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春を知らない八月 [第十一話]不知火

    第十一話 「不知火」


    観測図書館は、静まり返っていた。

    呼吸は落ち着いていた。

    あきふみは、目の前の本を見つめた。

    最後のページ。

    まだ、白い。

    小雪が言った。

    「まだ書かれてない」

    あきふみは頷く。

    「うん」

    しばらく沈黙が流れる。

    そのときだった。

    図書館の奥、本棚の影が静かに揺れた。

    カツン。

    小さな足音。

    黒い影が本棚の上に現れる。

    細い尾。

    暗い毛並み。

    黄色い瞳。

    黒猫だった。

    あきふみは目を細める。

    「……お前」

    黒猫はゆっくり座った。

    そして、静かに言った。

    「久しぶりだな」

    低い声だった。

    どこか古い、長い時間を生きている声。

    小さく呟く。

    「不知火」

    あきふみは眉をひそめる。

    「不知火?」

    黒猫は尻尾をゆっくり揺らした。

    「そうだ」

    その目が、あきふみを見つめる。

    まっすぐに。

    逃げ場のない視線。

    「わたしは、お前を見ていた」

    あきふみは黙る。

    不知火は続ける。

    「ずっとな」

    図書館の光が、静かに揺れる。

    「観測者」

    その言葉が、ゆっくり落ちる。

    「お前は世界に干渉した」

    重く響く言葉が、あきふみを押し付けた。

    「……春のことか」

    不知火は頷いた。

    「そうだ、春が消えた」

    落ち着きはらっていたが、どこか怒りの籠った声色で、不知火は言った。

    「本来、季節は流れる」

    「春、夏、秋、冬」

    「誰にも止められない」

    不知火は本棚の上から、すたっと足音なく、ゆっくりと降りた。

    「だが」

    あきふみの前で止まる。

    「お前は、それを歪めた。ただの人間であるお前がだ。」

    あきふみは、何も言えなかった。

    事故のあと。

    時間が止まった世界。

    終わらない八月。

    春の来ない季節。

    不知火が言う。

    「時の番人となってしばらく経つが、私自身、観測者の成立要件はよくわかっていない。」

    「どうやら観測者が強く願えば、代償と引き換えに、世界は歪むことがあるようだ。」

    「大切なものとの記憶」
    「幾多もの世界線での死に戻り」
    「スコップ男という自罰感情」
    「勿忘という世界のエラー」

    「それらが観測者自身の代償とよべるのかどうかも、わたしはわからない」

    「見る限り何の能力もない、才能もない、何者でもない者が、観測者になり得るのか」

    「しかし、確かにお前の認識した想いがトリガーとなり、この地域から春はなくなった」

    「お前が、世界というシステムから、事象形成に不可欠な観測者に選ばれたということは確かだった。」

    黄色い瞳が細くなる。

    「だから私は、お前を見ていた」

    「私の司る"秋"までも、次に消してしまわないように。」

    あきふみは、思わず笑った。

    小さく。

    力の抜けた笑いだった。

    「……そんなこと」

    首を振る。

    「もうしないよ」

    不知火は黙っていた。

    しばらく、あきふみを見ている。

    やがて、静かに言った。

    「そうか」

    その声には、ほんの少しだけ柔らかさがあった。

    「観測者は、春を取り戻した」

    不知火は続ける。

    「観測者…いや、あきふみ。お前の一度は拒んだ残酷な世界を受け入れたということだ」

    図書館の光が、少し明るくなる。

    小雪が、あきふみの肩の上で尻尾を振った。

    不知火は本を見た。

    最後のページ。

    白いままの紙。

    「世界はな、都合良くいつまでも未完成だ」

    静かな声。

    「脆い」

    「壊れやすい」

    「儚い」

    少しだけ間を置く。

    「だが」

    瞳が、柔らかくなる。

    「だからこそ、美しい」

    図書館の光が、ゆっくり広がる。

    本棚の奥まで、光が届く。

    不知火は、あきふみを見た。

    「観測者あきふみ」

    その声は、もう責めるものではなかった。

    「次は、お前が世界の行先を決めろ。今ならわかるだろ、観測者として何ができるか」

    本のページが、静かに光る。

    真っ白な紙。

    まだ、何も書かれていない世界。

    あきふみは、ゆっくり本に手を置いた。

    胸の奥で、滾る意志と覚悟が形になるのがわかった。

    すると小雪が、ぽつりと言って少し笑った。

    「もうすぐ私の役目も終わる…」

    不知火は何も言わない。
    手を置いた本に集中するあきふみには、もう聞こえてはいなかった。

    図書館を包む光が、陽炎のように揺らぐ。

     
     
    双極性障害2型。JADP認定上級心理カウンセラー。 生きづらさを、隠すことをやめる。 躁鬱と共存しながら、実践した事、創作、哲学を書いていきます。 noteのほか、ブログサイトを運営しています。 Xから行くことできるので、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。

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