
【オーディオ小説】私はオーディオと結婚してしまったのかもしれない
私はオーディオと結婚してしまったのかもしれない。
そう思ったのは、妻に「あなたは私の話を聞いていない」と言われた夜だった。
私は反射的に反論しようとした。
聞いていないわけではない。
むしろ、私は人よりずっと聞いている。
電源ケーブルを替えたときの背景の沈み込みも、スピーカーを一ミリ内振りにしたときのボーカルの口元の変化も私には分かる。
私は聞いている。
かなり聞いている。
ただ、妻の話は、少し帯域が違うだけだ。
そう言いかけて、やめた。
夫婦生活において、帯域という言葉はあまり役に立たない。
私とオーディオの付き合いは長い。
最初は、ほんの軽い気持ちだった。
学生時代に買った小さなアンプとスピーカー。量販店の試聴コーナーで、何となく音が良さそうなものを選んだだけだった。
あの頃は、まさか自分が将来、電源ケーブルの曲がり具合に人生の午後を捧げることになるとは思っていなかった。
恋愛と同じである。
最初は、そんなに本気ではなかった。
少し音が良くなれば楽しい。好きな音楽が気持ちよく聴ければいい。
その程度だった。
しかし、オーディオは優しかった。
いや、優しいふりをしていた。
アンプを替えると音が変わった。
スピーカーを替えると世界が変わった。
CDプレイヤーを替えると、今まで聴いていた曲の奥に別の部屋があることを知った。
ケーブルを替えると、ボーカルが半歩下がった。
インシュレーターを入れると、低域が床へ沈んだ。
少し手をかけると、少し応えてくれる。
この“少し”がいけなかった。
まったく変わらなければ、やめられたかもしれない。
劇的に変わりすぎても、そこで満足できたかもしれない。
けれどオーディオは、いつも絶妙に足りない。
良くなる。
だが、まだ良くなる気がする。
この距離感が、実に危ない。
私はいつの間にか、オーディオの機嫌をうかがうようになっていた。
今日は音が硬い。
昨日より低域が膨らむ。
雨の日は高域が丸い。
冬は電源の状態が良い。
夜十一時を過ぎると背景が静かになる。
冷蔵庫のコンプレッサーが止まると、ボーカルの奥行きが出る。
妻の機嫌より、アンプのウォームアップ時間のほうを気にするようになった。
会話の間より、曲間の静けさのほうが大切になった。
夕食の温度より、DACのクロック精度のほうが気になった。
これはもう、結婚に近い。
しかも、かなり手のかかる相手との結婚である。
オーディオは要求が多い。
まず、場所を取る。
スピーカーは壁から離せと言う。
左右の距離を揃えろと言う。
リスニングポイントを決めろと言う。
部屋の左右対称性を気にしろと言う。
家具を置くな、テレビを置くな、窓は対策しろ、床は鳴る、天井も効く、後ろの壁も甘く見るな。
オーディオは、家の中でいちばん広い顔をする。
リビングに置けば家族を追い出し、専用ルームを作れば住宅ローンに顔を出す。
そして、そこまでしてもまだ言う。
「部屋が追いついていませんね」
誰が言うのか。
雑誌である。
ショップである。
オーディオ仲間である。
そして、最終的には自分である。
機材を買えば、次は部屋。
部屋を整えれば、次は電源。
電源を整えれば、次はアース。
アースを整えれば、次はネットワーク。
ネットワークを整えれば、次はクロック。
クロックを入れれば、今度はクロック用の電源が気になる。
オーディオは、家計に対して非常に計画的に侵食してくる。
一度に全部を奪うのではない。
まず十万円で驚かせ、次に三十万円を普通にし、百万円を検討範囲に入れ、最後には「これはリセールがいいから実質安い」と言わせる。
恐ろしい相手である。
それでも私は、オーディオを嫌いになれなかった。
良い音が出た夜の幸福は、やはり特別だった。
部屋の照明を落とし、スピーカーの間に歌手が立ち、ピアノの余韻が壁の奥へ消えていく。
その瞬間だけは、たしかに世界が少し整って見える。
仕事のことも、老後のことも、身体の不調も、夫婦の小さなすれ違いも、いったん遠ざかる。
音楽だけが残る。
いや、正確には、音楽と、それをうまく鳴らしている自分だけが残る。
ここがまた、いけない。
オーディオは音楽の趣味のような顔をしている。
しかし、深く進むほど、音楽だけでは済まなくなる。
機材を選ぶ自分。
違いが分かる自分。
良い音を知っている自分。
店員に「さすがですね」と言われる自分。
雑誌のレビューを読みながら「まあ、分かる」とうなずく自分。
気づけば私は、音楽ではなく、自分の耳の正しさを聴いている日があった。
妻はそれを、たぶん知っていた。
ある日、妻が部屋の入口に立っていた。
私は新しい電源タップの効果を確かめていた。
「今、ちょっといい?」
私は片手を上げた。
「この曲が終わったら」
曲は六分四十秒だった。
しかし、その後に同じ曲をもう一度かけた。
比較には再現性が必要だからだ。
次に、元のタップへ戻した。
そして、また新しいタップへ戻した。
さらに、電源ケーブルの挿す位置を変えた。
気づいたとき、妻はいなかった。
私は申し訳ないと思った。
だが同時に、音はかなり良くなっていた。
こういうとき、人間はどちらを記憶するのだろう。
私は、音のほうを記憶した。
オーディオマニアの記憶は、都合よく高音質である。
なじみのショップへ行くと、店員はいつも優しかった。
「奥様の理解があってこそですね」
私は苦笑した。
「まあ、そうですね」
理解がある。
便利な言葉である。
本当に理解されているのか。
諦められているだけなのか。
呆れられているのか。
それとも、すでに会話の対象から外されているのか。
その違いを、私は聴き分けられなかった。
だが、電源ケーブルの違いは分かる。
USBケーブルの材質も分かる。
スピーカーの角度も分かる。
アンプの下に置いたボードの材質も分かる。
私は、おそらくかなり耳がいい。
しかし、妻の沈黙だけは、どうにも測定が難しかった。
ある晩、私はふと考えた。
もしオーディオと結婚しているのだとしたら、私は良い夫なのだろうか。
機材は埃を積もらせたことはない。
電源の入り切りにも気を遣う。
端子を掃除する。
スピーカーの位置はミリ単位で整える。
振動対策もする。
ノイズも取る。
イベントには頻繁に顔を出す。
新製品も試す。
必要ならローンも組む。
これだけ尽くしているのだから、良い夫と言っていいのではないか。
だが、人間の妻に対して、私はそこまで丁寧だっただろうか。
誕生日のプレゼントを選ぶ時間より、ケーブルの試聴にかけた時間のほうが長いかもしれない。
妻の話より、同じ曲を三回聴き比べた記憶のほうが多い。
妻の体調の変化より、アンプの発熱の変化に敏感だった日もある。
私は少し反省した。
少しだけである。
深く反省すると、音楽が濁る。
その夜、私はボリュームを少し下げた。
妻のいるリビングまで音が漏れないようにした。
これは私なりの歩み寄りだった。
すると、音が少し痩せた。
やはり音量は大切である。
小音量ではスピーカーが開かない。
空間が立ち上がらない。
音楽のスケールが縮む。
私は悩んだ。
夫婦関係と音量のバランス。
これは、測定より難しい。
しばらくして、妻の部屋のドアが閉まる音がした。
私はボリュームを少し戻した。
音が良くなった。
罪悪感も少し増えた。
しかし、低域の質感も増えた。
オーディオとは、こういう趣味である。
私はオーディオと結婚してしまったのかもしれない。
そして、その結婚生活は決して平穏ではない。
お金はかかる。場所も取る。時間も吸われる。ときどき裏切られる。良くなったと思った音が翌日には悪く聴こえる。昨日まで最高だったセッティングが、今日は少し違う気がする。
それでも、離れられない。
たぶん私は、オーディオを愛している。
ただ、その愛し方は少し偏っている。
いや、かなり偏っている。
音を良くするために生活を削り、静けさを求めるうちに家の中の声を遠ざけ、音楽を聴くために始めた趣味で、いつの間にか音楽以外のものばかり聴いている。
それでも、スピーカーの間にふっと声が立ち上がる夜がある。
部屋の奥行きが消え、録音された時間が目の前に現れる夜がある。
その瞬間だけは、すべてが許されるような気がしてしまう。
だから危ない。
本当に良い音は、人を反省から遠ざける。
今日も私は、妻が寝静まったあと、オーディオルームへ入る。
アンプの電源を入れる。
プレイヤーを起動する。
しばらく待つ。
機材には、目覚める時間が必要だ。
人間にも必要なのかもしれないが、そちらはあまり考えないようにしている。
一曲目が始まる。
ボーカルが中央に立つ。
背景は黒い。
低域は深い。
高域は滑らかで、音場は美しい。
私は目を閉じる。
今日の音は良い。
とても良い。
そのとき、遠くで何か物音がした気がした。
たぶん、妻がトイレに起きたのだろう。
私は少しだけ耳を向けた。
しかし次の瞬間、シンバルの余韻があまりに美しく伸びたので、そちらを聴くことにした。
私はオーディオと結婚してしまったのかもしれない。
そして困ったことに、今夜もその相手は、少しだけ美しかった。