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【谷の巡礼】⑥谷の映える暮らし 前編「空中楼閣の谷」

    むかしむかし、
    あるところに、
    深い深い谷がありましたとさ。

    その谷には、
    ひと際見晴らしがよく、
    村人たちが見上げては、

    「あげん日の当たる場所に、
    住めたらよかねぇ」

    そう言って羨む、
    美しい丘がありましたとさ。


    ~空気を変えた“ひとこと”~

    その丘に住む人々は、
    畑を耕し、
    夜になれば、
    小さな竹の提灯を灯して、
    ささやかで、
    温かい暮らしを営んでおりました。

    稲穂が風に揺れ、
    谷の木々が色づき始めた頃のことです。

    谷の向こうから歩いてきた
    ひとりの巡礼者が、
    丘の上の家を見上げてこう言いました。

    「なんと美しい、
    絵のような暮らしでしょう」

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    その言葉を聞いた丘のお内儀さんは、
    胸が震えるほどの喜びを感じました。

    自分がどう生きているかではなく、

    「他人の目に、
    自分の暮らしが美しく映っている」

    という事実に、
    これまでにない快感を
    覚えてしまったのです。

    お内儀さんは考えました。

    「もっと褒められたい」
    「もっと、下を歩く人々の目を引きたい!」


    ~映えるランタンと果実~

    お内儀さんは、
    自分の足元を照らすためだけの
    素朴な提灯を投げ捨てました。

    そして、
    街からわざわざ特注して
    『ガラス張りのランタン』を
    買い求めたのです。

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    中身が透けて見えるそのランタンは、
    ぎらぎらと四方に眩しい光を放ち、
    丘の下を歩く村人たちの
    目を引き付けました。

    さらにお内儀さんは、
    食べるためではなく、
    通りかかる者に見せるためだけに、
    遠くの国から、
    見栄えのいい『飾りの果実』を
    高い運賃を払って取り寄せ、
    窓辺に並べました。

    中身はスカスカで味もしない、
    ただ“美しく見えるだけ”の果実です。

    それを見た近所のお内儀さんは、
    胸がざわつきました。

    「あそこの家ばかりが褒められている」
    「私たちの暮らしが、
    みすぼらしく見えるじゃない……」


    ~巡る丘の歯車~

    隣の家は、
    負けじと、
    さらに、
    大きなガラスのランタンを掲げました。

    向かいの家は、
    それを見下ろすように、
    窓辺を埋め尽くすほどの
    飾りの果実を並べました。

    丘の上は、
    夜通し、
    眩しい光がぎらぎらと暴れ回り、
    実らない果実の強烈な色彩で
    溢れかえりました。

    「私の家の光のほうが、
    隣の家の光より遠くまで届いている」

    「私の家の果実のほうが、
    下を歩く村人に指をさされている」

    お内儀さんたちは、
    あまりの眩しさに、
    自分たちの足元が
    見えなくなってきていることに
    気付きませんでした。

    そして、
    それを維持するための貯えが
    底を突きかけていることに、
    誰も気づこうとはしませんでした。


    ~丘のマウント~

    お内儀さんたちは、
    挨拶の代わりに、
    ランタンの眩しさと、
    果実の美しさを
    褒め合うようになりました。

    「まぁ、お向かいの奥様。
    ガラスのカットが
    ずいぶん凝ったランタンですこと。
    でも、少し光が弱くて、
    谷底からは、
    見えにくいかもしれませんわね」

    「あら、ご心配ありがとう。
    でも、うちの窓辺の果実は、
    遠くの街から
    一番高い運賃で取り寄せたものですの。
    中身をくり抜いて、
    中に小さな灯りを仕込んであるから、
    夜でもあんなに“映える”のよ」

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    「素敵ね」

    お内儀さんたちは、
    お互いの家を
    訪問し合っては褒め合いました。

    しかしその目は、
    相手のランタンの大きさや、
    飾られた果実の数を
    瞬時に数え上げていたのです。


    ~丘のインフレ~

    狂熱は伝染し、
    丘全体が、
    恐ろしいインフレに
    巻き込まれていきました。

    「もっと大きなランタンを!」
    「もっと色鮮やかな果実を!」

    昨日までは誰も見向きもしなかった、
    『ただ大きく光るだけのガラス』や
    『食べられない美しい果実』の値が跳ね上がり、
    丘の上の商店は、
    そればかりを並べるようになりました。

    「よかねぇ。羨ましかねぇ」

    「高い所に住んどる人たちは、
    キラキラしとるばい」

    下を歩く村人たちが、
    丘を見上げるたび、
    丘の上に住むお内儀さんたちは、
    至上の快感に酔いしれ、
    さらに燃料を買い込みました。

    やがて、
    丘の上に住むお内儀さんは、

    『山の手に住まう奥様』

    そう村人たちから、
    呼ばれるようになりました。

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    丘の上はいつしか、
    白昼夢かのような、
    不自然で眩しい光が、
    ぎらぎらと暴れ回る、
    『映えの丘』になったのです。

    その光があまりに眩しすぎるせいで、
    自分たちの足元が、
    まったく見えなくなってしまいました。


    ~丘の沈没~

    やがて、
    ランタンの燃料代と果実の運賃は、
    一般的な家庭の蓄えを
    遥かに超えていきました。

    しかし、
    一度浴びた羨望の視線の手放しかたが、
    『山の手に住まう奥様』には分かりません。

    光を小さくすることは、
    自分の敗北を意味するからです。

    彼女たちは、
    選択を始めました。

    夫が、
    春に蒔くために大切にしまっていた
    『明日を生きるための種もみ』を売り払い、

    先祖代々使ってきた、
    『耕作のための確かな道具』を質に入れ、

    それを、
    燃料に変えていったのです。

    「大丈夫、
    明日になれば、
    また、
    下の人たちが私を褒めてくれるから」

    光はさらに大きく、
    果実はさらに増えていきましたが、
    丘の上の暮らしの土台は、
    完全に底を突きかけていました。


    ~巡礼者と伽藍洞~

    季節が廻り、
    谷を渡る風が、
    骨身に染みる頃のことでした。

    美しい丘を
    もう一度目にしようと、
    あの巡礼者が、
    また、
    あの丘に訪れたのでした。

    巡礼者は、
    丘を見上げました。

    「あの美しい暮らしは、
    どこへ行ってしまったのか……」

    そこには、
    ぎらぎらして目が眩むほどの
    豪奢なガラスのランタンが並び、
    窓辺には、
    不自然なほど、
    鮮やかな果実が飾られています。

    「あの美しい丘は、幻だったのか……」

    巡礼者は丘に登り、
    一番大きく輝くランタンが
    掲げられた家の窓を
    そっと覗き込みました。

    すると、
    そこにあったのは――

    見事な『伽藍洞』でした。

    外側を飾るきらびやかなランタンや
    果実の裏側には、
    絨毯も、机も、
    暖炉の薪すらありません。

    家具はすべて燃料代に変えられ、
    剥き出しの床があるだけ。

    その冷たい床の上で、
    上等な着物を纏った『奥様』が、
    ただランタンに、
    燃料を注ぎ足し続けていたのです。

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    巡礼者は、
    自分の足元だけを静かに照らす、
    素朴な竹の提灯を手に、
    次の谷へと歩き出していきました。

    『山の手に住まう奥様』は、
    丘を降りることが
    出来なくなりました。

    丘の上には、
    誰も降りられぬ灯りだけが、
    宙に浮かんでおりました。

    ――それは、まるで。
    空中楼閣。

    めでたし、めでたし。


    ――もっとも。
    人は時として、
    手に入らぬものほど
    美しく見えてしまうのでございます。

    次のお話――

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    手鞠

     
     
    谷を彷徨い、谷を巡礼しながら。暮らしと、お金の輪郭を綴っています。

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