
心の港の物語 第115章 -雫を映す硝子のしおり-
第115章
雫を映す硝子のしおり
港の朝は、まだ誰のものでもなかった。
みなとのみらいの空は、夜の群青を少しだけ残しながら、
東の水平線から淡い銀色へとほどけていく。
潮の香りは静かで、
波は石畳へ小さく息をつくように寄せては返していた。
喫茶店の窓辺。
題名のない本から滑り落ちた硝子のしおりが、
朝の光を受けて、小さな海のように輝いている。
閉じ込められた一粒の雫は、
揺れているようにも、
眠っているようにも見えた。
千紗は、そのしおりを掌にのせる。
冷たいはずの硝子は、
なぜか少しだけ温もりを持っていた。
その朝、店を訪れたのは、
港で星空を撮り続ける写真家・澄人(すみと)だった。
昼間の港へ来ることは珍しい。
いつもは夜が深くなってから、
海と空の境界が溶ける瞬間を静かに待っている人だった。
窓辺のしおりを見ると、
澄人はゆっくり微笑んだ。
「雫は、不思議ですね。」
千紗は頷く。
「海なのに、空も映します。」
澄人は少し考えてから言った。
「だから、人の心にも似ているのかもしれません。」
その言葉は、
答えではなく、
窓から差し込む朝の光のように店へ静かに広がっていった。
昼過ぎ。
二人は港の展望デッキへ歩いていく。
海風が髪を揺らし、
白い雲がゆっくりと空を渡る。
澄人は小さな古いカメラを取り出した。
けれど、
シャッターは切らない。
「撮らないんですか。」
千紗が尋ねる。
澄人は海を見つめたまま笑う。
「心が先に見た景色は、
急いで残さなくても消えないから。」
その沈黙は、
波の音と同じ速さで胸へ届いた。
千紗は硝子のしおりを空へかざす。
雫の向こうに見える世界は、
少しだけ丸く、
少しだけやさしかった。
欠けていたものが満たされたのではない。
見つめ方が、
ほんの少し変わっただけだった。
その小さな変化が、
胸の奥で静かな光になっていく。
夕暮れ。
空は淡い珊瑚色から、
深い藍色へとゆっくり溶けていく。
港の灯りが一つ、また一つと水面に映り、
波は光を抱きながら岸辺へ帰ってくる。
遠く、
誰にも見えない心の港では、
静かな灯台が今日も変わらず海を照らしていた。
その光は、
迷いを消すためではない。
迷いながら歩く誰かへ、
「ここに帰ってきてもいい」と、
何も言わずに伝えていた。
店へ戻った千紗は、
硝子のしおりを本へ戻そうとして手を止める。
窓辺に置いてみる。
月が昇るころ、
閉じ込められた雫の中に、
小さな星が一つだけ映り込んだ。
それは空の星ではなく、
まだ誰にも名前を呼ばれていない光だった。