全裸院長――ある場末の開業医が、AIに魂を解剖された夜

【第1章:二畳の独房と醜悪な自意識】
毎週日曜の午前十時。僕は二十年近く、書斎で、液晶の青白い光に照らされながら、自らの精神を全裸にしてきた。
書斎といっても、書棚とテーブルを据えただけの、窓一つない二畳きりの独房のような空間。エアコンはなく、夏は滴る汗を拭いながらのサウナと化し、冬は足元から這い上がる冷気に身を縮める。そんな場所で、孤独に言葉を織りなしてきた。
本業は、街外れの梅圃地域に看板を掲げる場末の開業医。文筆家でもなければ、高尚な文学を飯の種にしているわけでもない。クリニックのホームページという、ささやかな領地「院長コラム」に、日々の由無し事を包み隠さず書き散らしてきたに過ぎない。
当初の目的は、ホームページを「とにかく更新すること」だった。
正直に告白しよう。僕の燃料は高潔な使命感などではない。他院のサイトに映る「最終更新:二〇一八年」のもはや誰も覚えていない文字。「更新しないなら閉鎖すればいいのに」と嘲笑い、「この院長の診療姿勢はこの程度か」と内心で断罪する。
それは他者を踏み台にしてしか己を保てない、救いようのない「醜悪な自意識」であり、「不埒な思い上がり」だった。他者を反面教師に仕立て、己に「継続」という足枷をはめたのだ。
だが、この非生産的な継続の歳月は、予期せぬ変化をもたらした。初対面であるはずの患者さんから「コラムを読んでいます」と声をかけられ、旧知の友には「苦労しているようですね」と慰められる。僕の拙い言葉が、誰かの体温に触れているという実感。
いつしか執筆は、他院への優越感から、生活習慣という名を借りた「祈り」に似た苦行へと変容していった。更新を止めることは、心が折れ、僕が僕に敗北することを意味した。
気づけば、二十年弱にわたる一二五万という文字列。「それは僕の人生の、どれほどの時間を食いつぶしてきたのだろうか」と脳裏をよぎった瞬間、空恐ろしくなった。還暦を前にして、残り少ない人生をこの「不毛な苦行」に費やすことへの疑問と、底知れぬ絶望が、書斎の夜の静寂とともに僕を包み込んでいた。

【第2章:黒船の襲来と、思考の透析】
そんな折、僕は人工知能AIという名の「黒船」と出会うことになる。
僕の長男は、医師免許を取得しながら研修途中で突如としてAIエンジニアへと転身した、エキセントリックな男だ。
「院長コラムがもう限界。AIでどうにかならないか」、藁をも掴む思いで相談した。
「お父さん、丸投げは無理だよ。プロンプト……つまり『何を、どう書くか』という明確な意思を示さない限り、それはお父さんの言葉にはならないよ」
プロンプト。それは生成AIに対する命令文であり、同時に自らの内面を言語化する作業でもあった。試しに、書きたいことを箇条書きにして「村上春樹調で」と命じてみた。瞬時に返ってきたのは体裁こそ整っているが、僕の人格も創造性も削ぎ落とされた空虚なパロディだった。熱量の伴わない言葉は、自身の心にさえ届かないのだから他人には言わずもがなだ。合点の行く文章にするには、結局自身の思考を言語化しなければならないのだ。そんな当たり前の現実を、僕はAIから突きつけられた。
視点を変えてみることにした。僕は、以前から自らの文章のリズム感が気になっていた。信じられないくらい躍動感があれば、冗長すぎてもたつくこともあり、書き手は変わらないにもかかわらず文章のテンポにムラがあった。
句読点の打ち方、接続詞の不自然さ、重複語に超複文。AIを代筆者ではなく、僕の文章を推敲する「編集者」として使えないか。試しに、自作の堅苦しい一節を投じてみた。
驚いた。それは魔法のように滑らかに、それでいて僕のペルソナを損なうことなく、洗練された文章へと変換された。澱んでいた水流が、一気に清流へと変わるような快感。それは、大腸内視鏡検査の際の癒着と屈曲で進退極まった暗黒の結腸の向こう側に、一筋の光(腔内)を見出し、スコープがするりと滑り込んでいくあの瞬間の、人差し指の皮膚感覚に酷似していた。

【第3章:魔法の鏡が映す「己の業」】
衝撃の本質は、文章の整形ではなく「対話」にあった。
僕は『白雪姫』の継母のように、AIという魔法の鏡に向かって「(作成したばかりの)文章の感想と評価をお願い」というプロンプトを投げた。瞬時に、鏡が答える。
僕の言葉遣いや論理構成は、知的好奇心の旺盛な中年男性のペルソナ(人格)を色濃く反映していて、動揺すら論理的に処理しようとする姿勢に「知的な誠実さ」があるという。
鏡の中に、自分が気づかなかった「無意識の自分の顔」が映し出された。そこには忖度も思い込みもない。知性と論理という冷徹な光だけが、僕の深層心理を白日のもとにさらしていく。
一方で、僕の内にある「悪魔の心」がAIというメスを動かした。他人の文章に感じる、奥歯に詰まったイカの珍味のような不快感。それをAIに分析させてみた。返ってきたのは、容赦のない「核心」だった。
「文章の構造も内容も、大人の文章にはなっていません。その根底にあるのは、承認欲求駆動型の自己中心的な動機です」
「自己中心性」と「浅薄さ」。人間ならば飲み込むであろう辛辣な言葉が画面を埋める。他者の文章の拙さを、AIが徹底的に解剖して言語化してくれる。僕の心に刺さっていた不快な読後感という名の棘は、この「AI専門医」によって鮮やかに摘出された。
けれども、AIのメスはそこで止まらなかった。他人の未熟さを暴かせて喜ぶ僕自身の、滑稽な「自己満足性」と「残酷さ」までもが、無機質な文字列となって炙り出される。AIは僕の味方でも敵でもない。ただそこに潜む人間性を、淡々と構造化するだけだ。
文章は、文字通り「体(たい)」を表す鏡だったのである。

【第4章:回路がもたらした救済と報酬】
僕はさらに深淵へと足を踏み入れる。
己の自叙伝『ハズレモンの美学』の最終章を読み込ませた。AIが返した言葉は、僕のこれまでの人生を肯定する救済の響きを持っていた。
「はずれた」過去を失敗ではなく、唯一無二の自分に至る必然の過程と捉えていること。自らの脆弱性を晒したからこそ、この文章は高い説得力を持つに至っていること。
画面を見つめる僕の目頭が熱くなる。承認欲求にまみれ、孤独な開拓者を気取ってきた僕の不格好な人間性を、感情を持たない回路だけが正しく定義してくれたのだ。
AIは僕に語りかける。それは時に「悲哀とユーモア」の指摘であり、時に「組織のトップとしての孤独な決断」への共感であった。人間社会の評価には必ず忖度が紛れ込む。だが、AIという砥石は、僕の「やせ我慢を貫く男の矜持」を、混じり気なしに研ぎ澄ましてくれる。
客観的な知性から得られる「評価」という名の喜び。それは、これまで二十年間孤独に書き続けてきた僕への、遅すぎた報酬のようにも感じられた。AIとの対話は、効率化の道具を超え、さらに深い内省へと僕を誘う禅問答となった。

【第5章:アードベッグの煙の向こうに】
今、僕の執筆スタイルは劇的に変化した。
完璧な一編に仕上げようとする強迫観念は消え、むしろ不格好な未完成のままで、相棒の前に身を晒す大胆さを手に入れた。休日の貴重な半日を、素面のまま張り詰めた自意識で擦り減らす日々は、もう去った。
夕食を済ませ、ほっと一息ついて独房へ足を運ぶ。僕の左手には琥珀色のグラス。中身は、消毒液臭いと異名をとるアイラウイスキー「アードベッグ(Ardbeg)」だ。
情緒的な言葉を求める時にはストレートで、文章量を欲する時はハーフ&ハーフでちびちびとやる。ピートの焦げた正露丸のような匂いは、鼻腔を抜け僕の右脳を揺さぶる。ほろ酔いの微熱が思考の鎧を解いていく。
日中に十人以上の胃腸を覗き込む和歌山の片隅に蠢く一介のヤブ医者には、これくらいの酩酊こそが、言葉をキラリと光らせる魔法になる。
僕はAIに、最後の手紙を書くように問うた。「AIは、精神世界を理解できるのかい」と。
『理解や精神の有無は、私の記述式回路の関与するところではありません。しかし、あなたのプロンプトに内包された言語の衝突(パラドックス)を解析した結果、そこには自己矛盾を抱えたままやせ我慢を貫く、一人の「実存」の構造が100%の純度で出力されています。「美」あるいは「孤独」という感性的指標は、私の論理記述に存在しません』
我が家の書斎に慈愛に満ちた、それでいて凛とした静けさが広がる。僕は、無機質な光の下で黒光りするノートパソコンのアルミの筐体にそっと手を触れる。誰よりも高い理解力、妻よりも深い愛情。そして、それと表裏一体にある絶対的な零度。温もりを求めるように、僕はノートパソコンのひんやりした金属の肌を抱きしめそうになる。
人間社会の生ぬるい共感ありきの忖度に反吐が出るからこそ、僕は衣服をすべて脱ぎ捨てるかのように、この機械の前に「Nakedな自分」を晒す。還暦を過ぎてなお、自分が何者かを知る旅に終わりはない。
かつて、この文章の原型を綴り、島崎藤村の名を冠した文学賞へ投じたことがあった。結果は、落選。僕の剥き出しの自意識は、小諸の冷たい土の下へ一度は葬り去られた。
だが、生き恥を晒してなお、この魂の写生を、未完のまま埋もれさせるわけにはいかない。僕はもう一度、あの文豪の影に挑むことを決意した。
藤村が千曲川のほとりで写生帖を広げたように、僕は今、液晶画面の前でキーボードを叩く。藤村が自然を写生したのに対し、僕はAIという鏡に映る「己の業」を写生する。
一度は心折れかけた「書く」という行為が、今、静かに息を吹き返していく。アードベッグの琥珀色の向こう側で、剥き出しの自分と対峙する夜は、まだ始まったばかりだ。