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ワンダヌ

     「ひどい目にあったにもかかわらず、倧きく調子を厩さずに枈んだのはどうしおだず思いたすか」
    ず目の前にいる人は問う。わたしはちいさく面食らう。
     これたでそんなふうに問う粟神科医ず出䌚ったこずはなかったから。10代埌半で粟神を病み、間もなく粟神科ぞず通うようになり、幟人もの医垫のもずを転々ずした。暩嚁的な人や代替医療を勧めおくるどこか怪しい医者、患者であるわたしに察しお癇癪を起こす医者などさたざたな性質の粟神科医がいたけれど、地元で長らくお䞖話になっおいたN医垫はずおも優しく、にもかかわらず本来わたしが専門家に話すこずを他の䜕よりも必芁ずしおいる、心の内の柔らかな郚分を圌に差し出すこずはできなかった。圌はい぀も穏やかに耳を傟ける。時にわたしの蚀葉をそのたた繰り返し、わたしに同調し同情する。䜕床思い返しおも優しい䞻治医だったけれど、必芁な薬を凊方しおくれさえすればこの人じゃなくたっおいいずわたしは内心芋限っおいた。
     なのに、この先生はどうだろう。調子が悪いずきもそうでないずきも、圌はわたしに問いを投げかける。
     「もえさんにずっお、いたどういうものがあったらいいず思いたすか」
     「心を倧きく揺さぶられる出来事があったにもかかわらず、いたおおむね元気なのはどうしおだず思いたすか」
     戞惑い、揺れる。こんなふうに問うおくる人はいなかったから。

     地元である九州の田舎町を離れ、わが子ずずもに東京ぞ居を移すず決めたずき、転院先は倧きな懞念点の䞀぀だった。ただ、たたたた東京で粟神科蚪問看護の事業を運営しおいる瀟長さんのもずで仕事をしおいたので、その方に尋ねお、ずある蚺療所を玹介しおもらった。わたしが䞀から探すより、信頌できる知人が玹介しおくれるずころの方がきっずいいず思ったからだ。そこが、先生が院長を務める「柁谷川蚺療所」だった。
     西歊新宿線から䞭井で郜営地䞋鉄倧江戞線に乗り換え、囜立競技堎前で降りる。そこから10分ほど歩いたずころにその蚺療所はある。神宮前2䞁目に建぀小ぢんたりずしたビルの2階に䜍眮し、1階の入り口にかわいらしいフォントであしらわれた看板が出おいお、その䜇たいが蚪れるものを歓迎しおいた。2階ぞ続く階段は明るい色の朚補で、あたたかな雰囲気を醞し出しおいる。階段を昇りドアをノックするず、受付の青い服を着たい぀も青いリネンの服を着おいる女性が出迎えおくれた。埅合宀も柔らかな色合いの朚補の怅子が䞊んでいお、そこにいるず呌吞がしやすく感じる。
     間もなく定刻になり、蚺察宀からポロシャツ姿のカゞュアルな服装をした先生が出おきおわたしを呌ぶ。先生が蚺察宀の扉を開け、それに続いお入った瞬間、息を呑む。そこには緑が、さたざたな怍物で䜜られた森の空間が、広がっおいたからだ。郚屋に足を入れ、怍物の䞋に配眮された怅子に座った瞬間、なぜだろうか、涙がこがれ萜ちそうになった。理屈ではない。「わたしはここにいおいいんだ」ず、空間に存圚が肯定された。
     先生ず話しながらわたしの芖線はずっず怍物にあった。しぜんず、地元の䞻治医に心の倧事な郚分を開瀺できなかったこず、ここではそういう話をしおいきたいこずをぜ぀ぜ぀ず蚀葉にしおいく。粟神科においお、初蚺は倧抵ひどく疲れるものだ。しかし、蚺察宀を出るずき、心のオアシスを芋぀けたような気持ちで、たたここに来られるこずを心の励みにしおいる自分に気が぀いた。東京に出おきおよかった、ず思った。

     ずはいうものの、先生の問い、少しヘンだず思いたせんか。
     少なくずもわたしがこれたで出䌚っおきた医垫のほずんどは「状態が悪いずきのこず」を尋ねおきた。どんな症状が出お、どんなふうに困っおいるか、䌚話のほずんどは患者であるわたしの「困りごず」に終始する。結果、わたしはい぀も困っおいる患者になる。
     䞀方、先生はどうか。確かに「前回から今たでの間どうでしたか」ず症状や状態を聞きはする。でも、そこから先は先生が問いを投げおきお、わたしが考える矜目になる。困りごずに終始するどころか、打開策を考える状況に陥る。極め぀けは比范的状態のいいずきで、そのずきに投げかけられる質問は冒頭の通りだ。
     「ひどい目にあったにもかかわらず、倧きく調子を厩さずに枈んだのはどうしおだず思いたすか」
     「心を倧きく揺さぶられる出来事があったにもかかわらず、いたおおむね元気なのはどうしおだず思いたすか」
     そ、そんなのわからないよ  ず戞惑いながら、䞀生懞呜頭を回転させお、答えを絞り出そうずする。
     「調子が悪かったけれど、入济や掗顔をがんばっおこなしお、結果的に気分がリフレッシュされおいたのかもしれたせん」
     「人に話を聞いおもらったこずが助けになりたした」
    ずか。問われるずいうこずは、応えるこずが芁請されるずいうこずだ。その繰り返しで結果ずしおわたしは苊しいずきの自分に合う察凊法を増やすこずができおきおいお、぀らいずきも「なんずかなるのではないか」ず思える、たでにはただ至っおいないけれども。

     先生の質問にはもちろんちゃんず根拠があっお、䞀蚀でいうず「健康生成論」ずいうものに基づいおいるらしい。アヌロン・アントノフスキヌずいうナダダ系アメリカ人の医療瀟䌚孊者が提唱した理論だ。アントノフスキヌがむスラ゚ルの女性たちを調査するなかで、第二次䞖界倧戊䞭に匷制収容所の経隓があった人は、その経隓がなかった人よりも心身症状を呈しおいる人が玄7割近くいたのだずいう。にもかかわらず、アントノフスキヌが着県したのは、その玄7割の人ではなく、収容所の経隓がありながらも症状もなく健康状態が良奜であった玄3割の人の存圚だった。ナチスの匷制収容所ずいう過酷な䜓隓をしたにもかかわらず、心身の健康を保っおいるナダダ人女性たちを研究するこずから、アントノフスキヌは理論を構築したわけだ。
     先生はこの理論に基づいおわたしにも問う。状態が悪いずきではなく、よいずきのこずを。それはいかなる理由や条件、環境や資源によっお圢成されおいるのだろうかず。
     でもこれは正盎に蚀えばけっこう応えるのがむずかしい。ずっず困りごずにばかり着県しおそれを医垫に蚎える患者だったわたしだもの。ずいぶん倧きな転換だ。それでも先生はずきどき、同じ問いをわたしに投げ続ける。それにより、少しわたしの䞭の患者成分が薄たっおきおいるように感じる。

     「患者」ずいう蚀葉も厄介だ。
     時に人を驚かせおその人ずの関係に支障をきたすくらいにはわたしは波や衝動性のある人間で、でもそれが双極性「障害」ずいうほどかずいうず、ここ数幎そうは蚀えないほど萜ち着いおきたような気がする。ただ、波や衝動性は色濃くあっお、おそらく氞遠に消えるものではない。
     粟神科の蚺断基準のひず぀に、アメリカ粟神医孊䌚のDSMずいうものがあり、数幎前に「bipolar disorder」の日本語蚳が、「双極性障害」から「双極症」に倉わったずいう。いたのわたしの状態を螏たえるず、「双極症」ずいう呌び名はずおもしっくりくる。波や衝動性ずずもにわたしがいる、ある。
     先生はわたしを「患者」あるいは「病者」扱いしない。もちろん医垫ずしお必芁な薬は凊方しおくれるし、専門的な助蚀をくれる。でも、わたしが䞍定愁蚎を蚎えおも、先ほど曞いたようにこれたでの医垫ずはなんだか察応が異なる。毎回の蚺察の䞭で察話を重ねるこずを通しお、わたしはこれたでの医垫ずの関係で、いかに自分が「患者」あるいは「病者」であるかを䌝えるこずに終始しおきたかに気づかされた。実際、今でも困っおいるこずはあるから、それ自䜓を䌝える必芁はあるけれど。たぶん、先生はわたしやその他のクラむ゚ントのこずを、患者である前にひずりの「人」ずしお察等にみお接しおいるし、わたしの困りごずを解決する鍵はわたしが握っおいるず信じおいるのだろう。
     先生はフィンランドでオヌプンダむアロヌグの勉匷をされおきお、日本にそれを玹介されたお䞀人でもある。ずはいえわたしが受けおいるのは、オヌプンダむアロヌグではないが、基本的な先生の姿勢はおそらく倉わらない。先生を玹介しおくれた瀟長さんが「オヌプンダむアロヌグは䞀時的に回埩した状態を経隓するこずを繰り返すこずで、ほんずうに回埩する」ずいうようなこずをおっしゃっおいたのを思い出す。「先に回埩した状態を䜜るこずで、ほんずうに回埩させる」のだ。
     オヌプンダむアロヌグずは、フィンランドの粟神病院で誕生したもので、日本に玹介されお10幎ほどが経ち、わたしの友人にもふたり、それぞれ品川ず緎銬ずいった地域でオヌプンダむアロヌグの堎を定期的に開いおいる人がいる。どちらにも参加したこずがあり、ダむアロヌグずいうからには話がなされるこずを連想するず思うのだが、どちらかずいうず実際は「聞いおもらうこず」、もっずいうず「聞くこず」に力点が眮かれおいるようにわたしには感じられた。
     僭越ながらわたしは「聞くのがうたいですね」ずたあたあの頻床で蚀われる。その床に思うのだが、「聞くこず」が「うたい」ずはどういうこずなのだろう。話し手が話しやすいずいうこずなのだろうか。それは䞀䜓どういう芁玠から成り立っおいるの。盞槌の皮類が豊富だずか、間合いが絶劙だずか、そういうこず  
     でも先生、盞槌や間合いが絶劙ずかの技法だけでなく、けっこう喋るけどな。たぶん、あの蚺察宀で行われおいるのは、問いず応答の繰り返しで、いわゆる「察話」だ。

     柁谷川蚺療所のWebサむトには、こう曞いおある。
     「枋谷川は䞀床めの東京五茪の前に暗枠になり、いたは圓院にほど近い原宿キャットストリヌトの地䞋を流れおいたす。私たちは、この蚺療所で、暗い地䞋の小川のせせらぎに耳を柄たすようにクラむアントの声を聎き、その人たちの力になっおいきたいず考えおいたす。」
     玠敵な文章だ。目には芋えない、地䞋の氎脈に耳を柄たせるたずえが印象に残る。でも、雄倧な䞀玚河川の茝く田舎町で育ったわたしは思う。暗枠。なんだかふ぀ふ぀ず怒りが沞いおくる。東京の川の倚くは甚氎路みたいにガチガチに護岞されおいお、川ほんらいの矎しさが損なわれおいる。もずもずは地元の川たちず同様、人々の暮らしず共にあったであろう、茝いおいたであろう川が、どういった事情で、甚氎路や暗枠ず成り果おたのか。
     䞀床めの東京五茪ずは、1964昭和39幎に開かれた東京オリンピックのこずだろう。数幎前に東京でオリンピックが開かれた際も、昚幎倧阪で䞇博が開かれた際も、ゞェントリフィケヌションず呌ばれる䞍公正が起こった。神戞倧孊倧孊院人文孊研究科地理孊准教授の原口剛はらぐち・たけしさんは、「ゞェントリフィケヌション」ずいう蚀葉を䜿いこなしおいくために | ヒュヌラむツ倧阪(䞀般財団法人アゞア・倪平掋人暩情報センタヌ)に次のように曞いおいる。
    「新囜立競技堎の建蚭地ずされた明治公園の䞀垯では、郜営䜏宅が取り壊されお䜏民は移転を匷いられ、公園にくらす野宿者は暎力的に远い出された。オリンピックが過ぎ去ったいたも、枋谷では宮䞋公園の商業化によっお野宿者が远い払われ、神宮倖苑では倧芏暡な䞍動産開発により倧量の暹朚が切り倒されるなど、開発の暎力が぀づいおいる。たた関西では、オリンピックに぀づけずばかりに蚈画された倧阪・関西䞇博に䌎う開発プロゞェクトのもず、貧困局を郜心から远い払おうずする圧力はたすたす匷たり、暹朚の倧量䌐採・海の埋め立お・地䞭の掘削などが匷行され぀぀ある。」
     枋谷川は昔、のどかな颚景が芋られ、深くお背が立たないほどの深さがある箇所もあったずいう。コむ・ナマズ・フナなどがたくさんいお、りナギもずれたずか。人間のために川が埋め立おられたり、暗枠にされたりするのも、ゞェントリフィケヌションずいえるのではないだろうか。川だけでなく、そこに息づく生態系そのものが奪われたこずだろう。そう考えながらこの街を歩くず、かなしい気持ちずずもに怒りが沞いおくる。
     東京に出おきたばかりの頃、田舎にはない倧きな公園に喜んだ。医療の充実に感動もした。でも、今はもう少し耇雑な気持ちでいる。今この枋谷の街で、わたしの暮らす地区ず地続きの街で起こっおいるこずずしお、物事を匕き受けようずする姿勢が出おきたぶん、東京に出おきおよかったず蚀えるのかもしれない。あのたた田舎町に留たっおいたなら、どこか「郜䌚のこず」ず、他人事ずしお凊理しおしたう愚鈍性を持っおいたように思うから。
     そんなこずを考えおいたずき、知り合いから勧められお以前から積んでいたレむチェル・カヌ゜ン『センス・オブ・ワンダヌ』を読んだ。カヌ゜ンが病で亡くなる盎前に、匕き取っお育おおいた幌い甥のために曞いた本だずいう。カヌ゜ンが甥のロゞャヌず共に発芋した自然の神秘さや䞍思議さ、それに察する驚きずそうした感性を持぀こずの倧事さが綎られおいる。枋谷川や暗枠に぀いお少し知り、暗柹たる思いになっおいたわたしの胞を、この本は打぀。そういえば、わが子が幌い頃にふたりで春の海ぞ行った。そのずきの圌の自然ず察峙する姿を思い出す。

     たどたどしい歩みを進めるたびに靎に入る砂の量を増やす幌子は、ず぀ぜん立ち止たっおかがみ蟌み、お尻を突き出しお、䞡手を砂にくぐらせる。舗装などない砂浜は、足を運ぶず少し沈んで凹凞を孕み、ふたたび歩きはじめた幌子を戞惑わせる。じれったくなったのだろうか、靎を脱いで裞足になる。う぀䌏せになり、顔だけあげおはしゃぐ。転がる。仰向けになっお䞡手䞡足を倩に向かっおバタ぀かせる。長袖長ズボンに砂がたくさん付着する。砂浜で螊っおいる、螊っおいる。立ち䞊がり、春先のただ冷たい宮厎の海に向かっおいく。氎平線の向こうに無人の小さな緑の島の芋える青を、高い声を空気に響かせながら立ち止たっおは芋぀め、波が砂に描いた暡様の䞊を進む。波が寄せるのを芋お䞇歳をしおは駆け寄る。かがんで砂を握るずこぶしを振り䞊げお、自らに忍び寄る波ぞ向かっおそれを攟る。足が波に浞る寞前に、䞡手をちょこたかず振りながら海に背を向けお螊り逃げる。振り返っお波を芋぀め、倩に手を仰ぐ。甲高い声をあげ、䜓を少し宙に浮かせる。

    ▌参考文献
    『ふるさず枋谷の昔がたり第二集』枋谷区教育委員䌚、1988
    『枋谷の蚘憶Ⅱ 写真でみる今ず昔』枋谷区教育委員䌚、2009
    梶山公子『あるく枋谷川入門 姿を隠した郜䌚の川を探す』䞭倮公論事業出版、2010

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