
【第3話】『再生するサラリーマン』──不正送金事件から始まる、会社再建ミステリー
第3話|経理部・高橋の影
神谷浩一は、経理部の一角に足を踏み入れた。
フロア全体が静まり返っている。会話といえば、電卓の打鍵音と書類をめくる音だけ。昼休み前だというのに、緊張した空気が漂っていた。
目的はただ一つ──高橋に話を聞くこと。
高橋稔(たかはし みのる)。経理歴20年超のベテラン。無口で社交的ではなく、雑談の輪にも加わらない。冷静沈着というより、淡々と物事を処理するタイプだ。
40代後半、小太りで姿勢がやや前屈み。眼鏡の奥の目は、いつもどこか虚ろだ。淡いグレーのスーツにネイビーのネクタイ、髪はきっちり七三。すべてが「目立たない」ことを意識しているかのようだった。
神谷は、経理部の誰とも目を合わせず、高橋の席へと一直線に向かった。
「高橋さん、ちょっといいか?」
神谷の声に、彼は顔を上げた。驚きはなかった。ただ、わずかに目が細まったように見えた。
「……なんでしょう」
応接スペースに移動し、二人きりになった。間にコーヒーテーブルを挟んで座ると、神谷は核心に切り込んだ。
「佐々木から聞いた。数日前、彼のパソコンを使ったそうやな」
「ええ、少しだけ」
「どんな目的で?」
「取引履歴を見せてほしいと頼んだんです。私の端末だと一部のデータにアクセスできなかったもので」
神谷は一瞬眉をひそめた。
「経理部の端末でアクセスできないって、おかしくないか? 営業の情報は見られるはずやろ」
「……そうですが、念のため確認したくて」
言葉に詰まりながらも、淡々と返す高橋。
神谷はその態度に、どこか“用意されすぎている”違和感を覚えた。
「佐々木のIDで送金が行われたのは、あんたが彼のパソコンを使った後や。偶然か?」
「それは……さすがに、私にはわかりません」
「昨夜、佐々木の端末に“別の端末からログインされた”という警告が出たそうや。心当たりは?」
高橋は小さく息を吐いた。
「ないですね」
語尾に硬さがにじむ。
──何かを隠している。
神谷の直感がそう囁いていた。
しばらく沈黙が流れた。
「……500万円が送金された。IDは佐々木。パソコンも佐々木のもの。そして、その直前にあんたが彼の端末を使っていた」
「……」
「これをどう説明する?」
高橋は顔を伏せ、眼鏡の縁が鈍く光った。
「……疑われても仕方がないですね」
「じゃあ教えてくれ。あんたが関わってるのか?」
沈黙。
やがて高橋は、ポツリと漏らした。
「……私は、金を動かしてません」
「じゃあ誰が?」
「……それは……」
言い淀む高橋。
神谷は机の上に両肘をつき、身を乗り出した。
「本当のことを言ってくれ。俺は、無実の部下を守りたいんや」
その言葉に、高橋の目が一瞬だけ揺れた。
「……脅されていたんです」
「脅されていた?」
「はい。匿名のメールで、“5年前の不正”をばらされたくなければ金を用意しろ、と……」
神谷は表情を険しくした。
「5年前って……何があった?」
「当時、上司の指示で帳簿の数字を一部改ざんしました。粉飾というほどではありませんが……間違いなく、不正でした」
「それを誰かに掴まれていた?」
「はい。証拠を持っていると書かれていました」
「で、金をどう用意するつもりだった?」
「……迷っていました。でも……その前に、送金が実行されてしまった」
──つまり、誰かが先に動いた。
高橋が脅され、動こうとしたことを“誰か”が察知し、その流れを利用した──
神谷の頭の中で、新たな線が引かれていく。
「メール、まだ残ってるか?」
「……はい。削除しようか迷ったんですが、怖くてできなくて……」
「見せてくれ」
高橋はスマホを取り出し、受信履歴から一通のメールを開いた。
送信元はランダムな英数字のアドレス。本文は短い。
“5年前の帳簿操作、記録はすべて持っている。500万を用意しろ。期日は明日だ。騒げば会社ごと終わる。”
神谷はスクリーンを凝視した。
──これは、単なる社内の不正ではない。
外部か、それとも社内にもう一人いるのか──
神谷の中に、新たな火が灯った。
「高橋、安心しろ。俺が必ず突き止める」
その言葉に、高橋は初めて、ほんのわずかだが安堵の表情を浮かべた。
だがこのとき神谷はまだ知らなかった。
この“5年前の不正”が、予想以上に深く、広がりのある闇とつながっていることを──。
その日の午後、神谷はデスクに戻ると、すぐに藤田を呼び出した。
「送金先の詳細、まだ調査中やったな」
「はい。ただ、気になる点が一つ……」
「なんや?」
「高橋さんが“金を用意しようか迷っていた”と言っていた日時と、実際に送金が行われた時間。その間に、経営企画部の端末から不審なログインがあった形跡があります」
神谷の表情が変わった。
「……経営企画部?」
「はい。しかも、そのIPアドレスは──橋本課長のものと一致していました」
神谷はゆっくりと背もたれに体を預けた。
高橋の影の先に、別の影がある。
今度は“本丸”に踏み込む覚悟が必要になってきた。