのあんたでしょ。」
    「はー?なんのこと?俺のせいにすんなよ笑」
    私はため息をつき、上履きを逆さまにして画鋲を地面に落とすと、そのまま履き替え教室に向かう。
    自分の席に腰を下ろし、1時間目の授業の準備をしていると「バンッ」と机を叩かれた。
    「千鶴、もっと面白い反応できないの?」
    「中野、お願いだから私にかまわないで」
    「はぁ?俺ら友達じゃん。そんなこと言うんだ?最低だな」
    …どの口が最低なんてほざいているのだろうか。嫌がらせをしてくる相手と友達?何を言ってんだこいつは。外見だけなら長身イケメンなのに、中身が残念すぎる。
    「中野、あなたと友達になった覚えはない」
    イケメン顔が引きつった時、担任がガラッとドアを開け教室へ入ってきた。「お前ら席つけー。予鈴鳴らないからって甘えんなー」
    中野は大人しく舌打ちをしつつ席へ戻った。
    「はぁ。」と小さなため息。正直助かった……。
    ナイスタイミング先生。
    担任は早々に朝のHRを終わらせ職員室へ戻る。
    「千鶴、大丈夫か?」
    声をかけてきたのは隣の席で幼馴染の小鳥遊優希。「大丈夫だよ。あんなやつに時間を取られるのが嫌なだけ」
    「ふーん。なんかあったら頼っていいぞ」優希は微笑みながらその名の通り優しさを私に向けてくる。「ありがとう優希」
    優希へ感謝を伝えると背後から中野の声が響いてきた。
    「おい千鶴ー。なーに男子とイチャついてんだよ」「…………はぁ。」
    中野の茶々にため息で返すと、首元に衝撃が走る。朝と同じホールド。
    「なんか言えよ千鶴ー」
    「やめて。痛い」
    「はぁ?」と中野が口を開きかけたところで横槍が入った。
    「おい中野、嫌がってんのに続けるのか?」
    「なんだ?小鳥遊。嫉妬でもしてんの?」
    「嫌がってんだからやめろって言ってんだよ」
    「部外者は黙ってろよ。な?千鶴」
    「……やめて」目を合わせず冷たく言い放つと、中野は石像のように固まり私の体から離れる。
    「そうかよ。チッ。つまんな」と舌打ちをし、優希と私を睨みつけ、不満げに去っていった。
    はぁ。憂鬱だ。なんで中野は私にかまう?めんどくさい。
    「おい千鶴、大丈夫か?」
    「割って入ってくれてありがとうね。助かったよ」
    「それはいいけどさ、あいつ、なんでいつも千鶴にちょっかいかけるんだ?」
    「そんなの、私が知りたいよ」
    ドアがガラッと開き、「1限始めるぞー」と担任が入ってくる。
    中野とは違う高校に行こう。あと1年の辛抱だ。耐えよう。そう決心し、私は大人しく一限を受けた。

    ────担任の声が教室に響く中、勢いよくガラッとドアを開けたのは教頭だった。クラス中、担任含め教頭に視線が集まる。
    「安西先生、星野千鶴さん、至急のお話があります。今すぐ校長室へ同行してください」
    肩で息をしながら、教頭が担任と私を名指しする。嫌な予感がし、寒気が全身を支配した。
    優希の心配そうな視線を感じながら、数秒の沈黙。動けずにいると担任が口を開いた。
    「お前ら自習して待ってろー。星野、とりあえず行こうか」
    小さく頷き、席を立つとあの声が聞こえた。
    「千鶴ー何やらかしたんだよー」背を椅子に預け、手を頭の後ろで組んでいる横暴とした体勢の中野をキッと睨みつけ、教頭と担任の後に続き教室を出た。ドアを閉める際に舌打ちが聞こえたが、それどころではない。
    校長に軽い会釈をし、校長室の来客用の大きいソファに教頭、担任が並ぶ対面に座った。
    「星野千鶴さん」と教頭に名前を呼ばれ、寒気が鳥肌を生み、唾を飲み込み教頭からの報告を待ち構える。
    「お父様が倒れ、入院することになりました」「……………。」
    嫌な予感はした。父は朝早くに出勤するため朝は顔を合わせないが、夜に顔を見ると日に日に元気がなくなっていってるような気はしていた。
    「安西先生、今すぐ星野さんと病院へ向かってください」
    教頭は担任に告げると、校長も力強く頷いた。

    ────「お父さん…」
    病室に横たわっている父に声をかけるが、寝ているようで返事はない。
    父の横に座り、俯き、手を握り、涙をこらえる。担任の手が肩に置かれ、その手が妙に暖かく感じた。
    何分たっただろうか。担当医が入室し声をかけてくる。
    「星野さんの娘さんですね。そちらは…」
    「担任の安西と申します」
    「そうでしたか。まずは身内の方へ詳しい説明をしますので、こちらでお待ちください」
    担任は頷き、担当医は私だけを診察室へ案内した。
    「星野さん、心して聞いてください」
    私は単なる過労だと思う。家事も手伝うから、すぐに退院して元気になって欲しい。そう願い、ゆっくり頷き担当医の報告を待つ。…心臓が痛い。
    「お父様は過労により倒れ、運び込まれました」
    これは予想通り。過労ならすぐに元気になるはずだと、ホッと息を吐く。
    「しかし、」と続き、また一気に寒気が体を支配し、全身が硬直した。
    「念の為精密検査をしたところ…、かなり進行した癌が見つかりました」顔の血の気がスーッと引いていくのが自分でもわかる。
    「癌…?」か細い声で確認をすると、担当医はゆっくり頷く。
    「癌って、最悪死に至りますよね…?手術すれば…また元気になりますよね?」
    担当医は目を伏せ、目を瞑り、やがて口を開いた。「今回見つかった癌はかなり進行していて、さらに複数箇所への転移が確認できます。正直、生存の可能性は…限りなく低いです。」
    私はその言葉に絶望した。
    なんで?どうして父が癌で死なないといけないの?私のために毎日頑張ってくれてた父がなんでこんな仕打ち…。私はどうしたらいいの…。お父さん…。
    頭の中で父への思考がぐるぐる回る中、無意識のうちに目から涙が零れていた。こんな現実、受け入れられないよ…。元気になってよ、お父さん…。
    「付き添いの方へもお伝えしますか?」
    担当医は精一杯優しそうな声をかけてくれる。
    私はゆっくり頷くと、担当医は立ち上がり、担任を呼びに病室へ歩いていった。
    お父さん…、あとどれ位一緒にいられるの?
    私はこれからどうしたらいいの…?
    1人泣きじゃくっていると、診察室のドアがノックされた。私は返事ができなかったが、数秒後、ガラッと開き担任と担当医が入室する。「星野、大丈夫か?……先生、星野の父親に何があったんです?」担当医は私にした説明を担任にもゆっくりと説明した。チラッと担任を見ると、目頭を押え涙を堪えているように見えた。私の家族のために泣いてくれるんだね、少し救われたよ先生。ありがとう。
    私はグッと嗚咽を堪え、担当医にたずねる。
    「先生、父の余命はあとどのくらいなんですか」「私の見解ですと、数ヶ月、もって半年といったところです」
    「手術をしてもですか?」
    「正直、手術は難しいです。体力と臓器がもたないでしょう…」
    わたしはギュッと拳を握りこみ、うつむいた。沈黙が流れる中、口を開いたのは担任だった。「星野、今日は帰ってゆっくり休め。送ってく」「……父の顔を、もう一度…」私はか細い声で言い放つ。
    担任は頷き、病室へ連れてってくれた。顔色悪く眠っている父を見つめ、満足した私は担任と病院を後にした。
    学校へ向かう車内、担任が何か話しかけてくるが耳に入らない。放心状態の私は窓の外の景色を眺めたままボーッと到着を待った。
    学校付近、見覚えのある景色に意識が戻る。
    「星野、荷物を取ってくる。家まで送るからこのまま車で待ってろ」
    私は頷き、担任の帰りをボーッと待った。


    担任に送ってもらい帰宅した私は、制服のままベッドに横になる。

    お父さん…お父さん…。

    私は目を瞑り、父との思い出をゆっくり思い出していると、いつの間にか眠りについていた。


    昼過ぎに寝落ちたせいで夜に目が覚めてしまう。

    時刻は0時を過ぎた頃。私は寝る前の出来事が夢であってくれと念じたが、現実を受け入れなければならないと理性が叫んだ。

    涙を拭い、制服から部屋着に着替え、鏡に映る腫れた目を水で洗い流す。はぁ、とため息をつき、頭を冷やそうと散歩のため外へ出た。

    補導されてもいい、トラブルに巻き込まれてもいい、今の私は無敵だ。なぜかそんな全能感がある。

    静かな近所をダラダラ散歩しながら、ゆっくりと、1つずつ感情を整理していった。


    ────何分経っただろうか。ふと整理に集中していたことに気づいた。

    ……帰ってもう一眠りしよう。

    来た道を引き返し、家に向かう道中、涙がこぼれる。 下唇をグッと噛み、両の手で握りこぶしをつくった。

    ……お父さん…死んじゃやだよ…。

    寂しさと同時に、悔しさが込み上げてくる。

    私の為に毎日頑張ってくれたお父さんが、病気であっさり連れていかれるなんて許せないよ。理不尽すぎる。なんでお父さんが……。

    人生ってなんなの?生きる意味ってなんなの?誰でもいいから教えてよ!

    そんな宛先もない感情を必死に押し殺しながら家に着いた私は、ベッドへ直行した。

    お父さん…。お父さん…。

    ベッドの上で横になり、膝を抱え現実を受け入れようと格闘する。苦しい。胸が痛い。

    気づいた時には、いつも通りの時間にアラームが鳴っていた。

    重い瞼と体を無理やり起こし、常温水で顔を洗い、トイレを済ます。

    リビングへ向かうと……朝ごはんは用意されていない。父が入院してる現実を突きつけられた。

    涙と悲しい気持ちをグッと抑え、パンをトーストにセットし制服に着替える。

    食欲はないが無理にでも食べるべきだろうとパンを口に押し込む。

    歯を磨き、少し早めに登校しようとドアに手をかけた時、一瞬だけ身体が固まった。

    いつもの憂鬱とは違う複雑な気分で登校し、クラスに顔を出すと一瞬だが注目を浴びた。

    すぐに目を逸らした皆はそれほど私に興味が無いのだろう。

    席に着き、深呼吸をしているとクラスに入ってきた優希が声をかけてくる。

    「千鶴、おはよう。大丈夫そうか?」

    「おはよう優希。…大丈夫か分からないよ」

    「そうか。あんまり無理するなよ」

    優希はどこまで知っているのだろう。担任はどこまで話したのだろう。

    優希が席に着くと、中野がクラスへ入ってきた。

    「千鶴じゃーん。なーに先いってんのさ」

    中野の声を聞くと頭が痛くなる。私は溜息をつき、こめかみを手で抑える。

    優希は何かを察したのか、中野に今はやめろと目で訴えかけるが、中野は気づいてないのか、気づいたうえでか不明だがお構い無しに絡んできた。

    「なに無視してんだよ」

    ぐいっと顔を近づけてくる中野に対して優希が勢いよく立ち上がり、中野に近づく。

    「なんだよ小鳥遊」

    「いい加減にしろ中野」

    「はぁ?なにを?」

    「優希、もういいって」

    優希をなだめようとした時、担任が入ってくる。

    「席つけー。HR始めるぞー」

    この担任はいつもタイミングが良い。

    「ほら、席つけよ中野」優希はしっしっと手を振り、中野を追い出した。

    中野は案の定舌打ちをし、睨みつけながら大人しく席に着く。

    「いつもありがとう優希」

    「いいさ。気にすんな」

    担任と目が合う。が、いつも通りHRを早々に進めた。どうやら父のことは黙っておいてくれるらしい。もっとも、私に相談もなしに拡散したら許さないけど。


    ────午後のHRが終わり帰り支度をしていると、担任が声をかけてきた。

    「星野、校長室で話そう」

    私は頷き、優希の心配そうな視線を背中に感じながら担任と一緒に校長室へ赴いた。

    「失礼します」

    入室すると、昨日同様に校長と教頭が待っていた。校長が座るように促し、私がソファに腰を下ろすと校長はゆっくり口を開いた。

    「安西先生から事情は聞きました。さぞお辛いでしょう」

    「……。」

    私は頷きもせず、ただじっと校長を見つめる。

    「校長先生、教頭先生、安西先生、人生の意味って何だと思いますか?」

    唐突な問いかけに、校長の目がすこし見開いた。おそらく教頭と担任も同じだろう。

    私は校長から目を離さず、じっと回答を待つ。

    「ほう。人生の意味、か。中々に哲学的な問いだね」

    数分の沈黙。破ったのは校長だった。学生机とは違う、光沢な机の上で手を組み話を続けた。

    「残念ながら、私はその問いに答えることは出来ない。その問いは、君自身が、一人一人が人生を歩む中で答えを見つけるものだよ。満足のいかない回答かもしれないが、私の回答はどうかな?」

    教頭と担任は揃いも揃って目を閉じている。校長の言葉を噛み締めているのだろうか?

    「いえ、とても良い回答で参考になります」

    「それなら良かった」校長はニコリと微笑んだ。

    教頭と担任の回答も聞きたいが、校長の回答に満足した私は本題へ戻すことにした。

    「話を遮ってしまってすみません」

    校長は頷き、ゆっくりと話し出す。

    「家族の病、それも片親ともなれば精神的負荷が大きいのは承知しています。家族第一で、無理に登校しなくとも大丈夫ですからね」

    優しい口調の校長先生。「はい」と、私はただそれだけ返事をし、校長が教頭と担任へ目配せする。

    2人が頷き、担任が口を開いた。

    「星野、先生達がいつでも相談に乗るからな」

    「はい。ありがとうございます」

    「よし、また明日学校でな」

    元気な声と共に、頼りがいが無さそうで意外とある担任は手を挙げ、私を見送った。


    校長のあの回答、良かったな。そんなことを考えながら帰宅すると、「千鶴、おかえり」とこの時間には聞き慣れない声が玄関へ響いてくる。

    「お父さん…?なんで…」私は幽霊でも見たかのような、目が見開かれ、開いた口が塞がらないでいると父は玄関へゆっくり近づき、私の頭を撫でた。

    「延命すらできない短い人生、千鶴と一緒に過ごさないでどうする」

    あぁ、父の笑顔を見たのはいつぶりだろう。

    疲れた顔で帰宅をし、朝早くに家を出る父。

    気づけば私は涙がこぼれ、父の胸に飛び込んでいた。父はそんな私を優しく抱きしめ、静寂の中に私の泣き声だけが響いていた。

    父の胸の中で少し落ち着いた私は、校長にした質問を父にもしてみることにした。

    「ねえお父さん、お父さんにとっての人生って何?」

    「難しい質問だな笑」「校長先生も言ってた笑」

    父はうーんと考え、やがて軽めな口調で「お手上げだ笑」と笑い飛ばしながら言った。

    ポカンとしている私に父は言葉を付け足す。

    「千鶴が生まれた時から、幸せになってもらいたい。幸せに育てる。それだけを想ってたからなぁ」

    「……そっか。ありがとうお父さん」

    父は私の頭を撫で、癌になってごめん。ごめんな。と私に何度も謝り続け、私は父の胸の中で泣きながら頷くことしかできなかった。


    後々聞いた話によると、どうやら父は継続入院を断り、担当医に退院をゴリ押ししたらしい。会社も辞め、残り少ない人生を私と一緒に過ごすとニコニコしながら、幸せそうに語ってくれた。嬉しい気持ちと、終わりを彷彿とさせる複雑な気持ちがせめぎ合うが、父がいる今を全力で生きよう。と私は決意する。


    それから父は、毎日登下校に付き添い、食事を一緒にとり、時間が許す限り私の隣にいてくれた。休みの日は一緒に出かけ、笑い合い、濃密な思い出を作ってくれる。

    夏休み、父の実家で過ごすことになった。おばあちゃんと父が楽しそうに料理をする背中を、私とおじいちゃんは毎日見守る。しかし、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。梅雨は明け、カンカン照りな太陽が輝きを増し続ける8月中旬。


    ────人生はなんて儚く、理不尽で、残酷なのだろうか。娘想いの父、星野文宏は、この世を静かに去った。


    父が退院してから、私はすごく幸せだった。病気発覚前は、私のためだとはいえ仕事仕事で家族の時間はなかったから。家族で思い出を作る事がこんなに幸せな事だとは思いもよらなかった。娘のために尽くしてくれたお父さん。私は誇らしいよ。今までありがとう。これからは私の中で、思い出と共に生き続けてね。

    とはいったものの、父の死を実感した私は苦しさに押しつぶされそうになる。現実を受け入れようと必死にもがいて、もがいて、もがいた。心臓が痛い。心が苦しい。

    死後の手続きはおじいちゃん、おばあちゃんに任せ、お葬式は簡潔に身内のみでする事になった。

    父の最後の寝顔は、私には幸せそうに見えた。そんな父の寝顔を目に焼き付け、私は涙を堪えながら火葬場へと見送った。


    火葬が終わり、帰宅した私は涙を流しながら部屋の隅で思い出を振り返る。喪失感、悲壮感と格闘をするが勝負は目に見えていた。


    私はこのままおじいちゃん、おばあちゃんに引き取られることになり、二学期から最寄りの中学へ転校することになった。

    あの学校に未練はない。中野とも離れられるし、優希とは連絡できる。強いていえば、先生達にお別れを言えなかったことかな。


    私はふとスマホを手に取ると、無意識に優希へメッセージを送っていた。

    『お父さんが亡くなって、転校することになった』

    少々無愛想かもしれないが、報告なんてこんなものだろう。

    ボーッと天井を長めながら優希の返信を待つ。1秒1秒を噛み締めていると、ふと「医者」が脳をチラつかせた。

    ……医者、か。私が医者だったら、お父さんを救えたのかな。そんなタラレバを頭では考えていたが、身体は無意識に動いていた。

    「おじいちゃん、おばあちゃん。私、医者を目指すよ」

    2人は目を丸くしたが、ホッとした笑顔で私を抱擁してくれた。

    「千鶴ならできる。応援しているよ」

    私は2人の胸の中でゆっくりと頷いた。

    見ててねお父さん、私、医者になって病気の人をたくさん治すから。おじいちゃんとおばあちゃんの温もりを感じながら、私は静かに決意した。


    私が医者を目指し、進学校に受験すると優希へ伝えた時は驚いていたが、心配しつつもいつも通り明るく振舞ってくれる。何度も、何度も、繰り返し肯定し、応援してくれた。


    それから私は勉強に明け暮れた。朝も夜も休日も。一日何時間やっただろう。時間なんて気にする暇もなく、ただただ我武者羅に。

    夏休みが終わり、転校初日に医者を目指している。と自己紹介で述べると、案の定一部の男子にバカにされたが私はそんなノイズは気にしない。大半の人は応援してくれるし、尊重してくれる優しい世界だ。

    肌に汗で服が張り付く季節が過ぎ、肌が潤いを求める高校受験当日。

    私は自信に満ちている。娯楽を捨て、医者になるという目標を1日たりとも忘れず、ただ勉強に明け暮れた。案の定、筆記試験は余裕だった。元々、学力はそんなに低くない。そういえば、優希もこの学校に受験するんだっけ。


    私は無事合格。第1志望に受かるのは素直に嬉しい。

    嬉しいが、どこか冷めているような感覚に陥る。

    おじいちゃん、おばあちゃんへ合格を伝えると『おめでとう、千鶴』と私を抱きしめ、涙を流して喜んでくれた。「ありがとう」と反射的に返事はするが、なんでかな。私は涙が出ないんだ……。


    入学初日。下駄箱前に貼られたクラス分け表を眺める。優希と一緒のクラスで私は内心ホッとした。

    上履きに履き替え、クラスへ入ると既に優希が座っていた。私に気づくと、優希はいつも通り元気な声色で挨拶してくれた。

    「お、千鶴。おはよう。一緒のクラスで良かったよ」

    「おはよう。優希」

    「元気なさそうだな、大丈夫か?」

    「大丈夫だよ。ありがとう」

    優希は手を顎に当て、私の顔をまじまじ見てくる。連絡はちょくちょくとっていたものの、直接会ったのは父の葬式以来だ。優希は少し大人っぽくなったかな。

    「入学式始まるよ、いこ」私の冷静な声掛けに優希は一瞬驚いていたが、たわいもない雑談をしながら2人で体育館へと向かった。

    入学式は何事もなく終わり、教室へ戻り自己紹介。入学式当日はこんなもんだ。優希に別れを告げると、心配そうな目で見つめられたが私は気にせず帰路についた。


    入学してからも勉強。勉強。勉強。私は医者になるって決意したから。


    ────入学から何日経っただろう。登校していると首へ衝撃が走る。中学の頃に何回も受けた、あの忌々しい衝撃が。

    「千鶴じゃーん。また会えて嬉しいよ」

    「………………」中野。中学でおさらばだと思ったのに……。

    「なんだよ千鶴嬉しくないの?」

    「…………嬉しくない。離して。今後私に関わらないで」

    「相変わらず冷たいな千鶴は」

    登校中の生徒に見られながらも、首に巻きついている中野の腕を振り払い、足早に学校へと向かった。

    周囲からは、え?なに?痴話喧嘩?などと聞こえてきたがいい迷惑だ。中野とまた同じ学校なんて最悪。クラスが別なのが不幸中の幸いだ。

    教室に着くと、既に優希が居た。

    「おはよう優希。早いね」「おはよう千鶴。今後は余裕を持って早めに来ることにしたんだよ」

    「そうなんだ。」優希の声、話し方、表情……落ち着く。

    私は気だるげに口を開いた。

    「……登校中、中野に絡まれた」

    「中野?中学の頃千鶴によく絡んでたあの中野?」

    「そう。クラスは違うけど、この学校みたい」

    「あちゃー。あいつイケメンで頭もいいのかよ」

    「私は嫌いだけどね」

    「同じく」優希が笑い、私も釣られて少し笑ってしまう。


    「おー千鶴。ここにいたか」

    噂の中野がズカズカと近くに寄ってきた。

    クラスの女子たちは誰あのイケメン!カッコイイ!などと抜かしている。

    「…………はぁ」本当にやめて欲しい。

    「教室まで来ないでよ。関わらないでって言ったよね?」

    「そんな釣れないこと言うなよ。千鶴、俺と付き合え」私のことを好きなのかと驚きつつも、命令口調にイラッとしたのも束の間、優希の方向からガタッと言う音と共に「いてっ」という素っ頓狂な声が聞こえてつい笑ってしまった。

    中野が音の方向を確認すると、表情が曇った。

    「お前、あの生意気な小鳥遊か?」

    「生意気なのはお前だろ?何様だよ」

    「はぁ?」と2人とも喧嘩腰。入学して日も浅いのにやめて欲しい……。

    私は仕方なく仲裁に入る。「2人とも待って。はっきり言うね中野、あなたのことは嫌いだし付き合えない。今後、本当に私に関わらないで」

    中野の右目がピクっと動いたのを私は見逃さない。

    「だそうだぞ?中野。さっさとクラスに帰れよ」

    私は優希の方を向き、唇に人差し指を当て、目で黙れと訴えかける。これ以上中野を挑発するな、と。

    中野は右手で後頭部を掻き、「そうかよ」と冷たい声で言い放ち、立ち去った。

    「………はぁ。疲れる」

    「災難だな笑」

    「笑えない」

    優希は勝ち誇ったかのようにケラケラと笑っているが、中野はまた関わってきそうな予感がする。気分が沈む。憂鬱だ。


    ────予感とは反し、あれ以来中野は私の前に顔を出さなくなった。ホッとした私は医学部のための資金を稼ぐことにした。なんせ、医学部の学費は高い。高すぎる。私はおじいちゃん、おばあちゃんに迷惑をかけまいとコンビニバイトを始めた。安い時給で奴隷のごとく、毎日、毎日。学校へ行き、22時までバイト、帰宅後も睡眠時間を削り勉強。日に日に感情が薄れていくのが分かった。それでも、お父さんに誓ったから。私は医者になるって。

    「千鶴、最近顔色悪いぞ?保健室行くか?」

    「心配要らないよ優希。大丈夫だから」

    「ならいいけど…あんま無理すんなよ?」

    「…無理しないと私みたいな凡人は医学部に行けないよ」

    「…………。」

    納得したのか、かける言葉がないのか、優希は言葉を失っていた。

    「大丈夫。私はやり遂げるから応援しててよ」

    「もちろん応援はするさ。けど、健康には十分に注意してな?」

    「はいはい」優希に、優しい父の面影が重なる。

    父の顔が脳内にチラつき、感情が揺さぶられた。


    梅雨入りし、毎日がジメジメする6月中旬。

    いつも通り授業を受けていた私の視界がフッと暗くなり、ガタン。という音と共に気を失った。


    ────目が覚めると、私は横たわっていた。

    体が重い。重たい瞼を片目だけ開き、周囲を見回す。見知らぬ場所。ここがどこなのか考えるよりも眠気が勝ち、ただただベッドに身体を預け再び瞼を閉じた。


    身体が揺すられる。起こそうとしないで。まだ寝ていたいの。という意思表示に布団を頭まで被る。

    「……さん。星野さん」聞き慣れない女性の声にガバッと起き上がる。

    「はい」 瞼を擦りながら目を開けると、知らない白衣を着た女性が横にいた。

    「気持ちよさそうに寝ていたのにごめんなさいね。もう下校時間なのだけれど、体調はどう?」「へ?」

    頭が追いつかない。下校時間?体調?

    そういえば、授業を受けてたはず……。

    「ええと……ここはどこですか?」

    見知らぬ女性は微笑みながら答えた。

    「ここは保健室。授業中にあなたが倒れたって小鳥遊くんが運んできてくれたのよ」

    「優希が……」

    「お姫様抱っこで、王子様みたいだったわよ」

    保健室の先生は微笑みながら、おちょくるような顔でまじまじと私を見つめてくる。

    「っ…………」私は恥ずかしさのあまり、手で顔を覆い視界をシャットアウトした。

    「そんなことより!今何時ですか!」

    時間を確認しているのか、少しの沈黙の後に19時過ぎという情報が耳から流れてきた。

    「……19時!?」突然の大声に、保健室の先生はビクッと肩を揺らした。19時……バイト、もう始まってる時間じゃん。

    「そう。もう下校時間過ぎてるから大丈夫そうなら早く帰りなさい。王子様へのお礼、忘れないようにね」

    のそりとベッドから降りつつ制服のヨレを直した。

    「王子様じゃないです!お世話になりました!」

    「お大事に~」という明るい声を背に、教室へ鞄を取りに行くと、優希が1人ぽつんと座っていた。

    「優希、まだ残ってたんだ」

    「まあな。千鶴、具合は?」

    「多分大丈夫……」

    「帰れそうか?」

    「バイト、行かないと」

    バッと勢いよく優希が立ち上がった。

    「意識失っといてバイト!?」

    私は無言のまま鞄の中にあるスマホを取りだした。

    「おい千鶴!聞いんのか!」

    肩を捕まれ、前後に揺すられる。振動が頭に響き、目眩が押し寄せてきた。

    「離して!」優希の手を振りほどき、頭を押さえる。

    「少しでも多く学費を稼がないといけないの!バイト先にも、おじいちゃん、おばあちゃんにも迷惑かけたくないの!もう、放っておいてよ……」

    不思議と涙が溢れてきた。私はその場に座り込み、制服で涙を拭う。優希はそんな私を抱擁し、優しい口調で話し始めた。

    「千鶴…、無理すんなって言ったろ?健康を蔑ろにすんなって。人は生きてれば迷惑かけるもんなんだよ。それはお互い様。でも心配は別だ。健康面含め、心配事は行動でコントロールできるだろ?千鶴が意識を失った事実をバイト先、家族が知ったらどう思う?怒り、迷惑だと思うか?」

    「…………」身体を預けながら、首を横に振る。優希は私を抱擁したまま頭を撫でてくれた。

    「責任感が強いのはいい事だ。でも、1人で抱え込みすぎて健康を蔑ろにするのは違うと思うぞ」

    私は静かに頷き、しばらく優希を抱きしめていた。そんな私を優希は受け入れ、頭を撫で続けてくれる。やっぱり、優希は落ち着く。

    ……保健室で聞いた王子様が、脳内でチラつく。


    下校時間が過ぎている教室、私のすすり泣き声が響き渡る中に2人抱き合っていると、見回りの先生が足音もなく教室のドアを開けた。

    座り込んで抱擁している2人、机に囲まれた私達の姿をよく確認できないのだろう。

    「誰か残ってんのか?下校時間過ぎてるぞ」

    ドアの音と声にビクッとした私は身体が固まるが、優希はスっと立ち上がり、いつも通りの口調で平然と対応してくれた。

    「すみません。すぐに帰りますのでお構いなく」

    「お構いなくってお前な……。すぐ帰れよ?」

    「はーい」

    教師が教室を出たことを確認した優希は再び私の頭を撫でる。

    「千鶴、歩けるか?」

    私は頷き、立ち上がる。優希に泣き顔を見られたくない。見て欲しくない。優希の顔をチラッと確認すると、背を向けてくれていた。……そういうとこだよ、バカ。

    教科書を乱雑にカバンに詰め込み、スマホをポケットにしまう。「できた。行こ」

    「ここで待ってるから、先に顔洗ってきな」

    「……バカ」と聞こえないような最小声で囁き、顔を背けている優希の脇腹をつまむ。案の定痛がった声が聞こえたが、私は構わず教室の外へと走り去った。

    女子トイレで顔を洗い、晴れが引くのを少し待つ間にスマホを確認する。バイト先からの不在着信6件。ゆっくりと深呼吸をして呼吸を整え、折り返し電話をかけた。

    学校で意識を失い寝ていたことを伝えると、優希の言った通り怒られるよりも心配された。

    店長の心遣いで今日はこのまま休む事になり、ほんの少しだけ安堵すると同時に学費がチラついて罪悪感が押し寄せてくる。

    電話が終わる頃には顔もマシになっており、ゆっくりと教室へ戻った。

    「おまたせ」

    「おかえり。さて、脇腹をつねった理由を聞こうか」

    優希は脇腹をさすりながら笑みを浮かべていた。

    額に怒りマークが見えなくもないが、不思議と怖い感じはしない。

    私はなにか吹っ切れたような笑みを浮かべ、「秘密」とだけ返し荷物を手に取る。

    優希は不満気な顔をしたが、まあいいか。と呟き2人で帰路についた。


    夕暮れ時、涼しい風が肌を撫でる道中。脇腹を擦りながら雑談をする優希を見るのはなかなかに面白かった。

    「方向違うけどいいの?」

    「今日は家まで送ってくよ」

    「遠回りになるからいいのに」

    「さすがに心配だからな。これからはちゃんと体調管理しろよ」私の頭をガシッと鷲掴みし、軽く左右に振るが力は入っておらず嫌な気はしない。

    「またつねられたい?」おちょくるような、冗談交じりに言うと、優希はパッと手を離す。「勘弁」

    よほど嫌なのか、犬が腹を見せるようなハンズアップで降伏し、私は思わず笑ってしまう。

    こんなたわいもないやり取りが幸せなのかもしれないと、私は薄々と気づき始めていた。


    余韻に浸っている中、何の前触れもなく私は質問を投げかけてみた。

    「ねえ優希、人生ってなんだと思う?」

    優希は狼狽えることもなく、いつも通り自然に「しらん」と一言。優希のこの適当な一面が私には少し心地よかった。

    「もう少し考えてよ」

    優希は腕を組み、数分考えた後、口を開ける。

    「幸せなことならあるぞ」

    「なに?」優希に見つめられながら聞き返すと、身体が優希体温で包まれた。

    「千鶴と人生を歩むこと」

    ────道端で、抱擁している男女の高校生。

    驚きのあまり、周囲の視線は気にならなかった。

    私の脳は思考を停止し、気づいた時には優希を抱きしめ返していた。

    どれくらいの時間が経っただろう。

    思考が戻り、周囲の視線を感じ始めた頃、私はゆっくりと口を開いた。「優希、いまのって…」

    「……告白」

    優希の言葉が耳を通し、脳へ伝わり、言葉の意味を認識すると、私の身体はカアッと熱くなっていた。恥ずかしさと嬉しさが混同し、頭が回らない。私は優希の肩へ頭を預け、優希の緊張していそうな息遣いを静かに堪能した後、口を開いた。

    「……幸せにしてね」

    「……まかせろ」いつもとは違う、少し震えているような声のシンプルな返答。優希らしくて落ち着く。

    嬉しさと幸せの余韻に浸っていると、背後から聞き覚えのある声が脳内へ響いた。

    「お前らこんなとこで何してんだ?」

    2人は声の方へ視線を向けるが、暗くて見えない。

    2人は名残惜しくも離れ、身構えていると、声の主が近寄ってきた。

    「中…野……?」

    「中野?お前なんでここにいんだよ」

    「帰り道なんだわ。んで?お前らは道端で抱き合って何してたんだ?」

    暗い住宅街に静寂が流れ、中野が私たちを交互に見つめる。私はうつむき、また面倒くさい絡まれ方をされると警戒し優希へ身を寄せる。そんな中、優希が口を開いた。「……なんでもいいだろ」

    中野はフッと笑い、「そうだな。お幸せに」と手をヒラヒラさせながら横を通り過ぎて行った。

    あまりにもあっけない。以前の絡まれ方からは想像もできないほどに。

    「千鶴、大丈夫か?」

    「うん。中野がアッサリ系になってて力が抜けた笑」

    「あいつも大人になったってことかぁ」

    「なにそれ笑。おじさんみたいなこと言うじゃん」

    「失礼な。まだ同い年だろ」

    「そうだね笑」例に習って頭を鷲掴みされるが、意外と嫌じゃない自分に戸惑っている。

    「さ、帰るか」「うん」

    2人は1歩、また1歩と今の時間を噛み締めながら、千鶴宅へ歩いていった。

    いつもより早い帰宅と、優希が居ることに驚いていたおじいちゃん、おばあちゃん。

    学校で意識を失ったこと、バイトを休んだこと、優希と付き合うことになったこと、今日あった出来事を2人で説明した。優希の言う通り、怒られることはなく心配された。私はつくづく思う、人に恵まれているなって。

    食卓を4人で囲む流れになり、さすがに気が引けたのか、間食後早々に優希は帰宅した。

    今日は中々に濃い1日だった。医者を目指す。それは変わらないけど、少し力は抜くことにする。

    優希に指摘されて、身をもって健康の重要性を知ったから。おじいちゃん、おばあちゃんもお金は気にするなと言ってくれている。今後は無理のないようにシフトを減らそう。睡眠時間も確保しよう。

    色々と考えながら、私は眠りについた。


    ────それからは無難に、健康を意識し勉強に勤しんだ。気が滅入らないように優希とのデートを挟みながら高校を無事卒業した。優希は経済学部へ現役合格し、私は医学部へ入れず浪人することになった。中学3年の途中からでは医学部志望には追いつけなかった。ごめんねお父さん、でも、まだ諦めないから。

    私と優希は高校卒業と同時に同棲を開始し、優希の大学の近くへ引っ越すことになった。バイトと勉強の毎日。学生の頃と違うのは、学校に縛られなくて済むということ。優希が隣にいてくれる事。それだけで私は幸せを感じる。

    2回目の医学部受験、私は悲報を伝えることになった。自分の出来の悪さに何度も何度もネガティブ思考を反芻してしまう。心が折れかけ、優希に弱音を吐いてしまう。優希は本音か建前か分からないが、冗談交じりに主婦になってもいいと言ってくれていて、正直揺らいでいる自分がそこにはいた。

    そんな中、私の20歳の誕生日を迎えた日。おじいちゃん、おばあちゃんから連絡があり、帰省した際に1台のスマホを手渡された。

    父が生前に使っていたスマホ、その中に20歳の私へ向けての動画が入っているらしい。

    私は深呼吸し、写真フォルダを開く。父が退院してからの思い出の写真を懐かしむように眺めていると、異彩を放っている動画が1つ。

    これか。と直感した。

    目を閉じ、1度、2度、3度とゆっくり深呼吸。

    覚悟を決め、静かな空間でただ1人、動画を再生した。

    室内で、遺影姿の父ではない動いている父が映し出される。少し緊張しているのか、ぎこちない部分はあるがいつの間にか私の目からは涙が溢れていた。


    「これで撮れてるのか?コホン。

    千鶴、20歳の誕生日おめでとう。父さんは恐らく癌に負けてこの世にいない事でしょう。一緒に居てあげられなくてごめんな。なので、こうして動画でお祝いさせてもらう事にしました。


    優しい千鶴の事だから、医者になる!って安直に考え、我武者羅に勉強している頃かな?医者を目指すのは素晴らしい道だ。だがな、父さんに対する同情心や現実逃避でその道を目指しているなら考え直しなさい。

    ちゃんと自分自身と向き合って、自分の望んでいる道を進みなさい。今までの勉強、経験は決して無駄にはならないから。それでも、本気で医者を目指しているなら父さんは全力で応援する。

    千鶴ならやり遂げられるって確信があるから。

    でもな、健康には本当に気おつけて。若いからって無理するのは良くないからな?

    父さんは千鶴が健康で、伸び伸びと幸せになってくれたらそれで満足だ。今後の長い人生、父さん以上に楽しく、父さん以上に幸せに生きてな。

    いつまでも愛しているよ、千鶴」

    ────私は泣き崩れ、心が苦しかった。

    医者を目指して頑張ってきた自分がそこにはいなかった。義務感のような亡霊に取り憑かれていたと気付かされたから。

    私の泣き声は予想以上に大きかったらしく、おじいちゃん、おばあちゃんが駆けつけてきた。

    2人は私に身体を寄せ、なだめてくれる。

    「ごめんなさい、私、医者になれないかもしれない。今まで義務感で頑張ってたって、気付いちゃったの…」

    「それならそれでいいんだよ。文宏の口癖は千鶴が幸せになることってずっと言ってたのだから。医者になるより、優希君と結婚して、主婦として幸せになる道を歩む方が文宏は嬉しいかもしれない」

    「……うん」

    私はしばらく2人に身体を預け、2人は私の身体を支えてくれた。

    「このスマホ、お父さんの形見として貰ってもいい?」

    「ああ。千鶴の好きにするといい」

    おじいちゃんの温かい手が私の頭を撫で、優しく微笑んでくれる。

    つくづく思う、私は周囲の人に恵まれていると。


    優希のいる自宅へ帰宅した私は、父の動画を見てもらうことにした。数分の動画、優希は黙々と見続け、終わった頃には目頭を押さえていた。

    優希の呼吸が落ち着き、深呼吸をした私は口を開いた。

    「優希、私、医者になる事を諦めようと思うんだ」

    「そうか。千鶴がそう決めたのなら、それでいいさ」

    「ありがとう優希。ごめんね」

    「謝る必要は無い。千鶴がどんな決断をしても、僕は味方でいるから」

    「……これ以上惚れさせないで」

    「いーや、もっと惚れてもらう」

    「……バカ」

    優希は私の頭を撫でながら笑い、私は優希に抱きついた。


    20歳の誕生日を転機に、私は勉強という名の亡霊を払い、主婦業とパートに専念することにした。

    経済学部の2年だった優希は2年後に無事卒業し、不器用ながらに私にプロポーズをしてくれた。

    私はその場で受諾し、6月17日。私の誕生日に籍を入れた。

    優希は20歳の誕生日に株式投資を始めたようで、卒業の頃にはそこそこ増えたと嬉しそうに話していた。

    生活は補うことが出来たため、優希は職に就くことなくしばらくは株で稼いでいくと決心したようだ。

    優希は結婚の数ヶ月後、起業する。と言い始め、私はその手伝いをすることにした。

    2人で試行錯誤しながら挑戦し続けた。優希の頑張りを隣で実感し、頼りになる最高の夫だと確信できた。

    起業が軌道にのった28歳。

    カンカン照りな太陽が落ち着き始める10月下旬。私の体調が優れない日が多くなり、心配した優希は念の為と私を半ば強引に病院へ連れ出した。

    受診結果は妊娠初期。優希は私の手を取り喜ぶが、私は少し複雑な感情が渦巻いていた。

    もちろん嬉しさはある、しかし母親になるという事実が不安で仕方なかった。

    「優希、私、不安だよ。ちゃんとした母親になれるかな?」

    「千鶴ならなれる。それに、1人に背負わせるわけないだろ?2人でちゃんと、親の勤めを果たそうな」

    「…うん」

    担当医が仲睦まじそうな私たちを見て微笑んでいることに気が付き、私は少し恥ずかしくなった。


    ────14年後、娘の小鳥遊優香が中学2年になり、反抗期が始まった頃。小鳥遊家はお金持ちの仲良し夫婦としてちょっとした噂がたっていた。

    そんな幸せ真っ只中、何の因果か理不尽なことに、癌細胞が着々と私の身体を蝕み始めていることに、まだ誰も気付いていなかった。

     
     
    小説を書いてる人。 2026.4~

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