見出し画像

転ばないことは、なぜそんなに大事なのか【理学療法とは何か #020】

この連載は、6本を1シーズンとして進めています。
全体の流れを確認したい方は、以下の目次をご覧ください。

▶ このマガジンの目次

⸻

転ぶことは、誰にでも起こりうる出来事です。

しかし、人生の中で転倒が大きな意味を持つ時期は、意外とはっきりしています。幼児期と高齢期です。幼い子どもは、歩くことを覚える過程でよく転びます。しかし、多くの場合、それは発達の中にある転倒です。転びながら身体の使い方を覚え、立ち上がり、また歩き出します。

一方で、成人期になると、私たちは通常、特別なことがない限りはあまり転びません。スポーツ中、交通事故、路面の凍結、急な段差などがなければ、日常生活で頻繁に転ぶことは多くありません。仮に転んだとしても、若い身体は防御的な反応をとります。手をつく、身体をひねる、受け身を取る、瞬間的にバランスを取り直すなど、けがを最小限にしようとします。

しかし、高齢期の転倒は違います。

高齢者の場合、一度転ぶと、その後に何度も転ぶことが増えます。しかも、若いときなら打撲程度で済んだ転倒が、骨折や入院につながることがあります。高齢者にとっての転倒は、単なる一回の失敗ではありません。生活の未来を変えてしまう出来事になることがあります。

転倒で最も大きな問題の一つは、骨折です。手首の骨折のように、入院を伴わない場合もあります。しかし高齢者では、下肢や脊椎の骨折が大きな問題になります。大腿骨近位部骨折、脊椎圧迫骨折、骨盤周囲の骨折などが起これば、入院が必要になることがあります。歩くこと、立つこと、トイレへ行くこと、家に帰ることが一気に難しくなります。

若い人でも骨折はします。スポーツや交通外傷で骨折することはあります。しかし、高齢者の場合は、日常生活の中の転倒が骨折につながることがあります。ほんの小さな段差、カーペットの端、畳の縁、夜間のトイレへの移動などがきっかけになります。本人にとっては「まさかここで転ぶとは思わなかった」という転倒です。しかし、その「思いもよらなかった転倒」こそ、身体能力の低下をかなり強く示していることがあります。

理学療法の現場では、骨折後に関わることが多くあります。特に高齢者の骨折リハビリテーションでは、転倒が契機になっていることが非常に多いです。また、病棟内の医療事故としても、転倒は大きな問題です。つまり、転倒は地域生活の問題であると同時に、医療施設の中でも重要な問題です。

転倒によって入院すると、生活は大きく変わります。骨折そのものの治療が必要になります。手術が必要になることもあります。痛みもあります。安静期間が生じます。歩く量が減ります。筋力が落ちます。体力も落ちます。そして、高齢者の場合は、その落ちた機能が若い人のようには簡単に戻りません。

ここで重要なのは、転倒には二つの視点が必要だということです。

一つは、骨折からどう回復するかという視点です。骨折した後に、痛みをどう管理し、どこまで荷重できるのかを確認し、立ち上がり、歩行、階段、トイレ動作をどう回復していくかを考えます。このとき、高齢やフレイルによる回復の遅さが大きな問題になります。

もう一つは、そもそもなぜ転倒したのかという視点です。ここを見落としてはいけません。骨折が治っても、転倒しやすい身体のままなら、また転ぶ可能性があります。運動器不安定症のように、筋力やバランス能力が低下している場合があります。隠れた脳卒中や神経系の問題によって、片側の反応が落ちている場合もあります。白内障などによって段差が見えにくくなっている場合もあります。薬剤の影響でふらつきやすくなっている場合もあります。

つまり、転倒後の理学療法は、骨折した部位を回復させるだけでは足りません。なぜ転んだのかを見なければなりません。転倒は結果であり、その背景には身体、認知、視覚、環境、薬剤、生活習慣などが重なっています。

さらに、転倒は身体だけでなく、心にも影響します。

一度転ぶと、「また転ぶのではないか」という恐怖が生まれます。骨折した人であれば、「また折れるのではないか」という不安も出ます。この怖さは、転倒しやすくなった人にしかわからない部分があります。若い人が「気をつければいいです」と言っても、本人にとってはそれほど簡単ではありません。

転倒への恐怖が強くなると、人は動かなくなります。外出を避けるようになります。階段を避けます。暗い場所を避けます。買い物を控えます。トイレに行くのも慎重になります。すると、歩く量が減ります。筋力が落ちます。バランス能力も落ちます。そして、さらに転びやすくなります。ここに悪循環があります。

転倒予防が重要なのは、この悪循環を防ぐためです。

転倒予防というと、「筋力をつけましょう」と言われることが多いです。これは間違いではありません。筋力は、転ばないための重要な要素です。特に下肢筋力やバランス能力は大切です。片脚立位時間などの簡単な評価は、転倒リスクを考える手がかりになります。患者さん自身に、「自分は思っていたより片脚で立てないのだ」と気づいてもらうだけでも、転倒予防への意識は変わります。

しかし、転倒予防は筋力だけでは足りません。

理学療法士は、歩行、バランス、筋力、反応速度、足部の状態、視覚、認知、環境、杖や装具の使用状況を見ます。どこでつまずきやすいのか、どの方向へふらつきやすいのか、暗い場所で危ないのか、方向転換で危ないのか、立ち上がった直後にふらつくのかを見ます。転倒しやすい人の身体は、単に弱いのではなく、複数の条件が重なって不安定になっています。

環境も重要です。自宅の小さな段差、畳の縁、カーペット、コード、玄関、浴室、夜間のトイレ動線などは、転倒のきっかけになります。本人にとっては慣れた家でも、身体能力が低下すると危険な場所に変わります。家は同じでも、身体が変わると環境の意味が変わります。

杖の使用も重要です。「転ばぬ先の杖」という言葉がありますが、これは理学療法の文脈でも正しい意味で考えるべきです。杖は、弱くなった人が仕方なく使うものではありません。安全に移動するための補助具です。適切なタイミングで杖を使うことで、転倒を防ぎ、外出の機会を保てることがあります。逆に、杖を使うことを恥ずかしいと思って避けると、かえって生活範囲が狭くなることがあります。

理学療法士は、転倒した後に関わることが多いです。しかし、本当は転倒する前に関わることが重要です。転倒してからでは遅い場合があります。骨折してから、入院してから、生活が大きく変わってからでは、元に戻すのに大きな時間と労力が必要になります。だからこそ予防が重要です。

予防とは、何も起きていない人に過剰に不安を与えることではありません。未来の危険を見える形にすることです。片脚立位が短くなっていること、歩幅が小さくなっていること、階段を避けるようになっていること、外出が減っていることを、今のうちに確認することです。そして、その段階で運動、動作指導、環境調整、補助具、情報提供を組み合わせることです。

転倒は、一回の事故ではありません。
転倒は、その後も続く事故になる可能性を秘めています。
だからこそ、一度目を防ぐことには大きな意味があります。

次回は、「筋力低下だけでは説明できない衰え」を考えます。筋力は、理学療法士にとって評価と治療の中心的な概念です。しかし、衰えは筋力だけでは説明できません。関節の動き、神経の働き、バランス、感覚、反応速度、認知、予備力が重なっています。次回は、筋力低下とはどのような現象であり、なぜそれだけでは高齢者の衰えを説明しきれないのかを見ていきます。

この連載の全体像と過去記事は、以下の目次から確認できます。




https://advanced-therapist.vercel.app/

いいなと思ったら応援しよう!