
呼吸の様な表現の存在
今表現が出来る場は沢山ある。
表現と言ってもそんな完成された文書であったりとか、熟達した配信である必要はない。
SNSでも投稿サイトでも動画投稿サービスでも、寧ろ完成や熟達した表現は稀だろう。
そんなものでなくてもいい。不格好でも表現それ自体はできる場所はごまんとあるのだ。
かく言う私も動画投稿サービスで喋るという形で自分を表現しているし、こういったエッセイでも自分を表現している。
そういった表現を出来る場で表現をする人は、表現をしない人に比べれば数は少ないのではないのだろうか。恐らくそういった表現のできる場で表現をしない人達は表現をしなくても生きていける充足した生活を送っているのかもしれない。
では何故私は表現を色々な形で続けているのだろう。
普段生活をしているだけでは発散しきれない自分の中に溜まっていく澱の様な何かが、行き場を失い自分をどうしようもなく表現に掻き立てる。その行き場が普段の生活だけでは足りない。
表現とは無縁に生きていっている人達はどこかでその澱の行き場を生活の中で持っているのだろう。
澱の行き場が足りない私のような人間は表現に走る。
ある時は配信で、ある時はエッセイで、ある時はイラストで、ある時は短編小説で。そうして私は私の中の澱を噴き出す。
その結果が今の私の表現だ。つまり私の様な人種には表現というものは必要なことなのだ。
それはまるで食事、睡眠、運動の様に私にとって欠かせない存在だ。
だが表現は私の様な人種以外にも有意義なものになる。
頭の中で悩み事やアイディアやはたまた将来設計を考えようとする時、頭の中だけで完結させようとすると纏まらない時がないだろうか。
そういった時によく言われるのが紙に書き出し整理すること。その紙に書き出す行為も広義では表現に入ると私は考える。
また日常の中で家族や友人、同僚や上司と話すのも表現の一部であるし、それらは思考や状況整理するのに役立つ。
冒頭にも書いたが、表現とは何も創作活動や纏まった文章を書くことだけではなく、日常の中にも至る所に溶け込んでいる。
つまりは表現を必要としない、と見える人は実は日常の中に溶け込んだ表現を十二分にしているのかもしれない。
意図的にある纏まった形の表現を必要とする人種は、日常の表現だけでは足りない程の過剰なエネルギーを持っているか、若しくは日常の表現が足りないか欠けているのだろう。
だからこそ澱は行き場を無くし、ある種特殊な形の表現を必要とする。
そこで現代の各種媒体は活きてくる。
過去の時代、表現をする事が特別であったかのようだったが、現代では生活のすぐ側にある。
足りない行き場を補完する様に隣に各種媒体が居てくれるのだ。
それらを使う目的が金銭、つまりは視聴者数とかいいねの数とかフォロワー数を稼ぐ事になると途端にハードルは跳ね上がるが、単純に表現の場所として使うのであればこれ程身近で簡単なものはない。
勿論ネットリテラシーは最重要であるのは間違えないが、そこさえ押さえていればそれらの媒体は自分の気安い表現の場になる。
そういった場は先にあげた表現の場が足りない私の様な人種にとってはありがたい話だ。
身を持ち崩す可能性のある媒体は、付き合い方を間違えなければ澱を清めてくれる場にもなるのだ。
だからこそ私は表現をすることのハードルを高く見積もらなくていいと思っている。
格好なんてつけなくていい。自分の等身大の表現を家族や友人に話すという形で、はたまた一人で紙に書き出す形で、それでも足りなければ各種媒体で、していけばいいのではないだろうか。
生きていれば自分の中に澱が溜まっていくのはさして特別なことではないだろう。
だから表現というものも特別なことではなく、人間には呼吸の様に当たり前に必要なことなのかもしれない。