
サンドストーム・セブン 42話「潮風が運ぶ記憶」

【前回のあらすじ】
毒兵器工場へ潜入したアイリスとナヤは、住民たちが実験に使われている事実を知る。
証拠を手に入れた二人は、限られた時間の中で救える命を選び、工場の破壊を決断する。
だが、その炎でも消せない罪が残っていた。
⸻
港町ベルメール。
潮を含んだ風が、船の帆を大きく膨らませていた。
桟橋には漁船と商船が並ぶ。
木箱を担ぐ男たち。
値段を叫ぶ商人。
聞き慣れない言葉を交わす船乗りたち。
エレナは港を見渡した。
「すごい人ですね」
「西部でも指折りの交易港だもの」
セリスはゆっくり歩きながら、町並みへ目を向ける。

海沿いの時計塔。
坂の上まで続く市場。
倉庫街へ伸びる石畳。
どれも、記憶の中に残っていた。
「昔と、あまり変わってないわね」
エレナが隣を見る。
「覚えているんですか?」
「子どもの頃、家族と一度だけ来たの」
セリスは時計塔を指した。
「迷子になった時、あれを目印に戻ったわ」
「迷子になったんですか?」
「知らない町を、一人で歩いてみたかったのよ」
エレナが苦笑する。
「昔から行動的だったんですね」
「好奇心が強かっただけ」
「それを行動的と言うんです」
セリスは小さく笑った。
二人は桟橋を進む。
近くで帝国兵が船乗りを呼び止めた。
「その荷を開けろ」
兵士が銃床で木箱を叩く。
船乗りは箱を守るように前へ出た。
「ベルメール商会の封印が見えねえのか」
「検査だ」
「勝手に開けたら、組合へ報告するぞ」
兵士の顔が険しくなる。
だが、手は出さない。
周囲では商人たちが仕事を止めていた。
外国船の船員も、黙って様子を見ている。
やがて帝国兵は舌打ちし、別の荷へ向かった。
エレナが声を落とす。
「引き下がりましたね」
「ここで騒げば、港の仕事が止まるもの」
セリスは去っていく兵士を見つめた。
「船も荷も動かなくなれば、困るのは帝国も同じよ」
自由な町ではない。
だが、帝国軍がすべてを支配しているわけでもない。
ベルメールには、ベルメールの力があった。
それでも、兵士の数は多い。
港の門。
倉庫街。
船着き場。
監視するように、いたる所へ配置されている。
セリスは荷を積んでいた船乗りへ声をかけた。
「少し聞いてもいい?」
男は手を止めなかった。
「金になるならな」
セリスは硬貨を一枚、木箱の上へ置く。
「最近、帝国兵が増えた理由」
男は硬貨を指で押さえた。
「三日前からだ。船室まで調べてやがる」
「何を探してるの?」
「若い男らしい」
男は綱を引きながら続ける。
「金髪だと言う兵もいれば、黒髪だと言う奴もいる。話がばらばらだ」
エレナがセリスを見る。
セリスは、ごく小さく頷いた。
「ほかには?」
「軍人じゃない連中も聞き回ってる」
「どんな人?」
「知らん。俺たちより、ずっと目立たない連中さ」
男は硬貨を袖へ入れ、仕事へ戻った。
エレナが呟く。
「軍服を着ていない人まで動いてるんですね」
「帝国の手かもしれないわ」
セリスは周囲へ視線を走らせる。
「まだ決めつけられないけど」
二人は桟橋を離れた。
海が目の前に広がる。
水平線の向こうへ、白い帆が小さく消えていく。
セリスが足を止めた。
「子どもの頃はね」
エレナも海を見る。
「海の向こうには、私たちの知らない世界があるって信じてた」
「きっとありますよ」
「そう思う?」
「いろんな国の人が来ますから。見たことのない工具や部品も、きっと――」
セリスが横目を向ける。
「工具は後でね」
エレナの肩がぴくりと動いた。
「……顔に出てました?」
「とても分かりやすかったわ」
「気をつけます」
「無理だと思う」
二人の笑い声が、潮風へ流れていく。
やがて、セリスの足が止まった。
人の集まる石畳の広場。
その中央で、旅芸人たちが舞台を組んでいる。
笛の音。
子どもたちの歓声。
セリスは広場を見つめた。
「ここよ」
エレナが振り向く。
「私たちが公演した場所」
笛と太鼓が鳴り始める。
旅芸人の男が、燃える松明を投げ上げた。
隣では少女が石畳を蹴り、軽やかに宙を舞う。
観客から拍手が起こった。
セリスは懐かしそうに目を細める。
「私の家族も、旅回りのサーカス団だったの」
エレナが隣へ並ぶ。
「ご家族だけで?」
「いいえ。団員はほかにもいたわ」
セリスの目に、昔の舞台が映る。
口の悪い道化師。
いつも張り合っていた馬術師の姉妹。
夜になると古い歌を奏でた、楽器弾きの夫婦。
血はつながっていない。
それでも、同じ馬車で眠り、同じ鍋を囲んだ。
「みんな、家族みたいなものだった」
町へ着けば天幕を張る。
舞台を組む。
数日だけ公演をして、また次の土地へ向かう。
セリスにとって、家とは場所ではなかった。
同じ馬車へ乗る人たちが、家だった。
「父は曲芸師。母は踊り子だったわ」
「セリスさんは?」
「空中ブランコとアクロバット」

セリスは悪戯っぽく笑う。
「それから、ナイフ投げ」
エレナの目が丸くなる。
「ナイフですか?」
「団員に板の前へ立ってもらって、体のすぐ横へ投げるの」
「怖くなかったんですか?」
「最初は手が震えたわ」
狙った印から大きく外れ、父に叱られた夜。
空中ブランコから落ち、母に抱き締められた朝。
失敗するたびに泣いた。
それでも、幕が上がれば舞台へ出た。
客席の明かりを見ると、怖さを忘れた。
「もちろん、誰にも当ててないわよ」
「それでも怖いです……」
エレナの顔が引きつる。
セリスは声を立てずに笑った。
広場では、先ほどの少女が着地に失敗した。
石畳へ尻をつき、悔しそうに唇を噛む。
観客は笑わない。
温かな拍手が送られる。
少女は涙を拭き、もう一度助走を取った。
セリスの表情が柔らかくなる。
「あの子、昔の私みたい」
「何度も失敗したんですか?」
「何度も落ちたわ」
「それでも続けたんですね」
「舞台が好きだったから」
空中へ飛び出す瞬間。
歓声が上がる瞬間。
舞台袖で家族が笑っている瞬間。
あの頃のセリスにとって、それが世界のすべてだった。
エレナが頷く。
「だから、セリスさんは身のこなしが速いんですね」
「逃げ足もね」
「それは自慢するところですか?」
「生き残るには大切よ」
「否定できませんけど……」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて音楽が止まる。
観客たちは拍手を送り、広場を離れていった。
セリスは石畳を見下ろす。
「ベルメールの公演は、大盛況だったわ」
「お客さんが、何度も私の名前を呼んでくれた」
エレナは黙って聞く。
「でも、家族みんなで舞台に立ったのは、ここが最後だった」
セリスの声から、笑みが消える。
エレナは何かを尋ねようとした。
けれど、口を閉じた。
その代わり、セリスの隣へ一歩だけ近づく。
セリスは気づいていた。
何も言わず、肩の力を抜いた。
広場の向こうでは、帝国兵が露店の主人へ話しかけている。
店主は何度も首を振っていた。
やがて兵士が立ち去る。
セリスは露店へ向かった。
船乗り用の小物。
方位磁石。
錆止めの油。
工具も並んでいる。
エレナは小型のレンチを手に取った。
「見るだけです」
「買う顔をしてるわよ」
「珍しい形なので」
「荷物を増やさないでね」
エレナは名残惜しそうにレンチを戻した。
セリスは店主へ硬貨を差し出す。
「帝国兵は、何を聞いていたの?」
店主は周囲を見た。
「若い男を見なかったか、だとさ」
「特徴は?」
「知らされてないらしい。似顔絵も持ってねえ」
「それで、どうやって探すの?」
「余所者を手当たり次第に調べてる」
店主は硬貨を受け取り、声を落とした。
「昨日は、灰色の上着を着た男にも同じことを聞かれた」
セリスの目が細くなる。
「帝国兵と一緒だった?」
「いや。だが、兵隊もあの男には何も言わなかった」
「どこへ行ったか分かる?」
「夕方になると、港の酒場へ来る」
店主は海沿いの建物を顎で示した。
「そのあとは倉庫街だ」
セリスは小さく頷く。
「助かったわ」
露店を離れたあと、エレナが尋ねる。
「その男に心当たりが?」
「まだ分からない」
セリスは酒場の方角を見る。
「でも、確かめる価値はありそうね」
夕日がベルメールの港を赤く染めていた。
二人は露店の主人に教えられた酒場へ入る。
昼間から酒を飲む船乗り。
卓上で硬貨を賭ける男たち。
港の噂が、酒と一緒に飛び交っていた。
セリスとエレナはカウンターへ座る。
酒場の主人は、グラスを磨きながら二人を見た。
「旅人か?」
「そう見える?」
セリスが笑う。
「見えないな」
主人はグラスを棚へ戻した。
「面倒事の匂いがする」
「残念。もっと面倒な女よ」
エレナが横で小さく息を吐く。
主人の口元がわずかに緩んだ。
セリスは硬貨を一枚置く。
「灰色の上着を着た男を探してるの」

主人の手が止まる。
「知らん」
「まだ特徴を言ってないわ」
短い沈黙。
主人は磨き布を置いた。
「何が聞きたい?」
「その男が、何を探しているか」
「若い男だ」
「名前は?」
「知らん」
主人は硬貨を指で押し返した。
「帝国兵も同じ奴を探してる。だが、特徴すら教えられていないらしい」
「灰色の男は?」
「帝国兵より詳しい」
セリスの目が鋭くなる。
「どこへ行くの?」
「倉庫街の外れだ。古い保管庫を一つ使ってる」
主人は酒場の奥を見る。
「もうすぐ来る時間だ」
セリスは硬貨を受け取った。
「金はいらないの?」
「帝国兵が増えて客が減った」
主人は新しいグラスへ手を伸ばす。
「追い払えるなら、勝手にやってくれ」
「商売人は正直ね」
「損得にはな」
二人は酒場を出た。
海沿いの道を歩く。
港の喧騒が少しずつ遠ざかる。
波の音だけが残った。
しばらくして、セリスが小さく笑う。
「……口が軽くなったわね」
エレナが振り向いた。
「え?」
「昔の話なんて」
「誰にも話したこと、なかったのに」
エレナは少し照れたように笑う。
「初めてです」
セリスが首を傾げる。
「何が?」
「セリスさんが、自分から自分の話をするの」
セリスは少し目を見開いた。
エレナは続ける。
「いつも私たちの話を聞いてくれるのに」
「セリスさんのことは、ほとんど知りませんでした」
潮風が二人の間を抜けていく。
セリスは茜色の空を見上げた。
「人の話を聞く方が好きなの」
「自分のことは……少し苦手」
エレナが微笑む。
「でも」
「今日のお話、聞けて良かったです」
セリスは照れくさそうに笑った。
「ありがとう」
その時だった。
酒場の扉が開く。
一人の男が姿を現した。
灰色の上着。
細身の体。
目立つ傷も、派手な装飾もない。
それでも、セリスは一度見た顔を忘れなかった。
男は帝国兵の前を通る。
兵士が検問用の帳面を閉じた。
呼び止めない。
男は何事もなかったように歩き続ける。
セリスの笑顔が消えた。
「あの歩き方……」
歩幅は一定。
急いでいるようには見えない。
だが、人混みの切れ目だけを選んで進んでいる。
エレナも男へ視線を向けた。
「知っている人ですか?」
「忘れるはずがないわ」
店長の喉元に押し当てられた銃口が、脳裏によみがえる。
セリスは静かに息を吐いた。
「スカーレット・ムーンの店長を人質にした、帝国のスパイよ」
男は振り返らない。
そのまま、倉庫街へ続く路地へ入った。
エレナが声を潜める。
「追いますか?」

セリスは男が消えた路地を見つめた。
レオンのこと。
帝国軍が探しているもの。
あの男がベルメールへ来た理由。
聞くべきことは、いくつもある。
「行くわよ」
セリスが歩き出す。
エレナもすぐ後へ続いた。
二人の足音を、港の喧騒が隠していった。
第42話 完
⚫️紀霊スズヤのひと言コーナー
今回は少しだけ、セリスの過去に触れることができました。
他のキャラクターたちの過去についても、これから少しずつ描いていきたいと思います。
感想やコメントなど、お気軽にいただけると嬉しいです。
