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白いごはんが好きなのね

    右目が私の食生活に文句を言いだした。
    そんな右目との奇妙な付き合いが
    そろそろ1年半になる。

    きっかけはトイレ掃除だった。
    年に1回、私は便器のフィルターを丁寧に掃除する。
    年末行事の一つで、家人がやってくれてもいいのだが
    「トイレ掃除は女性が、風呂掃除は男性がすると家の運気が上がる」
    という風水話を家人にすると、
    いい感じに風呂掃除を担当してくれることになったので、
    その流れでトイレは私の掃除テリトリーになった。

    以前、このフィルターを掃除した後に
    目にゴロゴロとした違和感を覚えたことがあった。
    その時はすぐに眼科を受診したので
    目薬を処方されて、あっという間に完治した。

    土日を2度挟む年末年始。
    眼科も長くお休みになるし、なんだか嫌な予感もする。
    「やめておこうか。」と一瞬思ったが
    一度始めた掃除の手はとまらず、
    鬼の仇のようにフィルターを綺麗にしてしまった。
    不安は的中した。
    しばらくすると両目に違和感が出た。
    水で何度も洗ってみたが治る気配はない。
    数日後、左目は治ったが
    右目は相変わらずゴロゴロと痛んだ。

    年明け、
    眼科を受診できたのは
    症状が出てから9日後のことだった。

    眼科に行けば、
    前回のようにすぐに治るとお気楽に考えていた。
    でも治らない。
    新しい薬が処方されるたびに
    「これで治るかも。」と期待した。
    でも治らない。
    むしろ痛みはひどくなっていく気がした。
    治してくれる眼科医を求めて次々に眼科を変えた。

    どの眼科医も
    「痛みにつながる直接的な原因が見当たらない。」
    そう言ってちょっと困った顔をする。
    私は肩をすぼめて診察室を出る。
    その繰り返し。

    「大学病院を受診しますか。」
    最後に受診した眼科医は言った。
    落語で言えば真打登場。
    だけど、ちっとも笑えない。

    その頃には、
    夜中に突然目が覚めると
    腹の底から喉元まで不安の塊がこみ上げて
    眠れなくなった。
    昼間でもいきなり襲ってくるので外出もできない。
    胸がドキドキする。
    いてもたってもいられない。
    夜中に家人を起こして手を握ってもらう。
    泣いている私の背中へ、
    娘が何も言わずにそっと手を置いてくれた夜もあった。

    その暴力的な不安は
    東洋医学で奔豚気(ほんとんき)と呼ぶらしい。
    私だけじゃない。
    そう思えてほんの少し安心した。

    大学病院では目の奥まで詳細に検査した。
    代診した若い眼科医が言った。
    「痛みの所見は、やっぱりないです。」
    こんなに痛いのに。
    その言葉はもう聞き飽きた。
    けれど、若い眼科医は悪くない。
    「治せんもんは治せんのです。」
    そう言われた気がした。

    生まれて初めて心療内科を受診してみた。
    待合室には淡い風景画とトルコ桔梗。
    診察室はまるで書斎。
    その空間にホッとしたことを覚えている。
    おかげで腹の底の豚はおとなしくなった。

    脳神経クリニックも受診してみた。
    「脳に問題なし。」
    凛々しい眉の医師から太鼓判を押された。

    3万ボルトの医療用ヘルストロンにも
    真面目な顔で座ってみた。

    最初の頃は痛み出して3ヶ月、半年、そろそろ1年、
    と数えていたが、いつの間にか数えることもやめた。
    朝、ほんのちょっと期待して目を開ける。
    右目は今日も痛い。

    つらい毎日が続いていたある夜のこと。
    家人と柏餅を食べながらテレビを見ていた。
    しばらくすると右目が強烈に痛み出した。
    「もしかすると食べ物かもしれない。」
    ふと思った。

    牛スネ肉のビーフシチューを食べる。
    右目が痛い。
    チーズたっぷりのピザを食べる。
    右目が痛い。
    濃いブラックコーヒーを飲む。
    右目が痛い。
    気のせいかと思って何度か試したが結果は同じ。
    「そんなことあるかいな。」

    気がつけば、献立は右目が決めるようになっていた。
    料理本を開き、右目が好きそうなレシピを探す。
    家人はお茶、私は白湯。
    じっくり沸かした湯はとろりとして美味しい。

    体重はみるみる20kg近く減った。
    久しぶりに会う友人が、顔を見るなり
    「どうしたの?」と驚いて聞いてきた。
    次に会ったときには
    「会うたびに痩せていく。」と心配もされた。
    さすがに自分でも怖くなったが
    血液検査の結果はむしろ良い。
    過体重による膝や足首の痛みもなくなった。
    身体は軽くなり、
    抜けなかった結婚指輪が、くるりと回る。
    引き出しの奥で眠っていた指輪も、また指に戻った。

    右目の痛みよりも、
    「原因が見当たらない」
    と言われ続けることの方がはるかに痛かった。

    今も痛みに変わりはない。
    長い時間をかけて、右目との暮らしに慣れただけだ。
    ごはんを食べ、薬を飲み、布団にもぐる。
    今日も私の身体を明日へ運ぶ。
    それだけで十分忙しい。

    右目は、今も食べ物にうるさい。
    お菓子を食べるときは要相談。
    紅茶は薄めで。
    白いごはんは好きなのね。

    お湯が沸く。
    白湯を飲む。
    今日も白いごはんを炊く。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     

    朔

     
     
    日日日記

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