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【イカロス号の失踪】 12:地球

     アーサー・ハインラインがパリ市立病院の地下端末室から放った一撃は、単なる組織のスキャンダルという枠を遥かに超え、人類の歴史に深く刻まれる衝撃を与えた。

     公開された「プロトコル07」の存在は、ESAという国際組織の倫理性を根底から崩壊させた。シュナイダーは、アーサーへの暗殺未遂および乗員六名に対する殺人教唆の決定的な証拠が露呈したことで、即座に長官の座を追われた。彼は逃亡を図ったものの、数日後にスイス国境で身柄を拘束され、現在は国際法廷で人道に対する罪で裁きを待つ身となっている。

     この真実は、人類の宇宙開発への情熱に冷や水を浴びせた。次世代探査計画「プロメテウスII」に対しても、「ESAはまた何かを隠蔽しているのではないか」という不信感が世界中に蔓延した。参加各国は次々と資金拠出を凍結し、計画は事実上の無期限中止に追い込まれた。

     さらに世界を震撼させたのは、極秘ファイルに記されていたゼノビア・ゼロの性質だった。有機物であればその構造を問わず、全てを飲み込み増殖するという絶対的な致死性が公表されたことで、世界は未曾有の恐怖に包まれた。

     宇宙からの帰還物に対する警戒は極限まで高まり、現在軌道上で活動している衛星や宇宙ステーションにさえ冷ややかな目が向けられた。各国が帰還船の受け入れを拒否し、宇宙飛行士たちが軌道上に孤立する事態まで発生している。

     人類の宇宙進出は、急激に冷却された。後世の歴史家が「第二次宇宙暗黒時代」と呼ぶことになる停滞期の幕開けだった。

     だが、その嵐の中心で、真実を暴いたアーサーは新たな時代の象徴となっていた。全身麻痺という極限の状態で物理的な自由を奪われながら、知性だけで絶対的な権力に勝利した彼の姿は、不条理な力に抑圧されている人々に多大な勇気を与えた。

     この事件を契機に、宇宙探査におけるすべてのデータを国家権力の介入なしにリアルタイムで公開することを義務付ける国際条約、通称「イカロス法」の制定に向けた動きが、国連主導で始まっていた。

     ***

     四月。日本の、とある地方都市。

     柔らかな日差しが満開の桜並木を照らし、風に舞う花びらがアスファルトに淡いピンクの模様を描いていた。

     その歩道を、一台の大型電動車椅子が静かに進んでいた。漆黒のフレームに身を固定されたアーサーは、人工呼吸器のプシュ、プシュ、という一定のリズムに合わせて呼吸を繰り返している。サングラスの奥で動く眼球と顎のセンサーだけで、彼は見知らぬ異国の街を正確にナビゲートしていた。

     彼が向かっているのは、街の外れにある県立高校だった。そこには一人の少女が通っている。

     柳瀬 雫。彼女は、父・晶を名誉ある任務で殉職した英雄だと信じて生きてきた。しかし、アーサーが真実を公開したあの日、彼女の世界は崩壊した。父親が仲間を手にかけたという重すぎる十字架を背負うことになったのだ。マスコミの追及に疲れ果てた母親は自ら命を絶ち、雫は祖父母と共にこの静かな街へ移り住んでいた。

     校門の見える公園の入り口で、アーサーは車椅子を停止させた。

    「……アーサー・ハインラインさん」

     不意に、横から細い声が聞こえた。視線を動かすと、そこには制服姿の雫が立っていた。

     肩口で切り揃えられた黒髪。少し怯えたような、しかし強い意志を秘めた瞳には、柳瀬晶の面影が確かに宿っていた。彼女は、目の前にいる機械に繋がれた男が、自分の父親を殺人者として白日の下にさらした張本人であることを知っている。スカートの生地を握りしめる両手は、微かに震えていた。

     アーサーは視線入力で音声合成システムを起動した。

    『急に呼び出して、すまない』

     電子的な声が、静かな公園に響く。

    「……何の用ですか」

    『ただ、君に会いたかっただけだ』

    「一体、どうして……?」

    『君のお父さんが命をかけて守りたかったものが、どれほど綺麗なものなのか、知りたくなってね』

     その言葉に、少女の目から一筋の涙が流れ落ちた。この数ヶ月、彼女は見えない世間の悪意と、父への愛憎に引き裂かれながら生きてきたのだ。

     アーサーは動かない瞳で、真っ直ぐに彼女を見つめ、再び文字盤をなぞった。

    『君を責める権利も、お父さんを責める権利も、誰にもない』

    『君のお父さんは、我々をゼノビア・ゼロの脅威から救ったヒーローだ』

     少女は顔を覆って泣き崩れた。人工呼吸器の音が、彼女の泣き声を包み込むように響く。

    『君は誇りを持って、前を向いて歩けばいい。それだけを伝えたかった』

     言葉が途切れると、桜の木々の間を吹き抜ける風の音だけが残った。少女はしばらく声を上げて泣き続けたが、やがてゆっくりと立ち上がり、赤く腫らした目でアーサーを見た。

    「……ありがとうございます」

     深く一礼をして、彼女は高校の門へと歩き出した。その背中は、以前よりも少しだけ軽やかになったように見えた。

     アーサーは彼女の後ろ姿を見送りながら、手元のモニターに視線を落とした。そこには、ESAのサーバーから彼が個人的にサルベージした、たった一つのデータが表示されている。

     イカロス号の通信が途絶する数分前、極限まで圧縮されたメッセージであった。

     送信者:リー・メイリン。
     『あなたを永遠に愛してる』

     ただ、その一言だけが記されていた。

     世界は真実を知り、絶望と恐怖に打ちひしがれている。宇宙への夢は断たれ、人類は閉ざされた地球の中で疑心暗鬼に苛まれるだろう。

     だが、それでも。
     アーサーは車椅子を反転させた。

     この動かない身体で、メイリンが最後に愛したこの世界を、少しでもマシな場所にするために生き続ける。それが、残された自分にできる唯一の贖罪であり、戦いなのだ。

     車椅子のモーター音が、春の陽光の中へと静かに溶けていった。見上げた上空には、イカロス号が消えた彼方の宇宙が、ただ青く、どこまでも果てしなく広がっていた。

     
     
     

    発散

     
     
    はじめまして。よろしくお願いします。

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