
八百万(やおよろず)のお守り会議
あの方が、重たい足取りで部屋に帰ってきた。 今日は大切な誰かと喧嘩をして、心がトゲトゲしてしまったみたい。 あの方がため息をついて、暗い部屋の真ん中でじっとしていると、 家具の隙間やカーテンの陰から、小さな神様たちがゾロゾロと集まってきた。
今夜の緊急議題は、「あの方の心を、どうやって温め直すか」だ。
「まずは、わしの出番じゃな」と、キッチンから【ヤカンの神様】が鼻を鳴らした。
「シュンシュンと景気よく湯気を立てて、とびきり熱いお湯を沸かそう。 お湯が沸く音は、心を落ち着かせる合図。 まずは深い呼吸をしてもらうところから始めるんじゃ」
「私の出番ですね」と、棚から【マグカップの神様】がゆっくりと降りてきた。 「あの方の手のひらにぴったりと寄り添って、お茶の温もりを直接伝えます。 冷え切った指先が温まれば、強張っていた肩の力も抜けるはず。
私が、あの方の心を包み込む『一番近い避難所』になりますよ」
「私は、光を優しく調整するわ」と、デスクライトに住む【明かりの神様】。 「今は眩しすぎる光は、あの方の目には痛いわね。 月明かりのような、ぼんやりと柔らかな光で部屋を包み込んで、 『今は何もしなくていいんだよ、おやすみ』って、伝えてあげるの」
「あっしは、ただただ、どっしりと支えやす」と【椅子の神様】が胸を叩く。 「あの方がどんなに落ち込んで、重たい体で座り込んでも、 『重たくていいんだよ、全部預けておくれ』と、その背中を包み込んでやる。 人間が一人で戦わなきゃいけない時間なんて、一分だってありやせんよ」
本棚の隅に座る【物語の神様】が、新しい一行を書き加えた。 「あの方がペンを握ったら、私が素敵な言葉を耳元で囁こう。 喧嘩した相手への怒りが、いつの間にか『次はこう伝えよう』という 明るい希望に変わるような、魔法のフレーズをプレゼントするよ」
「私は、夜風を少しだけ招き入れるわ」と【窓の神様】。
「部屋の中に溜まった『悲しい気持ち』を、風と一緒に外へ逃がしてあげる。 代わりに、キラキラした星の光を部屋の隅々に届けて、 あの方の心が、外の世界と繋がっていることを思い出させてあげるの」
神様たちは、代わる代わるあの方のそばへ寄り添った。 お茶の温もりが手のひらから伝わり、柔らかな椅子が体を預かり、 優しい光が目を癒やしていく。 それは目には見えないけれど、この部屋のすべてが協力して作り出す、 世界でたった一つだけの「お守り」の時間だった。
「ねえ、あの方は明日、笑ってくれるかな?」 一番小さな【クリップの神様】が、不安そうに尋ねた。 神様たちは顔を見合わせ、力強く頷いた。 「大丈夫。わしたちがこれだけついておるんじゃ。 あの方が眠りにつく頃には、心のトゲトゲも丸くなっているはずさ」
あの方は、マグカップを両手で包み、ゆっくりとお茶を飲み干した。 「……ふぅ」と大きな深呼吸。 その吐息と一緒に、心の奥に詰まっていた重たい塊が、 少しだけ軽くなって溶け出していくのがわかった。 神様たちの作戦は、どうやら大成功のようだった。
あの方は気づいていないかもしれないけれど。 一人暮らしの部屋は、本当はちっとも「一人」なんかじゃない。 毎日使うマグカップも、お気に入りの椅子も、窓から見える星も。 みんな、あの方のことを一番近くで見て、守りたくて、 今夜も一生懸命、会議を開いているのだから。
やがてあの方が、穏やかな顔でベッドに入ると、 神様たちは満足そうに、それぞれの居場所へと戻っていった。 「また明日な」「おやすみなさい」「良い夢を」 部屋の中には、ただ静かで温かな空気だけが満ちていた。
もしきみが、喧嘩をして悲しくなったり、不安で眠れなくなったりしたら。 周りにあるものたちを、そっと見渡してみて。 みんな、きみのことが大好きで、きみの味方なんだ。 きみが眠るまで、彼らはずっと、きみのための会議を続けている。 だから安心して、その「優しさ」の中に身を預けてみてね。