
美容室へ行くだけで、今日は頑張った
美容室へ行く日は、少し気合いがいる。
やってみたい髪型はあるけど、なんてオーダーしたらいいんだろう。自分に似合うのかな、不安だけど変わってみたい。
こんな気持ちになったこと、ありませんか?
美容室って日常的にみんな通ってるし、SNSを開けばお気に入りサロンの情報や流行りのヘアスタイル、キラキラした世界観がどんどん流れてくる。
正直、ちょっと疲れる。
美容室が嫌いなわけじゃない。でも、どこかハードルが高い。
気づけば、きれいな人やおしゃれな人ばかり目に入る。自分だけが取り残されていくような気持ちになる日もある。
美容室には、髪を切りに行くだけじゃない気もしてる。少し気分を切り替えたくて、モヤモヤとした気持ちに「大丈夫」をもらいたくて、美容室へ向かう日がある。
だからこそ、ドアを開けるまでに少し勇気がいる。
SNSで流行りを探して気になったアカウントを覗く。するとまた次のおすすめが流れてきて終わらない。
見る専門だから投稿はしない。でも間違って足跡なんてついたらちょっと焦る。
ヘアスタイルの違いもよく分からない。ショートなの?ボブなの?はたまたレイヤースタイル?
見れば見るほど、自分がしたかったヘアスタイルまで迷子になっていく感じ。
なんとなく「いいな」と思ったスタイルは、とりあえず保存しておく。そのサロンへ行くわけじゃないけど、次に行く美容室で相談するために。
美容室はいくらでも見つかる。でも、不思議と「ここなら大丈夫かも」と思える一軒はなかなか見つからない。
慣れないうちはクーポンがあればそこへ行く。そんなことを何度か繰り返しているうちに、なんとなくお気に入りのサロンができたりする。
転勤や引っ越し、結婚や子育て。暮らしが変わるたびにまた美容室を探し直すことになる。
結婚式でも、久しぶりの友人との約束でもいい。誰かに会う理由があると、不思議と美容室の予約ボタンは押しやすくなる。
便利なポータルサイトもたくさんある。でも実際は、掲載されているサロンの雰囲気もどこか似ていて、メニューも多すぎて逆に選びにくい。
まずは新規クーポンみたいな少しお得になるメニューを見る。通いやすい距離かも気になる。スタイリストの写真も見て、なんとなく人柄を想像する。
とはいえ、その時点ではまだ「ここだ」と決めてるわけじゃない。
「とりあえず行ってみよう。」
そんな気持ちで予約ボタンを押す。でも、それで終わりじゃない。当日まで、またヘアスタイル探しが始まる。
SNSを開けば、ちょうどよく流れてくる美容室のリール動画やショート動画。ソファでゆったりくつろぐ夜なんて、気づけば30〜40分普通に見てしまう。
動画ってすごい。ある意味、時間泥棒だ。
美容室の予約は、今やネットでいつでもできる。だいたい深夜に髪を切りたくなるので、ありがたい。
当日がきた。やってみたいヘアスタイルは、結局よくわからないまま。ただ、新緑の季節になってきたから、少しだけスッキリしたい気分だった。
支度をサッと済ませ、家を出た。ガラス越しに店内をのぞく。予約時間より少し早い。今入るか、それとも一分待つか。
深呼吸をひとつして、ドアを開ける。
「いらっしゃいませ」スタッフの声かけ、シャンプーの香り、明るい照明とBGM、ドライヤーの音。
ドア一枚向こう側は、さっきまで歩いていた街とはまるで別世界だった。
ピンと張った、座り慣れない綺麗な椅子に通される。担当のスタイリストさんと目が合う。「いい季節になりましたね」そんな何気ない会話から始まる。
オーダーをどう伝えよう。頭の中で何度もシミュレーションしてきたはずなのに、少しずつ緊張が大きくなっていく。
そして、ほどなくしてスタイリストさんが聞く。「今日はどうされますか?」
その一言で、さっきまで頭の中に並んでいた言葉は、きれいに真っ白になった。
本当は切りたいわけじゃない。でも、伸びっぱなしも嫌。「何センチ切りますか?」そう聞かれても分からない。
この言葉にならない気持ちがもどかしい。自分でも、何が似合うかわからない。
スタイリストさんは、いくつか質問をしてくれた。
どんな雰囲気が好きか。苦手な髪型はあるか。普段はどんなお手入れをしているか。仕事では髪型に決まりがあるのか。朝はどれくらい時間をかけられるのか。
答えながら、不思議と少しずつ肩の力が抜けていく。髪型を決めるための質問だと思っていた。
でも気づけば、髪ではなく、自分の生活や、自分らしさを話していた。
「あ、この人は髪だけを見ているわけじゃないんだ。」
そんなふうに思えた瞬間、さっきまであった緊張は、少しだけ小さくなっていた。
いつからだろう、美容室が苦手になったのは。
初めて美容室へ行った日のことは覚えていない。でも、「なんか違う」と思った日のことは案外、覚えている。
思春期の頃、流行りに合わせて髪を切ったことがある。友達と同じような髪型にすれば、少し大人になれる気がしていた。でも鏡に映っていたのは、憧れていた自分じゃなかった。似合う、似合わないというより、自分じゃない。家に帰って何度も鏡を見た。
翌朝も、支度をしながら何度も前髪を触ってみたりした。教えてもらった乾かしかたを思い出しながら、なんとか落ちつかせようとする。髪型が変わっただけなのに、いつもの自分じゃない。
家を出るのが少し嫌だった。誰かに何か言われるわけじゃない。でも、見られることが恥ずかしかった。
似合うとか似合わないとか、そんな単純な話じゃない。自分の中で、まだ新しい自分を受け入れられていなかった。
それでも家を出る。慣れた道を駅まで歩く。通りがひらけた瞬間、風が吹く……あれだけ鏡の前で過ごした時間なんて、風は知らない。整えた髪は、何事もなかったように崩れていった。
あの頃の感覚が、そうさせたのかもしれない。
気がつくと、シャンプーが終わっていた。美容室のシャンプーって、なんであんなに気持ちいいんだろう。一瞬、どこにいるかわからなくなる。
伝えたいことはそれなりに伝えたつもり。
あとはもう、スタイリストさんにお任せしてもいいと思えた。
急がされている感じがしない。落ち着いた雰囲気で、ゆったりと手をすすめてくれる。カットもなんだか嬉しい。自分では気づかなかった髪のクセも、ひとつひとつ言葉にしてくれた。
美容室での会話にずっと慣れないと思っていたけど、髪のお手入れや自分の髪のクセなんかの話は自然とできた。無理に盛り上げようとしなくてもよかった。髪の話をしているうちに、緊張していたことさえ忘れていた。
帰りの電車の中で、窓に映る自分は少し満足そうだった。明日もまた、いつもの毎日が始まる。でも今日は、その明日が少しだけ楽しみに思えた。
この物語は、特別な誰かの話ではありません。きっと、どこにでもいる誰かの話です。もしかしたら、あなたの話かもしれません。
この物語を書きながら、何度も立ち止まりました。「本当に、こんなことを書く意味はあるんだろうか。」そう思うこともありました。でも、書かずにはいられませんでした。なぜなら、この物語は少しだけ僕の話でもあります。
実は、僕は美容師です。
毎日たくさんのお客さまと向き合い、髪を切り、話をしてきました。僕自身も、美容師になる前は美容室へ行くことに苦手意識がありました。
何を話せばいいのか。どう伝えればいいのか。ちゃんと伝わるだろうか。
そんなことを考えながら、緊張してドアを開けていたことを今でも覚えています。
美容師になった今、その苦手意識はなくなりました。でも、あの頃の気持ちだけは忘れたくありませんでした。
なぜなら、今でもあの日の僕と同じ気持ちで美容室のドアを開ける人がいるからです。
一人サロンを続けていると、少しずつ見えてくるものがあります。
「本当は美容室が苦手なんです。」
初めてそう打ち明けてくださる方。数回通って、ようやく話してくださる方。何年も経ってから「実は最初、お店の前まで来て帰ろうか迷っていたんです」そう笑いながら話してくださる方。
そのたびに思います。
あの日、ドアを開けてくれたことは決して当たり前ではなかったんだと。
美容室へ来るということは、髪を切るという行為だけではありません。
誰かに自分を預けること。
少しだけ勇気を出すこと。
ほんの少し、自分を変えてみようと思うこと。
だから、お客さまは髪を切りに来ているだけじゃない。
その人なりの想いや、期待や、不安も一緒に持って来てくださっているのだと思います。
一人サロンを続けるなかで、そんな場面を何度も見てきました。
数え切れないほどの出来事がありました。
どの出来事にも、いつも人と人がいました。
言葉に救われた人。
ただ静かに過ごす時間に救われた人。
髪が整ったこと以上に、「来てよかった」と思って帰られる人。
そんな姿を見送るたびに、思うのです。
美容師は、髪だけを見ている仕事ではない。
そう信じています。
美容室が苦手な人を、この世界からなくすことはできないかもしれません。
でも、今日より少しだけ安心してドアを開けられる人は増やせるかもしれません。
全国のどこかで。
あなたの街のどこかで。
「ここなら行ける。」
そう思える美容室が、一軒でも増えたら。
この本を書いたのは、一冊の本を作りたかったからではありません。
美容室が苦手な人と、そんな人を迎えたい美容師が出会える景色を、本気でつくりたいと思ったからです。
そんな景色が、いつか当たり前になりますように。