
4/28 綺麗な虹、その代償
深夜0時前、「ブランコに乗りたい」と思い外に出ると、空気が湿っているのを感じた。人感センサー式の玄関ライトが照らすタイルに水滴が残っている。雨はまだ上がったばかりらしい。チカっと目の奥が光った。
一瞬のためらいの後、傘を持たず外にでる。面倒くさいことはしたくない。
湿気の海に身を投げると、時間をかけて丁寧にコーティングした髪の毛が一気に湿気を吸いこんだ。艶は失われ、真っ直ぐにみえていた一本一本が波打ち、絡まっていく。酷い気分だった。
だけれども私はこれからブランコをする。大好きなブランコ。ブランコに乗って前後に揺られながら、無心で空を眺めたり、本を読むのが精神安定ルーティンだった。
坂を登り、下り、いくつもの角を曲がりながら歩いた。ブランコに向かって歩いた。
しばらく歩くと公園に着いたが、正面入り口に人の影を認めた。方向を転換、ブランコに近い入り口までまわり込む。
やっと、やっと辿り着いた。
高揚する気分のまま思いきり漕いだ。これが間違いだったのもしれない。もっとゆっくり漕いでいれば、ブランコに期待をしていなければ。
ブランコを目一杯引き、太ももに力を入れ前進させると、『ぐわん』と脳が混ざるのを感じた。間髪入れずに、喉に手を突っ込まれたような吐き気とこめかみの脈打つ鈍痛、眼を抉られているような不快感が襲う。非常事態だと自覚しながらも、漕ぐのはやめたくなかった。頭部が熱を帯びていく。
いつもの偏頭痛だった。
頭の端で、数時間前に喫茶店でコーヒーフロートを飲んだことを思い出した。カフェインが原因なのかは分からないが、珈琲は明確に頭痛のトリガーだった。
そして、今しがた降っていた雨。
雨の日は、どういう訳か必ずではないのだが、頭痛が酷くなる。
雨+カフェインで弱っていたところに、三半規管への刺激が追加され、一気に吐き気と頭痛が襲ったらしい。
不快感の原因を解析していると、8時間ほど前、夕方に駅のホームから見えた虹を思い出した。
確かに、今日は天気雨が降っていた。いつもなら、雨の日に珈琲を頼むことはしなかったのに、すっかり忘れてしまっていた。
あの雲ひとつない空にかかる綺麗な虹、それをみて「ふざけるな」と焦げついた心を、どうして忘れていられたのだろう。
子供の頃、「悪いことがあったとしても、その分良いこともあるんだよ」と諭されたことがある。素直な私はそれを信じて疑わなかった。いつのまにか、その言葉が拠り所になってしまっていた。思い通りにいかない人生でも、耐えれば良いことがある。そう思い込んで耐えてきた。無神論者の私が唯一通う、心の中の教会に祈り続けていた。
あの虹をみた時、私が信仰していた神は、あろうことか、「ほら、いいことがあったでしょ」と言ったのだ。反射的に沸々と湧く怒りとともに、どこか目の覚めるような心地がした。
私はこんな虹ひとつで苦しみを受け入れなくてはならないのか。遠くで輝いているだけの、実体すらない虹が何をしてくれるというのか。
この頭を拳銃でぶち抜きたいほどの不快感も、あの虹に正当化されるのだろうか。「今日は虹が見れたんだからこんなことくらいなんでもないや」と思えたのならどれほどいいだろう。
悶々とそんなことを考えてながらしばらく歩いていたが、人感センサー式ライトの眩しい光を浴びて我に返った。家に着いたらしい。
手を洗うやいなや、頭痛薬と吐き気止めを口に放り込む。
化粧を落としたり服を着替えたりしながらぼっーとしていると、段々と痛みと吐き気が和らいでいった。僅かに残る膿が脳内を支配する感覚を、副作用の眠気が誤魔化す。思考があやふやになり、誘われるままベッドに倒れた。
ほどなして、意識が遠のいていく感覚にのまれる。もう怒りもどこかに消えた。もう疲れた。神はクビだ。
いい夢は見られなくても、明日がいい日にならなくても、それでもいい。疲れながらでも、思うままでいい。終わりはないのだから、結局何も分からないのだから。
そう言ってくれる神に乗り換えよう。おやすみなさい。