
静けさの手放し方
石段の端に腰掛け背中を丸めた髪の長い男は、10年前の私の逃げ場だった。
久々に会う彼は、東京の4月末の気温には似合わぬ
黒の光沢のあるレザージャケットを着ていた。
彼はこんなに落ち着いていただろうか。はたまた私がいつの間にか、
いつもご機嫌でいるふりが上手になってしまったのだろうか。
若者で溢れかえる居酒屋に入り、がやがやした店内で瓶ビールを頼んだ。
10年前には甘いサワーを頼んでいた私たちは、いつの間にか大きな瓶ビールを小さいグラスに二人で分けるような大人になっていた。
10年前はろくな会話もせず、ただ一緒にいて体を重ねるだけの関係だった私たちが、居酒屋で近況を報告しあった。
『元カノに今、結婚しようって言われたら結婚する』
彼はそう言った。
うまくいかなかった過去を包み込んだまま彼女を愛し続けられる彼が少し羨ましかった。
私の中にはない価値観が降り注いで、彼と話していてとても楽しかった。
それでも彼と会話を重ねれば重ねるほど、泣きながら好きと告白した過去の自分がわからなくなった。
こぶしの様な唐揚げを一つ残し、居酒屋を後にした。
大人一人がやっと通れる狭い階段を上りシーシャ屋に入った。
甘くて酸っぱさのある煙たい香りが鼻に絡みつく。秘密基地のような暗がりの中で2人分のチャイティーとカンライチ、フレーバーのシーシャを頼んだ。
『セックスしてから恋愛するタイプなんだよね』
細く長く吸いこんだ煙が肺を満たし、体がゆっくり沈んでいく。
私が恋愛の逃げ場としてきたセックスを、彼は相手を知るための入口だと考えていた。何度も体を重ね、彼の体温を知っているはずなのに、私たちは最初から全く別の場所にいた。
夢中になり、終電を忘れて話し込んでしまった。時刻は24時30分。とっくに終電はなくなっていた。
話し込むうちに、今夜はこのまま朝になってほしいと思った。
渋谷のにぎやかな明るさから逃げるように彼の家へと向かう。
年数を重ねたレトロな扉を開けると、10年前に愛おしく感じていた彼の香りで満ちていた。
明かりのない真っ暗な部屋の中で、10年ぶりの体を確かめ合った。
彼に頭ごと抱きしめられながら、深く眠った。
どのくらい時間がたっただろう。ごそごそという布団の音で目が覚めた。
繊細な彼は眠れずにいる。
懐かしい体温はとても心地よかった。
カーテン越しの薄暗い空を眺めながら、
私はようやく気づいた。
好きだったのは彼ではなく、
彼といる間だけ訪れる世界から切り離されたような静けさと
満ち足りた自分の心だった。
時計は朝4時を指していた。
昨日飲みほしたコーヒーのカップをバッグに押し込み、
静かに彼の家を後にした。
もう4月末だというのに、早朝の突き刺すような寒さが頬にしみる。
薄暗い朝もやの中、この幻想のような空気だけは私を裁かない。
だから私はまだ、この静けさの手放し方を知らない。