
あなたは自分に対して常に「偏向報道」をしている
偏向報道。
情報を受け取る側として、現代では欠かせない情報リテラシーが常日頃問われている。
情報を発信をする者としても、決して他人事ではない話だ。
2026年5月、2冊目の書籍を出版した。
個人の発信活動は5年以上取り組んでいる。
法人や事業の発信も数社携わっている。
書いた記事数は1000をゆうに超えた。
発信する側としても経験を積んできて気が付いたことがある。
発信には、世の中に蔓延る情報には、必ず偏りがある。
必ずだ。
僕の発信も、誰かフリーライターの発信も、インスタグラマーの投稿も、新聞もラジオも、テレビもXの投稿も、すべて。
情報には必ず偏りがある。
そしてこれは何も、個人のSNSの投稿やテレビの報道に限った話だけではない。
「あのメディアは偏っている」
「あの人の意見は到底信用できない」
そう憤りながら、自分自身は都合の良い情報だけを熱心に集めていたりする、そんな人がごまんといるようなどうしようもない社会なのだ。
個人が事実だと思い込んで受け取っている情報にも、偏りがある。
何が本当なのか以上に、受け取った事実こそが現実になっていく。
もしかしたら、何が真実であるかという点は、この世の中で、この世情で、あまり意味のなさないことなのかもしれない。恐ろしい。
事実よりも、意見や感情の方が、人には強烈に伝播していく。
世界は偏向で溢れかえっている。
そんな中であなたは、一体何に偏っているだろうか。
何を事実として信じているだろうか。
その現実を自覚しているだろうか。
僕たちだって実は、常に自分自身に偏向報道をしているということに、果たして気が付いているのだろうか。
偏向は決して悪いものではない。
ただ、我々の情報リテラシーは時代を追うごとに常に問われ続け、重要度は増す一方である。
それを知っているか知らないか、気付いているか気付いていないかは、今後のあなたの去就にも大きく影響してくる要素となるだろう。
偏向報道はなくならない
SNSを開けば、とある報道がどうとか、とある投稿がどうとか、偏向を糾弾する声が何なら偏向報道よりも多く散見される。
確かに同じ出来事であっても、どの部分を切り取るかによって受け手の印象は大きく変わり、見出しの付け方ひとつで解釈は180度変わってしまう。意図的に仕組まれたものもあれば、結果としてそうなってしまったものもあるだろう。
いずれにせよ、偏向報道は絶対になくならない。
発信される情報を扱うのが人間だからだ。
それは誰かが嘘をついているわけではない。人間にはそれぞれの視点がある。
そして固有の視点がある以上、情報を形づくる「編集」という作業は絶対に避けられない。
テレビも、新聞も、SNSも、すべてそうだ。
情報は情報として存在していて、それを伝える際に編集の作業が入る。
さらにこれは発信だけでなく、自分たち自身にも同じ現象が巻き起こっているのだ。
僕たちは普段、見ているものをありのままの事実だと思い込んでいる。
しかし実際には、事実の膨大な情報の中から「自分にとって重要だ」と思うものだけを無意識に選び取り、意味を与え、解釈している。
それはある意味で、編集作業そのものである。
だからこそ、偏向報道を完全にゼロにしようというアプローチは少し無理がある。人間が人間である限り、視点は消えないし、編集も消えない。つまり、偏向も消えない。
重要なのは、偏向が存在することを大前提とした上で、それとどう向き合っていくか、という点にある。
偏向報道を激しく批判する人ほど、不思議なほど自分自身の偏向には無自覚だったりすることも多い。
メディアや政党や会社、あるいは強烈な影響力を持つ個人に対して、偏向報道をしているだの、信用できないだの、裏に何が隠されているだの、陰謀めいた意見を声高々に述べられているのもよく見かける。
が、そんな意味のない憤りを発しながら、自分にとって都合の良い情報だけを熱心に集めている人の多いこと多いこと。
と言いつつも、これは決して、誰か知らない人だけの話ではない。
自分自身もそうだ。
おそらく、誰もがそうなのだと思う。
人間は、本能的に「自分が正しい」と思いたい生き物なのだ。
偏向報道の問題の本質は、メディアの倫理問題であるのと同時に、僕たち受け手の人としての性質にもあるのかもしれない。
偏向報道はメディアだけの問題ではない
偏向報道という言葉から、多くの人はテレビや新聞といった大手を思い浮かべる。
しかし、よく考えてみると、自分たちの日常はすでに偏向であふれ返っている。
例えば、Instagram。
そこには、誰かの輝かしい瞬間が流れてくる。
旅行。恋人や結婚生活。仕事での成功。昇進。あるいは、新しい挑戦。
そこに映し出されているのは、間違いなくその人の人生の一部だ。嘘偽りのない、実際に起きたことだろう。
しかし、それがその人の人生の「すべて」かと言われれば、決してそうではない。
裏には言葉にできない不安もあれば、泥臭い失敗もある。夜も眠れないほどの焦りや不安だってあるはずだ。ただ、それを見せていないだけ。誰にでもある、ごく当たり前の人生のグラデーションである。
それなのに自分たちは、切り取られた一場面だけを繋ぎ合わせて、「みんな順調そうでいいな」と勝手に焦燥感を募らせてしまう。
履歴書も、自己紹介もそうだ。
会社説明会も、営業トークも、なんならマッチングアプリのプロフィールだってそうかもしれない。
人は誰しも、自分を少しでも魅力的に見せようとする。良い部分を強調して伝え、弱みはできるだけ隠そうとする。
これは悪いことではない。
むしろ、社会を生き抜く上では極めて自然なことだ。
けれど、そこには必ず「見せ方のコントロール」が入る。
つまり、広い意味での偏向が起きている。
自分たちは偏向報道を嫌う。
しかしそれなのに、自分自身も毎日のように都合よく事実を編集して発信している。
そう捉え直してみると、偏向報道という現象は、俄然自分たちの地続きの問題として身近に迫ってくることに気が付くだろう。
一部のメディアだけが抱える特殊な問題ではなく、人間そのものが持つ性質なのだ。
「絶好調だね!」
「すごいね!」
「結構稼いでるんじゃないの?」
直近で書籍を出版し、法人化もして、新しく仕事仲間も一人迎え入れた僕の元にはそんな声がたくさん届く。
ありがたい話だけど、しかし自分の人生が一気に豊かになったわけでもなければ、収入が何十万も増えたわけでもなくて、一緒に仕事をする仲間が急に何人も増えたわけでもない。
今日はせいぜい昨日の延長で、とんでもない奥義を習得していきなり強くなったわけでも、伝説の剣を手にしたわけでもない。
「すごいね!」
その言葉の裏には、書籍の文章を毎日毎日、移動中も常に書いていた日々はすっ飛ばされている。法人化のための手続きや下調べに奔走した時間や、新しい仲間を迎え入れる準備に明け暮れた日は存在していない。
みんな目に見える僕の姿を見て、僕の状態を判断している。
ありがとう、と答えるけれど、どうにも歯がゆいものだ。
かくいう僕自身も、周りの人たちの実績や発信を見ては、みんながどんどん前に進んでいるように見えるし、順調そのものに見えている。誰もが自信に満ち溢れているようにも思えることだってある。
しかし、今ならよく分かる。
自分があのとき見ていたのは、その人たちの人生のすべてではない。切り取られた、都合の良い一場面に過ぎないのだ。
これは同時に、他人だけでなく自分自身の人生のことも、必要以上に偏って見ているという気付きにもつながっていた。
大変だったことばかりにフォーカスして、できなかったことばかりを数え上げて、失ったものに思いを馳せてばかりいて。自分はこういう人間だからと勝手に自分のことを決めつけたり、今はこれぐらいだろうと知らぬ間に自分の限界を設定したり。
他人のことも、自分のことも、僕はひどく偏った目で見つめている。
偏向報道というのは、決してニュースの向こう側の、遠い世界の話ではない。
自分たち一人ひとりが、自分を守るために、あるいは誰かに認められるために、毎日せっせと行っている「編集作業」の延長線上に、それはある。
僕たちは偏向を信じている
じゃあ結局、何を信じればいいの?
至極真っ当な問いである。
この世の中に真実というものは存在しないのではないかと思えるほどの、この偏向っぷり。
とにかく「正しい情報」を探そうと必死だと、そのような答えのない問いにぶつかってしまう。どこかに、絶対に偏っていない中立な意見や、完全に客観的な見方が存在するはずだと信じていると、そんなものは存在しないから、結局何を信じればいいのやら、というジレンマに陥ってしまう。
大切なのは、存在もしない「たった一つの正しい情報」を血眼になって探し続けることではない。情報なんていうのは星の数ほどある。
大事なのは情報収集ではなく、高い編集能力、つまり解釈の幅を持つということだ。
あなたというメディアは、どこから情報を取得し、どのように編集作業をして、解釈という報道に収束しているのだろうか。
例えば、「一人の社員が会社を辞めた」とする。
これは動かしようのない客観的な事実。
その事実に対して、「優秀な人が会社に見切りをつけた」という見方もできれば、「本人が新しい挑戦を選んだ」という見方もできる。「会社側に何か問題があった」とも言えるし、「本人のスタンスに問題があった」と捉えることも可能だ。
事実は一つだが、解釈の数は人の数だけ存在する。
もし最初に「あの会社はブラックだ」という思い込みを抱いていると、「一人の社員が会社を辞めた」という事実は、上司がとんでもない人間だったとか、ノルマが厳しいからとか、サービス残業があるからとか、その解釈を補強するための情報ばかりが目について、それを事実として受け止めることになる。
これは一種の防衛反応でもある。
「あの起業家は怪しい」と思えば怪しい根拠ばかりが目に留まるし、「自分には才能がない」と思い込めば、自分が失敗した証拠集めに躍起になってしまう。
結局僕たちが信じている情報というのは、思い込みを含んだ情報の収集から始まり、解釈という製作会社の編集作業を通して、それが報道されて事実として受け取っている。
まさに偏向報道そのものであるかのような流れだ。
僕たちが信じているものは、所詮は偏向の一つであり、その偏りはどうしようもなく恣意的なプロセスを経て作られているにすぎない。
偏りを信じる3つの観点
ということで、我々は「偏向」から距離を取ることは不可能である。仕方ない。
自分固有の視点を持って生きている以上、偏り続ける。
ただ、偏っている自分を自覚することはできる。
その自覚があるかないかで、世界の見え方は劇的に変わる。
情報収集の段階で、偏向の大まかな方向性は決まる。
自分が日々の情報収集の中で意識しているのは、以下の三つの質問だ。
1.これは誰の視点で語られているのだろう?
ニュースを見るときも、SNSをスクロールするときも、誰かの華々しい成功談を聞くときも、まずはここから考える。
どんな人が、どんな立場で、どんな背景や意図を持ってその話を発信しているのか。
その人の「立ち位置」が見えてくるだけで、情報との間に健全な距離感が生まれる。
2.逆側から見ると、どう見えるのだろう?
賛成意見があるなら、あえて反対意見も想像する。美しい成功談を耳にしたら、その裏にあったはずの泥臭い失敗談にも目を向けてみる。片側だけから光を当てていると、世界はどうしても平面的で浅いものに見えてしまう。
しかし、ぐるりと逆側に回り込んでみた瞬間、景色は一気に立体的な深みを取り戻す。
3.自分はなぜ、それを信じたいのだろう?
これが最も重要な問いとなる。この問いの矢印は、情報の向こう側ではなく、自分自身の内面に向く。
例えば、誰かの成功を素直に喜べず否定したくなるとき。誰かの痛烈な失敗を、どこか冷ややかに笑いたくなるとき。あるいは、「どうせ自分には無理だ」と殻に閉じこもりたくなるとき。
その情報が真実かどうかの前に、「なぜ自分は、そのストーリーを信じたがっているのか」を深く掘り下げてみる。すると、自分でも気づかなかった意外な本音が顔を出す。
それは他人への嫉妬かもしれないし、新しい一歩への恐怖かもしれない。あるいは、現状維持で自分を守りたいという防衛本能かもしれない。
偏向報道から自由になる方法というのは、メディアを躍起になって疑うことではない。テレビのコンセントを抜くことでも、SNSのアカウントを消して耳目を塞ぐことでもない。
まずは、「自分自身も、日々都合よく世界を編集して生きている」という不都合な事実を、そっと受け入れること。
その前提に立ったとき、自分たちは初めて、溢れかえる情報と健全な距離を保てるようになるのだと思う。
自分自身への偏向報道
他人の発信やメディアの偏向を気にする前に、自分たちが最も警戒すべきなのは、自分自身に対して行っている「セルフ偏向報道」だ。
人間は、自分の状態によって、未来に対する報道を平気で歪める。
調子が悪いときは「自分は何をやっても上手くいかない人間だ」という暗いニュースばかりを脳内で連日トップニュースとして扱い、逆に少し上手くいったときは、裏にある泥臭いプロセスをすっ飛ばして「自分は無敵だ」などと傲慢な編集を行う。
どちらも、事実に都合の良い解釈を混ぜ込んだ偏向報道に過ぎない。
この自分自身への偏向報道に気付き、一瞬でニュートラルな視点に戻すために、自分がお勧めしたい手軽な行動がある。
それが、主語を「自分というメディア」に置き換えて脳内で呟く、という手法だ。
何かに落ち込んだり、あるいは調子に乗ったりしたとき、頭の中でこう言い直してみる。
・自分は何をやってもダメだ
→現在、自分というメディアが「何をやってもダメだ」という偏ったニュースを報じています
・あの人は順調そうで羨ましい
→現在、自分というメディアが「他人の輝かしい一面」だけを切り取って編集しています
ノートもペンもいらない。ただ、自分の感情の波に気付いた瞬間に、頭の中で「~という報道が流れています」と実況中継のテロップを入れるだけだ。
これだけで、感情にハックされていた脳が、不思議なほどすっと冷めていく。
主語を「自分というメディア」に置き換えた瞬間、自分の思考をまるでニュース番組を見るかのように、一歩引いた客観的な視点(メタ視点)で眺めることができるからだ。
世界がどれだけ偏向で溢れかえっていようと、関係ない。
本当に恐れるべきは、外側のニュースの歪みではなく、自分の内側で毎日繰り返される、自分自身への偏向報道だ。
「あ、また偏った編集をしているな」
そうやって、脳内のニュース番組に小さく突っ込みを入れる。
その手軽な自覚の積み重ねこそが、溢れる情報に振り回されない、大人のしなやかな情報リテラシーを形づくっていくのだと思う。
偏向の世界を、うまく偏りながら生きていこう。
あなたの信じることこそが、あなたの現実になっていくのだから。