
【第4話】『再生するサラリーマン』──不正送金事件から始まる、会社再建ミステリー
第4話|送金先の正体
神谷浩一は、自席に戻るとすぐにPCを立ち上げ、経理部から共有された送金履歴のデータに目を通した。500万円──問題の金は、都内のとある地方銀行にある個人口座へと流れていた。
「名義は……高梨 誠一(たかなし せいいち)?」
聞き慣れない名前だ。社内の誰とも一致しない。取引先のデータベースを検索しても該当なし。口座は事件発覚の約3週間前に開設されており、そこから数日で500万円が一括で送金されていた。
しかも──送金の翌日には、金はすでに全額引き出されていた。
「まるで、最初から計画されていたような動きやな……」
神谷は小さくつぶやいた。
電話を手に取り、銀行の顧客管理部へ問い合わせる準備を始めた。
そのとき、ノックの音とともにドアが開き、佐々木翔が顔を出した。
「課長、ちょっといいですか」
「おう、入って」
佐々木は、少し緊張した面持ちで近づいてきた。
「……昨日、気になることがあったんです。実は、帰宅途中で誰かに尾行されてるような気がして」
「尾行?」
「ええ。何度か曲がり角で振り返ったら、ずっと同じ男が距離を保って歩いていて……地味なスーツ姿で、30代後半くらいの、目立たない感じの男でした」
神谷は椅子から身を乗り出した。
「顔は見たか?」
「正面からは……でも、あまりにも静かに、かつ執拗に後をつけてきて……怖くなって途中のコンビニで時間を潰して帰ったんです」
「なんでそのとき言わんかった」
「……大げさかと思って。でも、今朝も会社の最寄駅で、似たような男を見かけて……」
神谷は短くうなずいた。
「分かった。今後、できるだけ人通りの多いルートで通勤しろ。何かあったらすぐ連絡しろよ」
「はい……」
神谷は佐々木を送り出した後、改めてデータに視線を戻す。
尾行といい、500万円の即時引き出しといい、これは偶然ではない。
──組織的な何かが動いている。
再び銀行に連絡し、口座の詳細照会を依頼した。
しばらくして、銀行の担当者から折り返しが入った。
「高梨誠一という名義人ですが、本人確認書類として提示された運転免許証は偽造の可能性が高いことがわかりました」
「……つまり、口座自体がダミーか」
「はい。既に資金は複数のATMから分割して現金で引き出され、追跡は困難です」
神谷は頭を抱えた。
送金先は幽霊口座。名義人も偽造。完全に計画された犯行。
ふと、5年前の別の事件を思い出した。別の部署で発生した備品横流し事件──内部の人間が巧妙に在庫データを改ざんし、物品を外部に流していた。
当時も、証拠がほとんど残らず、主犯の特定はできなかった。
だが今度は、金額も規模も桁違いだ。
そのとき、再び内線が鳴った。
「経理部の藤田です。課長、少しお時間いただけますか」
「どうした?」
「件の送金ログ、もう一つ気になる点が出てきました。操作を行ったPCのIPアドレスと、別の社員が最近使用していた端末のIPが一致していました」
「誰の端末や?」
藤田の声がわずかに濁った。
「……経営企画部の、橋本課長のものです」
神谷は一瞬、言葉を失った。
橋本課長。経営企画部きっての切れ者で、財務と戦略を同時に担う実力者。社内でも信頼が厚く、上層部とのパイプも太い。
だが、神谷はふと、数週間前のやり取りを思い出していた。
橋本がやけに執拗に「ある取引履歴を共有してほしい」と頼んできた件。
あのときは、たいした意図を感じなかったが──今になって思えば、あれも布石だったのかもしれない。
神谷の脳裏に、橋本の特徴的な表情が浮かぶ。冷ややかで理知的、けれどどこか底知れぬものを感じさせる目──あれは何かを“知っている者”の目だった。
「……橋本が、この件に関わっている可能性があると?」
「証拠にはなりませんが、関連性はあります。私たちのシステムでは、社内IPのアクセス履歴までしか追えませんが……ログインは確かに橋本課長の端末から行われています」
「念のため、橋本の過去の勤務状況とアクセスログ、全部洗い直してくれ」
「わかりました」
神谷はゆっくりと受話器を置いた。
状況が一変していた。
これまでは高橋が“鍵”だと思っていた。しかし、実行犯ではなく、彼もまた何者かに“使われた”のかもしれない。
では、本当の“指示者”は──?
橋本が単独で動くとは思えない。
「……この会社の中に、もう一人“黒幕”がいる」
神谷は静かに、PCの画面を閉じた。
この時点で、事件はもはや単なる横領ではない。企業の中枢に潜む“何か”が、じわじわと輪郭を現し始めていた。
神谷は立ち上がり、コートを羽織った。
「次は……橋本に話を聞く番やな」
そのままエレベーターに乗り、経営企画部のフロアへ向かう。
廊下の奥、重厚な木製のドアに手をかける前、神谷はひとつ深呼吸した。
中では、何が待っているのか。
そしてその先に、どんな“闇”が潜んでいるのか──
彼の胸中には、真実への焦りと、それを掴むことへの静かな闘志が、確かに燃えていた。
ドアの向こうで、運命の歯車が音を立てて回り始めようとしている。
神谷は、ゆっくりとノックした。