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アボカドの悲劇

    スーパーでアボカドを買った。「森のバター」とは見事な表現である。あのクリーミーで濃厚な味わいは、しばし忘れがたい。

    そんな中、私にはある悲劇が起こった。そして、あるひとつの啓示を受けた。

    「アボカドは、中身しか食べられない」

    大事なことなので、もう一度、いや何度でも唱えたい。アボカドは、中身しか食べられない。

    ある日の夕食、私はパートナーに向けて、ドヤ顔を貼り付けたまま手料理をサーブした。

    メニューはアボカドとベビーリーフと豚しゃぶのサラダ、そして納豆ともずくの冷製スープ。

    料理界の新星・長谷川あかりさんの素晴らしいレシピである。バックに彼女という最強の守護神が控えているのだから、料理初心者の私であっても、まるで三ツ星シェフのような自信がみなぎっていた。

    しかし、私の渾身のアタックに対するパートナーのレシーブは、およそ想定とはかけ離れたものだった。

    一口食べた瞬間、彼女の顔に「……あれ?」という不穏なフォントが浮かび上がる。なぜだ。完璧なレシピのはずだが。

    じつを言うと、私はアボカドを皮ごとスライスして皿に並べていたのだ。繰り返すが、アボカドは、中身しか食べられない。

    私は死に物狂いで彼女に謝罪した。森のバターの扱い方を致命的に誤り、食卓に混乱をもたらした罪について。お互いの脳内に、計り知れない衝撃が走った瞬間だった。

    森のバターも、一歩扱いを間違えれば、牙を剥く「ジャングルのバター」と化す。いや、そんなジョークを飛ばしている場合ではない。あれは物理的に、人間が咀嚼していい代物ではなかった。

    幸いにして、アボカドの皮に毒性はなかったらしい。一歩間違えれば、私の不手際で最愛のパートナーを強制終了させてしまうところだった。

    そこで私は猛省した。

    私にはまだ、長谷川あかりさんの洗練された世界線は早すぎたのだ。彼女のレシピは、基礎を修めた手練れたちが楽しむための聖域。

    私はまだ、料理という名の広大な「森」に入ることすら許されていないし、「バター」の恩恵に預かる資格もない人間なのだと確信した。

    そんなモヤモヤを抱えながらも、私の脳は懲りずに「次は、何を作ろうか」と思考を巡らせている。

    次のミッションでは、絶対に犠牲者を出してはならない。もはや「美味しい」などという高尚な次元はどうでもいい。我が家の食卓に必要なのは、徹底された「安全性」だ。

    思えば、私は何をやってもスマートにいかない。

    人にぶつからずに歩くというミクロな移動すらままならないし、人生というマクロな航路でも常にフラフラと座礁しかけている。

    果たして私は、自分自身の人生という名の不器用な食材を、味わい深く料理できる日を迎えることができるのだろうか。

    味付けは二の次でいい。せめて「誰も傷つけずに、食べられる形」には仕上げたい。いつか読者のあなたにも、自信を持って一皿をサーブできる日を夢見ながら。

    私は今日も、自分という「よくわからない素材」のポテンシャルをなんとか引き出そうと、キッチンで孤独な闘いを続ける。

     
     

    HARU

     
     
    1999年、夏、静岡 to 東京|映画ライター|エッセイスト|note『Cinema Diaries』更新中

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