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#60 風を目指して

    風は、いつもそこにあるのに、つかまえることができない。
    目には見えないのに、確かに触れてくる存在だ。
    音もなく近づいてきて、気づいたときにはもう、どこかへ抜けていく。
    そのくせ通り過ぎたあとには、なにか小さな変化だけを残していく。

    朝、駅へ向かう道で、ふと頬をなでるやわらかい風に、少しだけ救われることがある。
    昨夜うまくいかなかったことも、言いそびれた言葉も、ほんの一瞬だけ遠くに運ばれていく気がする。
    誰にも見られていないのに、「まあ、いっか」と小さくつぶやけるのは、きっと風のせいだ。
    パン屋の前を通れば、焼きたての匂いを運んできて、どうでもよかったはずの一日が、少しだけ楽しみに変わることもある。

    一方で、強すぎる風は厄介だ。
    傘をひっくり返し、整えた髪をぐしゃぐしゃにして、こちらの都合なんてお構いなしに日常を乱してくる。
    踏み出した足をほんの少し押し戻されるだけで、人はこんなにも苛立つのかと思う。
    けれど、その乱暴さすら、どこか憎みきれない。目に見えないくせに、こんなにも存在感を主張してくるものは、他にあまりないからだ。

    夕方、ビルの隙間を抜ける風は、昼間とは違う顔をしている。
    どこか冷たくて、少しだけ寂しい。
    その風に吹かれると、理由もなく誰かを思い出す。
    もう会っていない人、連絡を取らなくなった人、名前だけがふと浮かんで、すぐに消えていく。
    まるで風が記憶をめくっているみたいに。
    信号待ちのあいだ、遠くの笑い声や自転車のブレーキ音を運んできて、今ここにいる自分と、どこか別の場所の誰かを、ほんの一瞬だけつないでしまう。

    夜になると、風はさらに静かになる。
    窓を少しだけ開けた部屋に入り込んできて、カーテンをゆらしながら、何も言わずにそこにいる。
    騒がしかった一日の余韻を、そっと冷ましてくれるような優しさがある。
    ページをめくり忘れた本の端や、机の上の紙切れをかすかに揺らして、「まだ続きがあるだろう」と言われているような気がすることもある。

    季節が変わると、風の匂いも変わる。
    春の風は少しだけ甘くて、どこか落ち着かない。夏の風は熱を帯びて、肌にまとわりつく。
    秋の風は乾いていて、なにかを終わらせる気配を連れてくる。
    冬の風は鋭くて、余計なものを削ぎ落としていく。
    それぞれの風が、言葉にできない感情を連れてきては、置いていく。

    風は、何かを運び、何かを奪い、そして何も残さない。
    だからこそ、人はそこに意味を見つけようとするのかもしれない。

    ただ通り過ぎていくだけなのに、なぜか忘れられない。
    そんな瞬間を、風は何度でも連れてくる。

    風を目指して、今日を生きていく。

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