「診察室の外は、別の世界だった」—“次の周期で頑張りましょう”と言われた日、私に起きたこと—
第1章 診察室を出た瞬間、世界が変わった
「まあ焦らず、次の周期で頑張りましょう」
医師は、いつもと変わらない穏やかな声でそう言った。
責めるわけでもなく、
特別に励ますわけでもなく、
ただ、
何度も繰り返されてきた言葉のひとつのように。
私は、小さくうなずいた。
「はい」
その一言だけを返して、
診察室を出た。
ドアが閉まる音は、
思っていたよりも軽かった。
その軽さが、
なぜか、
少しだけ残酷に感じた。
廊下に出た瞬間、
空気が変わった。
そこには、
お腹の大きい妊婦さんたちが、
当たり前のように座っていた。
丸みを帯びた身体。
ゆったりとした動き。
どこか気だるそうで、
でも、
満たされていることを隠さない表情。
私は、その光景を見た瞬間、
息の仕方が分からなくなった。
同じ場所にいるはずなのに、
まるで、別の世界に迷い込んだようだった。
診察室の中では、
私は“患者”だった。
でも、
この待合室の中では、
私は、
“持っていない側の人間”だった。
誰も私を見ていない。
誰も私を気にしていない。
それでも、
すべてを見られているような気がした。
あの人は妊娠している。
あの人も。
あの人も。
そして私は、
違う。
その事実が、
言葉になる前に、
体の奥に落ちてきた。
視線を逸らした。
でも、
どうしても視界に入る。
あの女性の顔。
少し気だるそうで、
でも、
自信に満ちているように見えた。
それが、
どうしても、
受け止められなかった。
「なんで私じゃないの」
そう思ったわけじゃない。
でも、
“どうして私は違うんだろう”
その感覚だけが、
静かに広がっていった。
足が動かなかった。
ただ、
そこに立ったまま、
取り残されていた。
同じ空気を吸っているはずなのに、
ここにいること自体が間違っているような気がした。
そのとき、
ふと、
自分の身体に意識が向いた。
何も変わっていないお腹。
何も起きていない身体。
その現実に触れた瞬間、
胸の奥で、
何かが静かに崩れた。
「欠陥品みたいだな」
誰にも聞こえない声で、
そう思った。
その言葉は、
激しいものではなかった。
ただ、
諦めに似た、静かな確信のようなものだった。
泣くこともできなかった。
怒ることもできなかった。
ただ、
そこにいられなくなった。
私は、
ゆっくりと歩き出した。
待合室を抜けて、
自動ドアを通って、
外の空気に触れたとき、
やっと、
息ができた気がした。
それでも、
さっき見た光景は、
頭から離れなかった。
診察室の中で言われた言葉と、
外で見た現実。
その二つは、
どうしても、
ひとつに重ならなかった。
「次の周期で頑張りましょう」
その言葉は、
正しいのだと思う。
でも、
あの世界にいた私は、
もう“頑張れる場所”に立っていなかった。
それでも、
私はまた来る。
同じ場所に。
同じように呼ばれて、
同じように座って、
同じように言われる。
その繰り返しの中で、
少しずつ、
自分が削れていくような気がしていた。
それでも、
やめられなかった。
欲しいから。
それだけだった。
それが、
あの日の私に残っていた、
たったひとつの確かな気持ちだった。
第2章 外の世界は、何も変わっていなかった
外に出ると、
世界は、何も変わっていなかった。
車の音も、人の話し声も、信号のリズムも、
すべてが、いつも通りに流れている。
それなのに、
自分だけが、別の場所から戻ってきたような感覚があった。
さっきまでいた空間。
あの待合室。
そこにあった、
“持っている人”と“持っていない人”の境界。
その線を、
私は、はっきりと越えられなかった側にいる
その事実だけが、
体の中に残っていた。
駅までの道を歩く。
足は動いているのに、
自分がどこを歩いているのか、よく分からなかった。
ショーウィンドウに映る自分の姿が、
一瞬、目に入る。
普通の顔。
普通の体。
普通の私。
どこにも、
“欠けている”とは書いていないのに、
すべてが足りていないように見えた。
目を逸らした。
今の自分を、
そのまま受け止めることが、
少し怖かった。
電車に乗る。
向かいの席に、
ベビーカーを押す女性が座っていた。
小さな子どもが、
笑っている。
何気ない光景。
どこにでもある日常。
でも、
その日だけは、それがやけに遠く感じた。
「いいな」
そう思った瞬間、
すぐに、
「思っちゃダメだ」
という声が浮かんだ。
比べちゃいけない。
誰かの幸せを、
そういう目で見ちゃいけない。
分かっている。
でも、
心は、そんなにうまくできていなかった。
目を閉じる。
何も見たくなかった。
何も感じたくなかった。
ただ、
少しの間だけ、何もない場所にいたかった。
第3章 言えなかったこと
家に帰ると、
夫がいた。
「おかえり」
いつもと同じ声。
「ただいま」
同じように返す。
それ以上、
何も言えなかった。
今日のこと。
診察のこと。
待合室のこと。
全部、
言葉にできたはずなのに、
言った瞬間、崩れてしまいそうで怖かった。
夫は、
何も聞かなかった。
それが優しさなのか、
それとも、
踏み込めないだけなのかは、分からなかった。
夕飯の準備をしながら、
ふと、思う。
「このまま何もなかったらどうする?」
その問いは、
口には出なかった。
でも、
頭の中では、
何度も繰り返されていた。
未来の話。
考えたくないのに、
考えてしまう。
想像するたびに、
息が詰まる。
食卓に並ぶご飯を見て、
「おいしそうだね」
と夫が言う。
その言葉が、
なぜか遠く感じた。
同じ場所にいるのに、
違う世界にいるような感覚。
それが、
一番つらかった。
「ねえ」
声をかける。
夫が顔を上げる。
でも、
その先の言葉は、
出てこなかった。
「……なんでもない」
そう言って、
私は視線を落とした。
本当は、
聞きたかった。
どう思ってるのか。
怖くないのか。
同じ気持ちなのか。
でも、
その答えを聞くのが怖かった。
もし違っていたら。
もし軽かったら。
もし、
私だけが、この重さを抱えていたら。
その現実に、
耐えられる気がしなかった。
だから、
何も聞かなかった。
それは優しさじゃなかった。
ただの、
怖さだった。
第4章 崩れた夜
その夜、
眠れなかった。
目を閉じると、
あの光景が浮かぶ。
お腹の大きい女性。
満たされたような表情。
そして、
何も変わっていない自分。
その対比が、
何度も、何度も、
心の中で繰り返される。
「なんで私じゃないの」
その言葉が、
はじめて、
はっきりと浮かんだ。
でもすぐに、
「違う」
と思った。
誰かを責めたいわけじゃない。
ただ、
自分が違う側にいるという現実を、どう受け止めたらいいか分からなかった。
気づいたら、
涙が出ていた。
音もなく、
静かに。
その涙は、
止めようとしても、
止まらなかった。
それは悲しさなのか、
悔しさなのか、
自分でも分からなかった。
ただ、
どうしようもない感情が、あふれていた。
その夜、
私ははじめて、
“もう頑張れないかもしれない”
そう思った。
それは、
諦めではなかった。
でも、
今までの自分ではいられないという感覚だった。
その静かな崩れの中で、
私は、
どこにも立てない場所に立っていた。
第5章 それでも、朝は来る
気づいたときには、
朝になっていた。
眠れたのかどうか、
よく分からなかった。
ただ、
夜が終わっていた。
カーテンの隙間から入る光が、
やけにまぶしかった。
何も解決していないのに、
世界は、
いつも通りに進んでいる。
そのことが、
少しだけ残酷に感じた。
体を起こす。
重たい。
何かをしたわけでもないのに、
心の奥だけが、疲れ切っている。
「今日は何もしたくない」
そう思った。
でも同時に、
「何もしないわけにもいかない」
その感覚もあった。
顔を洗って、
服を着替えて、
いつもと同じように、
一日が始まる。
でもその中で、
ひとつだけ違ったことがあった。
それは、
“頑張ろうと思えなかったこと”
これまでは、
どこかで自分を奮い立たせていた。
まだできる。次は大丈夫。もう少し頑張ろう。
でもその日は、
何も浮かばなかった。
ただ、
「もういいかな」
その言葉だけが、
静かに残っていた。
それは、
投げやりな気持ちではなかった。
むしろ、
力が抜けてしまったあとの、静かな感覚だった。
そのまま、
ぼんやりとした時間が流れる。
何も考えず、
何も決めず、
ただ、
その場にいる。
その時間は、
これまでの自分にはなかったものだった。
「ちゃんとしなきゃ」
その言葉が、
出てこなかった。
代わりに、
“何もしなくてもいいかもしれない”
そんな感覚が、
ほんの少しだけ、
生まれていた。
そのとき、
ふと気づいた。
胸の奥の、
あの締めつけるような重さが、
少しだけ、やわらいでいることに。
何も変わっていない。
状況も、
結果も、
未来も、
何ひとつ、
変わっていないのに、
自分の中だけが、少し変わっていた。
それは、
とても小さな変化だった。
でも、
確かに違っていた。
第6章 はじめての余白
その日、
私は何もしなかった。
何も変えようとしなかったし、
何かを頑張ろうとも思わなかった。
ただ、
そのままでいた。
それだけだった。
でも、
その“何もしない時間”の中で、
これまで気づかなかったことに、
少しずつ気づき始めていた。
たとえば、
コーヒーの香り。
窓から入る風。
外の音。
そんな、
どうでもいいようなことが、
なぜか、
やけにくっきりと感じられた。
それは、
何かを得たわけではない。
でも、
何かを抱えすぎていたことに、はじめて気づいた瞬間だった。
ずっと、
握りしめていた。
結果も、未来も、不安も、期待も、
全部、
手放さないようにしていた。
でも、
それが、
自分をどれだけ苦しくしていたのか、そのとき初めて分かった。
少しだけ、
手をゆるめる。
それだけで、
世界の見え方が、
ほんの少し変わった。
何も変わっていないのに、
呼吸がしやすくなった。
その変化は、
とても小さかった。
でも、
これまでとは違う場所に、足を踏み入れたような感覚があった。
第7章 同じ場所、違う景色
数日後、
私はまた、あの場所にいた。
同じクリニック。
同じ待合室。
同じ椅子。
あの日と、
何も変わっていないはずの空間。
でも、
ひとつだけ違っていた。
それは、
私の見ている景色だった。
お腹の大きい女性がいる。
同じように、
そこに座っている。
でも、
あの日のような、
息が詰まる感覚はなかった。
羨ましさが消えたわけではない。
悲しさがなくなったわけでもない。
それでも、
そこにいられた。
同じ場所に、
同じように、
最終章 診察室の外は、同じ世界だった
名前を呼ばれて、
私は立ち上がった。
ドアの向こうに入る瞬間、
ほんの少しだけ、
あの日の自分を思い出した。
「まあ焦らず、次の周期で頑張りましょう」
あの言葉。
あの空気。
あの帰り道。
すべてが、
ほんの少し前のことなのに、
ずいぶん遠く感じた。
診察室の中は、
何も変わっていなかった。
同じ机。
同じ椅子。
同じ医師。
そして、
同じような言葉が、
また、静かに置かれた。
「少しずつ整ってきていますね」
私は、
その言葉を聞いて、
小さくうなずいた。
それが、
特別に嬉しかったわけではない。
安心したわけでもない。
でも、
ちゃんと、受け取ることができた。
それが、
あの日との大きな違いだった。
診察室を出る。
ドアが閉まる。
そして、
またあの待合室が広がる。
お腹の大きい女性たち。
ゆったりとした時間。
変わらない光景。
でも、
私は立ち止まらなかった。
視線を逸らすこともなく、
息を止めることもなく、
ただ、
そこを通り過ぎた。
羨ましくないわけじゃない。
つらくないわけでもない。
それでも、
“ここにいていい”と思えた。
それだけで、
世界は、
まったく違って見えた。
あの日、
私は思っていた。
診察室の外には、
別の世界があると。
自分とは違う人たちがいる、
遠い場所があると。
でも今は、
分かる。
あの場所は、
最初から同じ世界だった。
ただ、
自分がそこに立てなかっただけだった。
比べてしまうこともある。
落ち込む日もある。
それでも、
自分としてここにいることは、
やめなくていい。
そう思えたとき、
世界との距離が、
少しだけ近づいた。
何かを手に入れたわけではない。
状況が変わったわけでもない。
それでも、
確かに、私は戻ってきていた。
同じ場所に。
同じ世界に。
そして今、
私は思っている。
あの日、
立ち尽くしていた私に、
もし言葉をかけられるとしたら、
きっと、
こう言う。
「大丈夫だよ」
その一言だけでいい。
なぜなら、
あのときはまだ、
自分が戻ってこられることを、
知らなかっただけだから。
診察室の外は、
今日も同じ世界だった。
そして私は、
その世界の中で、
もう一度、歩き始めていた。
月村あかり
“自分として”立っていられた。
その違いは、
とても大きかった。
私はそのとき、
ようやく分かった。
あの日、
変わっていたのは、
世界ではなかった。
変わっていたのは、自分の“立ち方”だった。
何かを得たわけではない。
何かが起きたわけでもない。
それでも、
ここにいていいと思えた。
その感覚が、
すべてを変えていた。
診察室のドアが開く。
名前が呼ばれる。
私は立ち上がる。
あの日と同じように。
でも、
あの日とは、違う自分で。
そして私は、
静かに思った。
もしかしたら、
すべては、ここから始まっていくのかもしれない。