九つの記憶を奪う九尾の呪い

僕の名前は、鹿之助。

京都の片隅で、小さな和菓子屋を営んでいます。

ある秋の夜、店じまいをしていると、戸の外から女の声が聞こえました。

「月が沈む前に、九尾の社へ菓子を届けておくれ」

戸を開けましたが、そこには誰もいません。

ただ、石畳の上に一枚の赤い紅葉と、金色の毛が九本、置かれていました。

僕は妙な胸騒ぎを覚えながらも、白餡で満月を、紅色の餡で彼岸花をかたどった練り切りを作りました。

そして、深い森の奥にある古びた社へ向かったのです。

社には、白い着物をまとった美しい女が立っていました。

その背後で、九本の尾が月明かりを受けて揺れています。

「お待ちしておりました、鹿之助」

女は九尾の狐でした。

僕が菓子を差し出すと、九尾はひと口だけ食べ、悲しそうに目を細めました。

「美しい菓子ですね。ですが、この菓子には大切なものが欠けています」

「大切なもの……ですか?」

「あなたが、忘れようとしている記憶です」

九尾が尾を大きく広げると、金色の光が僕を包みました。

頭の奥で、何かが砕ける音がします。

「あなたの九つの記憶を、九本の尾へ封じました。取り戻せなければ、九日後、あなたは自分の名前さえ忘れるでしょう」

気がつくと、僕は店の前に倒れていました。

けれど――。

自分がなぜ和菓子を作っているのか、思い出せませんでした。

店の前には、九尾からのものらしい黒い箱が置かれていました。

蓋を開けると、九枚の木札が入っています。

一枚目には、「温もり」と書かれていました。

僕は理由も分からないまま、白餡で小さな椿を作りました。

すると花びらの中から光があふれ、幼い僕の頭をなでる母の手が見えました。

――失敗しても、心を込めて作ればええ。

母の声とともに、最初の記憶が戻りました。

二枚目は、「師」。

小豆を丁寧に炊き、師匠が好きだった素朴な最中を作ると、厳しくも優しかった師匠の姿が浮かびました。

「菓子は腹を満たすだけやない。寂しい心にも、そっと寄り添うもんや」

三枚目は、「雨」。

雨粒を表した水まんじゅうを作ると、道端で傷ついていた一頭の子鹿が見えました。

僕は、その子鹿を抱き上げていました。

けれど、不思議なことに、子鹿の目には僕と同じ景色が映っていたのです。

四枚目は、「桜」。

桜色の練り切りを完成させた瞬間、赤い着物を着た女の子が現れました。

チェリーでした。

「鹿之助。私のことまで忘れてしもうたん?」

その声を聞いた途端、胸の奥が痛みました。

僕たちは昔、満開の桜の木の下で約束していたのです。

――どちらかが道に迷ったら、必ずもう一人が見つける。

五枚目は、「あやかし」。

僕は河童のために水まんじゅうを、座敷わらしのために金平糖を、猫又のために魚をかたどった最中を作りました。

すると、これまで出会った妖怪たちとの思い出が戻ってきました。

怖い姿の奥にある、寂しさや優しさ。

人間も妖怪も、心はそれほど違わない。

それを、僕はいつの間にか忘れていました。

六枚目は、「いのち」。

鹿の角をかたどった栗羊羹を作ると、封じられていた光景が目の前に広がりました。

雪の積もる森。

猟師に追われ、力尽きて倒れている一頭の鹿。

それは、僕自身でした。

「僕は……もともと、人間やなかったんか」

そばにいたチェリーが、静かにうなずきました。

「九尾が、自分の力を分けて、あなたを人間にしたの」

七枚目は、「願い」。

僕が人間になりたいと願った理由。

それは、母と呼んだ人間の女性に、もう一度会うためでした。

森で傷ついた僕を助け、毎日食べ物を運んでくれた優しい人。

けれど彼女は、僕が人間になる前に、この世を去っていました。

八枚目は、「約束」。

月を映した琥珀糖を作ると、若き日の九尾との約束がよみがえりました。

『人間として生きるなら、誰かを憎んではなりません。憎しみに心を奪われたとき、あなたはすべてを忘れ、鹿の姿へ戻るでしょう』

僕はその約束を破りかけていました。

大切な人を失った悲しみを、運命への憎しみに変えていたのです。

そして、最後の木札には――「九尾」と書かれていました。

僕は九尾の社へ向かい、九枚の花びらを持つ白い練り切りを差し出しました。

「これは、あなたのための菓子です」

九尾は驚いた顔で僕を見ました。

「私を恨んでいるのではありませんか?」

「いいえ。あなたは僕の記憶を奪ったんやない。憎しみに壊される前に、守ってくれたんですね」

九尾の目から、一筋の涙がこぼれました。

最後の尾から、金色の光が離れ、僕の胸へと戻ってきます。

僕が取り戻した九つ目の記憶。

それは、人間になったばかりの僕を、九尾が遠くから見守ってくれていた記憶でした。

九本の尾は呪いを封じるためではなく、僕の九つの大切な思い出を守るために広げられていたのです。

「鹿之助。これですべての記憶が戻りました」

九尾は微笑み、森の霧の中へ消えていきました。

夜が明けるころ、僕はチェリーと一緒に店へ戻りました。

店先には、九枚の赤い紅葉が並んでいます。

僕はその日、新しい和菓子を作りました。

白餡の花を九枚重ね、中心に金色の栗餡を包んだ練り切り。

名前は――「九つの記憶」。

人は、つらい記憶を忘れたいと願うことがあります。

けれど、悲しみも、涙も、誰かにもらった優しさも、すべてが今の自分を作っている。

失ったと思っていた思い出も、心の奥で、帰る日をずっと待っているのかもしれません。

今夜も僕の店には、九尾のための和菓子を一つ、残してあります。

月明かりの中で、九本の白い尾が揺れたように見えました

今日も一日、ほんまにお疲れさまでした」
ここまで僕の物語を見てくれて、ほんまにありがとうございます。
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