
2011年3月11日、福島。被災した私が防災ブランドを始めるまで
私の名前は後藤秀和。福島県福島市で「ふくしまの防災 HIH ヒカリネット」というブランドを運営しています。
あれから15年が経ちますが、あの時の辛さと後悔は、私のなかで消えていません。
もう少し準備しておけば、心に余裕が生まれて、もっとちゃんとした行動が取れたんじゃないか。子どもや家族に不安な思いをさせたことが、いまも心残りとして残っています。
この記事は、2011年3月11日のあの日のことから、補聴器を売っていた私が「ふくしまの防災 HIH ヒカリネット」を立ち上げるまでの、私自身の物語です。
14時46分、事務所のパソコンの前にいた
2011年3月11日14時46分、宮城県沖を震源とするマグニチュード9.0、最大震度7を観測する地震が発生しました。
福島市内でも観測点により震度5強から6弱の揺れが記録され、市役所のある五老内町では震度6弱を観測しています。私の事務所があったのは福島市北矢野目。市内のどの場所も、これまで経験したことのない強い揺れに襲われた1日でした。私自身の体感としても、それまで経験してきたどの揺れよりも、長く、強い揺れだったと記憶しています。
そのとき、私は補聴器販売を営んでいた事務所で、パソコンに向かっていました。
大きな揺れを感じてすぐ、外に飛び出しました。外に出て自分の建物を見上げると、信じられないくらい斜めに、横にぐらぐら揺れている。このまま崩れるんじゃないかと、本気で怖かったのを覚えています。
事務所の隣は美容院でした。
髪を切ってもらっている途中のお客さんと、ハサミを持ったままの美容師さんが、私のすぐ横で、引き攣った顔で屈んで建物を見上げていました。あの二人の表情だけは、いまも昨日のことのように思い出せます。
家まで、通常10分の道のりが40分かかった
揺れが収まって、まず頭に浮かんだのは家族のことでした。
仕事のことはどうでもいい。息子はちょうど下校の時間で、ちゃんと家に帰り着いているだろうか。生後半年の娘と、妻は無事だろうか。すぐに車に乗り込みました。
家までは、通常なら10分の道のりです。けれどその日は、信号がすべて止まっていて、街全体が大渋滞になっていました。なかなか進まない。焦りばかり募りました。
その間、何度も大きな余震が来ました。高架橋の下を通ったとき、渋滞でちょうど動けなくなっていて、本気で「もしここで余震が来たら、自分は死ぬかもしれない」と思いました。あの瞬間の感覚も、いまだに忘れられません。
40分かけて、ようやく家にたどり着きました。家族全員の無事を確かめたとき、心の底からほっとしたのを覚えています。
家のなかは、あちこちにヒビが入って、家具が倒れ、物が散乱していました。それを片付けるのに半日かかりました。それでも、致命的な損傷はなかった。それだけでも、いま思えば本当に運が良かったんだと思います。
揺れより怖かったのは、そのあとに来た日々だった
被災された方は同じ感覚をお持ちかもしれませんが、地震そのものよりも、その後に続いた日々の方が、ずっと辛かったように思います。
ガソリンスタンドの行列に、3日連続で6時間並んで、ようやく給油できたこと。食料や生活物資の買い出しでも、毎日のように並びました。
そして、何より重くのしかかっていたのが、原発事故でした。
私が住む福島市は、福島第一原発から約60kmの距離にあります。「もしものときは、家族で福島から逃げる」ということを、本気で話し合っていました。
正確な情報が入ってこないことが、いちばん不安でした。テレビも数日間まともに映らない。何を信じて、何を疑えばいいのか、わからない。
数日経ってテレビが復旧してようやく状況が見えてきましたが、あの暗中模索の数日間で「ラジオは絶対に必要だ」と痛感しました。いまでも、ラジオの備えだけは絶対に外すなと、人に勧めています。
それから、もうひとつ。
家には、まともな懐中電灯もランタンもありませんでした。これが、本当に堪えました。
夜、停電のなかで子どもの顔がはっきり見えない。それだけで、心の余裕がごっそりなくなっていきます。
電池や明かりは、余分にあってもいい。むしろ余分にあるべきだ。これは、あの数日間の暗闇のなかで、私が身をもって思い知ったことです。
補聴器の会社が、防災を始めた日
私は当時、補聴器販売を生業にしていましたが、同時にインターネット通販事業も並行して営んでいました。
震災から少し落ち着いた頃も、あの経験は私のなかでずっと引きずったままでした。「もう一度同じことが起きたら、今度こそちゃんと備えておこう」。そう思って、まず自分の家のために防災グッズを買い揃えようと、ネットで調べ始めたんです。
そして、驚きました。
防災用品を真剣に扱っている店が、ほとんどなかった。
これだけの災害があった直後なのに、私のような被災経験者が「ちゃんと備えたい」と思って探しても、満足のいく商品に出会えない。これは、おかしい。
自分があの数日間で味わった恐怖と不安を、これから災害に向き合う人たちに味わわせたくない。同じ思いを、誰にもしてほしくない。
そう思った瞬間に、「自分の手でインターネットで防災セットを販売しよう」と、初めて思いました。
あの瞬間が、いまの「ふくしまの防災 HIH ヒカリネット」の出発点です。
「Hope is Here」— 大切な人を、死なせない。絶望させない。
ブランド名 HIH には、**「Hope is Here(希望はここにある)」**という意味を込めました。
闇のなかでも「希望はある」と思える瞬間を、防災用品を通じて届けたい。そんな思いを、3文字に凝縮しています。
ミッションは、シンプルに一つだけ。
「大切な人を、死なせない。絶望させない。」
防災の本質は、命を守ること。そして、生き残ったあとに絶望させないこと。それを私は、被災を通じて学びました。
情報も食料もない数日間、家族と寄り添って感じたあの心細さを、誰にも味わわせたくない。だから私は、防災セットを設計し、売り続けています。
そして、福島という土地でこのブランドを続けることにも、私なりの意味があります。
私たちが「ふくしまの防災」と名乗ることをやめないのは、あの経験を風化させないため。そして、同じ土地に生きる人たちと一緒に、これからも進んでいくためです。
あれから15年、いま私ができること
ありがたいことに、創業から15年以上が経ちました。
ふくしまの防災 HIH ヒカリネットは、累計20万セット以上の防災用品をお届けし、300社を超える法人さまにも導入していただけるブランドになりました。Amazon・楽天市場・Yahoo!ショッピング、そして公式EC(bosai-hih.jp)で、毎日たくさんのご家族の備えをお手伝いしています。
私自身も、被災を経験したあとに防災士の資格を取得しました。被災者としての体験と、防災士としての知識。その両方を持ったうえで、災害に備えるとはどういうことかを、これからも伝え続けていきたいと思っています。
この note では、いま現役でこの仕事をしている私だからこそ書ける、現場の本音を発信していきます。
予定しているテーマは、こんなものです。
2011年の被災経験から学んだ、本当に必要な備えのこと
防災業界のなかにいるからこそ見える、本音と現実
経営者として、父親として、防災士として考えていること
ふくしまの防災 HIH の商品開発の裏側
防災の情報を「正しく届ける」ことは大切です。でもその前に、なぜ私がこれほど防災にこだわっているのか、まず一人の人間として知っていただきたい。そう思って、この一本目を書きました。
次回は、いまでも私のなかで最も重く残っている、原発事故と、福島から逃げることを家族と話し合った数日間のことを書きます。
まとめ:この記事で伝えたかったこと
私(後藤秀和)は2011年3月11日、福島市で東日本大震災を被災しました(当時37歳、長男は下校時間、下の娘は生後半年でした)
補聴器販売を生業にしていた私は、それまで防災について真剣に考えたことがありませんでした
揺れそのものよりも、その後の数日(ガソリン6時間×3日、原発から60km、まともな懐中電灯すらなかった暗闇)の方が、私の中ではいまも消えない記憶です
自分の家のために防災用品を探したけれど、まともなものがネットになかった——その経験から「ふくしまの防災 HIH ヒカリネット」を立ち上げました
ミッションは「大切な人を、死なせない。絶望させない。」
創業から15年以上、累計20万セット出荷、法人300社超に導入いただいています
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット は、私自身の被災経験をもとに設計した防災セットを販売しています。ご家庭・法人を問わず備えをご検討の方は、公式サイト(bosai-hih.jp)をご覧ください。
この note では、これから防災について「現場の本音」を書いていきます。次回は「原発事故と、福島から逃げることを家族と話し合った数日間」をお届けする予定です。
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