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運命の所在地【長編2万字】

    あらすじ

    営業一課の佐伯亮太(三十九歳)は、
    同じフロアで働く桐谷と、
    顔を合わせるたびに衝突する仲だった。

    ある夜、
    noteで偶然出会った匿名の書き手に
    心を奪われる。
    趣味も価値観も驚くほど一致し、
    亮太はネットの向こうに
    ようやく理解者を見つけたと思う。
    だが実際に会ってみると、
    そこにいたのは桐谷だった。

    職場では噛み合わない二人が、
    実は誰よりも通じ合っていたのだ。
    戸惑いながらも惹かれ合い、
    二人は結婚する。

    しかし子どもを授かり、
    その子に発達の特性があるとわかると、
    「同じ方向」を向いていたはずの二人に、
    育て方をめぐる新たな衝突が生まれる。
    データを重視する亮太と、
    今この瞬間を大切にする桐谷。

    ぶつかり合いながらも、
    変わっていく二人の関係の中で、
    自分と相手の形を探す物語。

    # 第一話 
    近くのやなヤツ、
    遠くのいいヤツ

    月曜の朝九時。
    佐伯亮太は自分のデスクに座るより先に、
    今日も同じ顔を見ることになった。

    「佐伯さん、火曜の定例、資料まだですか」

    声をかけてきたのは、
    営業二課の桐谷だった。
    入社してから七年、
    同じフロアで働いているが、今でも顔を合わせるたびに少し身構えてしまう相手だ。

    「今日中には出すよ。まだ朝だろ」

    「朝のうちに聞いておかないと、
    また昨日みたいに夜八時に来るので」

    「昨日は急な客先対応が入ったんだよ。
    お前だって知ってるだろ」

    「知ってますけど、それとこれは別の話です」

    それとこれは別、という言い方が、
    亮太にはどうしても引っかかる。
    状況や事情を全部切り離して、
    自分の決めたペースだけを守る。
    それが桐谷のやり方だった。

    三十九歳。あと一年で四十になる。

    そう数えるたびに、
    亮太は小さくため息をついた。
    仕事の方は順調とは言えないが、
    不調というわけでもない。

    ただ、桐谷との打ち合わせがある日は、
    決まって疲れが二割増しになる。

    ⸝

    午後の企画会議で、案の定また衝突した。

    新しいキャンペーンの進め方について、
    亮太は「もう少し他部署の意見も聞いてから決めたい」と発言した。
    営業先の反応、サポート部署の負荷、
    広報のスケジュール。
    全体を見渡してから動きたいというのが、
    亮太のやり方だった。

    桐谷はすぐに反応した。

    「それ、結局誰も決めないってことですよね。自分の数字に直結する部分だけ先に詰めさせてもらえません?」

    「いや、そこだけ先に進めると、
    後で他の部署との整合性が崩れるから」

    「崩れたら、
    その時直せばいいじゃないですか」

    「直すコストの方が高いだろ、普通に考えて」

    「普通って誰の普通ですか」

    会議室が一瞬、静かになった。
    隣の課長が小さく笑いながら、
    「まあまあ」と割って入る。
    いつものことだった。

    亮太は、全体の流れを見て、関係する人たちの顔を思い浮かべながら動く。
    桐谷は、自分の担当範囲だけを見て、
    必要なところだけ速く動く。

    どちらが正しいというわけでもないのは、
    頭ではわかっている。
    それでも、
    毎回腹が立つことに変わりはなかった。

    「もっと周りを見ろよ」と亮太は思う。

    「もっと自分の仕事に集中してください」
    と、桐谷は思っているに違いない。

    その日も、結局、
    二人は同じ結論にたどり着くのに、
    いつもより一時間多くかかった。

    ⸝

    帰り道、亮太は一人でラーメン屋に寄った。
    土曜以外は、たいてい一人で食事を済ませる。

    家に着くと、
    誰もいない部屋の電気をつける。
    この生活にはもう慣れている。

    慣れているはずなのに、
    ふと、
    慣れたくなかった自分を思い出すこともある。

    合コンにも婚活パーティーにも、
    もう何年も行っていない。
    行っても、
    趣味の合う相手にはまず出会えなかった。
    好きなロックバンドの話をすると「珍しいですね」と苦笑いされる。
    読書の話をすると、話題が続かない。
    そのうち、趣味の合う人間と巡り合うことなど、最初から期待しないようになった。

    二十代の頃は単純だった。
    顔が好みで、話していてドキドキすれば、
    それで十分だった。今は違う。

    ——この人と、毎日の生活を想像できるか。
    ——無理をしなくても、隣にいられるか。
    ——清潔感があるか。
    ——お互いの距離を守れるか。

    そういう問いを、出会った瞬間に頭の中で勝手に処理してしまう。
    そして大抵、答えは出ない。

    ⸝

    その夜も、布団に入ったまま、なんとなくスマホでnoteをスクロールしていた。

    何かを探していたわけじゃない。
    ただ、一人の部屋の静かさに耐えられなくて、指が勝手に画面を滑らせていた。

    ひとつの記事に目が止まったのは、
    ほとんど偶然だった。

    タイトルは覚えていない。
    ただ、文章のリズムに引かれた。

    一文目を読んだ瞬間、
    なぜか続きを読まずにはいられなかった。
    句読点の打ち方、文章の長さの揺らぎ、
    間の取り方。
    同じ呼吸をしているように感じた。

    読み進めるうちに、
    亮太は妙な感覚に包まれていく。

    文中に出てきたドラマの名前に、
    思わず指の動きが止まった。

    高校時代から十数年、
    誰と話してもピンとこなかった、
    あのドラマだった。

    スクロールする手が、
    少し震えた気がした。

    次の段落には、好きな作家の名前。
    さらに下には、亮太が大学時代に何度も読み返した小説のタイトルが、当然のように並んでいた。
    引用されている小説も、
    亮太の本棚に並んでいるものだった。

    それだけなら、趣味が合う人間がいた、
    という話で済んだかもしれない。

    だが、違ったのは、
    書かれている「考え方」だった。

    愛について書かれた一節があった。
    それは、恥ずかしくて亮太が誰にも言葉にしたことのない感覚を、そのまま文字にしたようなものだった。

    思わず、涙が流れた。
    何に対する涙かはわからない。

    分かり合えるかもしれない人を見つけたこと。
    まるで、自分の頭の中を誰かに覗かれて、
    そのまま書き出されたような言葉。

    「こんな人が、本当にいるんだ」

    声には出さなかったが、
    画面の前で呆然とした。
    部屋の電気を消すタイミングを、
    すっかり忘れていた。

    気づけば、過去の投稿を遡って読んでいた。

    最初の投稿は、三年以上前のものだった。
    読み終える頃には、
    外がうっすら明るくなっていた。

    仕事のある日だったことを、
    その時はもう忘れていた。

    ずっと探していて、
    もう諦めていたはずの何かが、
    画面越しに出会えた。

    勇気を出してコメントを送った。
    『キノコの子さん初めまして、
    記事を読ませていただきました。
    懐かしいドラマの感想に当時を思い出しました。感想も自分と似ていて驚きです』

    『アナモグラさんコメントありがとうございます。あのドラマ誰に話しても知らないですよね。その後にやってたドラマは有名なのに。
    私は断然こっちが好きでした。
    他の記事も読んでいただけると嬉しいです』
    返事が来た。

    (いや、もう全部読んだよ)

    と、心の中で突っ込んだ。
    ニヤけている口には気付かずに。

    それから記事を読み続けた。
    自分の記事にもコメントをもらえるようになった。
    初めてのコメントは三度も読み返して、
    返信も何度も読み返して送った。
    毎日記事を確認して、
    新しい記事がないかを探した。

    記事は出てすぐ読んだが、
    スキとコメントは少し遅く送った。
    すぐに返すとずっと見ているのがバレて、
    嫌がられるかもしれない。
    コメントも何度も読み返して、
    当たり障りのない発言を選んだ。
    それでも、
    しっかり共感と称賛は残して。

    そのうち、
    コメントのやり取りだけではもどかしくなってきた。

    『もっと、話したい』

    あるアカウントで、
    LINEで触れ合う場を作ったという投稿を見た。

    話合うだけならと思い、悩み抜いた結果、
    匿名でのチャットに誘ってみた。

    関係が終わるかも知れない恐怖と不安が指を振るわせる。

    ただ、忘れていた感覚だった。

    好きな女の子に声をかける時。
    告白の時。
    初めてのデートで手を握る時。

    あの時の胸の鼓動が蘇ったようだった。

    『もし、宜しければ、
    匿名でチャットしませんか?
    ここまで、気の合う方と出会えたのは初めてで、少しのぼせているのは、自分でもわかっているのですが、どうしてもお話したくて』

    待っている時間が途方もなく、長く感じた。

    突然、時計の針が遅く感じ、
    自分だけ異空間に取り残された感覚になった。

    何をしたらいいかもわからない。
    携帯を開いては閉じを繰り返した。
    出るはずのないトイレに行き、
    テレビをつけては消し、
    読みかけの小説の同じ所を何度も読んだ。

    携帯を開いては閉じる動作がルーティン化した頃、返信が来ていたが指が動作を繰り返したため、一度やり過ごしてしまった。

    急いで開こうとして、
    携帯を落としてしまった。

    落とした携帯を慌てて拾い、
    何度も上にスライドして開いた。

    『ご連絡ありがとうございます。
    私も同じ気持ちでした。
    よろしくお願いします』

    年甲斐もなく飛び跳ねた。
    大声こそ我慢したが、
    最初の『よッ!!』だけは漏れ出た。

    二人は、本名を名乗らないまま、
    匿名のLINEを作って話すようになった。

    最初は映画の感想だった。
    次第に、仕事の悩み、将来への不安、
    誰にも言えなかった本音まで、
    言葉を交わすようになっていった。

    会社では、桐谷との小さな衝突が、
    相変わらず日課のように続いていた。

    「この資料、また説明が長いですね。
    結論だけ先に言ってもらえます?」

    「全部の前提を説明しないと、
    誤解されるだろ」

    「誤解されたら、
    その時説明すればいいじゃないですか」

    そんな会話を交わした帰り道、
    亮太はスマホを開き、
    その日あった出来事を、誰にも言わずに、
    匿名LINEの相手にだけ打ち明けた。

    『今日も、
    職場で噛み合わない奴と一日中やり合ってた』

    返事はすぐに来た。

    『わかります。
    そういう人、いますよね。
    価値観が違いすぎて、
    何を言っても伝わらない』

    亮太は、その言葉に深く頷いた。

    画面の中の誰かとは、
    何もかも分かり合えている気がした。

    画面の外の桐谷とは、
    何ひとつ分かり合えないと思っていた。

    ——その二人が、同じ人物だとは、
    まだ知らないまま。

    夜、スマホの画面を見つめながら、
    亮太は何度も思った。

    ——この人と会いたい。


    # 第二話 一緒で違った


    約束の土曜、
    亮太は指定された場所の近くまで来ると、
    足を止めた。

    アラフォーになって、
    ネットで知り合った相手と実際に会う。
    それがどれほど危険を伴うか、
    わからないほど子供ではない。

    「遠くから様子だけ見て、変な人だったら、
    声をかけずに帰ろう」

    そう決めて、待ち合わせ場所から少し離れたところにある喫茶店に入った。
    窓際の席に座れば、
    待ち合わせ場所の時計台が、
    ちょうどよく見えた。

    約束の時間まで、まだ十五分ある。

    亮太はコーヒーを一口飲み、
    スマホを握りしめたまま、窓の外を見つめた。

    ⸝

    約束の時間になった。
    目印はグレーのカーディガン、
    黒い鞄、
    メガネ。
    呪文のように頭の中で反芻して、
    待ち合わせの場所を見た。

    時計台の下に、誰もいない。

    ——まだ早いだけだろう。

    五分後。

    やはり誰もいない。

    スマホを確認する。
    既読はついているのに、メッセージは来ない。


    十分が過ぎた。

    亮太の胸の中で、
    何かが冷えていく感覚があった。


    ——やっぱり、来ないのか。

    ドタキャンされた、という可能性が、
    頭の中で急に重みを増していく。

    これまでのやり取りは、
    全部、
    何だったんだろう。

    本名も顔も知らない相手に、
    ここまで気持ちを傾けていたことが、
    急に恥ずかしくなった。

    それでも、

    もう少し待ってみようと思った。

    ⸝

    十五分が過ぎ、
    二十分が過ぎても、
    時計台の下には誰も現れなかった。

    服装が少し違う人影を見るたび、
    『あれがそうか』と思って目で追った。

    ベンチに座った中年の女性。
    亮太は思わず身構えたが、
    すぐにスマホで誰かと話しながら去っていった。

    近くを行き来する女性。
    何度も時計を見ている。
    もしかして、と思ったが、
    彼女もすぐに別の方向から来た連れと合流して、笑いながら歩いていった。

    亮太は、自分が場違いな探偵のような気分になっていることに気づいた。

    ——こんなことをしてる自分が、滑稽だな。

    そう思いながら、
    視線を時計台から店内に戻した時だった。

    少し離れた席で、同じように窓の外をじっと見ている人物がいることに、ようやく気づいた。

    ⸝

    最初は、気にも留めなかった。

    だが、その人物の視線の先が、自分とまったく同じ場所——時計台の下——だということに気づいて、亮太の動きが止まった。

    ——まさか。

    横顔に、見覚えがあった。

    何度も顔を合わせている相手。
    何度も意見をぶつけ合ってきた相手。

    営業二課の、桐谷だった。

    桐谷もまた、窓の外を見ながら、
    誰かを待っているような顔をしていた。
    スマホを握ったまま、時計台を見つめ、
    それから店内の時計に目を移す。

    亮太は、しばらく状況が理解できなかった。

    ——なんで、桐谷がここにいるんだ。

    ⸝

    思わず持っていた鞄で顔を隠した。

    余計怪しい光景になったろう。

    それでも、そんなことを気にする余裕は、
    もうなかった。
    頭をフル回転させていた。

    最初に浮かんだのは、ただの偶然だ、
    という言葉だった。

    桐谷だって休日は出かけるだろう。
    たまたま同じ店に、
    たまたま同じ時間に来ただけ。
    そう思おうとした。

    だが、視線の先がおかしい。
    桐谷の目は、亮太と同じように、
    時計台の下をじっと見ている。
    スマホを握ったまま、
    何度も時計台と店内の時計を見比べている。

    ——いや、まさか。

    亮太は、もう一度、
    自分に都合のいい説明を探した。

    待ち合わせの相手を、たまたま同じ場所で待ってるだけかもしれない。
    営業先の客と、ここで会う約束をしてたのかもしれない。
    何か、もっと普通の理由が、
    絶対にあるはずだ。

    そう思おうとするたびに、
    頭の中で別の声がした。

    ——お前、本当にそう思ってるのか。

    手が小さく震えていた。
    鞄を持つ手に、力が入りすぎている。

    亮太は、もう一度、桐谷の様子を確認した。グレーのカーディガン。
    黒い鞄。
    脇に置かれたメガネケース。

    何かの間違いであってほしい、と思った。

    だが、自分のスマホを見れば、
    答えはすぐそこにある。

    亮太は、震える指で、文章を打った。
    何度も打ち直した。
    送信ボタンを押すのに、
    思っていたより時間がかかった。

    『すみません、今どちらですか?
    時計台のあたりには誰もいないように見えるんですが』

    送ってしまった後、亮太は、心のどこかで、
    まだ祈っていた。

    ——既読がつかないでくれ。
    返事が来ないでくれ。

    向こうの席で、桐谷がスマホを取り出した。
    画面を見る。

    亮太の喉が、急に渇いた。

    桐谷が、ゆっくりと顔を上げた。
    店内を見渡し始める。

    ——頼む、こっちを見ないでくれ。

    そう思った瞬間、視線がぶつかった。

    亮太は、思わず目を逸らした。
    逸らした先で、
    もう一度、
    視線がぶつかった。

    今度は、逸らせなかった。

    ⸝

    桐谷の表情が、徐々に変わっていく。

    驚き、それから疑い、それから——確信。

    亮太の頭の中で、あらゆる可能性が、
    まだ消えずに残っていた。
    人違いかもしれない。
    何か別の説明があるかもしれない。

    今からでも、店を出れば——

    スマホをポケットにしまい、
    桐谷が席を立った。
    それに合わせて、亮太は少し後ずさった。

    桐谷はテーブルに向かって、
    迷いのない足取りで歩いてくる。

    逃げ場を探したが、もうどこにもなかった。
    迫り来る脅威から逃れるように、
    亮太はただ身構えることしかできなかった。

    血の気が引いていくのを感じた。

    「……佐伯さんて、アナモグラさんですか?」

    亮太は、ゆっくり目を閉じた。
    そこに立っているのは桐谷に似た別の女性かもしれないと思い、
    もう一度ゆっくり目を開いた。

    だが、
    紛うことなき、本人がそこにいた。

    「お、お前が……キノコの子さんなの?」

    亮太の頭の中で、
    何かが音を立てて崩れていく感覚があった。

    文章のリズムも、好きな小説も、
    本棚に並んでいたタイトルも、
    こいつのものだったということ。

    仕事では、
    これ以上ないほど噛み合わない相手。

    その人物が、ネットの向こうで唯一、
    心を通わせたと思っていた相手だった。

    ⸝

    「先に言っておきますけど、
    私もここに来てから、誰も来ないんで、
    ずっとこの店で観察してたんです」

    「俺も同じだよ……お前を待ってたとは、
    思わなかったけど」

    「待ち合わせ場所、結局誰も来ませんでしたね」

    「そりゃ、お前がここにいたんだから、
    当然だろ」

    桐谷は気まずそうに笑い、
    それから諦めたように肩をすくめた。
    向かいの席に、許可も取らずに座る。

    「とりあえず、座らせてもらいますね」

    亮太は半分放心したまま、
    それを止める気力もなかった。

    しばらく、
    二人とも何を話せばいいのかわからず、
    コーヒーをかき回すだけの時間が続いた。

    口を開いたのは桐谷だった。

    「せっかくここまで来たんで、
    飲みにでも行きませんか。
    このまま帰るのも、
    なんか変な感じがするので」

    亮太は迷ったが、結局頷いた。

    ⸝

    初めは、
    ぎこちない会話だった。

    だが、お互い、飲むしかないと、
    今日のモヤモヤを打ち払うように飲んだ。
    そこからは早かった。

    もともと、LINEでは通じ合っていたんだ。
    会話は止まらなかった。
    好きな映画、
    好きな小説、
    配信ドラマの感想。
    仕事中には一度も話したことのない話題が、
    いくらでも出てきた。

    「正直、佐伯さんの事嫌いでした」
    と桐谷は笑いながら言った。

    「ぶっちゃけ過ぎだろ」

    「なのに、ここまで似てるなんて、
    まだ知らない人っているんですね」

    「俺もわかった気になってたよ。
    不思議だよな、本当に」


    自分がこんなに饒舌だなんて、知らなかった。 

    本当に。

    ⸝

    タクシーを降りると、
    桐谷はまともに歩けなくなっていた。
    呂律も怪しかったが、
    自身の醜態を恥じる様に、
    根性で意識だけは保っているようだった。

    「だいじょうぶれす……
    ひとりで、かえりゅので……」

    「学生じゃあるまいし、送るよ、家まで」

    エレベーターの中でも、
    玄関の前でも、
    桐谷は壁に寄りかかったまま、
    目を開けていられないようだった。
    合鍵の場所を聞き出し、
    なんとか部屋の中に入れる。

    女性の部屋に上がることに、
    多少の気後れがなかったと言えば嘘になる。
    それでも、このまま外に置いていくわけにもいかなかった。

    なんとかベッドに桐谷を寝かせて、
    ふと横を見た瞬間、思わず足が止まった。

    本棚が目に入ったからだった。

    好きな作家の小説が、何冊も並んでいる。
    亮太が大学時代に読み込んだ漫画も、
    同じ巻数まで揃っていた。

    「これ……ほぼ俺の本棚と同じだ」

    思わず声に出ていた。返事はない。
    桐谷はもう、寝息を立てていた。

    ⸝

    月曜の朝、会社に来た桐谷は、
    明らかに辛そうだった。

    いつもなら朝一番に声をかけてくる桐谷が、
    亮太のデスクの前を素通りした。
    亮太も、何を話せばいいのかわからず、パソコンの画面に必要以上に集中するふりをした。

    「火曜の定例の資料、まだですか」
    いつもの口調で聞かれたが、声に、
    いつもの勢いがなかった。

    「今日中には出すよ」
    「……お願いします」
    それだけで、会話は終わった。

    会議でも、
    二人は不自然に視線を合わせなかった。
    これまでなら、何か一つ意見が違えば、
    すぐに言い合いになっていたはずだった。
    だが、その日は、
    桐谷が何も言わずに頷いて終わった。
    亮太も、いつもなら指摘していたはずの細部を、わざと大目に見て流した。

    ——お互い、
    何を話していいかわからないんだ。

    すぐに打ち解けられるはずがなかった。
    一番心を許せると思った相手が、
    こんなに近くにいたこと。

    しかも、犬猿の仲だと思っていた相手が、
    その正体だったこと。

    亮太の中で、
    まだ気持ちの整理がつかなかった。

    それは、
    桐谷も同じだったはずだ。

    ⸝

    そんな気まずい数日が続いたある夜、
    亮太のスマホに、
    匿名LINEのアカウントから連絡が来た。

    『会社では、なんかうまく話せないですね』

    亮太は、しばらく画面を見つめてから、
    返信した。

    『俺もそう思ってた』

    『この前のあれは、
    なかったことにした方がいいですか』

    その問いに、亮太は迷わず返した。

    『いや。なかったことには、したくないな』

    しばらく、既読のままだった。

    『今度の土曜、また会いません?
    会社の外で』

    『わかった』

    その日は飲みに行く気にもなれず、
    近くにあったカラオケに行くことにした。

    桐谷が選んだ曲は、
    亮太が大学時代に好きだったバンドのものだった。
    記事の中では一度も出てこなかった名前だった。

    「お前、これ知ってるのか」
    「知ってるどころか、全アルバム持ってますよ」
    「俺と趣味が完全に同じじゃないか……」

    音楽の趣味まで一致していたとは。

    「誰に話しても、
    知らないって言われるんですよね」

    「そりゃそうだろ。世代が違う」

    桐谷が少し笑った。
    それきり、しばらくまた黙って歩いた。

    信号待ちで足を止めたとき、
    亮太は少し迷ってから、口を開いた。

    「最初にお前の記事を読んだ時、
    あのドラマの感想が出てきただろ」

    「はい」

    「あれで、全部吹っ飛んだんだよ」

    桐谷が、少し驚いた顔で亮太を見た。

    「小説も、バンドも、
    全部後からついてきたおまけみたいなもんで。

    あのドラマの感想が、
    お前と俺で同じだったこと。

    それが一番デカかった」

    「……そうだったんですか」

    「あのドラマが俺の根底みたいなもんで。
    それが一緒だったから、
    今までの孤独感が吹っ飛んだんだ」

    「わかります…」

    「あんなもん好きだから、
    この歳まで拗らせたんだろうけどな」

    「やめてください、私も好きなんだから」

    「そっか、ごめん」

    信号が変わって、
    また歩き出した。

    しばらく無言だったが、
    今度は亮太の方が沈黙を破らなかった。

    口を開いたのは桐谷だった。

    「愛について書いた記事、覚えてます?」

    「……ああ」

    「あれ、結構勇気いったんですよ。
    誰にも見せたことなかったから」

    「俺も、読んだ時びっくりした。
    恥ずかしくて誰にも言えなかったことを、
    そのまま書かれてる気がして」

    桐谷は、しばらく何も言わなかった。
    街灯の下を、二人で通り過ぎた。

    「私も、同じこと思いながら書いてました」

    「あの小説の感想にコメントくれたの、
    覚えてます?
    あれ、嬉しかったんです。
    大切な小説だったから、
    わかってもらえたって思えて」

    「そうだったんだな」

    桐谷は少し俯いて、
    それから独り言のように言った。

    「こんなおばさんが、
    何言ってんだって感じですけどね。
    ……物語の主人公にはもうなれないんだろうなって思ってた時に、noteを始めたんです」

    「十分主人公だろ。
    こんだけ趣味の合うやつと出会えたんだから」

    「悲劇のヒロインになりそうで怖い」

    「どんだけ悲観的なんだよ」

    亮太は呆れたように笑った。
    桐谷も釣られて笑う。

    ——こいつと、
    今まで七年も同じフロアにいたのか。

    そう思うと、なんだか不思議な気がした。
    毎週顔を合わせて、毎回意見をぶつけ合って。
    その間ずっと、
    同じバンドを好きだったことも、
    同じ小説を読んでいたことも、
    知らないまま過ごしていた。

    改札が見えてきたところで、
    桐谷がぽつりと言った。

    「今日、会えてよかったです」

    「俺も」

    それだけだった。

    改札の前で、桐谷が「じゃあ、また」と言った。

    「また」

    改札を抜けながら、
    亮太は一度だけ振り返った。
    桐谷はもう、
    反対方向のホームへ向かって歩いていた。

    ——会社で顔を合わせた時、
    どんな顔をすればいいんだろう。

    そう思いながら、
    ホームへ降りる階段を下りた。

    電車の中、吊り革を握りながら、
    亮太はぼんやりと考えた。

    「誰に話しても、知らないって言われる」

    桐谷があの時言った言葉が、
    なぜかずっと頭に残っていた。

    俺も同じだった。

    ずっと同じだったのに。

    ⸝

    それから、
    亮太は何度も桐谷と会うようになった。

    会うたびに、共通点が増えていく。
    好きな漫画家の話をすれば、
    桐谷はその人のデビュー作まで知っていた。
    昔好きだったアニメの話をすれば、
    桐谷も同じ場面で泣いたと言った。
    何を出しても、同じ温度で返ってくる。

    「こんなに話が合う人間に、
    今まで会ったことがない」

    その言葉を、
    亮太は何度も口にするようになった。
    最初は軽口だったはずなのに、
    言うたびに、
    自分でもその重みに気づいていった。

    二十代の頃から、ずっと探していた。
    趣味の合う相手。
    話していて疲れない相手。
    何を言っても「わかります」と返してくれる相手。
    合コンでも、
    婚活パーティーでも、
    見つからなかった。
    見つからないまま、
    いつの間にか四十手前になっていた。

    ——どうせ、自分の趣味に付き合ってくれる人なんていない。

    そう思って、半分諦めていたはずだった。
    その諦めが、桐谷と過ごす時間の中で、
    静かに崩れていくのを感じた。

    休みの日に二人で本屋に寄れば、
    同じ作家の新刊を、
    同じタイミングで手に取った。
    配信ドラマを見れば、
    同じ場面で同じことを言って、
    同じところで笑った。
    「俺たち、趣味が合いすぎて、逆に怖いな」
    「そうですね。
    こんなに合う人、
    もう二度と現れない気がします」

    これまで感じていた孤独感が、
    まるで嘘だったみたいに思えた。
    合コンに何度も行って、
    誰とも話が続かなかった夜。
    趣味の話をして、苦笑いされた経験。

    そういう時間が、ずっと自分にまとわりついていた気がしていたのに、桐谷と過ごす時間の中では、それがどこにも見当たらなかった。

    「俺、ずっとこういう人を探してたんだと思う」
    「私もです」

    二十代の頃なら、「可愛い」「綺麗」「スタイルがいい」を重視していた。
    アラフォーになった今、それよりも、何を話しても通じ合える、この感覚の方が、ずっと重みを持つようになっていた。

    そして気づいた。
    こんなに分かり合える人間と、
    もう一度出会えるとは思えない。

    この人を逃したら、もう、
    こんな相手には会えない。
    そう思った瞬間、
    これまでの孤独な時間のすべてに、
    意味があったように思えた。

    ⸝


    それから半年ほど、二人は会社では相変わらず小さな衝突を繰り返しながら、プライベートでは少しずつ距離を縮めていった。

    ある三連休、二人は思いつきで、
    一泊だけの小さな旅行に出た。
    行き先は、
    二人が好きな作家の記念館がある、
    地方の小さな町だった。

    「こんなところまで来る人、
    なかなかいないですよね」

    「俺たちみたいなのが、二人もいるんだから、十分だろ」

    記念館を出たあと、海沿いの道を、
    特に目的もなく歩いた。
    夕方の光が、
    桐谷の横顔をオレンジ色に染めていた。

    「こういう時間、いいですね」と桐谷が言った。

    「ああ」

    「私、こういう何でもない時間が、
    一番好きかもしれません」

    「俺も」

    しばらく黒い波の音だけが続いた。
    桐谷が、
    ふと、
    誰に言うでもないように呟いた。

    「こういう旅行、これから先も、
    ずっと続けられたらいいですよね」

    「ずっと、って」

    「いえ、深い意味じゃないです。
    ただ、こういう時間が、
    来年も、再来年も続いたらいいなって、
    思っただけです」

    亮太は、何も答えなかったが、その言葉が、思っていたよりずっと長く、
    自分の中に残っていることに気づいた。

    ⸝

    その旅行から帰ってきて、
    しばらく経ったある夜、
    桐谷が静かに切り出した。

    「私、中途半端な関係は嫌なんです」

    「……ああ」

    「覚悟が欲しいです。
    正直、子供も欲しくなってきました。
    とことんまで付き合ってくれる覚悟、
    ありますか?」

    亮太は、しばらく黙っていた。
    それから、まっすぐ桐谷の顔を見た。

    「俺の仕事の何を見てきたんだよ」

    「は?」

    「俺は、責任感の塊だぞ。
    一度決めたことは、
    最後までやる」

    桐谷は少し笑って、それから小さく頷いた。

    「じゃあ、見てますね。最後まで」

    その言葉に、亮太も頷いた。

    仕事では一番やりにくい相手。

    それでも、
    人生を共にすると決めた相手だった。

    # 第三話 違って一緒だった


    結婚式は、神前式で、古い料亭で、
    ごく身内だけのささやかなものだった。

    それでも、
    お互いの両親はおおいに喜んでくれた。
    父なんかはもう歳なのに、
    酒を飲み過ぎて倒れていた。
    母は桐谷の手を握りながら、
    兄が引き剥がすまでありがとうを言い続けた。

    桐谷の両親も歓迎してくれた。
    とても暖かいご両親で、恐縮してしまった。

    流行りの動画もない、感謝の手紙もない。
    でも、ただただみんなが喜んでいる。
    幸せな時間だった。

    新婚旅行は温泉にいった。
    ただゆっくり過ごすだけの。

    夜、温泉街を二人で歩いて、笑い合った。

    コレからも幸せが続いていく。
    そう思える旅行だった。

    だが、新婚生活が始まると、亮太と桐谷は、相変わらず噛み合わない部分が多かった。

    亮太は家計簿をつけ、
    月ごとの支出を細かく見直したがる。
    桐谷は「気にしすぎ」と言いながら、
    使うときは使う。
    亮太が将来の計画を立てたがると、
    桐谷は「その時々で考えればいい」と笑う。

    趣味は驚くほど合っていたのに、
    暮らし方の感覚は、結婚してみると、
    やはり水と油のままだった。

    それでも、大きな喧嘩にはならなかった。
    生活費の使い方くらいなら、
    「まあ、いいか」で済む話だった。

    ⸝

    お互い、歳を重ねていたため、
    結婚してすぐ病院に行き、検査を受け、
    不妊治療が始まった。

    意外なことに、このことに関しては、
    二人はほとんど揉めなかった。

    「子供が欲しい」という方向は、
    最初から完全に一致していた。
    亮太は、
    タイミングやサプリメントの管理を行い。
    桐谷は、
    結果がうまくいかない日も、
    「今日はだめだったけど、次がある」と、
    必要以上に沈み込まなかった。

    流産をした時、
    亮太が落ち込み、
    一度休もうかと提案した。
    だが桐谷は、「次、頑張りましょう」と、
    淡々と前を向いていた。
    くよくよしている時間は無いと言わんばかりに、辛そうな所は亮太には見せず、
    にへらと笑ってみせた。

    その晩は亮太は先に風呂に入り、
    桐谷は見たいテレビがあるからと言って、
    亮太は先に寝室に入った。

    布団に入っても寝付けず、
    深夜を過ぎて桐谷が寝室に入ってきた時も、
    まだ起きていた。

    だが、
    背中にそっと額を当てる桐谷に、

    声をかけることはできなかった。

    それでも、
    向いている方向が同じだったから、
    やり方の違いは、むしろちょうど良く、
    二人で支え合いながら、なんとか頑張れた。

    三年目に、ようやく子供を授かった。

    検査薬で陽性が出た時、
    二人は静かに喜びあったが、
    必要以上に喜ばなかった。

    一ヶ月一ヶ月過ぎるたびに、
    階段を登るように喜んでいた。

    大丈夫、大丈夫。
    ゆっくりでいいんだよ、と。

    二人でお腹の子供に、語りかけた。

    逆子と、少し高齢だからと帝王切開になった。
    病院の待合室で
    「ここまで来たんですね」と桐谷がつぶやいた。

    「ああ、ここまで来た」

    その言葉には、
    心の隅にある影から目を背け、
    ただただ歩みを進めた日々が、
    全部詰まっていた。

    ⸝

    出産は呆気ないほど、すぐに終わった。

    帝王切開というのもあり、
    あっという間だった。
    どこか不思議な感覚だった。

    ドラマや映画のような爆発的な感情ではなく、
    じんわりと体に広がるような感覚だった。

    目が離せなかった。

    我が子が今生まれたんだ。

    一人目という事もあってか、全て楽しかった。
    沐浴も、ミルクも率先してやった。
    もちろん、寝る時間は減ったが、
    これまでの事を考えると、
    喜びの方がまさっていた。

    すぐ帰ってはお腹の上に乗せたり、
    抱っこしたり、
    寝ている時以外は子供と関わっていた。
    抱っこ紐をつけて、
    周りの散歩にも出かけた。
    何もかも順調に思えた。

    この子と色んな思い出を作っていこう。
    どうせ父親なんて、
    すぐに見向きもされなくなるんだ。
    それまで。

    そう、それまで。

    しかし、本当の物語は、ここから始まった。
    少しずつ違和感が出てきた。

    発達検査の時、普通の子が出る反応が出ない。
    少し視線が合いづらい。

    確信に変わったのは、言葉が遅れていて、逆さバイバイをし始めた頃だった。
    言葉ではなく、
    手を引いて要求してくるところも。

    子供には、発達に特性があった。
    少し成長してから、診断がついた。

    不妊治療のときとは、何かが違っていた。

    「子供が欲しい」という同じ方向を向いていたあの頃と違い、今度は「この子をどう育てるか」という問いに、二人はそれぞれ、自分なりの答えを持ってしまっていた。

    ⸝

    診断がついた日。

    二人とも、医師の言葉を聞きながら、どこか現実感がなかった。

    「お子さんには発達の特性があります」

    その言葉を、頭では理解していた。

    今までの違和感。
    視線が合いづらいこと。
    言葉が遅れていること。
    周りの子と少し違う反応。

    全部が一本の線につながったような気がした。

    それなのに、胸に浮かんだのは悲しみだけではなかった。

    むしろ、少しだけ安心している自分がいた。

    理由が分かったからだ。

    何となく感じていた違和感に、名前がついた。

    でも、家に帰って子供の寝顔を見た瞬間、その安心感は消えた。

    名前がついたところで、この子の未来が分かるわけではなかった。

    ⸝

    亮太は、その日から調べ始めた。
    「この子はどうなるんだ?」
    「今どの状態なんだ?」
    「一生喋れないのか?」
    「社会的に出れるのか?」
    SNSには、様々な情報が飛び込んできた。
    画面には、まだ見ぬ未来の言葉が並んでいた。
    まだ、よくもわからない情報が飛び交い混乱した。

    ——このままじゃ、何も分からないまま不安だけが増える。

    不安をかき消す様に専門書を読み漁った。
    発達特性について書かれた本。
    療育の方法。
    支援制度。
    専門家の記事。

    仕事から帰ると、子供が寝た後のリビングで、
    スマホの明かりだけをつけて画面を眺めていた。

    少しでも早く知れば。
    少しでも良い環境を作れば。

    この子が困ることを減らせるかもしれない。

    そう思った。

    でも、調べれば調べるほど、
    不安は増えていった。

    将来、学校で困らないだろうか。
    友達はできるだろうか。
    大人になった時、

    一人で生きていけるだろうか。

    まだ幼い我が子に、
    まだ起きてもいない未来を重ねてしまう。

    「今を見ろ」

    そう思う自分もいた。

    目の前では、いつも通り笑っている。

    お気に入りのおもちゃを握って、
    楽しそうに遊んでいる。

    それなのに、
    頭の中では何年も先のことばかり考えていた。

    父親なのだから、考えなければいけない。

    そう思うほど、今この瞬間を楽しめなくなっている自分に気づいた。

    ⸝

    一方、桐谷は違った。

    桐谷は毎日、子供と一緒にいる時間が長かった。

    朝起きた時の顔。
    眠そうに目をこする仕草。
    嬉しい時の笑い方。
    嫌な時にする表情。

    亮太が知らない小さな変化を、桐谷はたくさん知っていた。

    だからこそ、怖かった。

    この子は、この子なのに。

    周りは、この子を「できる」「できない」で見るようになるのだろうか。

    そんな不安があった。

    療育の話を聞くたびに、
    もちろん必要だと思う。

    この子が生きやすくなるなら、
    できることはしてあげたい。

    でも同時に、

    「この子を変えるため」になってしまわないだろうか。

    そんな怖さもあった。

    できないことをできるようにすることばかりに目を向けて、この子が今持っているものを見失ってしまわないか。

    桐谷は、寝ている子供の手を握りながら、
    何度も考えた。

    「この子は、このままで幸せなんだろうか」

    答えは出なかった。

    ⸝

    二人は同じ部屋にいて、同じ子供を見ていた。

    でも、見ている場所が違った。

    亮太は、未来を見ていた。

    この先、この子が困らないように。
    選択肢を少しでも増やせるように。

    桐谷は、今を見ていた。

    この瞬間、この子が安心して笑えているか。
    この子らしくいられているか。

    どちらも、間違っていなかった。

    でも、本人たちはそう思えなかった。

    亮太には、
    桐谷が何も考えていないように見えた。

    「今は大丈夫」と言われるたびに、
    「その先で困るのは、この子じゃないか」
    と思った。

    桐谷には、
    亮太が子供を受け入れていないように見えた。

    「もっとできるように」と言われるたびに、
    「今のこの子は足りないと言われている気がする」
    と思った。

    本当は二人とも、同じことを願っていた。

    この子が幸せでいてほしい。

    ただ、それだけだった。

    けれど、その願いに向かう道が違った。

    それが、二人の間に少しずつ距離を作っていった。

    ⸝

    ある日、亮太が桐谷に紙を渡した。
    どの療育施設が評判がいいか、どんな訓練が効果的とされているか、表にまとめた物だ。

    「来月から、ここの療育に通わせよう。週に三回。早期に始めるほど、伸びる可能性が高いって、いくつもの資料に書いてある」

    亮太にとって、それは正しい道筋だった。全体を見て、調べて、計画を立てて進む。これまでの人生で、何度もそうやってきた。

    桐谷は、その表を見て、少し顔をしかめた。

    「週三回って、この子にはまだ早くないですか。本人が嫌がってるのに、無理に通わせるのは違う気がします」

    「嫌がってるかどうかじゃなくて、今やらないと、後で取り返せないことがあるんだよ」

    「取り返せないって誰が決めたんですか。この子は、この子のペースでいいと思うんです」

    桐谷にも、自分なりの確信があった。
    比べない。急がない。
    この子をありのまま受け止める。
    それが、桐谷が決めた「正しさ」だった。

    ⸝

    二人とも、譲らなかった。

    それぞれが、自分の「理想の育て方」を、
    強い確信を持って掲げていた。
    そして、確信を持ったら最後まで押し進めるという性格は、二人とも、よく似ていた。

    「データを見ろよ。感覚だけで決めるなよ」

    「私はずっとこの子を見てます。
    ずっと一緒にいるんです。
    佐伯さんはこの子をちゃんと見てますか?」

    「見てるよ。誰よりも見てるから、調べてるんだろ。通勤電車の中でも、休憩時間でも、この子にできる事を探してるんじゃないか」

    「調べることが、
    この子を見ることにはならないですよ」

    「俺だって一緒にいたいけど、
    仕事があるんだよ!」

    「私だって調べたいけど、
    時間がないんです!」

    最初は数日に一度だった言い合いが、
    週に何度も起きるようになった。
    療育の方針、食事の管理、休日の過ごし方。何を決めるにも、二人は別々の「正解」を持ってきて、ぶつけ合った。

    不妊治療のときは、同じ方向を向いていたから、噛み合わない性格が、むしろ助け合いになった。

    今は、それぞれが違う方向の「正解」に向かって、同じくらいの強さで進もうとしていた。

    だから、ぶつかった。

    ⸝

    ある夜、亮太が療育施設のパンフレットを並べていると、桐谷が静かに言った。

    「もう、何も言わずに決めないでもらえますか」

    「決めてるんじゃない。提案してるんだよ」

    「提案のつもりが、いつも結論ありきじゃないですか。佐伯さんの中で、もう答えが出てるんですよね」

    「お前だって同じだろ。最初から、療育に反対って決めてるじゃないか」

    「反対じゃなくて、急ぎすぎだって言ってるんです」

    声が、次第に大きくなっていった。

    「俺は、この子のために、できることを全部やろうとしてるだけだ」

    「私も同じです。同じくらい、
    この子のことを考えてます」

    「だったら、なんで毎回反対するんだよ」
    「佐伯さんが、私の意見を最初から聞く気がないからです。こんなことなら、私……」

    「おい」

    亮太の声が、思っていたより大きく出た。

    「その先は、言うな」
    桐谷が、口を閉じた。

    「覚悟してるんだよ、俺は。前に言ったよな。
    何があっても、投げ出さないって」

    「……覚えてます」

    「なら、その言葉を、裏切らないでくれ」


    その夜、二人は、それ以上何も話さなかった。


    ⸝

    そんな夜が、何度も続いた。

    口を開けば言い合いになるから、
    次第に、必要なこと以外を話さなくなった。
    子供の世話は分担してこなしていたが、
    会話は事務的なものばかりになっていった。

    ある夜、仕事が遅くなって帰ってきた時、
    寝室で抱き合いながら眠る二人を見た。

    自分は何をしているんだ、と思った。

    大切な家族に、何をしているんだ、と。

    胸に広がる感情をどうすることもできず、
    二人を抱きしめた。

    起こさないように。

    ⸝

    それでも、次の日には
    また同じことを繰り返してしまう。

    ——なんで、また喧嘩になるんだ。

    子供を愛しているし、桐谷に不満もない。
    よく頑張ってくれている。

    それでも、
    子育てのことになると、喧嘩になる。

    そう思うたびに、
    その考えを自分で打ち消した。

    子供のせいにしているようで、嫌になった。
    子供は全てを捧げてもいい存在だ。
    障害の有る無しなんて関係ない。

    ありのままを愛している。

    桐谷もまた、
    同じことを感じていたのかもしれない。
    ある晩、子供を寝かしつけた後、桐谷がぽつりとこぼした。

    「あんなに頑張って、やっと巡り会えた、
    あの子の事で喧嘩すると辛くなるの。
    今、幸せなはずなのに、
    それを感じれないのが」

    「俺も、そう思うことがある」

    その言葉を、
    二人とも、

    しばらく黙って受け止めた。

    ⸝

    転機になったのは、何でもないような、
    ある日の出来事だった。

    療育施設の見学に、珍しく二人一緒に行く機会があった。

    担当の先生が、子供の様子を見ながら、
    こう言った。

    「お子さんのことを、
    よく見ていらっしゃいますね。
    お父さんは記録や情報をしっかり集めてくださってますし、お母さんは、お子さんの今の気持ちを誰よりも掴んでらっしゃる。
    両方、すごく大事なことなんですよ」

    その言葉に、亮太と桐谷は、同時に少し驚いた顔をした。

    帰り道、桐谷が先に口を開いた。

    「私たち、ずっと『どっちが正しいか』で喧嘩してましたよね」

    「うん」

    「でも、本当は、
    どっちも要るものだったんですかね」

    亮太は、しばらく黙って歩いた。

    「俺は、お前が反対するから、自分の考えを否定されてる気がしてたんだと思う」

    「私も、同じです。
    佐伯さんが計画を立てるたびに、
    私の感覚は無視されてるんだと思ってました」

    二人とも、強い確信を持って、
    自分の「理想」を掲げて進む性格だった。
    それは、趣味が合っていた頃には、
    ただの共通点だった。
    子供のことになると、その同じ性格が、
    互いを譲らせない壁になっていた。

    「データも、感覚も、
    たぶん両方必要だったんだよな」

    「そうですね。片方だけじゃ、足りなかった」

    しばらく、二人とも黙って歩いた。

    「こんな事言うと言い訳に聞こえるかもしれないけど、それでも。

    それでも俺はあの子の味方になれるのは、君と俺だけだと思ってたよ。

    何があっても、どんな事になっても。

    俺も、君も、絶対味方でい続ける。

    だから、頑張ってこれた」

    桐谷は、しばらく黙っていた。

    それから、ふっと笑った。

    「そうですね。

    私も、
    佐伯さんに負けるのはしゃくだったんで」

    「おい……」

    「嘘です。でも、あなたが頑張ってくれているのはわかっていましたから」

    「そうか」

    「だから、周りばかり見ずに、自分の事も、
    大切にしてくださいね」

    亮太は思わず、大声で笑った。
    いつも、仕事で言われている言葉が、
    今は心地よく聞こえたから。

    「お互いな」

    その日から、何かが少しずつ変わった。

    亮太が調べた情報を、桐谷にまず見せて、「これ、この子に合うと思う?」と聞くようになった。

    桐谷は、子供の様子で気づいたことを、
    亮太にこまめに伝えるようになった。

    「今日、療育で見た顔は、嫌がってる感じじゃなかったですよ」

    完全に喧嘩がなくなったわけではない。
    それでも、ぶつかった後に、お互いの理屈をもう一度聞こうとする時間が、少しずつ増えていった。

    ⸝

    ある休日、三人で近くの海まで足を延ばした。

    子供は波打ち際で、
    寄せては返す波をじっと見つめていた。
    同じ場所を何度も指差して、声をあげて笑う。

    靴を脱がせる間もなく、
    子供は靴のまま波の中に駆け出していった。

    「あ、こら!」

    亮太が追いかけようとした瞬間、
    足を取られて、思い切り尻もちをついた。
    子供がそれを見て、
    これまでで一番大きな声で笑った。

    「何やってるんですか」

    桐谷が笑いながら駆け寄ってきて、
    亮太を引き起こそうとした時、
    亮太が強く引っ張ってバランスを崩し、
    二人とも波に飲まれた。

    「ちょっと!何するんですか!」
    服はずぶ濡れになった。

    子供は、二人がびしょ濡れになって笑っているのを見て、また同じように笑った。

    それにつられるように、二人も笑った。

    家族みんなでこんなに大笑いしたのはいつぶりだろう。

    しばらく、水を掛け合って遊んだ。

    ⸻来てよかった。

    「この子の笑い方、好きだな」と桐谷が言った。

    「俺もだよ。本当に楽しそうに笑う」

    帰りの車の中、
    子供はチャイルドシートで眠っていた。
    波の音を思い出しているのか、
    寝ながら時々、
    小さく笑った。

    「今日、楽しかったですね」

    「ああ。楽しかった」

    特別なことは、何もなかった。

    ただ、波と、笑い声と、
    ずぶ濡れの服があっただけだった。

    それでも、二人にとっては、
    十分すぎる一日だった。


    # 第四話 
    それでも日々は過ぎていく


    下の子を身ごもった。

    高齢出産、遺伝等考えると、次に生まれる子供も発達の特性があるかもしれない。

    それでも、降ろすという選択は選べなかった。

    不妊治療に苦しんだ時期を考えると、自分たちの元に来てくれた命を、どうしても手放すことはできなかった。

    二人とも。

    「ある程度の知識はあるんだ、
    強くてニューゲームみたいなもんだろ」

    亮太はそんな軽口もたたいた。

    桐谷も、呆れながらも、意見は一致していた。

    ただ、この時はなめていた。
    心の準備はしていたが、
    想定を10倍超えてきた。

    ⸝

    生まれて三ヶ月。

    亮太は、朝起きた瞬間から疲れていた。

    夜中に何度も起こされる。

    下の子を抱きながら、泣き止ませる。

    やっと寝たと思ったら、今度は上の子が起きる。

    朝になれば、仕事の準備。

    上の子の療育の日は時間を調整して、
    帰宅後は家事。

    以前なら、仕事で疲れた日は帰ってからドラマを観る余裕はあった。

    合間に携帯で漫画をみたりもできた。

    それどころか、
    ご飯やお風呂にだってゆっくり入れない。

    今はテレビをつける余裕も、
    スマホを開く気力も無かった。

    それでも、不満を言う気にはならなかった。

    自分で望んだことだった。

    子供が欲しかった。

    家族を作りたかった。

    だから頑張れる。

    そう思っていた。

    ⸝

    でも、ある夜。

    下の子が泣き止まなかった。

    抱っこしても、歩いても、何をしても泣く。

    隣の部屋では、上の子が起きてしまっている。

    桐谷が上の子を寝かしつけている声が聞こえる。

    時計を見ると、もう深夜だった。

    亮太は暗いリビングで、
    下の子を抱いたまま立ち尽くしていた。

    その瞬間、頭の中に一つの感情が浮かんだ。

    「少しでいいから、一人になりたい」

    思った瞬間、自分が嫌になった。

    この子は何も悪くない。

    ただ泣いているだけだ。

    愛している。

    それなのに、
    逃げたいと思った自分が許せなかった。

    ⸝

    同じ頃、桐谷も限界に近づいていた。

    上の子の療育。
    下の子の授乳。
    家事。

    一日中、誰かのために動いていた。

    上の子が不安そうな顔をすると、
    すぐ気づいた。

    下の子の泣き方が少し違えば、
    何かあるのではないかと思った。

    ずっと子供を見ていた。

    でも、ある日。

    鏡を見た時、自分の顔に驚いた。

    髪は適当に結んだだけ。
    寝不足で目の下には隈ができている。

    「私、いつからこんな顔してたんだろう」

    そう思った。

    母親になったことを後悔したわけではない。

    子供たちは大切だった。

    ただ、少しだけ。

    「私自身」の存在が、
    どこかに消えている気がした。

    ⸝

    ある夜。

    二人とも疲れ切っていた。

    下の子は泣いている。
    上の子は眠れずに起きている。

    亮太がミルクを作りながら言った。

    「俺、今日無理かもしれない」

    桐谷は少し驚いた。

    亮太が弱音を吐くことは、ほとんどなかった。

    「……私もです」

    その一言で、二人とも黙った。

    今までなら、どちらかが支えていた。

    亮太が計画を立てる。

    桐谷が柔軟に対応する。

    それで何とかしてきた。

    でも、今は二人とも余裕がなかった。

    「俺、もっとできると思ってた」

    「私もです」

    二人とも、自分たちは大丈夫だと思っていた。

    大丈夫ではなかった。

    ただ、
    それでも、
    日々をこなしていった。

    ⸝

    数日後。

    上の子の療育へ向かう車の中。

    桐谷は、後部座席で嬉しそうに窓の外を眺める子供を見ていた。

    「今日は機嫌いいですね」

    「そうだな」

    信号待ちで、
    亮太はバッグから療育の連絡帳を取り出した。

    前回の記録を読み返し、
    家で気づいたことを書き足していく。

    その横で桐谷は、

    「今日は朝から鳥を見つけて喜んでたんです」

    と何気なく話した。

    亮太はペンを止めた。

    「それ、先生にも書いておこう」

    「え?」

    「家ではそういうところが好きなんだって、
    先生にも知ってもらいたい」

    桐谷は少しだけ笑った。

    「なんだよ、
    前は鳥や虫には興味を示さなかったんだ。
    いい事だろ?」


    「そうですね」


    ⸝

    ある朝。

    少し眠そうな顔で、亮太が言った。

    「今日、俺が上の子の療育連れて行く」

    「仕事、大丈夫ですか」

    「大丈夫ではない」

    桐谷は少し笑った。

    「昔なら、何とかするって言ってましたよね」

    「そうかな」

    「人に弱音は言わなかった」

    「こんな状態だ。言いたくもなるさ」

    「そうですね。大丈夫ではないですもんね」

    二人は笑った。

    まだ大変だった。

    余裕なんてない。

    これからも何度も限界は来る。

    それでも。

    日々を過ごしていく。

    今は、ちゃんと、

    幸せな瞬間も感じれるから。

    ⸝

    ある夜、子供たちが眠ったあと、
    二人はリビングで少しだけ話す時間を持った。

    「俺たち、子供が生まれてから、
    一番揉めたよな」と亮太が言った。

    「そうですね。
    私は何度、心の中で領域展開を使ったか」

    「あの時のお前の指、
    そういう意味だったのか!?」

    「あなただって、密かに念を使ってましたよね」

    「気付いてたのか!? 俺のチェーンジェイルを!!」
    「あなたの隠はまだまだ未熟です」
    「精進するよ。でも、あの頃に戻りたいとは思わなかったんだ」

    桐谷は小さく笑った。

    それから、少し声を落とした。

    「私もです。旅行の時は、
    静かな時間が続けばって言ってたのに……。
    今は真逆だけど、悪くないんですよね」

    「仕事では今でも、
    佐伯さんのことちょっと苦手ですけど」

    「俺もお前のこと、たまに腹立つよ」

    「でも」

    「でも、ここまで一緒に来た」

    運命の相手とは、
    何もかも分かり合える人ではない。
    趣味が合う人でもない。
    価値観が全部同じ人でもない。

    似ているからこそ、ぶつかることもある。

    違うからこそ、補い合えることもある。

    最高の相手とはなんだろう⸻

    恋人、夫婦、親、変わりゆく関係の中で、
    新しい自分が現れる。
    その時、新しくなった相手と上手くいくかはわからない。

    それでも、
    共に過ごした時間が、
    二人の間に積もっていく。

    それが、二人がずっと探していたものなのかもしれない。


    二人はまだ、その途中にいる。


    # 第五話 雲路の中で、笑う

    気づけば、スマホを開いていた。

    noteのアプリだった。

    最後に記事を書いたのは、いつだっただろう。

    子供が生まれてから、
    ゆっくりスマホを触る時間すら、
    しばらくなかった。
    好きだったロックも、小説も、
    気づけばずいぶん遠ざかっていた。

    それが寂しいかと言えば、そうでもない。

    不思議なことに。

    画面を開いて、少し考えてから、書き始めた。

    特に、誰かに読んでもらおうと思ったわけじゃない。

    ただ、書きたかった。

    上の子が最近、
    自分の名前を呼ぶようになったこと。

    下の子が、
    亮太の顔を見ると笑うようになったこと。

    毎日がてんやわんやで、
    ご飯もゆっくり食べられないこと。

    妻とは今でも、仕事でたまに揉めること。

    それでも、悪くないと思っていること。

    ⸝

    記事を書き終えた。

    タイトルを考える。

    しばらく画面を見つめて、
    それから一つだけ打ち込んだ。

    『運命の所在地』

    投稿ボタンを押した。

    その時だった。

    「パパー!」

    リビングの奥から声がした。

    兄弟二人で積み木を積み上げていた。

    「見て!」

    下の子が得意そうに指を差す。

    上の子も満足そうに笑っている。

    亮太はスマホをそっと伏せた。

    立ち上がって、子供たちの方へ歩いていく。

    その背中を見ながら、桐谷が言った。

    「また誰かの記事、読んでるんですか」

    「いや」

    あの時の自分に、今の話をしたら、
    信じるだろうか。

    ——お前が一番噛み合わないと思ってた相手と、結婚するんだよ。

    きっと、信じない。

    リビングには、
    子供たちの笑い声が響いていた。

    それでも、悪くない未来だった。

    亮太は笑った。

    「今日は、自分のを書いてた」

    桐谷も笑った。

    「悲劇のヒロインですか?」

    「喜劇のヒロインだよ」

    亮太は軽く腹を殴られた。

     
     
    迷いながら生きています。 私の中の物語や言葉を、少し文章にしています。 AIと話しながら書いています。 長かったり、短かったりします。 適応障害から復職した二児の父。 自伝もあります。

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