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絶望から照らされた道をコツコツ歩いてきた13年間

    私は現在統合失調症という精神疾患を患って13年が経過している。ただ、今日、日本ソーシャルフットボール協会のソーシャルフットボール日本代表候補の大阪キャンプから石川県の自宅にある金沢市に帰ってきたばかりである。強化指定選手になって4年目に入るが、毎回キャンプは特別な時間だということ。最初に参加してたころよりも、障がいがある自分が、健常者に近づいてきていることを実感する。周りのチームメイトも障がいがあるように見えなくなっているのは気のせいだろうか。今日のトレーニングマッチの相手は大阪成蹊大学だった、大学日本一の経験のあるチームでさすがに強度はあった。ただ、JFAのひとつのカテゴリーでもある誇りと責任をもって戦うことができたし、勝利をおさめることはできなかったが、課題やできたこともあったので、良い収穫だった。なにより、健常者と試合をしているとソーシャルフットボールではなく、競技フットサルしている感覚になる。試合中はそこには障がいがあるとかないとか関係なかった。サポートスタッフ、コーチ、監督は健常者で自分たちの可能性を最大限引き出してくれるようにサポートしてくれている。そこには小さな共生社会が生まれているのもたしかだ。日本ソーシャルフットボール協会の理念が世の中に浸透すれば、精神疾患のある人たちは生きやすくなると信じている。今はキャンプ直後なので、気分がまだ高揚しているのがはっきりわかる。なんでもできてしまうんではないかと思えるほどだ。明日からまた日常に戻る。現実と向き合う。仕事がまた始まる。今は短時間勤務で働いていて4月から30分時間を伸ばして働き始めた。精神障がいの理解を支援員の方と共に現場の従業員の人まで落とし込んで働きやすい環境を作ってきた。今まで。その結果意欲がどんどん出てきて、精神疾患のあるかたでも全然働けるということを証明していく。
     私は病気になった当時は、家でひきこもり、働いていた不動産営業の仕事も退職して、無職になり、妄想症状が止まらなくて、なにもかもがわけわからなくなっていました。全世界に愛人がいるとか、TVの有名人が全員友達だと思い込んだり、レンタルビデオ屋さんで何十本もいっきに借りたりとかしてました。自分の妄想がどこまで真実なのか確かめたかった一心でタイのバンコクやパタヤに3週間ほど滞在したりとかしてました。全世界に愛人がいると思っていたので、それを確かめたかった。貯金していたお金をすべて使った。後のことを一切考えずに真実が知りたかったから。結局わからなかったが、一つわかったことがあった。それは愛について、深く学べた。今話していることは、妄想していた当時を振り返っている。今は決してこんなことはしない。今は障がい者グループホームに住んでいるし、障がい者雇用で働いている。妄想していたことを説明すると、この人大丈夫かと思われるのが嫌だから話したことないけど。自分のエッセイが誰かのためになるならやってみようと思った。
     私は、不動産の仕事をやめて、タイにいき、お金がなくなってから、一度

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    不動産2013年頃

    神奈川県の精神科クリニックに併設されているデイケアに行きました。すごくつまらなくて退屈で現実を受け入れられなかった。通っても畳のお部屋で寝るだけをしばらく繰り返してました。それを見たスタッフが作業したほうが良いんじゃないかとすすめてくれて、その時はデイケアで作業するのも嫌だったが仕方なく受け入れた。そしてしばらくやってみたが全然おもしろくなく、昼ごはんが安く食べれるので、それが楽しみだった。デイケアで作業療法のひとつに農作業があったので、それは興味がわいた。ただその時は、愛について自分なりに答えが見つかったので、次は大地や自然の恵みに感謝したいと思うようになってました。まだまだ妄想症状はあった時期だ。だから農作業で土に触り、野菜を食べることを体験することが次のステージだと思った。作業療法のプログラムの本来の患者にとっての目的はその時は全然意味がわかってなかったが、親のプレッシャーもありながら、休むことなく通い続けた。そのときは誰とも関わりたくない、社会とつながりたくないと、ずっと思っていた。そんな状態の時に、知り合いの人からバイトを紹介してくれた。交通誘導の仕事だ。半年間くらい続けることができた。病気のことは伏せて働いていた。つらかったけどお金は必要だったので、我慢しながら働いた。同時並行で就職先も探していて、先輩の紹介でIT関係の仕事が見つかった。病気のことは社長には伝えることはできた。負けるなといってくれたことが励みになったことを覚えている。しかし、同じ現場で一緒に働く人たちは知らない。自分も自分自身の病気について知識もなく、自己理解が全然ない状態なので、配慮もなく苦しい時間を1年間くらい過ごした。ちょうど1年経つころに病気が再発した。また妄想が始まった。今振り返ると、その時は薬の投薬や注射をやめていて、断薬していたからだとおもう。IT関係の仕事も長く続かず退職して、その頃にちょうど父と母が、母の実家が石川県金沢市にあるので、父が定年退職したので、余生は金沢で過ごすことを決めていた。私も父と母が近くにいて、近くに畑が多い実家、ビルやマンションの多い神奈川県を離れて、のんびり暮らしたいと思った。私は小、中、高は神奈川県、専門学校は東京都だったので石川県の事はなにもしらないし、友人もいない。本当に親と親せき以外いないのでひとりぼっちだ。ただ、それを望んでいたと思う。一人になりたかった。また新たな第2の人生を歩みたかった。そこから金沢の生活が始まった。

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    誰とも関わりたくなかった 2018年頃


     金沢の実家に住むようになり、しばらくはベッドから離れることはなかった。携帯ゲームをひたすらやって、部屋からでなかった。精神科病院は紹介状書いてもらったので、金沢市の診療所に行った。私にとって最初のつながりだった。このままの人生でいいのだろうかと思いながら過ごしていた。父が祖父から引き継いだ小さな畑があったので、そのお手伝いをしてほしいと頼まれた。いやいややることにした。畑にいってもただ石の上に座って時間が経つのを待つことしかできなかった。精いっぱいだった。父は簡単な作業を与えてくれた。1時間程度しか作業できなかった。そんな生活がしばらく続くと、主治医の先生から、ショートケアをすすめられ。私はそれに行くこ

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    ショートケア 花見 2018年頃

    とにした。他の障害のある方と一緒な時間を過ごしていくうちに、徐々に現実を受け入れることができ始めてきた。無理をしない生活を続けていくうちに少しづつ道が開けた。ショートケアは2年通い続けた。それでも楽しいとは思えなかった。次に、主治医から福祉就労のお話しをいただき、生活支援相談員を紹介してくれた。最初の会話でまだ福祉就労は私の心の状態が追いついていなかったので、一度断った。時期をあらためまたこの話をいただいたときに私は就労継続支援B型の働き方をやってみようと思えた。最初は週1回からスタートし、コツコツ体を慣らしていった。この時の心情は、早く終わんないかなと思って仕事していた。そして、週2、週3と働く日数が次第に増えていった。週3回いけていたころに、スタッフからソーシャルフットボールという競技を教えてもらった。

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    ソーシャルフットボール2020年頃

    すぐに行動に移して、さっそく参加した。そうしたらとても楽しくて、横浜にいたときにはない感覚を味わった。生きがいを見つけた。同じ障害がある仲間とフットボールをするのがひとりじゃないと思えた。このころは会場まで父の送迎で参加していた。実家暮らしだったので、掃除、洗濯、ご飯はすべて親任せだった。ソーシャルフットボールは毎週のようにいっていくうちに、総監督からグループホームの提案をしていただいた。すごく夢があるグル

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    グループホーム 2022年頃

    ープホームだと思った。すぐ行きたいと返事した。このグループホームを知る前に違うグループホームをみたことあったが、全然住む気になれなかった。これが回復のきっかけとなった出来事だ。ソーシャルフットボールとグループホームの入居がきっかけで仕事も同じ仕事だけど、自分の捉え方が変わったので、楽しく前向きにできるようになった。ただ、頑張りすぎてしまう癖があるので、疲れが途中で如実に出てしまうことがあった。就労支援継続B型のときは、早退や途中で休む時間も気軽に言えたので、自分のペースで働くことができた。このころから人とつながりたいと思えるようになってきて、再び社会参加しようと思った。そして、順調に週4、週5まで働けるよ

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    ハーブ農園ぺザン 就労継続支援B型 2023年頃

    うになり、4年ほどB型にいた。その期間ソーシャルフットボールでは全国から集まってセレクションが年に1回行われているのを知って、日本ソーシャルフットボール協会のセレクションを受けた、1回目は落ちた。次の年もう一回受けてその年で初めて合格した。ここまでの道のりは簡単ではなかったが、仕事、休息、余暇活動のバランスが大事だと福祉、医療の関わってもらっている人に何回も教えていただいたことを実践したのがよかったとおもう。セレクションに来ているメンバーは、最初の印象はみんな自立度がすごく高い選手が多いと感じた。会話をした選手はほとんど一般就職していた。私は福祉就労のB型。まずプレーより生活面での差を感じた。もっと自立度を上げていこうと思った。このころから自分の車をリース契約で手にすることができたので、運転免許は学生の頃に取得していたので、父に教えてもらいながら、運転を慣らしていった。移動は全部自分でできるようになった。負担はあるが。次第に車が好きになってきてドライブが好きになってきた。話をもどすと、仕事のステージを上げたいとこのころから考えるようになり、グループホームで相談したり、生活支援相談員とも相談して、主治医とも相談した。みんな自分が安定していないの心配してましたが、私がやりたいと言ったことに対して、否定は一切されなかった。自分が本気で夢中になれることをサポートしてくれるそんな場所だ。いよいよ就労継続支援B型を卒業する時がきた。次は就労継続支援A型にいこうと行動した。就労継続支援B型の仕事の評価はすべてA評価で終えることができ、何も心配することなく就労継続支援A型に自信をもっていくことができた。就労継続支援A型に入ったころは、仕事の量やこなすスピードが就労継続支援B型よりもレベルがあがっていてなんとかついていくのに必死だった。社会に出ることはこういうことなんだと改めて感じた。ここでも同じような障がいを持った方がすんなりこなしているのを見て、自分にもできるんじゃないかと思えた。余暇活動が充実してると、多少負担がある仕事でも耐えられることを覚えたので、就労継続支援A型も楽しく仕事ができ充実していた。5カ月たったころ、私が働いてる就労継続支援A型が法律の改正で就労継続支援B型事業所に変更する知らせを受けて、戸惑った。本音を言えば1年から2年は就労継続支援A型で自分の能力を上げてから障がい者雇用に行きたかったが、ちょっと早い気もしたが、タイミングだと思い、障がい者雇用で

    働くことを決意しました。次の職場は大学病院の栄養部調理課になった。こ

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    金沢医科大学病院 栄養部調理課 2024年頃

    れも縁であり、自分が所属するソーシャルフットボールチーム、ヴィンセドールルミナスで活動をしていたことが採用の決め手になったと思っている。

    ルミナスは全国大会に2回出場した経験もある。自分も選手としてその2大会

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    全国大会 2024年

    とも出場した。これが大きかったと思う。人事課の人に関心をもってもらえた。あとは福祉就労のA型で5カ月働いた実績も良かったと思う。採用が決まって実際に1か月働いた直後くらい、ツエーゲン金沢の試合に招待された。私が勤める病院が協賛しているので、冠協賛試合でキックオフセレモニーやりませんかと依頼が来た。夢のような時間でした。非日常で刺激的でした。

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    ツエーゲン金沢キックオフセレモニー 2024年

     昔と今でなにが変わったのかと振り返ってみると、精神面は物事の受け取り方、感じ方が変わったと思う。自分はありのままで生きてよいということをはっきりわかった。まわりと比べる必要なんてないということ。できない自分を認めてあげることができるようになったこと。統合失調症というラベルが貼られてしまったけど、それは偏見や差別を受けることもあるが、ときには守ってくれる時もある。孤独の人生を歩むことになるが、慣れてしまえばこっちのもんだ。楽しめればよりいいね。体力面では、あんまり変わってないと思う。勤務時間もフルタイムで働けていないし、時短勤務だ。福祉就労のときから今に至って、労働時間は変わっていない。いやっ30分だけ伸ばすことができたか。仕事が終わったら、バタンキューの日が数日はあるので、それは昔から変わらない。デイケアのときから比べたら働けるようになったか。ただ一日の活動時間はあんまり伸びてないな。たまに、健常者の人も私もなにも変わらないよっと言ってくれる人がいる。嬉しいが、それでも私は人と違う部分があると思っている。これからの目標はフルタイムで働くことかな。コツコツ進んでいく。つぎは恋愛かもしれないな。病気になってから恋愛はしてないので、というか一生できないと思っていた。そうして、自分にもできるんじゃないかと思えているので、いい傾向だとおもう。自己肯定感が順調に上がってきている。これはグループホームの代表がたびたび、私を講演会にゲストスピーカーとして誘ってくれたおかげだ。自分は社会に必要な役割があるんだと感じられるようになった。そのため、自分で団体を立ち上げ今年は、金沢市協働まちづくりチャレンジ事業に応募しようと思っている。金沢市とタッグを組むことができれば自分の団体の信用性がつくので、自分のやりたいことが夢がより実現するようになる。福祉、医療関係の人たちもそうだけど、私は一般の人に声を届けたい。精神疾患に無関心層、もっと身近な病気だということを伝えたい。職場でのメンタル不調などでなったりするから。だから当事者の生の声が必要だとおもう。生活するうえでの生きる工夫とかヒントを得ることができると思っている。
     なぜ私が自分の団体を作ることができたのか、それまでに至った回復のきっかけとはなんなのか?自分が回復したきっかけは大きく2つ。繰り返しますが、ひとつはソーシャルフットボールとの出会い。もうひとつはグループホームに入居したことだった。自分の生きがいともいえる余暇活動に出会い、そして、生活を実家から独立して親と離れたことで自立に前向きになれたこと。一人暮らしではなくグループホームは精神的自立から炊事、家事、掃除などわかりやすく教えてくれるところ。一人暮らしに不安があったので、ピッタリだと思った。そして、もうすぐ住んで4年が経とうとしている。あっという間だった。相談もたくさんした。今もしているけど、相談内容が最初と比べたら変わってきてる。今は自分のやりたいことがほとんど。ソーシャルフットボールでは去年に大阪でアジア大会が開催された。韓国、台湾、日本の三チームとアジア連合で全部で四チームでリーグ戦を行った

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    Dream Asia Cup(第1回精神障がい者フットボールアジア大会)

    。アジア連合は親善試合という位置づけで韓国、台湾、日本と戦った。私はアジア連合の日本代表で選出され、

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    アジア連合対日本

    ソーシャルフットボールの普及啓発に重点を置いてる架け橋のような存在だ。閉会式のときにメダルをもらったBrige of hopeと書かれたメダルをもらい、すごく感銘を受けた。

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    2025年1月

    私の団体名もPonte(ポンテ)というがこれはイタリア語で架け橋という意味。ソーシャルフットボール発祥の地イタリアとアジア大会の影響で自己肯定感が上がって団体作ろうと思ったので、この名前にしました。アジア大会中も取材があり、大会前の2年と半年、前くらいから石川テレビさんの密着取材も受けていました。石川テレビのアナウンサーされていた方にはお世話になり、今は熊本でアナウンサーされております。

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    アナウンサーの飯田さんと私

    非現実的な日を過ごして、やってよかったと思っております。精神に疾患がある方は、自分もそうでしたけど、写真にすら写りたくないと思う時期があります。取材もありのままの自分を見せ続けました。恥ずかしいとかかっこ悪いとか思わなくなり、世にメッセージを送り届けたいという一心で受けていた。TVでも放映されたし、Youtubeにも動画残っている。一生の思い出だし宝物。このような予定で国際大会は幕を閉じる。このような大会に参加できたのも周囲のご理解とご協力があってのこと。職場の理解、グループホーム、主治医、相談員、訪問看護ステーションの方々との毎日の積み重ねがこの大会に行けたんだと改めて思う。支援する側、される側の関係を超えた関係性があったとおもう。一人の人間として関わっていたと思う。次のソーシャルフットボールの国際大会はまだ未定だ。関係者各位動きはあるみたいだが、多くの方が尽力してくれているので、私は選手として企画、運営、対戦チーム、サポーター、ファン、または大会中、選手がプレーに集中できる環境を整えてくれる方々に敬意と感謝の気持ちをもって準備していくだけだ。精神障がいは、国際的にも偏見や差別はまだまだあるので、もっと笑顔があふれ、時には、真剣な眼差しで試合をし、その姿が人の心を動かすと思う。そして今度は連合チームは経験したので、日本代表チームに選出されるように日々のトレーニングしていこう。
     私が所属している石川県白山市を拠点にしているプロフットサルチーム、ヴィンセドール白山のセカンドチームのヴ

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    ヴィンセドール白山

    ィンセドール白山アスピランチでは、平日週3回、土日も練習があるときはする。自宅から練習場所まで片道車で45分ほど運転して1時間30分トレーニングする。平日は、日中は仕事してから、夜練習する。精神が安定していないときは休む。昔は無理してでも参加していたので、それは自分が崩壊する道を辿ることになるので、福祉医療の関わってもらっている人から何十回というほど言われてきたので、今では自分で判断できるようになったし、調整もできている。そしたら無理せず充実した日々をさらに送ることができるようになった。練習はきついけど、終わった後の緊張がほどける瞬間がリラックスできるので健康にいいとおもう。帰ったらすぐには寝れないけど、仕事の疲れと、運動で体を使ったので、脳と身体の両方の疲れが丁度よく良い睡眠につながっていると思う。強度のあるトレーニングをした後は、食事やケアにも気を遣うようになった。練習1時間前に鮭おにぎり一個だけ食べて、練習後30分以内にプロテインとバナナと鮭おにぎり一個食べるようにしている。トレーニングの効果を限りなく出したい。あとは、栄養を取ることで回復も早くなるのでケガもしにくくなる。鮭おにぎりあきたら、違う味のおにぎりにする。油が多く入ってる食べ物や、揚げ物はトレーニングのある日は避ける。オフの日は揚げ物食べたりするよ。我慢だけしてたら精神的に体に悪いから。メリハリ大事だね。あとは連日練習が続く日は、途中でスーパー銭湯に行って、交代浴する。サウナと水風呂を3セットくり返し、あとは温水と水風呂で行う。サウナは自分と向き合うことのできる時間だから好きだ。リラックスできて。そしてその後の水風呂は冷たくて気持ちがよい。今日も一日お疲れ様と自分に一言言いたくなる。毎週のようにスーパー銭湯いけたらいいけど、節約したいときは、自宅の浴槽にお湯ためて入浴剤いれて浸かる日もある。疲労具合みて、ケガした自分を想像して、やっぱり嫌だと思ったら銭湯で交代浴を選択するようにしている。お金に余裕があれば自分のために使いたいけど。まだまだ先の話。私は現在37歳になる。若い時と比べて、食事やケアをしっかりしないとダメになるので、監督、メディカルコーチ、フィジカルコーチにアドバイスもらいながら、体を仕上げていく。アスピランチは石川県1部リーグに所属しているので、試合でパフォーマンスを発揮できるようにヴィンセドールのサポート体制も充実しているので助かっている。初めのころは体重が86キロあったが、今では68キロまで落とせた。私は小学校3年生から高校3年生までサッカーをしていた。それから31歳までサッカーとは離れて生活していました。31歳でヴィンセドールルミナスと出会いそしてヴィンセドール白山アスピランチにも所属して、体重を落とせた。体の変化は、心の変化にも繋がっていると感じた。精神疾患を患っている人は、まずはソーシャルフットボール始めてみることをおすすめする。各地域にチームはあり、全国で160チームあり、競技人口は2000人に及びます。精神疾患がある人がフットボールに取り組む割合は低いというJFAやJIFFの全国の障がい者サッカー競技人口率のデータ、他の障がいのカテゴリーよりも低いとされているので、やっぱりまだまだソーシャルフットボールの魅力が伝わっていないんだと思う。ボールを蹴るのが苦手な方でも全然大丈夫。初心者~経験者まで幅広く対応している。自分自身が楽しむことが大切とされているインクルーシブなスポーツなので、障がいあるなし関係なしにみんなが楽しめます。その場所で感じられる精神疾患に対する偏見や差別の壁みたいなものもなくなっていくと思ってる。ソーシャルフットボールの中でも、競技思考とエンジョイ思考があって、一人一人に価値観が違うので、難しいがやりがいはある。私は、所属歴が浅い選手に合わせていけばいいとおもう。それをクラブのルールとして決めて運営してけば良いと思ってる。新しい選手の価値観に合わせていけば競技人口も増えていくんじゃないかな。ヴィンセドールルミナスは小学生から60歳以上の方まで幅広く活動されている方がいるので、全員が楽しかったと思ってもらうように、総監督、監督、マネージャー、歴の長い選手が力を合わせて活動する。障害があるとかないとか関係ない共生社会がそこにある。ルミナスならではの経験、価値が存在している。世間からは障害のある方には無理はさせないほうがいいという見方もあるが、小さいクラブチームで自分らしく生きてる選手、利用者がいることも確かである。
     最後になりますが、誰に何を伝えたかったというと、私は一度社会に出て、ストレスで統合失調症と診断され、今までいた仲間、親友さえとも連絡を取ることはなくなりました。一人ぼっちになり、職にもつけず、自分が思い描いていた人生とはかけ離れた人生を送ることになりました。ただ、遠回りしましたが、回復のプロセスはある。希望はあるということを言いたい。精神疾患当事者と関わりのある方や無関心層まで、生きていく上でのコツや回復のきっかけが明日の生きる希望になればよいと思う。少しでも誰もが住みやすい街づくりができればと思う。最低限度な生活は保障されているので、そこから工夫しだいで豊かな生活ができるようになるまでの人生ストーリーを築き上げていく。自分のリカバリーストーリーはまだまだこれからだ。
    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    統合失調症になって、13年が経ち絶望していた頃から色んなことに挑戦してきて社会に還元できるようになってきたことを感じてこれています。自分の経験が少しでも同じような状況の人または、支援者、医療従事者、医療関係の学生、企業様、精神疾患に興味のある方に役に立てれば幸いです。

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