
【第7話】『再生するサラリーマン』──不正送金事件から始まる、会社再建ミステリー
第7話|黒幕との対峙
冬の朝、神谷浩一は重く冷たい空気を纏いながら、社内を歩いていた。
経営陣の緊急会議が開かれる日──今日が、すべての決着をつける日だった。
廊下を歩く社員たちは、神谷を見ると目をそらすか、意味ありげにヒソヒソとささやき合った。
緊張と不安が、社内を支配していた。
だが、神谷の心は静かだった。
彼は知っている。
今日、もし失敗すれば、会社も、自分自身も、取り返しのつかない深い闇へと沈むことを。
だがそれでも、真実を暴き出さなければならない。
■
午前十時──
経営陣の面々が重々しい表情で会議室に集まった。
瀬川常務も、当然その場にいた。
彼はいつものように落ち着いた微笑みを浮かべ、何も知らないかのように椅子に腰かけた。
だが、その眼光だけは、鋭く神谷を射抜いていた。
「では、本日の議題に入ります」
監査部の主任、遠藤が静かに口を開いた。
「社内資金の不正流用に関して、重要な進展がありました」
ざわめきが広がる。
瀬川は、動じた素振りを見せなかった。
神谷は、プロジェクターに資料を投影し始めた。
そこには、これまでの調査で得た証拠の数々──
送金履歴、システムログ、匿名の脅迫メール、そして例の『株価操作計画書』が、順に映し出された。
空気がピリピリと張り詰める。
重役たちが互いに顔を見合わせる中、瀬川だけが悠然と座っていた。
「これらの資料はすべて、社内監査、および外部監査機関によって精査済みです」
神谷は淡々と言った。
「そして、ここにある送金指示──これは、瀬川常務、あなたのアカウントから発信されたものです」
会議室が静まり返った。
瀬川はゆっくりと口元を歪め、微笑んだ。
「……なるほど。よくここまで辿り着いたな」
彼は椅子にもたれかかり、静かに天井を仰いだ。
その仕草には、敗北感も、後悔もなかった。
あるのは、ただ──冷めきった諦念だけだった。
「君たちは知らないだろう。会社というものが、いかに脆く、そして汚れた存在かを」
瀬川はぽつりと呟いた。
「私は、この会社を守ろうとした。それだけだ」
「守るために、株価を操作し、部下を脅し、不正を重ねたと?」
神谷の声は低かった。
「それが最も合理的な方法だった」
瀬川は、まるで当然のように言った。
「美談では、会社は生き残れない。正論では、金は集まらない。理想だけでは、何も守れない」
■
神谷は瀬川を見つめた。
かつて、彼も瀬川に憧れていた時期があった。
若手だったころ、鋭い経営感覚と実行力で会社を引っ張っていた瀬川は、まさに理想の上司だった。
──あの頃の瀬川さんは、どこへ行ったんや。
「常務──いや、瀬川さん」
神谷はあえて、役職を外して呼び捨てた。
「あなたが守ろうとしたのは、会社じゃない。あなた自身の権力だ」
瀬川の目が、鋭く細められた。
「……甘いな、神谷君」
「甘くて結構や。俺は、そんなもん守るためにこの会社におるわけやない」
神谷の言葉に、重役たちの間で小さなどよめきが起きた。
「会社はな、人や。人がいて初めて会社になる。そんなことも、あんたには理解できんかったんや」
瀬川は何も言わなかった。
彼の沈黙が、何よりもの答えだった。
そして、ふと神谷は気付いた。
瀬川の表情に、どこか寂しげな色が混じっていることに。
──この男も、かつては理想を抱いていたのかもしれない。
だが、いつしか現実に押しつぶされ、信じるものを失ったのだ。
その悲しみを思うと、神谷の胸にも痛みが走った。
だが、それでも許すわけにはいかない。
■
午後、監査部から正式に発表された。
瀬川常務、職務停止。
社内は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
ニュース速報でも報じられ、会社の株価はさらに暴落。
一部の取引先から契約解除の申し入れも相次いだ。
廊下では社員たちが顔を青ざめ、誰もが自分の未来を案じていた。
オフィスの空気は、まるで瓦礫の山に取り残された避難民のようだった。
だが──それでも、神谷は後悔しなかった。
夜。
社内の明かりがまばらに灯る中、神谷は一人、資料をまとめていた。
そこへ佐々木がやってきた。
「課長……終わりましたね」
「ああ。終わった」
二人は静かに、疲労と達成感の入り混じった笑みを交わした。
「これから、どうするんですか?」
佐々木の問いに、神谷は少しだけ考えた。
「俺は……しばらく休むわ」
「えっ」
「ようけ走りすぎた。今は、少しだけ、自分を労ろうと思う」
佐々木はうなずいた。
「……俺も、頑張ります。課長に恥じないように」
神谷は肩を叩いた。
「お前はもう、十分頑張っとる」
そして二人は、夜のビルを後にした。
──長い戦いだった。
だが、真実は守られた。
神谷は心に誓った。
たとえどんなに孤独な戦いでも。
たとえどんなに苦しくても。
「守るべきものを、守れる人間でありたい」と。