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Photo byhappystory

みにくいアヒルの子だった娘

    あなたは「クリスマスケーキ理論」をご存じだろうか。

    クリスマスケーキは、12月24日まではよく売れるが、25日に入ると値引きされる。それと同じように、「25歳を過ぎた女は『嫁の貰い手』が付かなくなる」と、まことしやかに言われた時代があった。1970年代から1980年代くらいだろうか。今となっては昔話だ。

    私の母は、24歳8カ月で結婚し、その翌年に私を生んだ。更にその翌年、弟を生んでいる。

    ぎりぎりクリスマスイブに結婚し、直後に一男一女を授かった。
    「お子さんはまだ?」
    「一人っ子じゃ可哀想」
    令和の世では、『ノンデリ』と断罪されかねないこんな発言が、悪意なく既婚女性に注がれた時代だ。

    人生スケジュールという点で見ると、母は『完璧な勝ち組』だったのだろう。

    こんな皮肉めいた言い回しで母の人生を表現する私を、「冷たい」と思う人もいるだろう。でも、これは事実だ。母本人が、かつて私に言ったのだから。

    「お姉ちゃんは、私みたいになりたくないって思ってるんでしょ」 

    *

    私の実家は、物心ついたころには零細企業を営み始め、父と母は朝から晩まで働いていた。それ以前は、父はサラリーマンで、母は専業主婦だった。
    両親の会社は自宅の隣にあった。両親の存在を常に身近で感じて育ったから、私は寂しくなかった。
    決して裕福ではなかったと思う。従姉のおさがりをよく着せられたから。でも、憧れのお姉さんの服を着られることが嬉しかったから、おさがりは気にならなかった。

    ただ、幾つか、女の子として切なかったことがある。

    ひとつは、髪の毛を女の子らしく伸ばすことを許されず、常に短く切られていたことだ。伸ばしても良いかと何度もお伺いを立てたが、「私が手入れするのが大変だからダメ」と、母の都合で却下された。それだけではない。母は、なじみ客としてスポンサーとして、美容師さんに「奈緒の髪は短くしてくれ」と注文を付けていたのだ。中学生になり、もはや「母によって髪を手入れされる」年齢じゃなくなって、ようやく髪を伸ばせるようになった。

    もうひとつ辛かったのは、私の身体の発育を無視されたこと。
    私は早生わせで、小学校中学年で、クラスの女の子より、頭一つ飛び出るほど背が伸び、そして体形も変化した。膨らんだ胸をクラスの男子にからかわれるのが、すごく恥ずかしかった。高校生になって、ようやくブラジャーを買い与えられたが、サイズは明らかに私の体に合っていなかった。でも、それを母に言うのは恥ずかしかった。大学生になり、アルバイトで多少のお小遣いを手に入れ、一人でデパートの下着売り場に行った。ベテランの店員さんは、丁寧にフィッティングしてくれ、それまで付けていたより2サイズ大きいカップが適当だと教えてくれた。大学生にとっては安い買い物ではなかったが、自分の身体が窮屈でなく、『あるべきところに収まった』ような解放感があった。胸を張って歩いて良いのだと、認めてもらえた気がした。

    「レースやワイヤーが繊細だから、手洗いしてね」
    店員さんから教わった通り、私は丁寧に手洗いして、物干し台の隅の方にこっそり下着を干していた。母は、気づいていたと思う。私の胸が育っていることに。私が、ぴったりの下着を手に入れられる、意思と経済力を持ち始めたことに。

    香水を噴きつけると、猟犬のように嗅ぎ付けて、探偵のように目を光らせる。
    「どこに行くの?」
    そして、昔の自分の同僚で香水を付けていた人は不倫していた、などと、若い私の未来に呪いをかけるような気持ち悪い話をする。

    *

    理不尽としか思えなかったのは、妹の扱いは、私と全く違っていたことだ。

    6歳下の彼女は、普通に幼稚園児くらいの頃からボブカットにしていて、髪にはリボンや可愛いゴムを付けてもらっていた。
    両方、自分の娘なのに、なぜそんなに扱いが違うのか?
    当時は分からなくて苦しんだ。でも、今は何となく構図が分かる。
    妹は母親似だった。そして私は父親似なのである。

    *

    母の本当の願いは、自分を何不自由なく守ってくれる 王子様と結婚することだったはずだ。
    なぜなら、学生時代の親友を羨んで、
    「○○(友人の名前)は、旦那さんがXX(大手企業)勤めで、専業主婦の奥様だから……」
    と、しょっちゅう言っていたから。
    だが、それを聞くと、父は涼しい顔で、
    「俺は結婚する前に、いずれ独立するし、なんなら田舎に帰って農家するって言った。今更何だ」
    と、突き放すのが常だった。

    子どもの頃は、
    「お母さんは、なんでお父さんみたいな人と結婚したんだろう?」
    そう、素朴に思っていた。これについての私なりの答えが、冒頭だ。
    彼女は、『売れ残ったクリスマスケーキ』になりたくなかった。その前に交際していた人から別れを告げられて、猶予はなかった。『売れ残り』の烙印を押されることのほうが、当時の彼女には怖かったのだろう。

    「そんなにお父さんが嫌なら、離婚すれば?」
    とも、少し大きくなってからは思っていた。
    だが、これも当時の離婚率や、女性の社会での地位を顧みると、難しかったのだろうと思う。
    『売れ残り』の烙印すら恐れて結婚を急いだ彼女のことだ。『出戻り』の烙印はもっと怖かったに違いない。自分一人でやっていく経済力に対して自信がない、何より、祖母(母の母)にそんなこと言えない、と思ったのだろう。

    祖母は、苦労人であり、キャリアウーマンだった。
    若い頃に両親を亡くして、口減らしのためにさっさと嫁に出された。嫁ぎ先では後ろ盾がないことで姑からいびられ、しかも夫も若死にした。そんな中で、四人の子どもを育て上げた。学歴も職歴もないところから、一からキャリアを築き上げた。
    そして、唯一の娘である私の母が嫁ぐときには、「肩身の狭い思いをさせまい」と、立派な嫁入り道具やたくさんの着物を持たせた人だ。

    何も言わなくても、先回りして、何でもやってくれる。
    偉大で、おしゃれな祖母は、母にとって憧れの対象であると同時に、
    「家にいてくれなくて寂しかった」「私は母親になったら家にいて子どもの傍にいたい」
    という反発になったのだろうと、彼女たちの孫であり娘である私は思っている。

    同時に、自己効力感も、偉大過ぎる祖母に奪われた。

    自分を捨てた元カレを見返したい。そして24歳のうちに結婚したい。
    その女心は分からないでもない。でも、だからと言って、そこまで人生設計が合っていない相手と結婚するものだろうか。私は長年疑問だった。

    これに対しては、妹が一刀両断してくれた。
    「男を顔で選ぶから、ああなるんだよ。私、お母さんを見て学んだ。自分はスーツ着てるサラリーマンと結婚しようって」
    と。

    実際、彼女は、金融機関に就職して、最初に配属された支店にいた先輩男性と結婚した。もう二十年ほどにもなるが睦まじく、二人の子どもを育て、つつがない家庭を築いている。

    私の父の容姿が悪くなかったのは、事実なんだろう。
    特に私が小さい頃、彼が「加山雄三に似てるね」と人から言われたことは一度や二度ではなかった。本当に加山さんに似ているかは別である。スキーやマリンスポーツを楽しむ、洗練されたハンサムな青年として、加山雄三さんは、時代を象徴するアイコンだったのである。昨今だと、木村拓哉さんや松本潤さんみたいな人たちが近いと思う。

    『売れ残り』と言われるまで、残り時間はない。母は焦っていたのだと思う。父とは人生設計は合っていない。だが、その世代を代表するハンサムに似ているから、見栄えは良い。
    そんな動機で選んだ結婚、うまく行くわけがない。今の私なら分かる。
    ただ、先述のように、時代背景・経済力・偉大すぎる母。

    彼女は、夫と離婚して出戻るなんて、大それたことはできなかったのだろう。
    でも、自分をお姫様・奥様にしてくれない夫に対する不満や鬱屈は溜まる。

    それを向けられたのが、父に似た私だったのだ。

    *

    私は、あらゆる意味で母に似ない娘だった。最初にそれに気づいたのは、私を取り上げた産科医だった。
    産科医は、生まれたばかりの私を見て、
    「お父さんによく似たお嬢さんです。将来は美人になりますよ」
    と言った。(注:実際美人になったかは、この際置いておくことにする)

    父方の親族の集まりに参加すると、おじおばは、
    「奈緒は、由美子(仮名)の子どもの頃にそっくりだ」
    と、口を揃えた。

    由美子叔母さんは、父の末妹だ。
    一人親方が大半の親族が集まると、誰もが我先にと自己主張していた。でも、由美子叔母さんは何も言わず、兄や姉の話をニコニコ聞いていた。父は、由美子叔母さんのそういう控えめなところが可愛くて、庇護欲を刺激されたのだろう。祖父が亡くなった時、経済的に苦労していた由美子叔母さんに、自分の分の遺産を譲ったとも、後で父から聞いた。由美子叔母さんは、拒絶したら兄のメンツを潰すと思い、黙って受け取ったのだろう。父の娘として、父の感情は想像できるし、彼の妹である由美子叔母さんもそうだったと思う。

    「自分が可愛くないから、可愛い髪形や服を与えてもらえないのだ」
    子どもの頃、私はそう思い込んでいた。
    でも、似ていると言われた由美子叔母さんは、私から見ると、とても綺麗な人だった。
    「大人になったら、私もあんな風になれるかもしれないんだ」
    そんな小さな希望を抱くことができた。

    今思えば最大の皮肉なのだが、
    私の母も、由美子と言う。

    父が、お見合い相手として私の母を目の前にした時。
    見た目は全然違っても、名前が最愛の末妹と同じということが、意思決定に全く影響しないとは言えない。

    昔、父が、私に向かって、
    「おーい、由美」
    と呼びかけたことがある。

    「お父さん。どっちの由美?」
    私は、大笑いして聞いた。父は照れたように笑って
    「いや……、由美の小さい頃によく似てるから」
    と答えたのだ。

    そう。父方の親族はみんな叔母さんを「由美子」と呼んでいたが、
    私の父だけが「由美」と特別に親しみを込めた呼び方をしていたのだ。
    父が、母のことを「由美子」「由美」と呼ぶところを、私は見たことがない。

    つまり、
    母にとっての私は、
    自分の思い通りにならない夫に似ているというだけでなく、
    その夫が『無条件の愛情を注ぐ、絶対に手の届かない女』に似ているという、憎さが重なった存在だったのだと思う。

    父方の親族だけでなく、他人の目も容赦なかった。幼い頃、母と妹と連れ立って市場へ買い物に行った時のことだ。八百屋のおじさんが、私をじろじろと眺めてこう言い放った。
     「……上のお嬢さん、旦那の連れ子かい?」
    似ても似つかない母と私。周囲からのそんな視線は、母にとって『幸せな家族の形』を否定される屈辱だったに違いない。私は、母がその言葉をなんとか冗談として受け流した時の、引きつった笑いを今でも覚えている。 

    更に、母から敵意を向けられる要素が、もうひとつあった。

    容姿は父方に似ている私だが、唯一、母方の祖母に似たところがある。
    祖母自身が『芸者の足』と誇った、華奢な足である。

    祖母と私は、小さく、幅が狭く、甲が薄い、西洋人寄りの足形を共有している。
    サイズも一緒だった。
    母の足は、祖父に似たらしく、もっと大きくて幅も広かった。

    私の曾祖父は、十九世紀創業の老舗靴店(今も営業している)で働いた靴職人だった。
    おしゃれだった祖母は、私と一緒に繁華街に出ていくと、必ず靴屋に寄りたがり、熱心に見ていた。

    私の足が大人の大きさになった頃、祖母から一足の靴を譲られた。
    今でもハッキリと思い出せる。
    クリーム色のカーフとエナメルのコンビで、ヒールの付いたレースアップシューズだった。

    「私の靴が履けるのは、奈緒ちゃんだけだから」と言われ、足を入れてみたら、まるでシンデレラの靴のようにぴったりと私の足に合った。
    初めて手に入れた大人の素敵な靴に、私は胸をときめかせた。

    だが、後日、私がその靴を履いてみようと思って下駄箱を開けたら、もうそこには、祖母の靴はなかった。

    「おばあちゃんの靴、どこに行ったの」
    母に聞くことはできなかった。女としての輝きを、またひとつ実の母から奪われたという悲しい現実を、わざわざ白日の下に晒したくなかったから。

    *

    とにかく早く実家を出たかった。最初のチャンスは大学進学時。
    「東京の大学に行きたい」と言ったが、実家の通帳を見せられて諦めた。
    実家から一番近い国立大学に入った瞬間から、逆転は、就職のワンチャンスだと思っていた。
    私みたいな就職観の学生は、いなかったんじゃないか。
    夢とか、自己実現とかじゃなかったから。
    「お金のことで、こんなに苦労したくない。私は、定年まで勤められる会社に入る」
    そう、固く決意していたのだ。

    母の束縛が耐えがたかったし、大学進学での希望が叶わなかったからこそ、東京での就職にこだわった。そして、OB・OG訪問では、結婚・出産後も働いている女性社員がいるかどうかを必ず聞いた。
    複数得られた内定先から、女性の働きやすさに定評のある全国型企業への就職を決めた私を、母は罵った。
    「親を見捨てるのか」と。
    罵るだけではない。私の上京前、母には病気が発覚し、手術まで受けた。
    あまりにタイミングが良すぎる気もするが、私を自分の支配下から離したくない執念で病気すら引き寄せるのだとしたら、もはや完全にホラーストーリーである。

    あの時、母に妥協して実家から飛び出すことを諦めなかったのは、人生最高の選択だったと今でも思う。

    就職して、私は、会社員としてそれなりに頑張ったのだと思う。
    アメリカ駐在員にも選ばれた。
    同人誌が書けるくらいの武勇伝を作るビジネス生活を送ってきている。7月からは、新たなチャレンジもする予定だ。

    結婚に関しては一度失敗したが、「バツイチ」に対して世間は寛容になってきている。
    「離婚は一時の痛みだが、離婚しなければ一生後悔する」と決意して、心を鬼にして前の結婚を終わらせた。自分自身で稼ぐ力を持ち、好きなところに行き、見たいものを見る。自立した女になった。ありのままの私を受け入れてくれる人を、二人目の夫として選んだ。

    ここまでの話を読んだ方は、疑問に思うかもしれない。
    「羽多さんは、お母さんが毒親だったかもしれないけど、もう自立して『逃げ切った』じゃないか」と。

    実は、あいにく、そこまで綺麗な展開ではない。
    私は毎年、実家の除雪代を三分の一払っている。
    私と弟と妹、三きょうだいで、等分だ。

    両親は、商売を営み、子どもを育てた戸建てに、今も二人で住んでいる。
    今は燃料代もかさみそうだが、除雪業者さんも、年金暮らしの年寄りに言い出しにくいのか、今のところは値上げされることはない。
    客観的合理的に判断するなら、父が認知症で要介護になり、母も要支援になっている老々介護の今、そろそろ家を売って老人ホームにでも入るべき時期が来つつあるんだと思う。弟は、早くそうすべきだ、と言っている。
    でも、どうしても私は父に「家を売ったら」と言えない。彼が苦労して築き上げた一国一城の証だから。車庫には、かつて彼が愛したスキーやゴルフの道具がまだ眠っていることを知っているから。

    除雪代の金額自体は、それほど大きくはない。
    でも、やらなければ、北国では生活できない。家から物理的に出られなくなり、窓が潰れかねない。
    そして、私が払っているのは、言わば「降った雪を片付ける」という、あまり生産性のない費用である。
    「もう長くは続かないだろうから」
    「母が父を面倒見るのが限界になるまでだから」
    そう、自分に言い訳して、お金を払っている。
    合理的でないことは、理解している。
    お金を払っているが、母からは、
    「三人も子どもを産んだのに、全然助けにならない」
    と、文句を言われる。
    自分だって、兄と兄嫁に祖母を押し付けて、全く面倒を見ていなかったのにである。

    理不尽だと理解しているが、まだ完全に縁を切れてはいない。

    父が私を忘れてしまう前に、もう一度会いに行こうと思って、お盆の帰省について妹に相談した。
    「親の愚痴をずっと聞かされると、お姉ちゃん疲れるんじゃない? お母さんも布団とか洗濯とかご飯の支度とかでぐったりしそう。どこかホテルにでも泊まって、観光旅行がてらにしたほうが気が楽だと思うよ。そもそも、お母さんは、お姉ちゃんが帰省できるほどの体調だと思ってないんじゃないかな」

    今、地元に残っているのは妹だけだ。
    やんわりと止めてくれたことで、何となく母の温度感が分かった。母は、弱った娘の姿を見たくないのだと。

    私は、一昨年、体調を崩して会社を休んだ。幸いなことに、今は元気である。でも、母からは、復職に猛反対された。
    「会社なんか辞めなさい。立派な旦那さんがいるんだから、ガツガツ働く必要なんかないでしょ」
    彼女にとっては、女が働くことは『負け』であり、夫に扶養されていることが『勝ち』なのだ。改めて思い知らされた。

    お金を稼ぐことは、決して楽ではない。
    でも、苦行というわけでもない。やりがいや達成感、知的好奇心も得られる。修羅場をくぐって生まれる連帯感や信頼関係。難事をやり仰せた時の痺れるような快感。それら全て含めて、今の私のアイデンティティなのだが。
    それを、彼女は理解しようとしない。
    理解したくないのかもしれない。
    あるいは、自由に生きている私を、『夫に従属する立場』に引きずり下ろしたいのかもしれない。
    彼女の気持ちは分からない。私とは価値観が違いすぎるから、分かろうとするのは、土台無理があるんだろう。

    祖母が認知症になっても、母は、一度も会いに行こうとしなかった。
    帰省していた弟と私が、
    「おばあちゃんに会いたい」
    と言って、ようやく入院先の病院に付いてきた。
    それも、看護師さんには幾度となく、
    「娘が来るって、言ってくれたんですよね」と念を押し、私の後ろに隠れるようにしてである。
    その当時、祖母は、調子が良かったり悪かったりして、身内のことが分かったり分からなかったりという状態だった。でも私たちが会いに行った時は、きちんと分かってくれた。母の白くなった髪、弟の薄くなった頭を指さして笑っていた。
    「元気になったら、あんたたちに会いに東京に行くからね」と言ってくれて、泣きそうになった。

    実の親が弱った姿も見たくないのだから、
    実の娘のも、やっぱり見たくないのだろう。
    色々思うところはあるが、仕方ない。人間には、できることとできないことがある。彼女は、そういう場面が苦手な人。ただそれだけだ。

    私は、母よりも、母の母(祖母)に似ているのかもしれないと思う。
    しぶとく働き、靴を愛するところなど。

    西洋人に近い足形であることを逆手に取り、スペインのシューメーカーに靴をパターンオーダーしたことがある。それも二足も。
    黒のカーフとポニーのハラコで、素材違いのウィングチップと、
    白いカーフと黒のエナメルの切り替えのメリージェーンだ。
    靴屋の店員に、サンプルとして写真を撮っていいかと聞かれた。世界に一足しかない靴を作ったことは、私の密かな自慢だ。

    祖母は長く認知症を患い、数年前に亡くなった。だから、オーダーしたお気に入りの靴を、生前の元気な彼女に見せることは叶わなかった。

    次の祖母の墓参りには、白と黒の靴を履いて行こうと思っている。お坊さんは不謹慎だと思うかもしれない。でも、祖母はきっと花の咲いたような笑顔で喜んでくれるはずだ。
    「奈緒ちゃん。その靴、素敵ねえ」と。

    お姫様として、王子様に守られる人生ではない。
    私は自分で手に入れた靴を履いて、母の知らない景色の中を歩いていく。私だけの地図を広げて。
    こんな私を受け入れてくれ、共に進む仲間として夫と出会えたのは僥倖だった。

    そして、ふと母のことも思う。
    「私みたいになりたくないって思ってるんでしょ」 
    と聞かれた時。どう答えたか、実はあまり覚えていない。もう一度答えるチャンスがあるなら、
    「お母さんは、お母さんなりに頑張ったんじゃない」
    そう言ってあげたいと思っている。

    昔の私は、母の不幸を自分の罪のように感じていた。けれど今は違う。母がどんなに自分を肯定できなくても、それは母の人生だ。
    私が幸せになるかどうかは、母の幸せとは一切関係がない。

    今、私も妹も、母娘三代の呪縛から自由だ。

    (了)


     
     
    昼はIT企業のグローバルファイナンスマネージャー。実務の熱と葛藤を物語にする人。恋愛小説(男女/BL)も書きます。ルクイユ「ルーク」の中の人。@RecueilArtFest|主な投稿先:note、エブリスタ。 詳細プロフ→https://t.co/QTqSI1waMy

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