
青すぎる空、そして遠い愛の詩 ――オーストラリア間借り生活の記憶
▼
家主と生活空間の一部を共有する、間借り生活をしていた頃の話です。
同居人募集の投稿に載っていた写真は、ベッドと洗面台の2枚だけ。他の部屋の様子も、家の外観も写っていませんでした。それでも私は、自己紹介と内見希望のメールを送ってみることにしました。
彼女から、すぐに返信がありました。検索してみると、中東の女性の名前のようでした。少し緊張しながら教えられた住所へ向かい、時間ちょうどに玄関のドアをノックしました。
小柄でかわいらしい女性が、明るい笑顔で出迎えてくれました。案内に促され奥に進むと、素敵なリビングが視界に広がりました。シャンパンゴールドの薄いシフォンの布が、空気をはらませて窓辺で優雅にたわんでいます。光をやさしく透かし、静かで華やかな空気を部屋につくっていました。
「どうぞ、こちらに座って」
案内されたソファは、重厚な木のフレームに小花模様の布張りです。長い年月を経たような落ち着きがあり、ノスタルジックな甘さもありました。足元には、斜めに敷かれた暖色系のペルシャ絨毯。天井からは、小ぶりのシャンデリアが静かに下がっています。クリスタルの粒は華美ではなく、むしろ控えめで、光が空間の透明度をほんの少しだけ引き上げていました。
家具や調度品のほとんどは、イランから持ってきたものだと女性は言いました。十数年前にイランからオーストラリアへ来たのだそうです。シングルマザーで一人暮らし。結婚した娘が近くに住んでいる、と言いました。
「いつでも入居していいですよ」
こうして、私のオーストラリアでの間借り生活が始まりました。彼女と一つ屋根の下で過ごす1年5か月は、私にとって、一人の女性の生き方を静かに観察する時間でもありました。ベッドと洗面台だけの写真に滲み出ていた慎重さと、部屋に満ちていた格調の高さ。その間にある本当の距離を、このときの私はまだ測れずにいました。
▼
その女性・Hは当時、私より少し年上の56歳でした。木曜と金曜が休み。それ以外の日は、きっかり14時半に家を出て、きっかり22時半に帰ってきました。私は息子を学校に送り出したあと、ジムや図書館、英語教室へ出かけて14時頃に帰宅する生活で、Hが帰宅する22時半にはもう寝ていることが多く、家の中で顔を合わせることはあまりありませんでした。たまに会うと、彼女の顔にくもりが見えることがありました。
「仕事、疲れる?」
ある日そう聞いてみると、Hはため息をついて言いました。
「そうねえ、疲れるわねえ」
Hは高齢者介護施設で働いていました。
「最近ね、新しく入ってくるヘルパー、みんなブータン人なの。ブータンって今、どうなってるのかしらね?」
Hはため息交じりに言いました。
「職場では固まって母国語で話さないでって言っても、すぐまた集まっておしゃべりするのよ。それを見た入居者さんたちが、『彼女たちは何を話してるんだ、自分たちの悪口じゃないのか』 って私に言ってくるの」
「『ブータン人ヘルパーに頼んだんだけど、ちゃんと伝わってないみたい。あなたにお願いしてもいい?』 って私のところに来る人も多くて。ヘルパーが増えたのに、逆に私の仕事が増えちゃった」
「入居者さんはね、気軽におしゃべりしたい人が多いの。でも英語があまり通じないと、それも難しいでしょう?結局そういうことまで私が引き受けることになるのよ」
そして最後に、あきれたように言いました。
「上司はこういう現場のこと、全然分かってないの。それで二言目には、『でも人手不足だから、とにかく採用は続けるしかない』って」
Hがこぼした愚痴は、オーストラリアが抱える介護現場の現実でもありました。
Hがある日、ぽつりと言いました。
「長く入居していた私の担当の人が、今朝、私の腕の中で亡くなったわ」
介護は、彼女にとってこの国に住み続け、家のローンを支払うための切実な生活の糧です。
「あれやって、これやってって言われてね。自分がまるで奴隷みたいだなって思うこともある」
そんなことを言いながら、Hは毎日、制服のポロシャツにきちんとアイロンをかけて出勤していました。オーストラリアに来るまで、働いた経験はなかったといいます。
部屋に飾ってあるご両親の写真。
イランというと民族衣装のイメージがありますが、フレームの中のお母さまは、きっちりとセットした髪にミニスカート、そしてハイヒール。西洋的でモダンです。お父様はかっちりとしたスーツを着て、威風堂々と写っていらっしゃる。イランから持ってきたという格式高い家具や調度品。それらを見ると、彼女は本来、豊かで文化的な生活を送っていたのではないかと思わせました。
どんなに疲れて帰ってきても、たとえパンひとつであっても、皿にのせ、ナイフとフォークを使って丁寧に食べる気品のある姿を見るたびに、私は思うのです。何が彼女を、オーストラリアへ来させたのだろう、と。
▼
オーストラリアでの生活基準がまったく分からなかった私に、Hはこの地では当たり前の「防犯ルール」を一つひとつ教えてくれました。
・玄関ドアの外には、たとえ短時間でも靴を置かないこと
・外から家の中を観察されないよう、昼間でもカーテンを閉めておくこと
・スクールバスに乗った息子を見えなくなるまで手を振って見送るのは、目立つからやめること
日本にいたら気にしないことばかりで驚きました。治安が良いイメージのオーストラリアですが、それはこうして各自が小さな習慣で守っているからなのだと学びました。
Hは、日々の時間の使い方だけではなく、食生活もきちんとしていました。前夜からふやかしておいたアーモンドは、翌朝アーモンドミルクにして飲みます。その後、サフランとチアシードを水に浸しておき、帰宅後に飲みます。寝る前にはバラ水を飲み、残りを枕元に置いて眠りにつきます。喘息持ちだからということで、摂取するものには並々ならぬこだわりを持っていましたが、庭のローズマリーを煮だしたお湯で髪を洗うなど、全方面に抜かりがありませんでした。
Hはもともと整った顔立ちをしていますが、このような日々の美しいルーティーンもあって、清らかな人でした。常に買い置きしてあるものに、豆類とアボカド、ザクロがありました。レモン、オレンジ、ブドウ、キウイなどの果物も欠かさず補充していました。必要な栄養素を過不足なく摂取するよう気を遣っていて、サプリメントも様々揃えてありました。卵も必ずオーガニックを買うこだわりです。一緒に料理をすることもあったし、冷蔵庫を共有していたので、私は彼女の食生活をすべて把握していたのです。
砂糖は置かず、甘味はハチミツやデーツ。肉は高たんぱく低カロリーのターキーを、ミントやコリアンダーなどのハーブやトマトと合わせます。時にはラム肉でシシカバブを作り、サフランを入れて炊いたご飯をお弁当にして職場に持っていきました。必要なものだけを厳選し、不純なものを入れないという潔癖さは、食生活に留まりません。ある日、Hが車のタイヤのホイールの凸凹まで雑巾で拭き上げているのを見て驚いたことがありました。
「あら、そうよ、私はきれい好き!」
おどけて見せるHに、私は同じ女性として自身のいい加減さを反省するばかりでした。
そんなHがなぜ私と息子を家に入れたのか、ある時こう言いました。
「家のローンを女の私一人で返していくのは大変よ。夫婦二人で普通は返済していくんだもんね。だからあなたたちを入れることにしたの」
――じゃなかったら入れないわ、とでも言いたいのかと一瞬面食らいましたが、利上げが続いて大変な彼女の状況も分かるので、そこは流しました。
「この家も、いつ手放さなきゃいけなくなるか分からないけど、できるかぎりやってみるつもり。身体が丈夫なほうじゃないから、今後が心配なのよね。そんな時、『ハウスメイトを募集してみたら』って娘が言うから、SNSに投稿してみたの」
Hはなんでも娘に相談します。
「私たち、すごく仲がいいの」とよく言っていましたが、二人はまるで親友のようでした。各部屋には娘の写真がいっぱい飾ってありました。時間が少しでもあると互いの家を行き来して、電話もして、自分の休息より娘を優先して、あれこれ世話を焼いていました。
慣れないオーストラリアでの生活で、色々とアドバイスをくれたHに対し、私はいつしか彼女の娘であるかのような気持ちになっていました。異国の地で、細腕一本で逞しく生計を立て、きちんと自己を律して生きるHを信頼し、「守ってあげたい」と思うようになっていました。だから、Hを休ませず、「友達の結婚パーティーに行くから子どもの面倒を見て」「誕生日会に出す料理を作って」など、次々に要求してくる本物の娘に煩わしさを抱くようになりました。相互に依存するのをやめて自分の趣味の時間を持つようにしたら、とアドバイスまでしたくらいです。彼女たちの密すぎる繋がりの中に、私が入り込む余地などどこにもなかったのですが。
▼
Hはこんなことも漏らしていました。
「男手があれば、簡単に修理ができるんだろうけど、私にはいないからずっと放置してある」
「私は孤独な人間よ」
娘がそばにいて、お姉さんや親戚など多くの人に囲まれているのに、と私は驚きました。Hが本当に言いたかったのは、自分をまるごと受け止めてくれる生涯のパートナーがいないということ。そして、元夫にはすでに別の家族がある、という現実でした。
「あなたはまだ若くてきれいだから、望めばいい人が見つかるんじゃない?最近出会って結婚する人たちの間では、マッチングアプリを使うのってすごく一般的でしょう?」
と私が言ったら、
「そう!家の斜め後ろの女性とこの間話したんだけど、彼女もアプリで知り合って結婚したって言ってたわ」
「でも、どうやってその人を信用することができるの?」
「実際、少し前に言い寄ってきた人がいて、年下だけどいいかなと思ってたの。でも、結局はビザ目的だと分かって別れたのよ」
と言いました。
▼
Hはブランドものが好きでした。乗っている車もベンツです。自分の価値を高く保つために必要なアイテムだったのかもしれないけれど、私はそういうものに依拠しない生き方を目指していたので、それらにまつわる話題は避けていました。
お姉さんがオーストラリアにいたので、Hはオーストラリアに来ることを決めたと言っていました。元夫がいつからHと別れることを考えていたのかは分からないけれど、Hは夫をイランから呼び寄せるために尽力したような形跡がありました。
「別れたけれど、必要な時には呼べばいつもでも来てくれる」
とHは言っていましたが、私たちが内見に訪れた日、元夫は私たちが去る時になってやっと来たという頼りなさだったし、Hが入院した時は、「元夫には知らせないように」と釘を刺していました。そして、元夫が手術をしたときは、娘を通じて様子をつぶさに聞いてはいましたが、Hが病院へ行くことは一度もありませんでした。
▼
「私も農場で生活したことがある」
そんな意外なことをHが言ったのは、イランにもおいしい果物がたくさんあるという話をした時だったかと思います。
「生まれたばかりの娘を連れて、農園にいた夫の所に行ったの。すごく美しいところ」
テヘラン育ちでアメリカで生活していたこともあるという、洗練された雰囲気のHと農場は、あまり馴染まない気がしました。
「でも、知り合いもいなくて、昼間は娘と二人きりだし、何もないことに耐えられなくて娘と二人で帰ってきてしまった」
それはとても意外な展開でしたが、なんとなくHらしい選択である気もしました。
Hの元夫は、両手をせわしなく動かしながら大きな声で話す、少し粗野な印象のある人でした。イランでエンジニアだったという元夫は、オーストラリアではタクシーの運転手をしています。移民にとって、それまで築いてきたキャリアを手放さなければならないことは珍しくありません。
わずかなやりとりしか見ていないのですが、二人が求める心地よさの基準は、あまりにも違っていたように思います。パンひとつでも皿にのせ、丁寧に食べるH。家だからこそ背筋を伸ばし、理想の自分でいることで自身を保とうとしているように見えました。
一方の元夫は、「家にいるんだから手づかみでいいじゃないか」とでも言いたげな、外見を飾って体裁を保つことなくリラックスしたい人のように見えました。それぞれの快適さの形がこれほど違っては、たとえ愛があっても、同じ空間で生活を続けるのは難しかったんじゃないかと思います。
私は、Hのように自分の理想を貫いて生きる女性に憧れました。けれど同時に、彼女の行く末を近くで見続けることには、どこかためらいもありました。
「イランの詩から取った」
Hの娘の名前の由来を聞いたときのことです。どんな詩なのか聞いたら、『愛の詩』だと言いました。そんなロマンチックな頃があったのかと、あの二人を見て思いましたが、Hは多分、夫と別居しても、上手くやっていけると思ったのではないかと思います。離れて暮らした方が、お互いに快適に過ごせると思ったのではないかな。かつて、農場を離れたときのように。農場を離れたけれど、夫の愛は変わらず、ちゃんとHの元に戻って来たときのように。
けれど実際は、オーストラリアに来てすぐに、元夫は別の人と家庭を持ってしまった。それでもHは多分、「私は何でもない」そんなふうに、スンと上を向いて生活を続けてきたんじゃないかな、と思います。じゃなかったら、別れの日に、
「あら、わたしはいつだって幸せよ」
なんて、急に他人行儀に、私に言わないと思うのです。
▼
状況が変わったのは、私たちがHの家に間借りを始めて1年と4か月が経った時でした。私と息子とHの3人暮らしの中に、Hの娘一家が越してくることになったのです。
Hの娘には、2歳になったばかりの息子と、月の半分は遠方で仕事をするために不在がちな夫がいました。大きな室内犬も飼っていました。Hは娘のことを自分の命より大事にしていましたが、孫のことも溺愛していました。Hは毎朝8時になると孫にビデオ通話をかけ、話しかけたり手をたたきながら歌を歌ったりして、画面の向こうの孫とベッドの上で長時間過ごすのが日課でした。
「娘たちが中古物件を買ってね、リノベーションする間の6か月間、ここに同居することにしたの。あなたたちは何も気にすることないから今まで通りいてちょうだい。娘も仕事に復帰する予定だし、娘の夫はほとんど家にいないから気にしなくていい。孫は私と娘とベビーシッターが交代で見るから安心して。6か月後にはまた私たちだけになるからね」
H は嬉しそうでした。
その様子は、「ルンルン」とか「わくわく」という言葉がぴったりでした。
厳選された美しいものだけに囲まれていた、Hの美意識で閉じられた空間から、クリスタルの置物やランプなど、子どもが手に届きそうな場所にある装飾品は全て片付けられていきました。代わりに、プラスチックの乗り物や雑多なおもちゃ、音の出る教育教材が次々と運び込まれ、家が一気に幼稚園のようになりました。
困ったのは、部屋の配置です。私たちの部屋の隣が2歳の孫の寝室になりました。毎日夜の7時きっかりにバタンと戸を閉め、真っ暗な部屋に一人寝かせます。当然孫は大泣きです。部屋の様子を映すカメラ映像を、HとHの娘が肩を寄せ合って別室から見守るのを、私は目の端で見ていました。
「これ以上は入っていかない方がいい」そう思うと、私は自然と一歩引いてしまいました。今振り返れば、それは私にはない、母娘の揺るぎない結びつきへの羨ましさだったのかもしれません。
孫は、泣き疲れて眠りについた後も何度も起き出し、泣くことがありました。夜中や早朝に私たちの部屋の前を大人が行ったり来たりすることや、私たちも物音を立てないように気を付けて過ごさなければならなくて、次第に疲れていきました。私は息子に、孫の寝かしつけに合わせて息をひそめるよう言うのも窮屈だと思い、ある日Hに言いました。
「やっぱり私たち、引っ越し先を探すわ。あなたたちも孫に静かにしなさいって言うのはいやでしょう?」
そういうと、Hは開口一番こう言いました。
「あら、私たちは孫に『静かにしなさい』なんて言わないわ」
私は責めるつもりで言ったのではありません。けれどその瞬間、私とHの間に溝ができたことを、はっきりと感じました。
私たちは、彼らの生活に合わせるように気を遣っていました。孫を囲んで家族そろってリビングでくつろいでいる時には、その場に踏み込むのをやめました。孫がぐずぐず言っていても、微笑みを浮かべて受け入れている風を装いました。泣きわめようと癇癪を起して物を投げようと、「何もかもがかわいい」と温かく見守る彼らは、私たちに迷惑がかかっているかもしれない、などとは微塵も思わなかったのでしょう。私は彼らの領域を尊重し、口数を減らしていきました。
私は真心こめてHに接していたし、Hも私を信頼してくれていると思っていました。けれど、娘一家が入って来てあらためて、私たちは大切な同居人ではあるけれど、娘一家はHの人生そのものなのだ、ということを思い知りました。
それから先は、早くに事が運びました。
次の間借り先が案外早くに見つかったので、引っ越しの準備を進めました。
「共有していた冷蔵庫、貴方が使っていた棚は責任を持ってきれいにしてください」
ある日、そんなメッセージが携帯電話に届きました。Hが家をきれいに保つために心を尽くしていたのは分かっていたので、私はどれも慎重に扱い、毎度きれいに掃除をして、慎重に使用していました。それはHも分かっているはずなのに、退去時の注意事項が事細かに文章で届いた事に、私は驚きました。
「もちろん、入居した時と同じような状態にして貴方にお返しします。安心してください。」
私はそう返事を送りました。
そして迎えた退去の日。仕事から帰ったHは、部屋の点検をきびきびと始めました。
ああ、これでお別れなんだと思って泣きそうになっていた私ですが、Hの手際の良さがあまりに意外で、出かけた涙も引っ込んでしまいました。
部屋のドアを開けてすぐに、重い机を躊躇なくずらし、壁に擦り傷がないかどうかをチェックしました。豪快にベッドによじ登り、窓枠にカビが生えていないか目を凝らしました。さらに、ブラインドに色剥げはないか、シャワールームの目地に変色はないかなど、まるで手順が全て書き記してあるチェックリストがあるかのように、次々に確認していきました。
そして、最初に私が預けていた敷金の束を出し、
「台所のシンクに細かい傷がついたし、ドアにテープ汚れが残っているから」
と200ドルを差し引いた額を私に返しました。
実は、娘の夫はHの実の姉の息子――つまり、小さいころから互いに知っているいとこ同士でした。イランでは、家族や財産を守るために身内同士で結婚することもあるのだと、後になって別のイラン出身の知人から聞きました。Hのご両親がまだ50代で同時に亡くなった理由を詳しく聞かなかったけれど、『誰も信じることはできない』という原点に戻って、Hは再び固く殻を閉じてしまったように私には思えました。
最後、どう別れたか、その時の記憶がありません。
ただ、
「あなたの幸せを願っています」
と最後に私が言ったら、
「あら、わたしはいつだって幸せよ」
そうやって、ケロっと返されたことだけ覚えています。
▼
クリスマスやイランの正月が来ると、Hのファミリーと過ごしたパーティーを思い出します。あの輪に入ることは、もう二度とありません。人生はどの段階であっても一度きりなのだと痛感しています。
その後も、事あるごとに私はHを思い出したけれど、あえて連絡はとりませんでした。彼女の沈黙が、私への答えだと思っていました。
それでも、中東情勢に関するニュースが連日報道されている最中に、イランがお正月を迎えたので、久しぶりにメッセージを送ってみました。
「温かいメッセージありがとう。このイランの正月が、イランに平和と自由をもたらしてくれることを望んでいます。貴方たちがオーストラリアで、いい感じでいることを願っています」
こんな、通り一遍の返事でした。
その後、 孫のベビーシッターだった人から、娘一家が新居に越したことを聞きました。新しい同居人がいるのかいないのか、体の具合はどうなのか、まだ同じ仕事を続けているのか、Hからは何の連絡もありません。あんなに濃い1年5か月を過ごしたのに、完全に切れてしまうことがあるのだと、あっけなく、少し寂しく思っているのが正直な気持ちです。
「今度の私の休みに、湖に散歩に行かない?おいしいパン屋さんがあるから、そこでパンを買って湖の周りを歩きましょうよ」
「 私、歴史ものがやっぱり好き。『ナポレオン』って映画、一緒に観に行かない?」
そんな風に、私に手を差し伸べて誘ってくれたH。その頃の私は、まだ彼女のことを「家主」としか見ていなくて、なんで私を誘うのかと怪訝に思っていました。
あの時、Hがもう一度誘ってくれたら、私はきっと行っていた。
でも、Hは誘わなかった。そして私も、自分からHを誘うことはしなかった。
当時、私は息子と二人でオーストラリアに来たばかりで、生活を軌道に乗せることに精一杯で余裕がなく、深くHと関わろうとしていませんでした。疲れているHを休ませようと、なるべく家で顔を合わせないよう時間を調整してもいました。彼女の生活を尊重しようという私の気遣いでもあったのですが、それは言い訳で、実のところ、誰かに深く依存されたくないから一定の距離を取るという、私のいつもの警戒心が働いていたことを告白します。「丁寧な同居人」という安全な枠組みから出ないように、自分をコントロールしていた可能性について、否定することはできません。
Hの年齢とほぼ同じになった私は今、Hのあの頃の心持ちが、少し分かるような気がしています。鏡の前に座り、抜け毛が増えたと心配したり、眉毛が薄くなったと嘆いたりして、通販で色々と買って試していたH。気丈にふるまっていたHが、衰えていく自分と、異国で一人細っていく生活への焦りと、誰からも必要とされなくなる未来が不安だったのだと思います。
Hは、私とよく似た、薄いガラスのような脆さと、固くて厚い自尊心を持った人でした。彼女の寂しさも、その裏にある、安易に他人に同情を許さない頑なプライドも、私はよく分かっていた。だからこそ、自分の差し出した手が拒まれたと感じたとき、彼女は自分を守るために、私をスパッと切り離したのでしょう。
私の気持ちをもっと正直に言うなら、Hの娘のような存在、あるいは私のような存在が現れない自分の未来を覗き見てしまうことを恐れて、これ以上彼女に近づくことを避けたといえるかもしれません。距離を取ることを正当化するために、「優しさ」あるいは「礼儀正しさ」を使い、「尊重」という言葉のまともさに逃げたのかもしれません。
私たちは二人とも、相手に負担をかけたくなくて、互いの自由を尊重したつもりで、互いの沈黙をその意思表示だと思い込んだ。
これは、手を差し出されても、最後の一歩を踏み出さなかった私の物語です。
どこまでも抜けるような青い空は、オーストラリアを離れがたく感じる大きな魅力のひとつだけれど、雲という蓋のない空は果てがなくて、私はたまに怖くなる。
それでも、確固とした足場も天井もない世界で、どこにも掴まらずに立って歩いてきたのも、そしてこの先を歩んでいくのもまた、私なのです。
私たちは互いに、背筋を伸ばしたまま、すれ違って離れていった。
青すぎる空が広がる小さな町で、それぞれの孤独と尊厳を守るために。