近所のカフェで、いつもの席ができた
引っ越しの段ボールがまだ二つ残っている部屋で、午後三時にコーヒーが切れた。
買いに出るの、めんどくさい。そう思って冷蔵庫を開けたら、牛乳もなかった。ぶっちゃけ、その日の私は朝から誰とも話していなくて、声の出し方まで忘れそうだった。在宅ワークって通勤がないのは最高なんだけど、気づいたら部屋とスーパーだけで一週間が終わるんだよね。
大阪に引っ越してきて一か月。梅田なら買い物もごはんも困らないし、休日には中之島を歩いたりもした。でも、家の近くにはまだ「ここに寄ろう」と思える場所がなかった。地図はだいぶ覚えたのに、毎回ちょっとよその街。
その日、牛乳を買う前に入ったのが、近所の小さなカフェだった。
窓際に二人席が二つ。入口の横には新聞が置いてあって、奥ではたぶん常連のおじさんがトーストを食べていた。私は入口で一瞬止まって、持ち帰りにしようかな、と迷った。初めての店で一人で座るのって、いまだに少し緊張する。三十代になったら、こういうの全部平気になると思ってたのに。全然だね、笑。
結局、窓際でコーヒーを飲んだ。仕事の続きをしようと持ってきたパソコンは、かばんに入れたまま。向かいのマンションに布団が干してあるのを、ぼーっと見ていた。
次の週も行った。その次は雨の日。遠出する元気はないけど、家にはいたくない夕方だった。
三回目に店の人が「今日も窓側、空いてるよ」と言ってくれてさ。あ、覚えてるんだ、って。それだけなのに、座ってからちょっとにやけた。正直、引っ越してから誰かに覚えてもらうことに、こんなに飢えてたとは思わなかった。
ただ、そこから急に会話が弾むようになったわけじゃない。注文して、お礼を言って、本を数ページ読むだけの日もある。隣の席の人たちが楽しそうだと、少しうらやましい日もある。私もそのうち話せるのかな? でも今日は静かにいたい。めっちゃ勝手なんだけど、その両方なんだよね。
前は「行きつけ」って、店主と仲良くなって、いつもの注文が通じる場所だと思っていた。だから、つくらなきゃと思うほど身構えてた。
今は、ケーキの並ぶケースを見るのが楽しみとか、あの椅子なら長く座っても疲れないとか、そのくらいでまた行っていいんだと思う。実際、私が通い始めた理由の半分は、コーヒーについてくる小さいクッキーだったし。
今週末は中之島まで散歩するつもり。帰りには、たぶんあのカフェに寄る。窓際が埋まっていたら奥に座ってみようかな。
段ボールはまだ一つ残ってる。でも最近は、この街で夕方をどう過ごすか、少しだけ迷わなくなった。
