
おじさんの憂鬱|誰も座らない隣席と、パンツインした私
通勤時間の満員のバスで、私の隣だけが空いていた。
二人掛けの座席の窓側に座り、私はなるべく体を小さくしていた。正直に言えば、隣には座ってほしくなかった。
なのに、誰も座らなかった。
つり革につかまる人、荷物を抱え直す人。車内は少しずつ息苦しくなっていく。
誰かが座るかもしれない。
そう思うたびに、私はバスの神様に祈った。
どうか、隣に誰も座りませんように。
神様への願いが叶ったのか、誰も私の隣には座らなかった。
次の停留所でも、その次の停留所でも。
満員になる前は、「神様、ナイス」と思って、ほっとしていた。
しかし、立っている人が増えるにつれ、不安になった。
空いた席を探す誰かの足音が近づく。私の隣で一瞬、その歩みが鈍る。
「座る?」
そう身構えた瞬間、その人はすっと私の隣を通り過ぎ、つり革の方へ流れていった。
また一人。また一人。
私の隣には誰も座ってくれなかった。
神様、さっきの願いは取り下げて。いや、取り下げてください。お願いします。
そもそもバスの神様なんて、どんな神様だよ。
自分に突っ込みを入れつつ、そうだ、たまたまだと思えばいい、と自分に言い聞かせた。
降りる停留所が近いのかもしれない。奥の席に入るのが面倒なのかもしれない。立っていたい人なのかもしれない。
無理やり納得する理由を考えようとしても、心は勝手に別の理由を探し始めた。
窓に映る自分の顔を、そっと確認した。
臭うのだろうか。私は誰にも気づかれないように、ほんの少し自分をクンクンしてみた。自分でも何をしているのだろうと思うくらいには、確かに鼻を動かしていた。
表情が怖いのかもしれない。そう思って、口だけを小さく動かした。
あ・え・い・う・え・お・あ・お。
満員のバスの中で、知らない人に隣へ座ってもらうために、いい年をしたおじさんが、こっそり発声練習のようなことをして、笑顔を作る練習までしていた。
体が大きいから、座りにくいのだろうか。背筋を伸ばし、おなかを引っ込め、バッグを寄せ、肘がはみ出さないように腕を置き直す。
そこまでして、ふと思った。
なんなんだ、この挙動不審な動きは。こんなことをしているから、余計に誰も座らないのではないか。
いや、待て。まだ手はある。
頭を下げて寝たふりをすれば、少しは警戒されないのではないか。
座ってくれた瞬間に目が覚めたふりをして、感謝の会釈をし、また寝たふりをする。
完璧なシミュレーションだ。
……と、思っている時点で、たぶん私はもうだいぶおかしかった。
最終手段で、ChatGPTにも相談してみた。
「バスの中、二人掛けの座席でとなりに座ってくれないのはなぜかな。教えて。」
返ってきた答えは、こうだった。
混んできたら一言だけ、
「どうぞ」
と言う。
これが最強です。
おいおい。
「どうぞ」と言って、それでも座ってくれなかったらどうするんだ。
こちらも相手も、最強に気まずい空気になるじゃないか。
あれ。そもそも私は、隣に座ってほしくなかったはずなのに。
誰も座らないことを、こんなに気にしている。
そのことに気づいたとき、少し恥ずかしくなった。
私は、なんて勝手なのだろう。
人に近づかれると窮屈に感じる。でも、人から避けられると傷つく。
隣に座られたら狭いと思うのに、座られなかったら、自分のどこかが悪いような気がしてくる。
窓には、ぼんやりと自分の顔が映っていた。疲れているようにも、不機嫌そうにも見えた。誰も見ていないかもしれないのに、その顔が少し気になった。
バスは揺れながら進んでいく。私の隣の空席も、同じように揺れている。
結局、誰も座らなかった。
降りる停留所が近づき、私は荷物を持ち直した。立ち上がるとき、空いていた隣の席をちらりと見た。
そこには、ただ空席があった。
私は通路に出たあと、もう一度だけ後ろの席を覗き込んだ。すると、二人がその席に座っていた。まるで、私がそこにいた時間だけが特別に空白だったかのように。
どういうことだ。
私がいたあいだは空いたままだったのに、席を離れた瞬間、その場所は何事もなかったように埋まった。
笑うしかなかった。
そして、ようやく気付いた。
なんなんだ、この貫禄のあるお腹。
会社は私服OKとはいえ、通勤時間のバスに、白髪の目立つおじさんがスーツも着ずに乗っている。
土日の普段着。靴はスニーカー。
さらに、仕事道具のパソコン、水筒、弁当、本、タオル二枚、着替えのTシャツまで入った大きなバッグを抱えている。
なるほど。
隣に座るには、少し情報量が多すぎる。
次の日から、私はまず、カッターシャツをパンツインすることにした。