メインコンテンツへスキップ
見出し画像

しかれかそのたか 【ショートショート】 改訂版

    (本作品は1,263文字です)

       僕は悪くない、僕は悪くない。
     
     嫌なことがあった時や何かが上手くいかなかった時、僕はいつもそう考える。世の人も、ありのままでいいと言う。あなたはそのままでいい。自分を認め、信じることが大切だと。
     だが、別の人が言う。変化を怖れてはいけない。過去や他人を変えることはできない。変えることができるのは自分自身だけ。あなたが変われば、世界が変わるのだと。
     僕は目を瞑つむり、何か良い考えが思い浮かんではくれまいかと願った。瞼まぶたの裏を見つめるうちに、今は輪郭さえ掴つかめぬ何かが、自然と脳裏に浮かび上がってくれることを期待したのである。しかし、いくら待ってもそれは現れない。目に映るのは、ただ、闇ばかり。薄目を開けると、馬の縫いぐるみが床に転がっていた。再び目を閉じる。
     草原を疾走している一頭の馬が見えた。縫いぐるみではない。艶つややかな毛並みをした、栗毛の立派な馬だ。胸から肩を隆々とした筋肉が覆い、腿ももや尻も大きく発達している。すらりと伸びた脚がしなやかに前後し、蹄ひづめがリズミカルに力強く大地を叩く。黒い尾が長く伸びてなびいている。頭はほとんど動かない。草原が風とともに流れる。
     いつの間にか、流れる草原は流れる木々に変わっていた。僕は列車の中にいる。進行方向とは逆を向いていた。両側の車窓に映っているのは、日に照らされ輝く緑と、その中を僕の前方へと流れてゆく黒い木々。そして、僕の他には誰もいない。通路を挟んで左右それぞれに、二列のシートが幾重いくえにも並んでいる。壁や床やシートは皆、白一色に統一されていた。車輪がレールの継ぎ目を踏み越える音が、一定の間隔をおいて聞こえてくる。
     気が付くと、列車内の騒音は洗濯機の唸うなりへと変わっていた。僕は白い清潔な洗濯機の前に座っている。石鹸や洗剤の香りが微かすかに漂う。丁度、すすぎから脱水の工程に移るところであった。洗濯槽の回転数が徐々に増す。本体が小刻みに震え、若干恐怖を感じさせる程の音を立て始めた。揺れが床を通して僕に伝わり、体が振動に包まれる。僕はこの音と振動が好きだった。現実世界の煩わずらわしさを忘れさせてくれるからだ。やがて回転が安定し、音も振動も落ち着いた。眠気が襲ってくる。意識が薄れ、心地よい虚無へと沈みかけた時、ドアの開く音がした。想像上のものではない、現実の音である。
     目を開けると、空の洗濯カゴを持った女が近づいてきた。心が湯で満たされたように温かくなる。この女は柔和で優しさに溢あふれた人である。僕は彼女のことを愛していた。人生のすべてと言っても過言ではない。もし、自分の中に自己肯定感というものが存在するならば、それは間違いなく彼女によってもたらされたものである。だがそんな彼女とて、僕のことを完全に理解している訳ではなかった。実際には、僕は彼女が思っているよりも遥かに思慮深いのである。ただ、それを的確に伝える術を持っていないだけなのだ。顔を近づけて微笑む彼女に、今の僕にできる最大限の表現でこの状況を伝えた。
     
    「マーマ、こぼっちゃった」


    (おわり)




    最後までお読みいただきありがとうございました。
    本作品のタイトルは、「こぼ『し』ちゃった」か、「こぼ『れ』ちゃった」か、それとも、『その他』の何か都合の良い言い方(こぼっちゃった)か、という意味になります。
    皆さまに驚きや感動をお届けできましたら幸いです。


     
     
    ショートショート作家です。日常に小さな不思議を忍ばせ、ユーモアを織り交ぜながら愛と希望を描きます。皆さまに驚きや感動をお届けできましたら幸いです。

    あなたへのおすすめ