
社会的引きこもりと鯨の歌
鯨の歌を聞きたい。
ふと、そんな思いがよぎった。
なぜだろうか。
少し考えてみたいと思う。
そもそもの話、鯨はどんな時に歌を歌うのかを整理しよう。
鯨が歌を歌うときは一人きりで回遊しているときだ。初秋に餌場であるオホーツク海から繁殖場である沖縄や小笠原諸島までの約5000km、この距離を一人きりで旅をする。1〜2ヶ月ほどかけて。
そして、鯨はその道中で歌を歌う。
広い海の中を一人きりで泳ぐそのときに。
鯨はどんな思いで歌を歌っているのだろうか。
一人きりの寂しさに耐えきれず、「僕はここにいるよ」という気持ちをメロディにのせて歌っているのか。それとも、これから出会うであろうまだ見ぬ伴侶と生まれてくる子のことを思って歌っているのだろうか。
ついつい、想像を広げてしまう僕がいる。
ちなみに答えは雄が雌に向けてアピールする求愛行動なのでこれらの想像は不正解だ。
だが、こんな風に想像してしまう気持ちはわかってもらえると思う。僕たちは歌を歌うという行為が自分の気持ちと密接に繋がってると心に刻みこまれているのだから。
鯨がなぜ歌を歌うかという視点から、僕がなぜ鯨の歌を聴きたくなったかを考えてきたが、どうやらこの情報だけでは僕が鯨の歌を聴きたくなった答えには辿り着きそうはない。
僕は社会的引きこもりだから、一人きりの旅という言葉には繋がりがある。でも、それだけでは足りない気がする。
では、歌を歌うという行為が心に刻み込まれているという視点からならどうだろうか。
人類は古くから、なにかあると決まって歌を歌ってきたのだと思う。それこそ、旧石器時代から、嬉しいときには歌を歌い、悲しいときにも歌を歌う。祈りを捧げるときも、戦うときにも歌を歌ってきた。
人類は200万年という時間、歌を歌い続け、そして、現代を生きる我々もやはり歌を歌っている。人類の側には常に歌があったのである。歌を歌うということは我々の本能に刻み込まれていることであり、いわば人間らしさといえるのではないだろうか。僕はそんな風に思う。
僕たちの隣にある歌、そして、歌う鯨。
もしかしたら、僕のなかでこの二つのキーワードが繋がったのかもしれない。
そして、僕は無意識に鯨の歌から、ここにいるよというアピールを連想しただけでなく、鯨らしさの象徴と連想したのかもしれない。
つまり、鯨の歌から、鯨は生きることに疑問も持たず、自分を責めることもなく、DNAを残すという命題を全うしているだけではないか。そんな風に考えていることにも気づいたのだ。
僕は余計な思考をそぎおとし、ただただ生命を全うしている鯨が羨ましいのだ。
そして、この答えは僕の持つもうひとつの答えにつながる。
僕は鯨の歌から「僕はここにいるよ。確かにここにいるよ」と叫んでいることを連想してしまったが、これは社会という海の中で誰とも関わず、一人きりで生活している僕の気持ちとリンクしている。
つまり、僕はシンプルに嬉しいときにも悲しいときにも声をあげ、余計なことを考えずに、僕は僕として生きたいと思っている。だから、鯨の歌を聴きたいと思ったのだ。
やや強引な気もするが僕が鯨の歌を聴きたい理由はこんなところだと思う。
ぜひ、皆さんにも鯨の歌を聞いてみてほしい。神秘的な響きはある種の畏怖を感じさせてくれる。
そして、僕たちは僕たちらしく生きていいと思わせてくれるだろう。
思考の挑発に乗らずに、あるいは思考の誘惑に乗らずに。