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『美山考』第9章〔知井B〕河内谷・江和・田歌【260401】

    南丹市美山町の地域史についての考察
    改訂履歴

    エリア地図12〔知井B〕河内谷・江和・田歌

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    エリア地図12〔知井B〕河内谷・江和・田歌

    5050S2 河合神社(蔵王神社)

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    5050S2 河合神社(蔵王神社)(2024.10.14)

    所在地:中
    祭神:水婆女命
    創建:享保3<1719>(蔵王神社として創建)
    氏子:未詳
    例祭:10月9日
    由緒等:
    ・寛政年間に再建
    ・明治9<1876>中村に譲渡
    知井八幡宮の神輿・御旅所。
    河内谷門坊寺(聞法寺)の仏像を安置するお堂があったが、明治維新により仏像は古物商に売却、京北慈眼寺の釈迦如来像、大和長谷寺の仁王像として現存する。


    5060T1 昌徳寺

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    5060T1 昌徳寺(2024.10.14)

    所在地:河内谷
    山号:円通山
    宗派:曹洞宗(若狭妙徳寺末)
    本尊:阿弥陀如来
    創建:天仁元<1108>
    開基:良人
    由緒等:
    ・良人が天台宗として開基
    ・要が真言宗として開山
    ・元禄15<1702>摂津国尼崎の藩土徳端正が曹洞宗として中興
    ・昭和47<1972>山門新築


    5060T2 山門(旧昌徳寺跡か)

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    5060T2 山門(旧昌徳寺跡か)(2026.01.16)

    所在地:河内谷
    山号:未詳
    宗派:未詳
    本尊:未詳
    創建:未詳
    開基:未詳
    由緒等:未詳


    5060X1 門坊寺(聞法寺)跡

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    5060X1 門坊寺(聞法寺)跡(2026.01.16)

    所在地:河内谷
    由緒等:
    写真の由緒書は門坊寺跡への参道入口付近に掲示されているものであり、以下にその内容を転載する。
    「仏教誌」に仁王像の所在について詳しく解説されており、長谷寺の仁王像が門坊寺のものだったことは間違いなさそうである。
    慈眼寺に移された仏像は首だけであり、本尊はどこに行ったのか分からないとしている。

    門坊寺(「聞法寺」とも表記)跡は、河内谷の東部、門坊寺山中腹(標高505m)の平坦地(南北約140m東西約100m)に位置し、毘沙門天の祠、石積み・石段などが散在している。麓の里に「てらみち」の道標石や、上坊・下坊など垣内名が残っている。
    門坊寺は聖徳太子の頃に、創建の後、桓武天皇(在位781~806)の勅願所となり最澄が堂宇を修復して丹波道場とした。寺領は500石に及び七堂伽藍を備えていたが、天正七(1579)年、明智光秀が周山に山城を築く際、寺領を没収、堂宇は壊して持ち去り用材にあてた。難を逃れた仏像は、中区の蔵王神社横に堂を建て保存されていたが、幕末の頃、古物商の手により不明になったと伝承されている。
    京都市京北町・慈眼寺の釈迦如来座像(定朝様式)や奈良県桜井市・長谷寺の仁王像(快派)には門坊寺所蔵の墨書が確認されている。
    1988年、南丹市日吉ダム水没地区の世木林集会所で発見された大般若経600巻には「智伊村聞法寺安置経也」と墨書され、僧侶の書き込みが貴重な文献になっている。
    参考文献:京都府中世城郭跡調査報告書、北桑田郡誌、知井村史

    【門坊寺跡の由緒】

    また、「大正郡誌」が紹介する福正寺所蔵の縁起からは、河合神社(蔵王神社)に仁王像と釈迦坐像が安置されていた当時の様子を読み取ることができ興味深い。

    明智光秀天正八年庚辰より始めて周山に城廓を構へしに、國郡の社寺を破壊し、堂閣をたふし長牀をくづし坊舎を破滅して用材と致せしによりて、梵寳寺(門坊寺)の七堂伽藍も悉く破却して、弓削谷に送り周山に運びたれば、坊址は目前に畑となり双林は空しく猿飛び鹿臥す床と荒れ行き、月夜に霜かと疑はれし堂前の白洲は茅尾花生出で、蕈茸を求むる野となり、不断の霧かとあやしまれし香煙はあらはなの烈しき風に跡形もなくぞなりにける。僅に残れるは堪慶の作といふ長七尺餘なる仁王計りぞすごすごとあばらなる軒に立ちたまへる。丈六の釈迦の像は御首のみ見え給ふ。實にあはれなる事どもなり。師弟の因ある法師も處々に離散して還俗しけるもありなり。依て村の中に上坊下坊上ノ坊下ノ坊新シ坊などいふ家の垣名有之となん。その昔は古坊とて河内谷の内東の谷の上にありて、坊舎も六ヶ所有之と申傳へたり。近頃江和村中井の名孫彦兵衛といふもの、再建を企て統領して庄内各奉加に進み、三間四方餘の二字の草堂をたてて、堂内の両方に二王を安置し、正面に釋迦の坐像を一軀形の如く造立せられたり。今中村蔵王の東にある釋迦堂之なり(下略)
    《訳》明智光秀が天正8年<1580>から周山に城郭を築いた際、国中の神社仏閣を破壊し、お堂を倒し、長床を崩し、僧坊を滅ぼして建築資材とした。そのため、梵寳寺(門坊寺)の七堂伽藍もすべて取り壊され、弓削谷から周山へと運ばれた。寺の跡地はまたたく間に畑となり、寺を囲んでいた林は、むなしく猿が飛び交い鹿が寝床とするほどに荒れ果ててしまった。
    かつては月夜に霜が降りたかと見紛うほど白かった堂前の白砂の庭には、今やカヤの穂が生い茂り、キノコを採るような野原となった。また、絶え間ない霧かと怪しまれるほど立ちのぼっていた線香の煙は、吹き荒れる激しい風によって跡形もなくなってしまったのである。
    わずかに残ったのは、堪慶の作といわれる七尺(約2.1メートル)余りの仁王像だけで、すごすごと荒れ果てた軒下に立っておられる。また、丈六(約4.8メートル)の釈迦像は、首から上だけが見えるという有様である。まことに哀れなことである。師弟の縁のあった僧侶たちもあちこちに離散し、中には還俗した者もいた。
    よって、村の中に「上坊」「下坊」「上ノ坊」「下ノ坊」「新シ坊」といった家の垣内名が残っている。その昔、それらは「古坊」と呼ばれ、河内谷の内、東の谷の上に位置しており、六つの坊舎があったと言い伝えられている。
    近ごろ、江和村の中井孫彦兵衛という者が再建を志し、自ら中心となって村内の各所から寄付を募り、三間(約5.4メートル)四方余りの二字の草堂を建てた。堂内の両脇には仁王像を安置し、正面には釈迦の坐像を一躯の形のように造立した。今、中村蔵王の東にある釈迦堂がこれである。

    【大正郡誌 福正寺所蔵の縁起】

    5080S1 八坂神社

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    5080S1 八坂神社(2025.03.21)

    所在地:田歌
    創建:寛永17<1640>洞雲寺周護和尚が造営、遠敷郡名田庄下村の大工市村作兵衛が建立
    祭神:素戔嗚尊
    氏子:田歌
    例祭:7月14日「田歌の神楽」 ※「第10章 行事と食文化 - 表10-2 行事の記録 - 2025年7月14日 田歌の祇園さん」参照
    由緒等:寛永17<1640>洞雲寺の光悦法印が祇園祭を勧請、神楽は遠敷郡羽生の祇園祭から伝わったものか。


    5080T1 洞雲寺

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    5080T1 洞雲寺(2025.03.21)

    所在地:田歌
    山号:青竜山(北桑田三十三所霊場第十六番)
    宗派:曹洞宗(妙徳寺末)
    本尊:聖観世音
    創建:永正元<1504>
    開基:統公
    由緒等:
    ・永正元<1504>天龍寺統公が開創(臨済宗)
    ・慶安3<1650>類焼により焼失、妙徳寺文悦が再建、開山(曹洞宗)
    昔、田歌地区に三ヶ寺があったものが洞雲寺に統合されたとする。


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