
文を放つ
「偉そうに!お前だって、過去にこんなのを書いてたじゃねぇか!」
罵倒する声が耳の奥で鳴り続ける。恐怖に捕らわれ、出かける準備の手を止めてまでスマホを握り締める。私以外、部屋には誰もいない。
「本当に記事を削除しますか? 削除してしまうと二度と復元できません。」
画面に表示された注意喚起。「削除する」の赤い文字を連打する。そんなのどうだっていい。親指を小刻みに動かした。
削除後、愕然とする。これは私による私への粛清だ。今まで何度も間違え、その度に人を傷つけ、怒らせ、落胆させた。なのにわざわざ文章で、考えや思いを伝えたい。だから書く、書きたい。嗚呼、なんて身勝手なんだろう。画面の向こうのあなたと同じくらいに。
削除した私とあなた。何が違うのか。あなたは恐怖で記事を削除した経験はないだろう。私は主にエッセイを書くアマチュア。ネット上にはアマチュアによるエッセイ、日記、ビジネス論などのノンフィクションが溢れている。だが私を含むアマチュアが「書く」と「公開する」は別の意味を持つと、どれだけ分かっているのか。
「公開」には、必ず責任が伴う。削除した記事は、私の価値観を一方的に主張する内容だった。でも誰かを傷つけるつもりも、貶めるつもりもない。それが矛盾だと気づかなかった。自分にだけ都合のいい、責任の放棄だ。だから恐れ震えた。あの赤い文字は、責任への警告だった。
書き手が負う、公開した文章への責任は二つ。一つは書き手以外の登場人物、もう一つは内容についてだ。アマチュアが書いたネット上の記事や、Zine、同人誌にも当てはまる。登場人物への責任とは何か。
全ての人は書く自由も公開する自由も持つ。同時に自分のプライベートな領域を、勝手に公共の場に晒されない権利もある。家族、友人、職場や近所の人、全員にこの権利がある。事前に書く了承を得ていれば、きっと大きな問題にはならないだろう。しかし私を含め多くのアマチュアが行わない。
もし、登場人物から突然「あれ、私のことですよね。記事を削除してください」と言われたらどんな言葉が浮かぶか。例えば「ごめんなさい」、「どうして?」、「ひどい!」のどれかだろうか。
まず謝罪が浮かんだら責任を後から知った状態。残り二つは疑いと否定。いずれも事前に責任を負う覚悟はない。絶対に本人にバレない根拠はどこにもないのに、届いたらどうなるか想像が及ばなかったのだ。
先の三つではなく「削除はしない」なら、このまま公開し続ける正当性を主張すればいい。登場人物との対話が責任の第一歩目だ。
アマチュアはノンフィクションに、私のエッセイ、私の日記、私のビジネス論を書く。「私の」であれば問題ないのか。いいや。差別や蔑み等、登場人物や読者の尊厳をすり潰す文章なら公開すべきではない。これが内容についての責任。
読者とはネット上なら世界中の人。Zineなら購入者全員だ。だが多くの人が世界中にまで配慮できないだろう。ジャンルとプラットフォームのシステムがそれを阻害する。
アマチュアのノンフィクションは自身の経験を元に書かれる。事実を正直に書いているようで、無意識に自分を良く見せたい気持ちが働く。当たり前の欲求だ。
また読者が知人の可能性もある。赤裸々に書くと生活に支障をきたすかもしれない。それに赤の他人からの非難も避けたい。だから自分を守るため、必ず正しく善意を持った「人に見せられる自分」の話になる。
防御の中身が「正しさと善意」なら誰に向けても問題なく、書き手は読者への配慮も出来たと見なす。よってアマチュアのノンフィクションとは、己の欲求と防衛本能で築いた、自分の中では誰も傷つくはずがない内容になる。
文章の公開に利用する、ブログやSNS等のプラットフォームには、書き手が誤認する三つの種が潜む。
一つ目は誰でも内容に関わらず、全く同じデザインで表示される点。ウェブデザインの知識が無くても、プラットフォームが必ず綺麗に文章を整えてくれる。見た目の優劣は全くつかない。ただのサービスで見た目が整った文章は、内容も立派かに思えてくる。
公開はとても簡単でボタンのクリックか、タップで完了。これが二つ目の種。クリックはいつも仕事でやっている。タップはいつも通販のカートで叩いている。日常の動作と世界中への公開が同じ。いつもの動作過ぎて、大概の人は体が存在する実社会とネット社会との境界線を見失う。
三つ目の種はプラットフォームにある、XやInstagramと同様のフォロワーや「いいね」、「スキ」などのシステム。
公開と共にフォロワーが増える、「スキ」が増える。その度に書き手は文章の内容が人々に賛同されたと思い、喜ぶ。次の文章でもフォロワーが増え、「スキ」の数も増える。あるいはZineが売れる、完売する、増刷する。
数が増えれば増えるほど、自分の考えや価値観は正しいと確信する。数はまた自分の成果にも見え、安心材料にもなる。目の前にこれだけのフォロワーがいるなら、まだ見ぬフォロワーもきっといるはずと望み、信じていく。
アマチュアにとって読者とは表示された「数」、売れた「数」。数に出ない人は全部「その他大勢」だ。賛同者だけに読まれたい。それは絶対に叶わない願望なのに、圧倒的多数を読者とは見なさない。でも目に見える数が根拠となり、彼らは自分の読者ではないと都合よく解釈する。
文章を書き公開するのは、自身の経験や考え、思いを他者に浸透させたいと望む行為。一方的な読者への支配も含む。不特定多数に公開しながら「分かる人にだけ分かればいい」と大勢の人に背を向けるのは、書き手による読者の選別だとは言えないか。
私には支持者かに見えるあの「数字」が、無自覚に異分子を遮断する壁のようにも見えるのだ。
突然だが「灯籠流し」の話をする。灯籠を川に流す人々は世界平和を願ったり、死者を弔ったり、善意で行う。幻想的な風景を写真に収め、SNSにあげた人もいるだろう。では流した後、どうなるのか。
灯籠はある程度まで流れた下流で全て回収される。善意で行ったものを、誰かがわざわざ夜の川に入り回収するのだ。折角流したのに。とっても綺麗だったのに。悪いことなんてないはずなのに。祈った平和は無視されるの? 死者が安らかに眠れるように祈ったのに? そう、それでも回収する。
回収せず流し続けたらどうなるか。灯籠は川の流れに乗って町や市を抜け、県も超える。途中で形を維持できず、ぐちゃりと潰れ、木材はバラバラになり流れる。願い事を書いた紙もビリビリに破れ、川の表面に漂うだろう。ろうそくは川底に沈み、蝋を削りながら川底を転がり続ける。途中、木材や紙は茂みに引っかかるだろう。川を流れ続ける限り、下流へ、更に下流へと、海まで続く。流した先にいる人々は、どんな思いで見つめるだろう。
灯籠は世に放った文章。一度放つと、どこまでも流れる。私は書くことも、世に放つのも絶対に否定しない。あなたが楽しみ、時に悲しみも持ちながら書き、フォロワーや、たまたま読んだ人、Zineの購入者に喜ばれているなら、ぜひ続けて欲しいと強く願う。誰もが書く自由と公開する自由を持っている。
回収されなかった残骸は同じ文章で怒り、傷ついた読者。彼らは書き手に訴えない。書いたのは知らない人、記事は無料、書き手はアマチュア。怒りも傷も「素人が書いた文章だ」と吐いて自分を守り、ただ去る。たとえフォロワーの支持があっても、同じ記事を巡って別の事実も確実に存在する。それを書き、発信する自由もあり、誰もが世に放った文章に責任を負う。
書く傲慢さと喜び。公開する身勝手さと味方や賛同で得る連帯。どちらも同時に存在する。どちらかだけを選び取るのは誰にもできない。私たちは矛盾の中で生きている。
書く楽しさを享受できないと繊細ぶる私。自分の存在を知らせたい承認欲求。書く傲慢さを提示するマウント。エゴイズムとナルシシズム。誰も傷つけたくないとの願い。上から目線なのか、下からお願いするのか。
思いつく限りの見栄や偽善を引き受けても、これを書きたかった。だから私はここから文を放つ。