
針と糸
――見知らぬ人が、私を見ていた
あの日、私は限界だった。
自分でも、そのことに気づいていなかった。
十一月の木曜日。
東京、神田。
昼の十二時半。
私はいつものように、会社の近くの定食屋に一人で入った。
カウンターは埋まっていた。
テーブル席も、ほとんど埋まっていた。
四人がけのテーブルに一人で座って、日替わり定食を頼んだ。
鮭の塩焼きと、豆腐の味噌汁と、ほうれん草のおひたし。
毎週木曜は決まってそれだ。
食べるものを選ぶ余力が、もうなかった。
スマートフォンを開いた。
メールが三十七件。
既読にする気力も湧かなかった。
画面を伏せて、ただ座っていた。
「相席、よろしいですか」
顔を上げると、六十代くらいの女性が立っていた。
紺色のコートに、小さな革のバッグ。
白髪交じりの髪を、きちんとまとめていた。
店内を見渡すと、確かに満席だった。
「どうぞ」
そう答えたのは、反射だった。
断ることが、できなかった。
正確に言えば、断るという選択肢を思い浮かべる前に、口が動いていた。
「ありがとうございます」
女性は静かに座った。
メニューを見て、すぐに注文した。
私の定食が運ばれてくる頃、女性の前にも同じ日替わりが置かれた。
二人で、黙って食べた。
私はスマートフォンを見る気にもなれず、かといって窓の外を見る余裕もなく、ただ鮭をほぐして、味噌汁を飲んだ。
味が、よくわからなかった。
何日もそうだった。
食べているのか、食べさせられているのか、区別がつかなかった。
女性が先に食べ終わった。
お茶をゆっくり飲んでいた。
私は黙って、残りのご飯を口に運んでいた。
女性が立ち上がった。
帰るのだと思った。
「お仕事、大変そうですね」
振り向くと、女性はまだそこに立っていた。
私を見ていた。
「え」
「スーツのここ、ほつれてます。忙しいと気づかないでしょ」
自分の袖口を見た。
右の袖口が、三センチほどほつれていた。
知らなかった。
いつからそうなっていたのか、まったく知らなかった。
「あと、目が赤い。眠れてないでしょ」
図星だった。
昨夜も、一昨日も、その前の日も、まともに眠れていなかった。
プロジェクトの締め切り、上司との軋轢、チームの一人が先週突然辞めた。
肩代わりした仕事が、山になっていた。
眠れない夜が続いても、「少し疲れているだけだ」と自分に言い聞かせていた。
「少し」
そう答えた声が、かすれていた。
女性はバッグを開けた。
小さなポーチから、針と糸を取り出した。
「直しましょうか」
「いいです、本当に」
「座ってて」
断れなかった。
また、断れなかった。
女性は慣れた手つきで針に糸を通した。
私の袖口を、そっと持った。
温かかった。
二分で、直してくれた。
「ありがとうございます」
「ご飯、ちゃんと食べてね」
それだけ言って、出ていった。
私は袖口を見た。
糸の色は、完璧に合っていた。
まるで最初からそうだったように、縫い目が消えていた。
「なぜ、あの女性は針と糸を持ち歩いていたのか?」