
花束に溜め息を
花束、ブーケ、あるいは供花殿に捧ぐ。
アルジャーノン以降、いやそれよりずっと以前から続く営みだろうけれど、何かと送られ、捧げられ、渡されてばかりいるお前に、
喜ばれてばかりいるお前に、私の小さな溜め息を。
卓上の花瓶で、少しずつ首を垂れ始めた君を見つめながら、
私はそんなことを考えている。
人というものは、日々を彩るにも、愛を語るにも、取り返しのつかない
謝罪をするにも、死を悼むにも、お前たちの力を借りる。きっと自分の言葉や態度だけではどうにも足りず、いつもお前たちの完璧な沈黙に重い感情を背負わせては、その場をやり過ごそうとする。
そんな様子に君たちの健気な献身を見出すと同時に、私はこうも考えてしまう。他人の欲求を満たし、その場を華やかに彩るために、綺麗に着飾って消費されるその姿はまるで、「キャバクラ」だ。
いや、キャバクラが人の花束なのかもしれないけれど。
根を断ち切られ、本来の土から引き剥がされたお前たちは、温度管理されたガラスケースのショーウィンドウに並べられ、美しさや珍しさで値踏みされ、少しでも長く咲き続けるようにと冷たい水や延命剤を吸わされる。
そして、見栄えのいい包装紙やリボンで過剰にドレスアップされては、
誰かの祝祭や感傷、あるいは薄ら寒い自己満足を演出するためだけに、
その「美しさ」を搾取される。少しでも色褪せれば、
ためらいなくゴミ箱へ放り込まれる残酷な営みのさなかでも、
君は君の美しさを惜しみなく振りまいた。
しかしそこには、自然のなかでただ芽吹き、太陽を浴び、風に吹かれて静かに土へ還っていくという、本来の生命の営みはない。
私はただ、お前たちには自然のなかで、誰の目も気にすることなく、
ただ勝手に咲いていてほしいだけなのだ。
けれど、他人の手によって綺麗に束ねられたお前たちを見ていると、
同時にこうも思うのだ。私を含め、人間は、お前たちをただ便利な道具として消費しているだけではない。むしろ狂おしいほどに愛でているのだと。
私たちは、自然のまま野に咲く姿を遠くから眺めるだけでは我慢ができない生き物だ。ただそこにあるだけの「意味のない美しさ」を許容できず、
その命を縮めてでも自分の手元に引き寄せ、「誰かを祝うための贈り物」という役割を与えようとする。
所有することでしか愛せない、そして、愛したものを切り刻むことでしか手元に置けない。それは私たち人間のどうしようもない業の深さだ。
身勝手で、傲慢で、ひどくグロテスクだが、そこには私も確かに持っているお前たちへの強烈な憧憬がある。
では、命を短く切り詰められ、人間の身勝手な愛の犠牲になったお前たちは、ただ可哀想なだけの存在なのだろうか。
誰もいない野原で咲き誇り、誰にも見られずに泥の中で朽ちていくのが、本来の正しい命の在り方なのだろう。だが、死の淵に立たされてなお、
不自然なほど鮮やかな色を放ち、むせ返るような香りを
漂わせるお前たちを見ていると、ふと思うのだ。綺麗に切り揃えられ、
ひな壇に並べられ、誰かの腕の中で強烈な光と歓声を浴びながら、
その短い命を劇的に燃やし尽くすこと。
花よ、きっと君も、満更でもないんだろう。