
『美山考』第6章 近世【260907】
南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴
表6-1 は、「日本歴史地名大系」をベースにして、明治初期(廃藩置県前)における領主と所領する村の関係、及び各村の石高を表わしたものである。
各村と領主の関係がいつ成立したか正確な年は分からず、次の2点に疑問はあるものの「日本歴史地名大系」が記す成立年を領主欄に記載した。
・幕府の成立は慶長八年<1603>であり、慶長七年<1602>に全村を幕府領としている根拠が不詳
・知見中以下五村が、天保六年<1835>に園部藩領になったとする根拠が不詳
江戸期を通じて領主と領地の関係には変動があったようであり、領主欄に ※A~F を補足した。
また、図6-1 は美山町域を農業集落境界データ(「第七章 境界」参照)をもとに各村域に分け、園部藩領は赤色、篠山藩領は青色、武田兵庫領は黒色で示したものである。
表6-1. 明治初期(廃藩置県前)時点における領主と所領の石高
領主欄の補足:慶長七年<1602>時点では全村幕府領
※A:「寛文印集帳」寛文四年<1664>四月付文書では園部藩とされている
※B:「寛文印集帳」寛文四年<1664>四月付文書に村名が記載されていない
※C:享和二年<1802>~天保六年<1835>間は 幕府直轄領 京都所司代小堀氏支配「美山町誌」
※D:享和二年<1802>より山林は禁裏御料京都代官支配とする「日本歴史地名大系」
※E:天明三年<1783>「領内天明の高附帳」で篠山藩洞組に記載なし(園部藩領か?)
※F:元禄八年<1695> 田土村・上吉田村・林村・殿村の村領域争いで園部藩が裁決している(田土村は園部藩領か?)

図6-1. 藩領図(赤:園部藩領 青:篠山藩領 黒:武田兵庫領)

例えば、元禄八年<1669>十二月、柴や萱などの採草地をめぐって起こった、田土村・殿村・上吉田村・林村の村領境界の争いは、園部藩が裁決していることから、この時点の田土村は、篠山藩領ではなく園部藩領だったのかもしれいない。
享和二年<1802>には、篠山藩領(藩主青山忠裕)の大野・洞・知井各組村が、突如幕府直轄領とされ京都所司代小堀氏の支配になった。その後、肱谷村民らの願いが叶い、天保六年<1835>には篠山藩領に戻っている。
石高は元禄十三年<1700>と明治初期<1868>のものであり、各村間に石高差の大小を読み取ることができる。両年間の石高伸率を見ると、園部藩領1.53倍、篠山藩領は園部藩より若干低く1.24倍に増加、旗本武田兵庫守領については0.94倍に減少している。「美山町誌」では当時の水帳や山帳などから、その背景にある各村の耕作地・戸数・人口・生業等について分析している。
地理的には、園部藩領が美山町域全体に広く分布する中に、鶴ケ岡・大野・知井地区内の一部の村が篠山藩領と旗本武田兵庫領として配置されており、必ずしも連続した所領域になっていないこと(どちらかと言えば飛び々々の状態)に興味が惹かれる。
令和七年<2025>十一月九日に、南丹市立文化博物館で開催された特別展「園部藩主小出家」を見学した際、学芸員に上記の分断した所領の割り当てになっている理由を尋ねると、園部藩の藩政に関する史料が残っておらず分からないとのこと。令和元年に行われたシンポジウムでもそのことが話題になり、園部藩立藩の前に小出家が元々出石で領有していた石高に合わせるためにちょうどよい村の石高を足し算して選んだ、徳川家とつがなりのある園部藩が幕府から信任を得て街道筋の主要な村を治めた、逆に元々外様である小出家を抑制するために篠山藩領を園部藩領に割り込むような形で配置した..など諸説あったらしい。
関ヶ原の戦い後、当地周辺は徳川政権が西国を治めるための要衝地として、亀山藩(亀岡藩)、園部藩、篠山藩、福知山藩、綾部藩など、周辺各藩を包括して、新藩の創立、藩主の転封、廃藩等が行われた。
そうした背景のなかで、園部藩は元和五年<1619>に小出吉親が初代藩主として立藩され当地の領主となった。
篠山藩は慶長十四年<1609>、松井松平康重が八上城に入り、元和五年<1619>に藤井松平家が藩主になったときから当地の領主となった。慶安二年<1649>からは形原松平家が藩主を務めたが、五代信岑の失政により、亀山藩主だった青山忠朝が入れ替わりで篠山藩主になっている。
園部藩は天保六年<1835>八代藩主小出英発のとき、篠山藩は寛文四年<1664>(初代形原)藩主松平康信のとき、当地内に所領の追加がされたようだが、その背景については未詳である。
ここでは、近世における美山町域の主な領主であった園部藩と篠山藩の成り立ちについて概観しておく。
園部藩
園部藩は、元和五年<1619>に立藩され、明治四年<1871>の廃藩置県まで小出家が領主を務めた。初代吉親の祖父、秀政は豊臣秀吉の母の妹を夫人とし、四代英貞は、徳川家康の曾孫、松平頼純の娘を正室にするなど、豊臣・徳川両家とのつながりが、関ヶ原の戦いを挟んだ数百年に渡る小出家存続の背景にある。
小出家は秀政以降、三つの系譜、但馬出石藩(吉政)、丹波国園部藩(吉親)、和泉国陶器藩(秀家)に分かれるが、吉政の長男吉英が出石藩主となったことから、次男吉親は出石から園部に移封になり園部藩を立藩、初代藩主になった。出石藩は九代英及、陶器藩は四代重興のときに無嗣断絶となっている。
吉親は丹波国船井郡宍戸の小畠氏のもとで仮住まいした後、元和七年<1621>、園部陣屋を築造(櫓の築造は幕府の許可を得られず「城」ではなく「陣屋」の扱い)、移住し町場を整備した。
慶安元年<1648>には藩領内の検地を実施し、複数村で「村切り」を行い村毎の地詰帳を作成するなど、藩政の基盤を整えた。
「園部町史 史料編 第2巻」に収録されている「略史前録草案」に、「慶安二年<1649>御検知之節□分レ候村々覚 此書付則武兵右衛門所持」として、棚田村・沢田村、今宮村・市場村、上久保村・大内村、知見村・同中村、芦生村・白石村・佐々里村がそれぞれ「分ル」と記載されている。
これまでひとつの村だったものが、独立した村として分離されたことを示すものか、或いは、もともと独立している村をひとつにまとめた石高として扱っていたものが、村単位の石高に改められたことを示すものか分からないが、いずれにしても当時行われた検地により、これらの村々で上記「村切り」に関連する変化があったようである。
初代吉親以降幕末まで、二代英知・三代英利・四代英貞・五代英持・六代英常・七代英筠・八代英発・九代英教・十代英尚と続き、園部藩最後の藩主英尚は、慶応四年<1868>、日本の歴史上最後の城となる念願の「三層の園部城」を築城した。
美山町域に関係すると思われる藩主事績の一部を下記する。
初代 吉親
元和年間<1615~1624>:佐々里を訪れ最勝寺に二日逗留(元治元年<1864>「最勝寺由緒略記」(佐々里区文書))三代 英利
元禄十年<1697>:国絵図と郷帳を福知山藩朽木氏、柏原藩織田氏とともに作成
元禄十一年<1698>:上野国甘楽郡の四ヶ村が丹波国内の村々と替地になり飛地領が解消(両国の村名は不詳)五代 英持
寛延三年<1750>:寺社関連の事績多数あり(美山町域の社寺については不詳)
宝暦二年<1752>:煙草の専売制を開始、船井郡・桑田郡の 91村を煙草の生産に従事させた七代 英筠
文化元年<1804>10月:桑田郡上久保村、知見村、知見中村、島村、砂木村などを巡視
篠山藩
慶長十三年<1608>、丹波八上城に入った松井松平家の康重が、徳川家康から築城の命を受け 慶長十四年<1609>に天下普請として篠山城を起工・完成させた。
その後、篠山藩は藤井松平家の信吉・忠国の二代を経て、形原松平家の康信・典信・信利・信庸・信岑と続いたが、五代信岑は失政により亀山藩へ移封、亀山藩の青山忠朝が入れ替わりで篠山藩主になり、以降青山家が忠麻・忠高・忠講・忠裕・忠良・忠敏と続き、明治二年<1869>六月十七日の版籍奉還まで領主となった。
寛政十二年<1800>、忠裕が大阪城代になったことから、享和二年<1802>以降、桑田郡内六組(周山・弓削・矢代・知井・大野・洞)と河内国茨田郡等が取り替えになり幕府直轄京都代官所(小堀氏)の所領となったが、天保六年<1835>、忠良就任により篠山藩領に戻っている。
天明三年<1783>「領内天明の高附帳」に、大野組・知井組・洞組に属する村名・家数・男女人数・石高等を載せているが、田土村・庄田村は洞組内に記載されていない。上述の元禄八年<1669>十二月に起こった田土村・殿村・上吉田村・林村の村領境界争いは、篠山藩(田土村)と園部藩(殿村・上吉田村・林村)の構図だったのか、或いは、田土村・庄田村がいつ篠山領になったのか定かではない。
摂津国嶋下郡とのつながり
私が住む市域(旧摂津国嶋下郡)の郷土史料室を訪れた際に、同室が所蔵する古文書データベースを検索できる端末があった。何気なく検索条件に「桑田郡」を指定して検索してみると 表6-2 の古文書一覧が画面に表示された。ヒットするものはないだろうと思っていただけに少々ビックリ。
表6-2. 摂津国嶋下郡の古文書

表題を見る限りにおいて、美山町が属していた旧丹波国桑田郡との間で、年季奉公人、寺請宗旨、借金、往来手形、家出人の扱いに関することなど、種々の書状のやりとりがされていることから、交通手段が徒歩の当時であっても、かなり離れた両地域が思いのほか身近な関係にあったことを伺い知ることができる。
当時の摂津国嶋下郡は複数の領主により分割統治されており、各書状に関係する個々の領地が丹波国桑田郡とどのような関係にあったのか考察できていないが、先ずは、古文書原文の写しが入手できたものから、くずし字が比較的分かり易そうな文書を選んで書かれている内容の概要を探り、両地域の関係の一端を知ることができればと思っている。
ただ、なにぶん、古文書原文のくずし字を翻刻する読力・知力は皆無のため、AIツールとカンを頼りに可能な範囲で解読を試みるため、誤読・誤訳は結構多めかと…
史料23 宗旨寺請状之事
藤右衛門の娘「いわ」は、桑田郡大野村に住む林昌寺の檀家であり、嫁ぎ先の喜兵衛は、原文太文字の「其村」が大野村、福井村どちらを指すのか分からないが、いずれにしても摂津国嶋下郡福井村 遍照寺(真宗大谷派)の檀家であると思われる。
大野地区には、天文十二年<1543>開基の善西寺がある。もと真言宗であったが、のちに真宗大谷派に改宗したとされ、天明七年<1787>の 史料10 でも「京東本願寺末流丹州桑田郡大野村善西寺」とあることから、もし喜兵衛が大野村に住んでいたとすると、その頃の善西寺は同宗の真宗大谷派であり、当時の寺請制度は、必ずしも居住地寺院の檀家になる必要はなかったのかもしれない。
それにしても、遠く離れた福井村出身の喜兵衛と大野村に住む「いわ」は、どのようにして出会ったのだろう…
宗旨寺請状之事
一 丹州桑田郡大野村藤右衛門娘いわと申者、先祖代々禅曹洞宗而別當寺旦那少紛無御座候、然ル處、此度其村喜兵衛方江縁付仕候御公儀御法度之切支丹転之類族ニも無御座候、右御制禁之宗門抔与申訴人於有之者、何国迄も當寺より役僧罷出急度埓明可申候、依之同宗之類任其意向後者 貴寺旦那ニ御加江宗旨相預等被成可被遣候、於此方少も故障無御座候、為後日宗旨寺送り状候仍而如件
天保九戌年十一月六日
丹州船井郡胡麻村 龍澤寺末
同州桑田郡大野村 林昌寺(丸印(山夕勿))
摂州嶋下郡福井村 遍照寺
御知事
《訳》宗旨寺請状の事
一、丹州桑田郡大野村の藤右衛門の娘、「いわ」と申す者は、先祖代々、禅宗曹洞宗を信仰しており、別当寺(林昌寺)の檀家として、少しも相違ございません。ところがこのたび、その村(大野村?それとも福井村?)の喜兵衛方へ嫁ぐことになりました。もちろん、御公儀が御法度としている切支丹や、その転宗者・類族などでは決してございません。もし、この者について、右の御禁制の宗門であるなどと申し立てる者があった場合には、いずれの場所であっても、当寺から役僧を差し向け、きっと事情を明らかにして解決いたします。そのため、同じ宗派の者として、本人の希望どおり、今後は貴寺の檀家に加えていただき、宗旨をお預かりくださいますようお願いいたします。こちら(林昌寺)では、これについて少しも異議・差し支えはございません。後日の証拠として、宗旨寺送り状を差し上げます。以上のとおりです。
天保九戌年<1838>十一月六日
丹波国船井郡胡麻村 龍澤寺末
同国桑田郡大野村 林昌寺(印)
摂津国島下郡福井村 遍照寺
御知事(役所)殿
史料24 村送り手形之事 【260907】
ひとつ前の 史料23 関連で、大野村庄屋から福井村庄屋宛に、「いわ」が西山喜兵衛に嫁ぐ件について通知している。文中の「寺送り別紙」は、史料23 を指すのかもしれない。
「いわ」の年齢は二十六歳だと分かった。喜兵衛の苗字は「西山」。江戸期の一般庶民も公式文書では苗字を名のっていたことが分かる。
「茨木市史」で慶応三年<1867>頃の福井村役に「本咲利右衛門」の名が見えるほか、「本咲文書」がいくつか紹介されている。庄屋の「本咲猪三郎」は、同家の者かもしれない。
原文中の①「永■飛騨守」は、「永井飛騨守」だろうか。■の原字 は、「井」には見えないが、当時の福井村は、高槻藩領と加納藩領に分割され、直清系永井氏と尚庸系永井氏がそれぞれを治めていた。文化六年<1809>~天保十三年<1842>に高槻藩主を勤めた「永井飛騨守直与」のことだろうか…
原文中の②「掛りて」 、③「御年寄中」 を含め翻刻の怪しいところはあるが、史料23 に関連する文書として暫定掲載しておき、後日確なことが分かれば内容を見直したい。
村送り手形之事
一 丹州桑田郡大野村藤次郎妹いわと申者、当年廿六才ニ罷成候処、此度、其領 ①永■飛騨守 様御領分之内、摂州島下郡福井村西山喜兵衛方へ嫁ニ遣し候処、宗旨之儀は代々禅宗旨御座候、則、寺送り別紙ニ差遣し置申上、且又此者ニ付、貴御村方へ少し茂 ②掛りて 間敷義、村方ゟ申間敷候、為其村送り手形仍而如件
天保十亥年三月
青山因幡守御領分之内
丹州桑田郡大野村 庄屋 長兵衛
摂州嶋下郡福井村 庄屋 本咲猪三郎殿
③御年寄中
《訳》村送り手形の事
一、丹州桑田郡大野村の藤次郎の妹、いわと申す者は、今年二十六歳になります。このたび、永井飛騨守様の領分である摂州嶋下郡福井村の西山喜兵衛方へ嫁がせることになりました。この者の宗旨については、代々禅宗でございます。そこで、寺送りの証文を別紙にしてお渡ししておきます。また、この者に関して、貴村に少しでも迷惑・負担をかけるようなことを、こちらの村から申し出たり要求したりすることはありません。その証明として、この村送り手形を差し出すものでございます。以上。
天保十年<1839>亥年三月
青山因幡守様の御領分内
丹州桑田郡大野村 庄屋 長兵衛
摂州嶋下郡福井村 庄屋 本咲猪三郎殿
御年寄中
※近世史料については引き続き考察中。考察の済んだものから順次追記、公開する。
今後の考察課題
美山町域における園部藩と篠山藩の統治手法とその差異
園部藩領と篠山藩領の時系列図化とそこから読み取る水源との関係