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天国への階段 第11話(完結編)

    第11話

    命

     

     古びた扉の隙間から、宵闇が忍び込んできていた。キャリーさんは、いつものイーゼルに向かっている。すでに文房四宝は、揃えられていた。

    静かに墨を擦る。硯は鈍く黒光りしていた。真っ白な和紙に手を伸ばし、上辺と下辺をしっかりと止める。そして筆を持つ。柔らかな羊毛の毛先は、墨をしっとりと含んでいる。

    「命」

    と、勢いよく筆を撥ねた。

     キャリーさんが、誰かに向かって話しかけるわけでもなく、言葉ひとつひとつを絞り出すように、語り始めた。

    「世界には、親指と人差し指で作る輪よりも細い腕の子たちが数千万人いて、飢餓の危機にさらされている。そんな状況を今すぐに変えられるわけでもないし、私が何かの役に立てるわけでもない。でもまだこちらにいる人間の責任として、命の事は世界のどこにいようと、ずっとなによりも大切に考え続けたい」

    「命、いつ、誰からそれを授かったかははっきりわかっている。でも、それが、いつどこに飛び立つのか、私には何もわからない。子どもの頃、眠りについたら、そのまま永久に眠ってしまうんじゃないかと思った時があった。それはとても恐かった。感じあえるもの、触れるものが何ひとつなくなる気がして恐かった。それから大人になって、私は、天から授かった命を、ただ黙々と遂行してきた」

    「私は今日の日だけを精いっぱい生きてきた。今日という日は未来につながっている唯一の通り道。だから宝物にしてきた。逆戻りはできないのだから

    でも、ふと周りを振り返れば、あらゆることが変わっていた。

    夫は旅立ち、子どもたちはそれぞれの土地で粛々と精一杯暮らしている。

    今はそう、マナミさん、チエさんの二人も私の周りにいない。話しかける人がいない。そんな生活はとても寂しいし、悲しい。でも悲しいと思えるのは、私がまだここに生きているから。それはとても贅沢なことなんだと思わなくちゃいけない。

    二人と一緒に、笑ったり、怒ったり、信じたり、騙されたり、歌ったり、踊ったりした日々。何もかもが私の時間に、色彩を与えてくれていた。そのことに今改めて気づく。

    ありがとう、あなた方二人に、私は今もこれからも生かされて行く。今夜も夢の中で、あなたたちにお会いできるでしょう。いつもよりたくさんお礼を言います。ありがとう、おやすみなさい」

    「次はその世で逢いましょう、あの虹の橋のたもとで」

     

     

     


    追伸

     

     

    天地創造の神は、あの世とこの世の間に、その世を置いた。

     

    その世では,、どこからともなく、ゆるやかに風が流れていて、

    喧噪の中に置かれた、この世とは

    空気の匂いが違っていた。

     

    人は、その世にとどまることはできない。

    つかの間、その世という天国へ続く階段の踊り場で、

    未知のあの世にあこがれ、心を馳せる。

     

    この世の大切な思い出は、

    その世にそっとしまって、

    あの世という、新たな世界に身を委ねるのだ。

     

     

    ・・・どこからともなく音楽が流れてきた。

    そろそろ、その世からお別れするときのようだ。

    時間は戻れない。戻せない。

    それはこの世も同じだった。

     

    「先に進むことは、いつも素敵なことだ」

     

     

     

    (了)

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