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Photo bywindy4u

「花は自分の名前を知らない」

    一章:色あせ始める世界


    「一花、手が止まってるよ」


    少し離れたソファで本を読んでいた耕平の声に、一花は跳ねるように肩を揺らした。
    稽古場の静謐な空気の中で、水盤の表面がわずかに震える。


    一花の右手は、紫色の花を一輪掴んだまま、まるで凍りついたようにとまっていた。

    「あ・・うん。ごめん、ちょっと考え事してた」


    一花は取り繕うように笑みを浮かべ、手元に視線を戻す。そこには、彼女が幼い頃から見慣れてきた、野趣あふれる紫の花があった。
    葉には鋭い棘があり、安易に触れる者を拒むような強さがある。


    (今、私は何をしようとしていたんだっけ)


    一瞬前まで頭の中にあったはずの、完璧な形が思い出せない。
    視線の先には、使い古された道具がある。鋭い針が整然と並び、花を支えるための、華道家にとっての土台。


    (これ、なんて言うんだっけ。毎日触っているのに。・・・これがないと、このアザミは立たない
    のに)


    アザミという花の名前はかろうじて出てくる。けれど、それを支える一番大切な道具の名前が、霧の向こうに消えてしまった。
    一花は無意識に、その鋭い針に指先を強く押し当てた。チクリとした痛みが走るが、その名前だけがどうしても手繰り寄せられない。


    「一花?」


    耕平がいつの間にか隣に並び、一花の指先をそっと引き離した。
    土の匂いがかすかにする、大きくて温かい手が彼女を包む。


    「根を詰めすぎだよ。個展の準備が大変なのはわかるけどさ。ほら、今日はもう上がろうよ」


    一花はその優しさに救われながらも、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
    世界から少しずつ、色が剥がれ落ちていくような恐怖を。


    耕平は、そんな彼女の異変を見逃さなかった。


    その夜、夕食を終えたテーブルに、耕平が一冊のスケッチブックを持ってきていた。



    「これ、今日からまた書こうよ。ほら、最近忙しくてサボり気味だったし」


    それは、以前から二人の間で続けていた交換日記だった。忙しくてすれ違う時間の中で、その日活けた花の名前と、一言のメッセージを啜るための場所。


    「また・・書くの?」


    「うん。一花が今日、どんな花と向き合って、どんなことを感じたか教えてよ。名前だけでもいいからさ」


    「・・・・」

    黙り込む、一花。



    「お願い、今の一花が見ている世界を僕も知りたいんだ」



    「・・わかった。ゆっくり書きたいから、一人にさせて」


    耕平の言葉に戸惑いながらも、今の自分の違和感を知られない為に決心する。
    耕平は、笑顔で「ありがとう」とだけ言い残し、部屋を後にした。


    一花はリビングに一人、震える手でペンを取り、スケッチブックを開く。
    今日、どうしても思い出せなかったあの道具を、支える花の名前を刻みつけるように書き出す。


    「今日生けた花:アザミ。触れると痛いけれど、どこか寂しそうな紫。」


    本当は、あの道具の名前も書き留めておきたかった。けれど、文字にしようとすると指先が冷たく強張り、拒絶された。
    まだ、書ける。まだ、私は私のままでいられる。
    一花は自分に言い聞かせるように、インクが滲むまでアザミという文字をなぞり続けた。



    深夜。
    一花の寝息が聞こえるのを待ってから、耕平は静かにベッドを抜け出した。
    昼間の一花のわずかな異変。リビングに置かれたあのスケッチブックにその答えが書いてあると気にかかっていたのだ。


    月明かりだけが差し込むキッチンで、彼は音を立てないよう、慎重にページをめくった。


    一花の異変は、予想を遥かに越えていた。


    「・・・っ」


    そこに書いてあったのは、アザミのスケッチと、その傍らに残された異様な執着の跡だった。


    アザミという三文字が、紙を削り取るほどの筆圧で幾重にも塗り潰されている。インクが滲み、黒い痣のようになったその場所を、一花は指で何度もなぞったのだろう。紙の表面が毛羽立ち、彼女の絶望が指先から伝わってくるようだった。


    「・・・見ないで」


    凍りつくような声が、背後から届いた。
    心臓が跳ね上がり、耕平が振り返ると、暗い廊下の境目に一花が立っていた。
    彼女は壁によたれながら半身を預け、崩れ落ちそうな自分をかろうじて支えている。


    「ごめん、一花。起こしちゃったか」


    「見ないで。・・お願いだから」


    一花の瞳には、月光を反射した涙が溜まっていた。


    「それは、失敗なの。今日、ちょっと指先が震えちゃって・・・だから朝、また書き直すから。
    朝になれば、ちゃんと書けるから。いつもの私みたいに、また・・・」


    彼女の声は、最後の方は聞き取れないほど小さくなった。
    書き直すという言葉が、今の彼女にとって唯一の防波堤なのだ。いつもの私みたいに戻れるという、あまりにも脆い嘘。


    耕平は、手の中にあるインクの滲んだスケッチブックが、これ以上ないほど重く感じた。
    一花がリビングで独り、この黒い塊をどんな思いで見つめていたのか。
    朝が来ても、この文字が彼女の中で元に戻ることはないのだという残酷な事実を、耕平は認めざるを得なかった。


    「・・・ごめん。見ないよ、もう」


    耕平はスケッチブックをそっと閉じた。


    一花はそのまま、崩れるようにその場にしゃがみ込む。
    夜の静寂の中で、二人の間に流れる時間は、もう二度と昨日へは戻れないことを告げていた。


    二章:宣告、そして冬の足音


    朝食の味噌汁から立ち上がる湯気の向こう側に、それは置かれていた。
    小さな正方形のメモ用紙。そこには耕平の几帳面な字で、病院の名前と診察時間が書かれている。


    「一花。今日、仕事の調整をしたから。一緒に行こう」


    一花は箸を持ったまま、その紙を凝視した。
    白地の紙が、私を真っ白に塗り替えようとする怪物のように見える。


    「いかない」

    「一花」

    「いかないって言ってるでしょ!私は、ただ疲れてるだけ。寝れば治るの。また、ちゃんと書
    けるようになるの!」


    一花は椅子を蹴るようにして立ち上がった。


    耕平の瞳に映る、痛ましいものを見るような目が耐えられなかった。


    「・・・今日は献花式があるの。家元の代理として、私が生けなきゃいけないんだから。邪魔しないで」


    逃げるように玄関へ向かう一花の背中に、耕平の声は届かなかった。



    午後の静寂なホールには、重苦しいほどに線香と花の香りが立ち込めている。
    一花は観客の視線を浴びながら、舞台の中央に置かれた大きな水槽の前に立っていた。


    「・・・ふぅ」


    花ばさみを握る手が、汗ばんでいる。


    用意された花材の中に、あのアザミがあった。
    手を伸ばし、茎を掴む。その瞬間、また頭の中が真っ白な霧に包まれた。


    (これは・・・どうやって、挿すんだっけ)


    昨日まで当たり前に出来ていた動作。角度、長さ、切り口。
    すべての知識が、指先から砂のようにこぼれ落ちていく。
    焦れば焦るほど、アザミの鋭いトゲが容赦なく指に食い込んだ。


    「あ・・・」


    小さな呟きと共に、指先から一滴の鮮血が花びらに落ちた。
    痛い。でも、その痛みだけが、今自分がここに立っていることを教えてくれる唯一の感覚だった。


    一花は震える手で、作法も、型も、伝統も無視して、ただ本能のままにアザミを水盤に突き立てた。


    周囲から、微かなざわめきが漏れる。


    「家元の代理が、あんな・・・」
    「体調でも悪いのかしら」


    いつもなら完璧な調和を見せる一花の作品が、今日はひどく不格好で、まるで助けを求めて叫んでいるように見えていたのだから。


    式が終わり、控室の裏口で一花はうずくまっていた。
    舞台の上で晒した自分ではない何かの残像が、瞼の裏に焼き付いてる。


    「一花」


    聞き慣れた足音が近づき、影が彼女を包んだ。


    見上げると、そこには朝と同じ、悲しげに眉を下げた耕平が立っていた。
    一花は震える指先を、彼のコートの裾にそっと這わせた。


    「・・・耕平」


    「うん」


    「・・私、やっぱり、アザミって書けないんだ。・・生け方も、忘れちゃった」


    朝、あんなに拒絶したはずの病院のメモが、今は暗闇の中の灯火のように思える。
    一花は、耕平が差し出した大きな手に、力なく自分の手を重ねた。



    病院の廊下は、一花の目にはあまりにも白く、冷たく映っていた。
    隣を歩く耕平の足音だけが、自分がまだ現実の世界に繋ぎ止められていることを教えてくれる。



    「次の方、診察室へどうぞ」


    看護師の声に、一花はビクッと肩を揺らした。
    耕平がそっと背中に手を添え、二人で重い扉を開ける。


    診察室の中では、眼鏡をかけた医師が穏やかな、けれどもどこか事務的な表情で待っていた。


    いくつかの簡単な質問、そして積み木や言葉のテスト。
    所々、言葉が出てこなかったり、手が止まる。
    一花にとってそれは、自分の知性が、記憶が、少しずつ剥ぎ取られていく公開処刑のようだった。


    医師は、私の答えに否定も肯定もせず、ただ手元のタブレットに何かを書き込んでいる。
    やがて、医師は顔を上げ、二人の目を交互に見た。


    「若年性アルツハイマー型認知症の疑いが非常に強いです。脳の画像診断でも、海馬付近に萎縮が見られます」


    「・・・若年性、アルツハイマー?」


    一花は、乾いた唇を震わせてその言葉をなぞった。白い診察室の壁が、急に自分の方へ倒れ込んでくるような錯覚に陥る。


    「治るんですか・・」


    耕平の声は、低く、震えていた。


    医師は小さく首を振る。


    「今の医学では、進行を遅らせることしかできません。一花さん、これから少しずつ、できる
    ことが減っていくかもしれません。でも・・」


    「嫌」


    一花が、医師の言葉を遮る。


    「先生、私は二十八です。来月には、家系を背負った大事な個展があるんです。キャリアだって、これからなんです。・・それなのに、脳が萎縮?私が、私じゃなくなるって言うんですか?」



    医師の沈黙が、何よりも残酷な回答だった。一花は隣に座る耕平の腕を、爪が食い込むほど強く掴んでいた。
    耕平は痛みに顔を顰めることもなく、ただ一花の震えを受け止めるように、その上から大きな手を重ねた。


    「一花、帰ろう」


    「耕平・・お願い、個展が終わるまで、誰にも言わないで。お母様にも、お弟子さんたちにも。
    病名なんてついてたら、私はもう、花を生ける資格を失ってしまう」


    その瞳には、絶望を押し殺したプライドが宿っていた。


    数週間後。


    夜、リビングのソファに座る一花の背中は、以前よりもずっと小さく見えた。


    彼女が眠りについたのを確認し、耕平はテーブルの上に置かれたスケッチブックを手に取る。
    それは二人の約束であり、一花にとっては自分を繋ぎ止める命綱だった。ページをめくる耕平の指が、ある場所で止まる。


    数日前までは、寒椿(かんつばき)と端正な字で書かれていた。
    それが数日後には、つわぶきと、たどたどしい平仮名に変わっている。


    そして、今日のページ。


    そこには、一輪の白い花が、今にも萎れそうなほど弱々しい線で描かれていた。
    しかし、その横にあるはずの名前の欄には、何度もペンで塗りつぶした跡があった。


    「・・・・、・・・・、・・・・」


    黒いインクの塊の下に、かすかに「す」という一文字だけが見えた。水仙と書こうとしたのか、それとも別の花だったのか。
    最後には、書き殴ったような筆跡でこう記されていた。


    「わからない。こわい。おねがい、なまえをかえして」


    文字は歪み、紙の一部は涙で波打っている。


    耕平はスケッチブックを閉じ、胸で力いっぱい抱きしめた。


    窓の外では、冬の冷たい風が木々を揺らしている。一花の世界から、色が、言葉が、そして彼女自身が、雪のように静かに消えようとしていた。
    耕平は震える手でペンを握り、その真っ白な余白に、一花への返信を書き込んだ。


    「名前なんて、知らなくてもいい。明日も一緒に、この花を二人で見よう」


    それは、土壌が枯れゆく花に捧げる、祈りのような言葉だった。


    翌朝、静まり返ったリビング。一花は自分の書いた空白だらけのスケッチブックを抱きしめ、床に膝をついていた。


    「もう書けない・・・漢字も、名前も、さっきまであんなに近くにあったのに、全部記憶の中か
    らこぼれていっちゃうの」


    一花の嗚咽が、冷え切った部屋に響く。華道家として、沢山の花に名前を与え、その命を型に込めてきた彼女にとって、名前を忘れることは、繋がりを一つずつ断たれることと同じだった。



    「個展だって、こんな私がやったら、お母様の顔に泥を塗るだけ。私にはもう、何もない。一
    花っていう名前だって、いつか消えちゃうんでしょ?」


    絶望に震える彼女の肩を、耕平は背後から包み込むように抱きしめた。彼の体温は、冬の朝には熱すぎるほどだった。


    「一花、聞いて。・・・たとえ、君から名前が消えても、君が花を好きなことは、変わらないよ」


    耕平は彼女の耳元で、言い聞かせるように、ゆっくりと言葉をかける。


    「君がこの花の美しさに足を止めたこと。その茎を愛おしそうに撫でたこと。それは、名前を覚えているかどうかとは関係ないよ、君の心そのものなんだ。・・だから、不安にならないで。一花が忘れていくすべての名前を、僕が拾い集めて、僕の記憶の中に植えておく。君が自分を見失いそうになったら、何度でも僕が教える。君はただ、その時綺麗だと思った花を生ければいい。僕が、君という花を支え続けるから」


    一花が、真っ赤に腫らした目で彼を見た。



    「私の名前、忘れないでね。私が、自分の名前を忘れちゃっても・・耕平だけは、私の名前を知ってて」


    耕平は、一花の冷たくなった手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てる。


    「忘れないよ。一花が誰になっても、僕が何度でも、君の名前を呼ぶから」


    一花は耕平の腕の中で、声を上げて泣き続けた。


    スケッチブックの空白は、もはや恐怖ではなく、耕平が埋めてくれるための余白に変わろうとしている。
    冬の星座が輝く中、二人の長い闘いが、そこから静かに始まった。


    三章:最後の一花


    個展会場は、一花の渾身の作品群に圧倒された観客たちの熱気に包まれていた。
    一花は、自身の集大成となる大作の前に立ち、来場者の挨拶に応じていた。その隣には、付き添いとして耕平がぴたりと寄り添っている。


    「先生、この作品の、この枝振りの意図は・・?」



    熱心なファンに問われた瞬間、一花の脳内に、またあの真っ白な霧が立ち込めた。
    自分が、何を根拠にこの枝を選んだのか。この花の名前は何だったか。思考の糸がぷつりと切れ、表情が凍りつく。


    (・・・わからない。何も、思い出せない)


    その沈黙が失礼に変わる寸前、耕平が穏やかな声で割って入った。


    「彼女、今回の制作で心血を注ぎすぎまして。少し喉を痛めているんです。この作品は、冬の静寂の中に宿る生命力を・・・そうですよね、一花さん?」


    耕平はさりげなく一花の背中に手を添え、あらかじめ用意していた解説を淀みなく伝えていく。
    一花はただ、人形のように微笑んで頷くだけでよかった。


    耕平の手から伝わる微かな震えが、彼もまた限界の緊張の中にいることを教えてくれる。
    彼は土壌として、一花が華道家として崩れ落ちるのを、文字通り命懸けで食い止めていた。


    閉館の鐘が鳴り、最後の客が会場を去ったとき、一花は崩れるように椅子に座り込んだ。
    照明に照らされた作品たちは、これまでになく美しく、完璧だった。けれど、一花の脳内はそれと対象的に、ぐちゃぐちゃに混ざり合った絵具のように濁り、形を失っていた。


    「終わったね、一花。最高の個展だった」


    駆け寄った耕平が、彼女の冷え切った手を握る。一花は、空っぽになった頭を耕平の胸に預け、絞り出すような声で言った。


    「終わったんじゃない。・・・終わらせなきゃいけないの、耕平」


    一花は、会場に並ぶ自分の分身たちを見つめた。


    「今日、私が見ていたのは花じゃない。あなたが教えてくれる記憶の欠片だけだった」



    一花はゆっくりと立ち上がり、家元の証である自身の名札を見つめた。


    「私は、家元を引退する。・・・一花という名前の華道家は、今日、ここで枯れたことにしたい
    の」


    耕平は何も言わなかった。
    ただ、一花の決断を、静かに受け止めた。



    個展会場の隅。片付けを待つ最後の一作品の前で、一花は椅子に座り、うたた寝をしている。
    その横顔は、大仕事を終えた安堵か、あるいは意識の糸がまた遠くへ解けてしまったのか、ひどく幼く見える。


    「あの子、あの花の名前も、もう覚えていないのよね・・」


    背後からかかった声に、耕平は静かに振り返った。そこには、一花の母・陽子が立っていた。
    彼女の視線は、一花が生け方を忘れた、型も名前もない一輪の白い花に注がれている。


    「・・・来てくださったんですね、お母さん」


    「あの子のこと、教えてくれてありがとう。あの子の様子が、あんなに悪いなんて。献花式の話を聞いて、おかしいと思っていたけれど・・」


    耕平は、一花に気付かれないよう、数週間前に陽子へ伝えていた。「一花はもう、色んな物の名前を忘れ始めています。これが彼女の最後の作品になるかも知れません。どうか、見届けてあげて下さい」と。


    「一花には・・内緒にしておいてあげて下さい。余計なお世話かも知れませんが、最後まで、自分一人でやり遂げたと思わせてあげたいんです」



    耕平の言葉に、陽子は目尻を拭った。彼女は一歩踏み出し、一花の髪をそっと撫でる。一花は眠ったまま、心地よさそうに身をよじった。


    「この子は、ずっと「一花」という名前に縛られて生きてきたわ。華道家の娘として、一輪の花として完璧に咲かなきゃいけないって。・・・それがこんなに、柔らかい顔をして笑うようになるなんて」


    陽子は耕平に向き直ると、深く、深く頭を下げた。


    「耕平さん。あの子を・・・一花を、どうかお願いします。あの子の根っこを支えてあげて」


    その声は震えていたが、託す者の強さがあった。



    「はい。・・・一花が自分を忘れてしまっても、僕が覚えています。彼女がどれほど美しく咲い
    ていたか、そして今、どれほど穏やかにここにいるか。僕が、彼女の土になります」


    会場に生けられた花の香りが、二人を包むように柔らかく漂った。名前をなくした花は、ただそこに在るだけで、これ以上ないほどに美しかった。


    引退後の日々は、驚くほど静かに、そして緩やかに流れていった。
    かつての一花を縛っていた家元としての型や、完璧な黄金比は、朝露が消えるように彼女の中から消えていった。
    今や一花は、道端の石ころや、折れた枝、名前も知らない野花を拾ってきては、食卓のコップに無造作に挿す。


    それは華道とは呼べないものかもしれない。けれど、そこにはかつてなかったほど瑞々しく、生命の脈動が直接訴えかけてくるような自由な美しさが宿っていた。


    「きれい・・・」


    自分の生けたものを見つめ、一花が子供のように微笑む。彼女はもう、それを生けたのが自分であることも、数分後には忘れてしまうだろう。耕平はそんな彼女の傍らで、スケッチブックを広げていると、庭に咲く花を見て、彼女が呟いた。


    「この花は、自分の名前を知らなくても、あんなに堂々と咲いているんだね・・。私も、あんな
    花のようになりたいな。自分が誰であるとか、何を成し遂げたとか・・そんなこと全部忘れてしまっても、背筋を伸ばして咲いていられたら」


    耕平は鉛筆を動かす手を止め、彼女の横顔を見つめた。
    記憶が薄れていく不安に怯えるのではなく、目の前の花に自分を重ね、あるべき姿を見出しそうとしている一花。その潔さが、耕平にはたまらなく愛おしく、同時に眩しかった。



    「一花は、もうそうなっているよ」

    耕平は静かに告げた。


    「君が名前を忘れても、僕は君を一花と呼ぶ。君が僕を忘れても、僕は君のそばにいる。君はただ、あそこに咲く花みたいに、君のままで笑っていればいいんだ」


    一花は「そうかしら」と少し照れたように笑い、また庭へと視線を戻した。


    鉛筆を走らせる音が、静かなリビングに響く。耕平が描いてるのは、花ではない。花を見つめる一花の横顔、その指先、そして彼女が作り出した「今日だけの奇跡」だ。



    一花は耕平の隣に寄り添い、スケッチブックを覗き込んだ。


    「私、いろいろなことを忘れちゃうけど。・・・耕平の名前だけは、神様が消さないでくれてる
    気がするの」


    冗談めかして笑う一花の瞳に、耕平は一瞬だけ胸を締め付けられた。けれど、すぐに穏やかな笑みを返す。



    「もし神様が消したとしても、僕が毎日、教えにいくよ。君の名前は一花で、僕の名前は耕平。土と花は、いつも一緒だって」


    一花は嬉しそうに、耕平の腕に自分の手を重ねた。


    名前を知らない花に囲まれながら、二人は互いの名前を呼び合い、確かな体温を確かめ合う。
    それは、終わりの始まり。けれど、これ以上なく満ちた二人のだけの時間だった。



    冬の寒さが去り、春の訪れを感じ始めた頃、耕平の誕生日を迎えていた。
    一花は朝から、彼を驚かせようと張り切っていた。


    台所には耕平が用意してくれた新鮮な花々がある。一花は、彼への感謝を込めて、今日という日を祝う最高の一作を生けるつもりだった。型は当然わからない。けれど彼を想う気持ちが、自然と花を選び生けていく。


    ハサミを手に取り、花を手に取ったその時、一花の動きが止まった。


    「・・・あれ?」


    心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


    目の前にいる、いつも自分を支えてくれているあの人の顔は、はっきりと浮かんでいる。
    けれど、その人を呼ぶための、温かな四文字の音が、どうしても喉の奥から出てこない。


    「・・・だれ、だっけ」


    一度こぼれ始めると、記憶は濁流のように一花を呑み込んでいった。
    私の隣にいるのは、誰?
    私は、誰のために花を生けようとしているの?



    背後から、掃除を終えた耕平がリビングに入ってきた。


    「一花、いい花はあったかい?」


    その声に、一花は震える肩を抱きしめて振り返った。瞳には大粒の涙が溜まっている。


    「・・・ごめんなさい、ごめんなさい・・・っ」


    「一花?どうしたの」


    駆け寄ろうとする彼を、一花は拒むように一歩退いた。


    「わからないの・・・。あなたの顔は知っているのに、私の大切な人だってわかっているのに・・名前が、出てこないの。思い出せないの。私、あなたのことが・・・」


    耕平は一瞬だけ目を見開いた。胸を貫くような痛み。けれど彼は、すぐに優しく目を細め、一花の正面に立った。彼女が震える手で持っていた花を、両手で一緒に生ける。


    「いいんだよ、一花。名前なんてただのラベルだ」


    耕平は静かに、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


    「一花が言ったじゃないか。花は自分の名前を知らなくても、堂々と咲いているって。・・僕も
    同じだよ。君が僕を何と呼ぼうと、あるいは呼べなくなったとしても、僕が君を支える「土」で
    あることに変わらない。君がそこに咲いているだけで、僕は僕でいられるんだから」


    一花は耕平の胸に顔を埋め、子供のように声をあげて泣いた。
    耕平はその背中をゆっくりと叩きながら、机の上のスケッチブックに目をやった。


    そこには、一花が先ほど描いたであろう絵がある。生ける花をイメージしていたのか、丸や三角に線が何本も伸びていた。自分以外の人が見たら、決して生け花とは分からないだろう。
    けれど、僕にははっきりと分かる。一花が僕の為に、花を選んでくれていたことが。その事実だけで十分だった。


    耕平はそのまま、ただ力強く彼女を抱きしめ続けていると、一花が震える声で言った。


    「名前がわからなくても・・・わかるの」


    一花は、彼の背中に回した手に力を込める。


    「あなたの匂いがする。私の大好きな、雨のあとの、土の匂い・・」


    記憶が消え去っても、二人の積み重ねてきた時間は、体温と、匂いと、魂の震えとなって、彼女の奥底に深く沈殿していた。


    一花は顔を上げ、涙に濡れた瞳で、自分を支え続ける彼を見つめた。


    「・・・お誕生日、おめでとう。私の、大好きな人」


    名前を呼ぶことは叶わなかった。
    けれど、その抱擁の中に「こうへい」という三文字以上の真実が、確かに存在していた。



    四章:永遠の春


    数年後。

    窓から差し込む陽光は柔らかく、部屋の中には静かな時間が流れている。


    縁側に座る一花は、庭に吹く風を眺めていた。
    かつて鋭かった眼差しは、今はただ春の海のように穏やかだ。彼女はもう、自分が誰であるかを知らない。隣に座る彼が、かつて人生を共に歩んだパートナーであることも。



    そこへ、耕平が庭から一輪の花を持って戻ってきた。


    「一花、これ。綺麗に咲いていたよ」


    耕平の手は、長年の庭仕事で節くれ立ち、爪の間には黒い土が入り込んでいる。彼はその土の匂いがする手で、一花に花を差し出した。


    一花の瞳が、少女のようにぱっと輝いた。


    「まあ・・・なんて綺麗。あなた、こんなに素敵なものを持ってきてくれたの?」


    彼女は花の名前を知らない。それが自分がかつて愛した花であることも忘れてしまった。けれど、花を見つめる彼女の指先は、吸い込まれるように自然にその茎に触れ、もっとも美しく見える角度でそっと抱き上げた。


    「不思議ね。これを見ていると、胸の奥がぽかぽかするわ」



    一花は、花を届けてくれた優しい人に、最高の微笑みを向けた。


    「あなたは、だれ?・・でも、とてもいい匂いがする。お日様のような、土のような」


    耕平は胸の奥が熱くなるのをこらえ、優しく笑い返した。


    「僕は、君の土だよ。君がそこで笑っていられるように、ずっとここにいるんだ」


    一花は「土さんなのね」と可笑しそうに笑い、彼の温かな手に自分の手を重ねた。


    彼女はもう、自分の名前を知らない。かつて積み上げた名声も、思い出も、すべては遠い霧の向こうに消えた。
    けれど、今この瞬間に咲く花の美しさを知り、目の前の人が注いでくれる無償の愛を知っている。



    「・・・・あったかい」


    一花が呟く。


    彼女の視界には、名前のわからない花々が風に揺れ、キラキラと光を跳ね返しているのが映っている。それは彼女の記憶からこぼれ落ちた欠片たちが、ひとつひとつ光る花に姿を変えて、彼女を祝福しているかのようだった。


    「これは、なぁに?」


    足元にあったスケッチブックに指を指して言う。


    「これは、大事な人との交換日記で、花の名前たちが書いてあるんだよ」


    ページをめくり、そこに書いてあるいくつもの花の名前や、当時の思い出を一花に伝える。
    そして、一番始めのページには、一花が最初に書いた花が書かれていた。


    「・・・わたし、この花好きだわ」


    書かれている絵を指でなぞりながら、一花が呟く。


    「君が一番好きだった花だよ。あそこに咲いてるから、持ってくるね」


    耕平の手には、庭の片隅にひっそりと、けれど力強く咲いていたアザミが一輪握られていた。
    逆光の中に揺れるアザミの紫が、彼女の瞳に鮮やかに飛び込んでくる。


    その瞬間だった。


    一花の頭の中の霧が、ほんの一筋の光に貫かれる。指先がアザミの棘を避けるように、かつての所作をなぞって花を受け取った。


    「・・・こうへい」


    空気の中に溶け出すような、小さな、けれど確かな響きだった。
    何年もの間、彼女が一度も口にすることのなかったその名を、一花は今、生まれたての言葉のように呟いた。



    耕平の時が止まった。
    視界が急激に歪み、熱いものが頬を伝って流れ落ちる。
    拭っても、拭っても、後から溢れ出す涙を止めることができない。


    「ああ、一花。・・・そうだよ。僕だよ。耕平だ」


    しかし、一花はもう「こうへい」という名前に結びついた記憶をどこかへ失くしていた。
    泣きじゃくる目の前の僕を、彼女は不思議そうに、けれど慈しむような眼差しで見つめている。



    「あら。どうして泣いているの?素敵な土さん」



    一花は、アザミを持っていない方の手で、そっと耕平の頬に流れる涙を拭った。
    彼女にとって、今の言葉の響きは、もう愛する人を指す言葉ではないのかも知れない。それはただ、目の前の光や、花の香りと共にふと浮かんだ、美しい旋律のようなもの。


    それでも、耕平は繋いだ手のぬくもりの中に、永遠の答えを見つけていた。


    「一花という花は自分の名前を知らない。けれど、愛されていることは知っている。」



    「ねえ、見て。お花が笑っているわ」


    一花が微笑み、耕平の手をぎゅっと握り返す。


    二人は春の光に包まれながら、いつまでも、いつまでも、アザミの揺れる庭を眺め続けていた。


    完


    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

     
     
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