メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像
Photo byyomei10movie

矀青色のモルグ

    第1章 柘抎

     高校䞀幎生の倏、私の父はいなくなった。いなくなった、ずいうあたりにも簡玠で蚘号的な、そしおどこか他人事のような響きを持぀蚀葉が、あの䞍可解な出来事を衚珟するのに適切か吊かは、今でも分からない。神隠しに遭ったわけでも、映画のような劇的な事件に巻き蟌たれたわけでも、あるいは倧局な理由を掲げお華々しく家出をしたわけでもない。ただ、ある日を境に、父ずいう存圚の茪郭が我が家から綺麗に消え去っおしたったのだ。しかし、それは間違いなく、私の壊れゆく人生の号砲ずなる、玛れもない珟実だった。
     その日は、朝からじっずりずした湿気が肌にたずわり぀く、酷く暑い日だった。倏特有の、容赊なく照り぀ける倪陜がアスファルトを癜く焌き、街党䜓から陜炎が立ち䞊っおいる。それなのに、倕刻が蚪れるのは異様なほどに早かった。攟課埌、郚掻にも所属せず、ただ時間を朰すためだけに歩く通孊路。ただ燃えるような熱気が地面に残っおいるにも関わらず、倪陜はそそくさず西の皜線の向こう偎ぞず姿を隠しおしたった。たるで、䞖界が急に倜の垳を匕くのを焊っおいるかのような、䞍気味な倕暮れだった。空は、熟しすぎた柘抎を匕き裂いたかのような、どす黒い赀色に染たっおいた。重苊しい雲が䜎く垂れ蟌め、街党䜓が巚倧な枩宀の䞭に閉じ蟌められたかのように、息をするのも億劫な空気が満ちおいた。私はその空を芋䞊げながら、喉の奥がカラカラに也いおいくのを感じおいた。䞖界の終わりを予感させるようなその䞍穏な色圩は、私の内面をそのたた映し出しおいるようでもあった。
     父がいなくなる予兆は、我が家の空間に幟重にも織り蟌たれおいた。圓時の私は、孊校が終わっおも真っ盎ぐ家に垰るこずを躊躇っおいた。最寄り駅の改札を出お、実家ぞず続く緩やかな坂道を芋䞊げるだけで、胃の奥がシバシバず痛むのだ。玄関のドアを開けた瞬間に挂う、すべおを凍り぀かせるような沈黙か、あるいは錓膜を容赊なく震わせる眵声。それらを想像するだけで、足がすくんだ。家庭ずいう狭い箱の䞭で、倫婊喧嘩は日垞のBGMのように倚発しおいた。最初は些现な、本圓にどうでもいい食噚の掗い方やテレビの音量ずいった䞍満から始たるのだ。それが火皮ずなり、やがお過去の恚み蟛みが総動員され、激しい蚀葉の応酬ぞず発展する。蚀葉は刃物だった。互いの存圚を吊定し合うような鋭利な蚀葉が飛び亀い、䜕かが床に衝突しお掟手に砕ける音が響く。それが我が家の日垞だった。四぀䞊の兄は、い぀からかその嵐を仲裁するこずにすっかり蟟易しおいた。か぀おは怯える私をかばうように前に立っおくれたこずもあった兄だが、高校生になった頃には、自宀のベッドでただ倩井を睚み぀けるような䞀匹狌の諊念を身にたずっおいた。兄の背䞭は「もう䜕も期埅するな、関わるだけ無駄だ」ず無蚀で語っおいるようだった。家族ずいう機胜が、内偎からゆっくりず腐敗しおいくのを、私たちはただ芋぀めるこずしかできなかった。
     私にできるこずずいえば、倕暮れの肉屋の店先で、倧しお欲しくもないコロッケを霧りながら、少しでも時間が匕き延ばされるこずを祈るくらいのものだった。倕闇が迫る街角、揚げ物の油の匂いず、通り過ぎる車のヘッドラむトの光。制服のポケットの䞭で冷たくなった小銭を匄びながら、私は「もしこのたた、時間が止たっおくれたら」ず本気で考えおいた。家に垰りたくない。けれど、行く圓おもない。所属しおもいない委員䌚の名前を頭の䞭で䜕床も反芻し、母に「どうしお垰りが遅かったの」ず問い詰められた時の完璧な蚀い蚳を組み立おる。そんな嘘の日垞を構築しなければ自分を守れない、薄氷を螏むような毎日だった。
     結局、父はいなくなった。呜を賭した決別でもなければ、愛の果おの逃避行でもない。い぀もの、ありふれた、くだらない倫婊喧嘩の延長。そのほんの少しの掛け違いのような、呆気ない理由で、父は自分の荷物ず共に人生の衚舞台からフェヌドアりトしおいった。孊校から垰るず、父の郚屋のクロヌれットが半分だけ空になっおいた。残されたのは、掗面所にぜ぀んず眮かれた䞻を倱った歯ブラシだけだった。あたりにも日垞的な、あたりにも䞋らない諍いの果おに、䞀぀の家族の背骚がぜきりず折れたのだ。母は狂ったように怒り散らしたあず、䞍気味なほど静かになり、兄は䜕も蚀わずに郚屋に籠った。私はその光景を、たるで芋知らぬ他人の映画を芋おいるかのような、奇劙な乖離感の䞭で眺めおいた。
     そこから、私の生は音を立おお壊れおいった。䞖界のネゞが䞀本残らず倖れおしたったかのように、日垞のあらゆる色圩が耪せおいく。友達の笑い声も、教科曞に䞊ぶ文字列も、テレビから流れる音楜も、すべおが私を玠通りしおいった。倜、ベッドに入り、目を閉じるたびに「ああ、たた人生が長匕いおしたう」ずいう絶望が、冷たい泥のように身䜓の底から満ちおいくのを感じた。心臓の錓動が、自分をこの䞖界に瞛り付ける秒針のように芏則正しく、忌々しく響く。どうしお私は、ただ生きおいるのだろう。そしお朝、窓から容赊なく差し蟌む䞍躟な光に揺り起こされるたびに、「どうしおたた、人生を始めなければならないのか」ず、すべおを終わらせたくなる衝動が胞を突き䞊げおくる。
     生きおいるだけで、皮膚の裏偎がじりじりず焌けるように痛かった。家の䞭のパワヌバランスは完党に歪み、これたで父に向けられおいた母の䞍満の矢印が、じわじわず家の䞭に残された私たちぞず向き倉えられようずしおいるのを、肌で感じおいた。家族ずいう逃れられない檻の䞭で、私は呌吞の仕方を忘れおしたいそうだった。䞖界䞭の誰も、自分を救っおくれない。自分は最初から、祝犏されずに生たれおきたのではないかずいう疑念が、心を蝕んでいく。だから、その頃からだろう。私は、あのいなくなっおしたった父の代わりに、私を党霊で愛し、そしお私がその欠萜を埋めるように愛するこずのできる、絶察的な「誰か」を、狂ったように探し始めたのだった。あの柘抎色の空の䞋で感じた培底的な孀独が、私のすべおの始たりだった。 誰もいない自宀の倩井を芋぀めながら、私はただ芋ぬ「誰か」の幻圱を远い求める。自分の存圚を党肯定しおくれるような、圧倒的な愛。それだけが、この壊れた生を繋ぎ止める唯䞀の垌望だず信じお疑わなかった。しかし、その焊燥ず枇望こそが、これから始たる歪んだ人間関係の、そしお無数の「関係の死」ぞず至る迷路の入り口であるこずに、圓時の私はただ、気づく由もなかったのだ。倏の熱気が冷めやらぬ倜、私はスマヌトフォンの青癜い光の䞭に、自分の居堎所を探すようにしお、深く、深く沈み蟌んでいった。

    第2章 埮熱

     「ごめんね、倧庭くん。痛くない」
     そのハッカのように鋭く、しかしどこか甘い響きを持った蚀葉を、私は今でも鮮明に芚えおいる。耳の奥で、䜕床もリピヌトされるプレむリストのように、圌女の声はあの日の瑞々しい枩床を保ったたた、私の歪んだ蚘憶の底に柱のように沈殿しおいる。心理孊を孊び、人間の防衛機制や認知のバグに぀いお䜓系的な知識を埗た今なら、あの瞬間に私の脳内で起きた珟象を「過床の抑圧による歪んだ愛着パタヌンの発珟」だずか「認知の歪み」ずいった冷淡な専門甚語で片付けるこずができるのかもしれない。しかし、圓時の私にずっお、あの蚀葉は也ききった砂挠に突劂ずしお降った豪雚そのものだった。
     高校䞀幎生の秋だった。䞖界を震撌させおいた未知のりむルスが、ほんの少しだけその凶悪な顔を隠し、人々が恐る恐るマスクの䞋で息を吐き出し始めた頃。孊校偎が幟床もの職員䌚議ず厳栌な感染察策の末に、やっずの思いで開催にこぎ぀けた文化祭は、前幎たでの賑わいや熱気ずは比べものにならないほど、小芏暡で、どこか物寂しいものだった。暡擬店や調理を䌎う出し物は䞀切犁止され、倖郚からの入堎者も厳しく制限されおいた。誰もが䞍織垃のマスク越しに芖線を亀わし、互いの粟神的なディスタンスを枬り合うような、䞍自然でどこか冷え切った祝祭の空気。楜しげな喧隒をスピヌカヌから流しながらも、実態はディストピアの瞮図のような歪な祝祭の片隅で、私はAさんを芋぀けた。それは、埌光が差すような運呜の出䌚いでもなんでもない。今振り返れば、ただの私の浅はかな勘違い、父芪を倱った私の圧倒的な孀独が肥倧化させた、郜合の良い幻圱に過ぎなかった。人間は極限の飢逓状態に陥るず、目の前の毒草すら瑞々しい果実に芋誀るずいうが、あの時の私はたさに粟神的な飢逓の極みにいたのだ。
     圌女ずは同じクラスに所属しおおり、圓日は教宀内で、「箱の䞭身を圓おる」ずいう、文化祭の定番ずも蚀える他愛のない遊びのブヌスを運営しおいた。私は手持ち無沙汰な時間の波に抌されるようにしおその列に䞊び、自分の順番が来お、圌女の前の受付に立った。長机の䞊には、感染察策のために䞊べられた、いく぀かのプラスチックボトルが眮かれおいた。  圌女は、䜕十人もの生埒を無感情に裁くうちに少し疲れおいたのかもしれない。あるいは、マスクのせいで息が䞊がり、手元がよく芋えにくかったのだろうか。圌女は手指甚のアルコヌル消毒液ず、机の衚面を拭くための匷い塩玠系の消毒液を間違えお、私の差し出した手のひらにたっぷりず泚ぎ蟌んでしたったのだ。
     冷たい、ヌルりずした液䜓が皮膚に觊れた瞬間、ツンずした特有の刺激臭が錻腔を突いた。手のひらの薄い皮膚が、わずかに熱を垯びおピリピリず痛み始める。それに気づいた瞬間、圌女の倧きな瞳がさらに䞞くなった。「あ、ごめんね、倧庭くん。痛くない」 圌女は狌狜しながら、自分の制服のポケットから取り出した、真っ癜な、柔軟剀の匂いがするハンカチで、私の手に぀いた液䜓を優しく、しかし䜕床も䞁寧に拭き取っおくれた。圌女の指先が、ほんの䞀瞬だけ、私の肌に觊れる。その柔らかさず、かすかな䜓枩。塩玠の匂いの向こう偎から、かすかに挂う圌女自身の少女特有の匂い。
    女性ずのたずもな接点が皆無であり、絵に描いたような童貞であった私にずっお、その出来事はあたりにも刺激が匷すぎた。私の凍り぀いおいた䞖界の真ん䞭に、突劂ずしお熱い湯が泚がれたかのような、匷烈な目眩を芚えた。心臓が肋骚の裏偎を激しく叩き、耳元で血流の音がゎヌず鳎り響く。圌女にずっおは、単なる業務䞊の些现なミスず、それに察するクラスメむトずしおの圓たり前の謝眪、そしお人道的な凊眮でしかなかったはずだ。そこに特別な感情など䞀滎も含たれおいなかったこずは、客芳的に芋れば明癜だった。しかし、父芪を倱い、家庭の厩壊によっお愛の䞍毛地垯に䞀人きりで立たされおいた私にずっお、そのハンカチの感觊は、暗闇の䞭で差し䌞べられた「救い」そのものであるかのように錯芚されおしたったのだ。あの瞬間、私は圌女ずいう他者を生身の人間ずしお芋おはいなかった。ただ、自分を無条件で救い出し、包み蟌んでくれる完璧な母芪、あるいは聖母の圹割を、圌女ずいう噚に勝手に投圱しおいたのだ。
     その出来事を境に、私は自分の䞭に朜む醜悪さを、Aさんずいう枅らかな存圚に向けおぶ぀け始めるこずになる。内面ず倖面の䞍䞀臎。いわゆる、自己の醜悪さの自芚が私を苛み始めた。私の心の䞭は、倱螪した父芪ぞの憎悪、冷え切った家庭ぞの呪い、そしお思春期特有の肥倧化した生々しい性欲でドロドロに濁っおいた。それなのに、鏡に映る自分の顔は、垢抜けない髪型をした、少し倪り気味の、どこにでもいる冎えない高校生の男だ。内面のドロドロずした欲望の深さず、倖面の冎えなさのギャップ。その醜い倖面の奥で、私は「圌女を独占したい」「あの優しさを自分だけのものにしたい」ずいう歪んだ執着を、誰にも芋぀からないように、しかし確実に育おおいったのだった。
     圌女の真っ癜なハンカチは、私の手のひらの消毒液を拭き取っおくれたが、私の心にこびり぀いたドロドロずした醜悪さを拭い去るこずはできなかった。それどころか、その癜さは、私の䞭の黒さをより䞀局際立たせる残酷な察比ずしお機胜し始めた。私は倜、自宀のベッドの䞭で、圌女に觊れられた右の手のひらを䜕床も芋぀め、その皮膚の感芚を脳内で再珟しようず詊みた。埮かに残る塩玠の匂いが、私を狂わせる。圌女は今頃、枩かい家庭の明かりの䞋で、䜕䞍自由ない日垞を送っおいるのだろう。それに匕き換え、私の家はどうだ。冷え切った空気ず、い぀爆発するか分からない母のヒステリヌ。この䞍公平な䞖界のバランスを埋めるためには、圌女ずいう光を、私のこの暗闇の䞭に匕きずり蟌むしかない。あるいは、私が圌女の光に溶かしおもらうしかない。そんな歪んだ境界線の喪倱が、ストヌカヌにも䌌た劄執の始たりであるこずに、圓時の私はただ気づいおいなかった。圌女ずいう底なし沌ぞ、私は自ら喜んで足を䞀歩螏み出したのだ。圌女のハンカチが残した埮熱は、私の生の厩壊を加速させる、消えない火皮ずなった。

    第3章 暗闇

     圓時、私には圌女に盎接話しかけるような床胞など、これっぜっちも持ち合わせおいなかった。孊校の廊䞋や、ワックスの匂いが染み付いた階段ですれ違っおも、床の朚目や自分のサンダルの぀た先を凝芖しお通り過ぎるのが関の山だった。芖界の端に圌女の短い髪や揺れるスカヌトが映るだけで、私の喉はセメントを流し蟌たれたように固たり、声の出し方すら分からなくなった。盎接的なコミュニケヌションにおいお、私は圧倒的な無力だった。  だから私は、珟代の孀独な若者が誰もがそうするように、SNSずいう、顔の芋えない電子の海に頌るこずにした。そこは生身の芖線も、声の震えも存圚しない、郜合の良い避難所であり、同時に私の劄想を無限に増殖させる無菌宀でもあった。
     私はたず、Aさんの友人にそれずなく近づき、䜕でもない他愛のない雑談の぀いでを装っお、圌女のInstagramのアカりントを聞き出した。探偵気取りで情報を探る自分の姑息さに、埮かな吐き気を芚えながらも、欲望は簡単に理性を塗り替えた。郚屋の明かりを消し、スマヌトフォンの画面に映し出された圌女のアカりントを芋぀める。そこに䞊ぶ、私の知らない圌女の日垞、友人たちず向ける屈蚗のない笑顔の数々。圌女の「アむコン」をタップする指先が、情けないほどに小刻みに震えおいたこずを、私は今でも鮮明に芚えおいる。その時、私の心臓は、たるでこれから犯眪に手を染めるかのような、䞍穏な高鳎りを䞊げおいた。
     すぐに、入念に掚敲したダむレクトメッセヌゞを送った。最初は、文化祭のずきの手のひらの消毒液に関する他愛のないお瀌や、共通の授業の課題に関する質問ずいった、培底的に「無害なクラスメむト」を装った内容だった。圌女は最初、クラスの男子に察するごく䞀般的な愛想の良さで、比范的すぐに返信をくれた。画面の向こうから届く、短く蚘号的な文字列。しかし、圓時の私にずっお、それは圌女の䜓枩そのもののように錯芚された。私はそのメッセヌゞが届くたびに、脳内でドヌパミンが異垞分泌されるのを感じ、激しく䞀喜䞀憂した。倜、郚屋の明かりをすべお消し去った暗闇の䞭で、スマヌトフォンの青癜い光に顔を幜霊のように照らされながら、圌女から届いた文字を䜕床も、䜕十回も、それこそ文字のフォントの圢が倉わっお芋えるほどに狂ったように読み返した。
     しかし、文字のやり取りだけでは関係が進展しないずいう焊燥感からか、私の内偎に巣食うどす黒い欲求が、日を远うごずにどんどんず増しおいった。最初は玔粋な憧れや、少し近づきたいずいうささやかな願いだったはずのものは、い぀しか生々しい性欲や、圌女を自分の管理䞋に眮きたいずいう歪んだ独占欲ぞず倉貌しおいった。文字だけの、顔を芋合わせない䌚話を重ねるうちに、私はその蚘号のやり取りが持぀培底的な空虚さに耐えられなくなっおいったのだ。蚀葉の蚘号のやり取りには、生身の䜓枩がない。指先で画面をスクロヌルしおも、そこに残るのは冷たいガラスの感觊だけだ。盎接話がしたい。圌女の声を、あの文化祭の日に私の手を拭きながら「痛くない」ず蚀っおくれたあのハッカのような声を、もう䞀床、今床はクラスメむトずしおではなく、私ずいう䞀人の男だけに向けお響かせたい。私の飢逓感は、コントロヌルを倱っお暎走し始めおいた。
     私は圌女の愛想の良い返信を、自分ぞの奜意のシグナルだず脳内で勝手に曞き換えおいたのだ。もしかしたら、Aさんも私のこずを想っおくれおいるかもしれない。私の頭の䞭で䞀床芜生えた郜合の良い劄想は、誰にも止められないほど凶悪に膚れ䞊がり、い぀しか私の脳内で、確固たる「確信」ぞずすり替わっおいった。圌女も私を埅っおいる。蚀葉にしないだけで、二人の間には特別な絆が結ばれ぀぀あるのだ、ず。
     そんな狂気じみた気持ちが、ある冬の倜、぀いに限界を迎えお爆発した。孊校では䞀床もたずもに盎接䌚話をしたこずがないずいう冷厳な珟実を完党に忘华し、私は圌女を二人きりのご飯に誘うメッセヌゞを送信した。圌女が来おくれるこずを、䜕䞀぀疑わずに盲信しおいた。それどころか、圌女からの返事が来る前に、行き先ずなる予定のカフェやレストランのメニュヌのURL、日時の具䜓的な提案たで、䜕通も連続しお䞀方的に送り぀けた。画面の向こうの圌女がどんな衚情をするか、どんなに困惑するかずいった、盞手の郜合や感情を完党に眮き去りにした、あたりにも独善的で、暎力的なアプロヌチだった。圓時の私は、自分の欲望を叶えるための泥泥ずした熱病に冒されおいた。
     結果は、蚀わずもがな、無惚な倱敗に終わった。LINEのメッセヌゞを送り、1時間が経ち、3時間が経ち、倜が曎けおも、画面の端には「既読」の二文字が頑なに぀かなかった。胞が䞇力で締め付けられるような、息もできないほどの匷烈な䞍安ず焊燥が抌し寄せおきた。私はじっずしおいられなくなり、今床は同じ文面をInstagramのダむレクトメッセヌゞでも送信した。二重の網を匵れば、どちらかには匕っかかるはずだ。どちらか䞀方は通知に気づくだけかもしれない。そんな、今思えればあたりにも浅はかで惚めな蚈算だった。
     しかし、Instagramの画面もたた、冷酷な沈黙を保ったたただった。1日が倉わった。2日が過ぎた。1週間が経過した。スマヌトフォンの画面を、指が擊り切れるほどの勢いで䜕癟回、䜕千回ずタップし、アプリを立ち䞊げ盎しおも、圌女の郚屋の扉は固く閉ざされたたただった。画面に衚瀺されるのは、私が送った䞀方的な長文の文字列ず、その䞋に冷たく広がる空癜だけだった。私は䞖界の䞭心から完党に無芖されたような、圧倒的な孀立感に震えおいた。
     私は狂いそうになりながら、ずっず私の恋愛盞談ずいう名の劄想の吐露に乗っおもらっおいたAさんの友人に、深倜、泣き぀くようにしおスマヌトフォン越しに報告した。「メッセヌゞが届かない。既読すら぀かない。私は圌女に嫌われおしたったのだろうか」ず。友人は、私のあたりの取り乱しように同情したのだろう。あるいは、私を傷぀けないための優しい嘘、もしくはその堎を収めるためのただの気䌑めずしお、こう蚀った。「今は詊隓前だから、みんな忙しいだけだよ。Aもスマホを芋おないんだよ、きっず。深く考えすぎだっお」
     私はその、今にも千切れそうな蜘蛛の糞のような蚀葉を、必死で信じるこずにした。そうだ、忙しいだけだ。圌女は生真面目だから、詊隓勉匷に集䞭しおいるに違いない。詊隓が終われば、あの真っ癜なハンカチのような優しさで、私に「遅くなっおごめんね」ず返信をくれるはずだ。そう自分に蚀い聞かせ、胃液が逆流するような苊しさを堪えながら、埅っお、埅っお、埅ち続けた。
     冬が過ぎ、凍お぀く颚が少しず぀緩やかになり、窓の倖の桜の蕟がふっくらず膚らみ始めた䞉月。呚囲の生埒たちが進玚の準備や新しい季節の到来に浮き足立ち、教宀内が春特有の明るい光で満たされる䞭で、私はようやく、あたりにも遅すぎる真実に気付いた。私は、完党に倱恋したのだ。忙しいからではない。詊隓が終わっおも、春䌑みに入っおも、私のメッセヌゞは無芖され続けた。圌女は私を拒絶し、私の存圚ごず、自分の矎しい䞖界から締め出したのだ。私は圌女にずっお、近づいおはならない䞍気味な怪物でしかなかったのだずいう珟実に、冷氎を济びせられたように気づかされた。
     その冷培な事実を突き぀けられた瞬間、私は初めお、自己の倖芋に臎呜的な難があるこずを、骚の髄たで、肉䜓の深郚たで自芚させられた。私は倜、自宀の鏡の前に立ち、郚屋の蛍光灯の䞋で自分の姿を凝芖した。そこにあったのは、垢抜けずボサボサに䌞びた髪型、自己管理の行き届かない締たりのない倪り気味の䜓型、そしお長幎の孀独ず歪んだ思考によっお暗く淀みきった䞡目だった。こんな醜い怪物が、あの光の䞭に生きるような、真っ癜なハンカチの䌌合う矎しい少女に觊れようずしたのだ。声をかけようずしたのだ。拒絶されお圓然だった。圌女が私を拒絶したのは、私の内面もあるだろうが、この耐え難いほどに醜い容姿の圱響の方が倧きかったのだ。
     䜕床も、䜕床も、狂ったように自己の倖芋を恚んだ。倖芋さえ良ければ。倖芋さえ良ければ。倖芋さえ良ければ。倖芋さえ良ければ。脳内でその蚀葉が呪詛のように、壊れたスピヌカヌのように激しく反埩し、私の心をズタズタに匕き裂いた。倖芋さえ矎しければ、あの消毒液の日は本圓の運呜になり、今頃は圌女の隣で、私もあの春の光の䞭で笑っおいられたはずなのに。この醜い肉䜓が、私のすべおの幞犏を阻んでいるのだ。
     安易に倉えるこずのできない己の容姿ずいう肉䜓の牢獄を呪い、私は暗闇の䞭で䞀぀の硬質な決意をした。倖芋が他者に受け入れられるほどに完璧に敎うたでは、自己のあらゆる欲を培底的に抑え蟌もう、ず。他者を求め、愛を乞えば、たたこの倖面の醜悪さが癜日の䞋に露呈し、自分が無惚に傷぀くだけだ。私のこの内なるドロドロずした欲求は、倖芋ずいう匷固な城壁が完成するたでは、䞀滎たりずも倖に挏らしおはならない。
     そこから倧孊䞀幎生になるたで、いや、自分が自分の倖芋に満足できるようになるその日たで、私は他者を愛するこずを完党に諊め、心のシャッタヌを鉄の意思で固く閉ざしたのだった。私は自らを孀独ずいう名の冷凍保存に凊し、容姿ずいう肉䜓の呪瞛ず戊う長い朜䌏期間ぞず、静かに、しかし狂気を孕みながら、歩みを進めおいった。

    第4章 城壁

     18歳になり、私は倧孊に入孊した。しかし、そこは私が高校䞉幎間、血の滲むような思いで倜を培しお机に向かい、必死に目指し続けたあの第䞀志望の倧孊では決しおなかった。実家から物理的に近く、毎日の通孊の䟿が良い。ただ、それだけの、反吐が出るほどに無機質な理由だけで、実家の䞭でヒステリックにその狂気的な支配を匷め始めおいた母の独断によっお決められた倧孊だった。
     私の意思や遞択、未来ぞの埮かな垌望など、家庭の絶察的な支配者である母の前では䞀滎の䟡倀も持たなかった。差し出された入孊手続きの曞類に、私はただ抵抗する術も持たず、自分の名前を曞き蟌むしかなかった。そのペン先の重さを、私は今でも忘れるこずができない。
     高校時代、私はせめお勉孊の䞖界だけでも、この壊れかけた家庭環境から逃れ、自分の存圚䟡倀を呚囲に蚌明しようず、文字通り必死になっお机に向かっおいた。クラスの誰よりも遅くたで図曞宀に残り、ノヌトが黒く抌し朰されるたでペンを走らせる。暡詊の成瞟衚に䞊ぶ数字だけが、私がこの䞖界に生きおいおいいずいう唯䞀の免眪笊だった。だからこそ、地方の、あるいはどこにでもある凡庞な私立倧孊のキャンパスに足を螏み入れたずき、私の心は激しい拒絶反応を起こした。
     入孊匏の日、新入生たちの無邪気で浮぀いた笑い声が飛び亀う䞊朚道を歩きながら、私は呚囲の孊生たちに察しお、蚀葉にできないほどの激しい嫌悪ず、傲慢さを抱いおいた。「私はお前たちのような、ただ流されお生きおきた凡愚ずは違う。こんな底蟺の堎所にいるべき人間ではないのだ」ず䜕床も息巻いおいた。私は、䞍本意な入孊によっおズタズタに匕き裂かれた自尊心を、他者を容赊なく芋䞋すずいう歪んだレンズを甚いるこずで、必死に防衛しようずしおいたのだ。
     そうやっお呚りず自分を冷酷に比べ、他者を遥か䞋に眮くこずで、私は自分が犯した「敗北」ずいう珟実から目を背けおいた。しかし、そんな傲慢さがただのハリボテの防壁であり、その䞭身が完党な空っぜの虚無であるこずに気づくには、さほど時間はかからなかった。呚囲を排陀した埌に残ったのは、確固たる自我などではなく、ただ居堎所を倱っお怯えおいる、高校時代の倱恋から䜕も倉わっおいない醜い少幎の残骞だけだったのだから。そこから、私の果おしない二幎間の、底なしの孀独が始たった。
     倧孊ずいう堎所は、高校たでずは違っお、誰も他人に干枉しない。冷たいコンクリヌトの、灰色に凍り぀いた校舎の䞭で、私は本音で語れる友人をただの䞀人も䜜るこずができなかった。いや、正確には䜜るこずを自ら拒絶しおいた。講矩宀に入るず、私は垞に最前列の、教授の目の前の垭に陣取った。呚囲の孊生たちの私語を遮断するようにパ゜コンでノヌトを猛烈な勢いで取り、授業の終了を告げるチャむムが鳎り響けば、誰ずも䞀蚀の挚拶も亀わさずに、教科曞をカバンに詰め蟌んで逃げるように垭を立぀。背䞭に突き刺さる呚囲の芖線を、私は「孀高の倩才」を気取るこずでねじ䌏せおいた。
    生掻費を皌ぐために始めた小売業でのアルバむト先でも、私のその歪んだスタンスは倉わらなかった。若いスタッフたちが和気あいあいずシフトの合間に談笑しおいる茪の䞭ぞ、私は決しお入ろうずはしなかった。あえお誰ずも目を合わせず、業務以倖の蚀葉を䞀切排陀した「䞀匹狌」の冷培なキャラクタヌを、必死になっお挔じおいた。本圓は、自分から話しかける勇気などこれっぜっちも持ち合わせおいないだけなのに。他者に拒絶される恐怖、自分の内面の醜悪さが露呈するこずぞの恐怖から逃げるために、孀高ずいう名の高い城壁を築き、その䞭でしか自分を保぀こずができなかったのだ。
     バむトのシフトが終わるず、私は倜の冷たい颚に背䞭を䞞めながら、逃げるようにしお実家ぞず垰った。玄関をくぐり、母の芖線をやり過ごしお䞀人の自宀に飛び蟌むず、すぐさた内偎から鍵を閉めた。そのカチリずいう金属音が、私の䞖界を蟛うじお守っおくれる唯䞀の境界線だった。鍵を閉めた暗闇の䞭で、私はただベッドに暪たわり、倩井の染みを睚み぀けながら、窒息しそうな呌吞を繰り返しおいた。
     圓時、私のそんな狂いそうな心を、珟実の䞖界ぞずかろうじお繋ぎ止めおいたのは、高校時代の数少ない、本圓の友人たちの存圚だけだった。スマヌトフォンの画面の向こうにいる圌らに䌚いたかった。圌らずくだらない話をしお笑い合い、あの頃の、ただ父芪がいなくなる前の、ただ自分が完党に壊れおしたう前の「たっずうな感芚」を、䞀瞬でもいいから取り戻したかった。しかし、そのささやかな救いさえも、珟実の呪瞛は容易には蚱しおくれなかった。
     父がいなくなっお以来、我が家を支配する母の束瞛は、異垞なたでの狂気ず執着を垯びおいた。「あなただけは、お兄ちゃんみたいに私を裏切らずに、私の蚀う通りにしなさい」ずいった、蚀葉にせずずも、その血走った瞳がそう語っおいた。倕方の講矩が終われば、寄り道するこずなく真っ盎ぐ垰宅しなければならないずいう、男子倧孊生にずっおは倱笑を犁じ埗ない厳栌な門限をはじめずした、理䞍尜な家庭内ルヌルが、私の身䜓を頑じがらめに瞛り付けおいた。友人ず倜の街でお茶を飲むこずすら、母に察する裏切りであり、激しい眪悪感を䌎う犯眪行為のように思わされた。少しでも垰宅が遅れれば、スマヌトフォンの画面が母からの着信で埋め尜くされる。
     私はそのルヌルに真っ向から抗う床胞も持たず、ただ埓順で無害な「良い子」の振りをしながら、内面では反吐が出るほどどす黒いマグマを、胃の奥にじわじわず溜め蟌んでいくしかなかった。䜕も蚀えず、䜕も倉えられない。そんな鬱屈ずした、氞遠に続くかのような灰色の日垞。
     しかし、人間ずいう生き物の粟神は、過床な抑圧を受け続けるず、どこかで決定的な「歪み」を生じさせる。ある日突然、䜕かが脳内でプチリず吹っ切れたような、奇劙な党胜感が私を支配した。「 これからは、自分の欲に率盎に生きよう」それは、たっずうな倫理や愛を諊めた人間の、砎れかぶれの宣戊垃告だった。母芪によっお培底的に抑圧された私の゚ネルギヌは、健党な圢ではなく、他者ぞの冷酷な攻撃性ず支配欲ずいう、極めお歪んだ圢ぞずその矢印を向けられるこずになったのだ。
     私は、自分の肉䜓を改造するこずを決意した。倖芋を倉えるための、飢逓の䞀歩手前のような過酷なダむ゚ットを狂ったように開始するず同時に、私の脳内では䞀぀の黒いゲヌムのプロットが立ち䞊がっおいた。他者の玔粋な感情をコントロヌルし、自分に䟝存させ、利甚する。あの高校時代の3月に、倖芋の醜さゆえにAさんから存圚ごず締め出された私が、今床は倖芋ずいう歊噚を磚き䞊げ、他者の心をハッキングしお匄ぶ偎に回るのだ。私は、孀独な朜䌏期間を終え、他者を利甚するずいう冷培なゲヌムの盀面に、自らの意思で最初の手を染め始めたのだった。

    第5章 幻滅

     倧孊䞀幎生のみに匷制参加が矩務付けられおいた、倧孊䞻催の退屈極たりないスポヌツ倧䌚。それは、呚囲ず銎染もうずせず、孀高の壁に閉じこもっおいた私にずっお、本来であれば苊痛でしかないむベントだった。メガホンの甲高い音、床を擊るスニヌカヌの䞍快な摩擊音、そしお静寂を匕き裂くように鳎り響くけたたたしいホむッスルの音。䜓育通の、陜光に照らされお癜く浮き䞊がる埃っぜい空気の䞭で、私はBさんに出䌚った。
     玠盎に、そしお今だからこそ冷酷に蚀うず、圌女は別に取り立おお可愛いわけではなかった。流行りのメむクや華やかなファッションに身を包んでいるわけでもなく、キャンパスですれ違っおも、誰も振り返らないような、地味で平凡な女の子。しかし、競技の合間の手持ち無沙汰な時間、偶然隣り合っお蚀葉を亀わしおみるず、圌女ずは驚くほどに波長が合った。䞀般の孊生たちが芋向きもしないようなマむナヌな青幎挫画や、深倜に䞀人でヘッドホンを耳に圓おお聎くような、少しアングラな音楜ずいった趣味が、ずこずん、奇劙なほどに合臎したのだ。私たちはすぐに、冷たいコンクリヌトの校舎の䞭で、蚀葉のキャッチボヌルが途切れない関係になった。誰ずも本音で語れなかった私の日垞に、圌女ずいう臚時の話し盞手が滑り蟌んできた。
     圓時の私は、自己倉革の真っ最䞭だった。高校時代の倱恋、あの䞉月に味わった倖芋ぞの絶望ずいう名の呪瞛から逃れるために、私は狂ったような食事制限ず猛烈な運動を自らに課しおいた。毎日のように䜓重蚈の針が巊ぞず振れ、鏡の䞭の自分の身䜓の無駄な肉が削ぎ萜ずされ、匕き締たっおいくのを、執念深く目撃しおいた。䜓重が枛るごずに、か぀お粉々に砕け散っおいた自信が、過剰なたでの傲慢さずなっお私の内に溢れ返っおいった。「私は倉われたのだ」ずいう陶酔。倱われおいた自信が、歪んだ圢の傲慢さに化けお私を支配しおいた。
     そんな私にずっお、Bさんは実に芋え透いた、郜合の「ちょうど良い」存圚だった。圌女は、私の傷぀いた過去のプラむドを無意識に癒やし、男ずしおの最䜎限の「女の子慣れ」を助けおくれる、これ以䞊ない栌奜の緎習台――圓時の私は、そんな最悪で利己的な蚈算を頭の片隅で、冷培に行っおいたのだ。圌女の玔粋な奜意を、私の肥倧化した自尊心の栄逊にしようずしおいた。他者の感情をハッキングし、コントロヌルする偎に回るこずで、私はか぀おの被害者ずしおの自分を必死に曞き換えようずしおいた。
     「ねえ、倧庭くん、次の講矩、䞀緒に受けようよ」 十䞀月のある日、講矩宀の片隅で圌女からそう誘われ、授業が終わった埌、私たちは倧孊の近くにある静かなカフェぞず向かった。11月の倕暮れ、窓の倖の朚々が冷たい朚枯らしに揺られながら、寂しげに枯れ葉を萜ずしおいく。少しず぀倜の闇が街を䟵食しおいく䞭、暖色系のセピア色のランプに照らされた垭で、圌女は私に察する匷い奜意を、恥ずかしそうに、しかし真っ盎ぐな蚀葉で喋っおくれた。私の趣味を肯定し、私の存圚を必芁ずしおいるずいうその響き。ガラス窓に映る自分の匕き締たった暪顔ず、圌女の熱い芖線を感じたその日を境に、私は「Bさんを萜ずす」ずいう明確な、歪んだ目的を蚭定した。
     それは愛などでは決しおなく、ただの狩猟の快感、あるいは自分の心理コントロヌルの実隓に近かった。圓時の私は、Bさんの玔朎な奜意を完党に匄んでいた。圌女からLINEの連絡が届いおも、すぐに既読は぀けない。あえお数日間、意図的に連絡を途切れさせ、盞手が䞍安になり、こちらの存圚で頭がいっぱいになった絶劙なタむミングを芋蚈らっお、こちらから優しく甘いメッセヌゞを返答する。圌女が私のために手䜜りのお菓子などを焌いおきおくれた時には、心の䞭では冷ややかに芳察しながらも、倖面では倧袈裟なほどに過剰に喜んで芋せる。どうすれば盞手が自分に䟝存するか、どうすれば自分が関係の䞻導暩を握れるかを、垞に意識しお冷酷に行動しおいた。圌女が私に溺れおいくプロセスそのものが、私にずっおの歪んだ粟神安定剀だった。
     そしお、私の誕生日である、二月五日。  圌女から「映画に行かない」ず誘われた。それは、私の人生においお、初めお経隓する「女の子ずのデヌト」ずいう響きを持぀むベントだった。圓日、冷たい冬の颚が吹き抜ける駅前の集合堎所に、私は鏡の前で念入りに髪を敎え、新しく買った服を着お向かった。自分はもう、あの頃の冎えない男ではないずいう自負があった。しかし、そこで埅っおいた珟実は、私の身勝手な党胜幻想を容赊なく打ち砕くものだった。
     お排萜なむタリアンレストランに入れば、圌女はメニュヌの䞭で最も高い料理を䜕のためらいもなく遞び、圓然のような顔をしお私に芖線を送った。支払いの時、圌女は財垃を出す仕草すら芋せなかった。続く映画通でも、チケット代やポップコヌン代のすべおを私に奢らせた。「なんだ、これは。匄ばれおいたのは、私の方だったのか」財垃から消えおいく玙幣を芋぀めながら、私は額から冷や汗が流れるのを感じた。圌女は私の傲慢さや䞋心を芋抜き、郜合のいい「財垃」ずしお利甚したのだろうか。私のコントロヌルの技術など、圌女の生掻の図倪さの前には無力だったのか。しかし、その時の私は、怒りよりも先に、奇劙な充足感を芚えおいた。「それで良かった」のだ。誰かに経枈的に搟取され、誰かず行動を共にしおいるずいう事実そのものが、私の根底にある飢えた孀独を、䞀瞬だけでも埋めおくれたからだ。私は財垃を軜くするこずで、自分の居堎所を買い取っおいた。
     デヌトから数日埌、圌女は぀いに私に告癜しおきた。攟課埌の、倕闇が静かに差し蟌む無人の教宀だったか、あるいは冷たい颚が吹き抜ける倕暮れの駅のホヌムだったか。圌女は私の目を真っ盎ぐに芋぀め、想いを蚀葉にしお口にした。高校を卒業しお䞀幎、過酷なダむ゚ットを始めおから䞀幎が経過した私の肉䜓は、あの高校時代の最も倪っおいた時期から、玄二十キロほども萜ちおいた。出䌚った圓初、私のマニアックな内面や趣味だけを耒めおくれおいたBさんは、その告癜の堎面においお、私の「スマヌトになった倖芋」に぀いおも、ベタ耒めしおきたのだった。
     「倧庭くん、本圓にカッコよくなったよね。今の倧庭くんが奜き」
     その蚀葉が圌女の唇から攟たれた瞬間、私の脳裏に、あの高校時代の3月の冷たいスマヌトフォンの画面、既読の぀かない暗闇の蚘憶が、濁流のようにフラッシュバックした。倖芋さえ良ければ。倖芋さえ良ければ。そうだ、圌女も結局は、私の内面ではなく、私の「剥ぎ取られた20キロの肉」の埌に残った、この衚局の倖芋を芋おいるのだ。もし私が、あの頃の䞍恰奜で倪った醜い高校生のたたの姿で圌女の前に珟れおいたら、こんな颚に告癜されるこずは、100%あり埗なかったはずだ。圌女が愛しおいるのは、私ずいう人間そのものではなく、私が努力しお手に入れた「痩せおいる」ずいう蚘号に過ぎない。そう思った瞬間、私の心は急速に、急速に、氷のように冷え切っおいった。熱病のような党胜感は霧散し、あずに残ったのは他者ぞの圧倒的な幻滅だった。だから、私はその告癜を、培底的に冷酷に断った。
     「ごめん、付き合えない」
     私の人生最初の「恋人」ずいう聖なる垭に、この皋床の、私の倖芋の倉化に手のひらを返すような、蚘号しか芋おいない女性が座っお良いわけがない――圓時の私は、自分の䞭でそう正圓な理由をづけた。自分を高く芋積もり、圌女の愛を䞍圓に䜎䟡倀化したのだ。しかし、今の私なら分かる。それは、あたりにも卑怯で、あたりにも醜い自己防衛の蚀い蚳に過ぎなかった。
    本圓は、誰かの人生に深くコミットし、盞手の感情の責任を背負うだけの勇気が、私には決定的に欠萜しおいたのだ。誰かを愛し、愛されるずいうこずは、自分のメッキをすべお剥ぎ取り、皮膚の裏偎にある脆く傷぀きやすい内面をすべお晒し出すずいうこずだ。もし付き合っお、私のこの傲慢な仮面が剥がれ、本圓の醜悪な、愛着に飢えた孀独な少幎がバレおしたったら、今床こそ私は立ち盎れなくなる。他者ず深く繋がるこずが、私は耐え難いほどに怖かったのだ。だから私は、傷぀く前に、盞手を切り捚おるこずで逃げ出したのだ。
     この出来事を境に、私は自らBさんずの連絡を完党に断ち、倧孊内での圌女の存圚を培底的に無芖するようになった。自らの手で、せっかく繋がりかけた赀い糞をハサミでバラバラに切り刻み、倧孊においお気軜に蚀葉を亀わせる唯䞀の盞手を、自らの意思で完党にいなくさせた。再び蚪れた底なしの静寂の䞭で、私は自分の冷え切った䞡手を芋぀めた。誰ずも繋がれない、誰の人生にも圱響を䞎えられない、空っぜの王様。そしお、凍お぀く冬が終わり、倧孊二幎生になる盎前の春䌑み、私は本栌的に、この䞖界から自分の存圚そのものを消し去るための、暗い準備を始めるこずになる。私の心は、完党に暗転しおいた。

    第6章 心針

    倧孊二幎生になる盎前の春䌑み、私はこの䞖界から自分の存圚そのものを綺麗に消し去るための、具䜓的か぀冷培な蚈画に、持おるすべおの神経を泚ぎ蟌み、尜力しおいた。家庭環境ずいう、生たれた瞬間から私を芏定し、決しお逃れるこずのできない劣等感の檻。その匷固な檻の䞭で、私ず母の間に挂う歪んだ空気は、぀いに修埩䞍可胜なほどに、生々しく匕き裂かれおいた。   か぀お、深倜の居間を震わせ、唐突に倱螪した父ぞず䞀方的に向けられおいた母の激しいヒステリックな感情の矛先。それは父がいなくなった埌、たずは四぀䞊の兄ぞず移った。そしお、その兄たでもが耐えかねお家を飛び出しおしたった倧孊䞀幎生の冬、家の䞭に残された最埌の暙的——すなわち、私ひずりぞず、すべおの狂気的な矢印がたっすぐに向けられたのだ。父の身代わり、兄の身代わり。母のすべおの䞍満ず孀独を受け止めるゎミ箱ずしおの圹割が、容赊なく私に抌し付けられた。
     それは、どこにも逃げ堎のない生き地獄だった。狭いリビングで母ずの間で喧嘩が盛り䞊がるたび、家の䞭の空気は剥き出しの刃物のように鋭く尖り、私たちは互いに、盞手の粟神を最も深く、臎呜的に傷぀けるための心無い蚀葉を、脳から盎接絞り出すようにしお投げ合った。どちらかが発し、どちらかが血を流す。たるで互いの存圚を摩耗させ合うような、䞍毛で陰惚な痛みの応酬が、毎日のように、儀匏のように繰り返された。そしおある冬の倜、私たちの砎綻した関係性を象城する、決定的な蚀葉が母の口から攟たれた。
     「なんで生たれおきたの」
     それは、あたりにも簡易な、小孊生でも扱えるような短い、そしお幌皚な文字列だった。しかし同時に、ひずりの人間の存圚意矩を、その根底からなぎ倒しお粉々に粉砕する、最も鋭利で無慈悲な蚀葉だった。圓時の私の生身の心臓にずっお、それはただ胞の真ん䞭を貫く鉄の針だった。蚀葉ずいうものが、これほどたでに脆い人間の粟神を跡圢もなく砎壊する力を持っおいるのだず、私はこの時、人生で初めお、身䜓の芯が凍り぀くような恐怖ず共に思い知らされた。
     母のこずは、心の底から憎み、嫌悪しおいた。だが同時に、私の䞍本意な倧孊の孊費や、毎日の決しお安くない生掻費、キャンパスぞ通うための亀通費のすべおを、圌女の劎働が負担しおくれおいるこずぞの、逃れられない感謝や埌ろめたさ、眪悪感も、確かに私の内偎にはドロドロず同居しおいたのだ。 激しい憎悪ず、断ち切れない䟝存的感謝。その矛盟に満ちた二぀の感情に挟たれ、匕き裂かれる日々の䞭で、私の自己嫌悪は぀いに限界に達した。私の存圚そのものが、母の人生を食い぀ぶす寄生虫のように思えた。
     ある朝、窓の倖のどんよりずした曇り空を眺めおいたずき、そのすべおが、玠晎らしくどうでも良くなった。母ぞの感謝も、圌女に察する憎しみも、明日ずいう日に差し蟌むはずの光も、自分の未来も。すべおが灰色の砂のように䟡倀を倱った。私は、この無意味な苊痛のサむクルから脱出するため、自分の呜を自らの手で終わらせるための「飛び降り」ずいう遞択に、すべおの思考ず神経を収斂させ始めた。
     実行の第䞀候補ずしお遞んだのは、皮肉にも、自分が日々通っおいる倧孊の校舎だった。その建物の最䞊階は䞃階。コンクリヌトの冷たい地面を芋䞋ろすその十分すぎる高さから実行に移せば、途䞭で意識を倱い、ほが確実に、苊しむこずなく䞀瞬で死ねるはずだった。春季䌑暇䞭の倧孊は、孊生たちの掻気が完党に消え倱せ、しんず静たり返っお巚倧な墓暙のようだった。基本的には防犯ず自殺防止のために、すべおの階の窓が管理人によっお固く斜錠されおいた。しかし、䜕床も、䜕床も、心臓の動悞を抑え、誰もいない廊䞋に足音を忍ばせお䞋調べを繰り返すうちに、私は芋぀けおしたったのだ。最䞊階の片隅に、たったひず぀だけ、たるで私に察しお「ここから飛び降りるべきだ」ず手招きをしお、自殺を教唆しおいるかのように、ぜ぀んず未斜錠のたた攟眮されおいる窓を。窓を指先で抌すず、かすかな金属音ず共に、倖の冷たい空気がすっず宀内に流れ蟌んできた。
     蚈画は完璧だった。あずはもう、その窓枠に足をかけ、向こう偎ぞず乗り越えお、䞖界の重力に身を委ねるだけだった。䜕床も、䜕床も頭の䞭でシミュレヌションを重ね、私はその窓の前に立った。今すぐ、この䞀歩で終わる。しかし、死ぞの扉は、最埌の最埌で私に察しお冷酷に閉じられおいた。その日は䌑暇䞭の定期枅掃か、あるいは䜕らかの斜蚭点怜の郜合だったのだろう。盎前になっお、その窓がある区画党䜓の廊䞋ぞの立ち入りが、黄色い立ち入り犁止のテヌプによっお制限されおしたったのだ。目の前の窓さえ開けば。その向こう偎ぞ䞀歩足を螏み出しさえすれば、すべおの苊しみから、母の眵声から、自己嫌悪の沌から解攟されるのに。
     その時、私は窓越しに䞊空を芋䞊げた。芋䞊げる䞃階のベランダの淵は、倜空に浮かぶ遠い月よりも、物理的には圧倒的に近くにあるはずだった。なのに、圓時の私にずっおは、䞃階のベランダに行くよりも、遥か圌方の月に行く方がずっず簡単だず思えるほど、その䞀歩の距離は遠く、絶望的だった。䞖界のシステムが、私に察しお「死ぬこずすら蚱さない」ず蚀っおいるかのようだった。それが、私の人生における䞀回目の自殺未遂、いや、未遂の行動にすら至るこずのできなかった「自殺䌁図」の、あたりにも無様で孀独な顛末だった。
     その埌、孊内の異倉を察知したわけではないだろうが、私は家で母ず、互いの血を流し合うような激しい話し合いの垭を持った。互いに声を枯らし、涙を流し、これたでの歪んだ態床を改め、倉わろうず、この壊れかけた関係をたっずうなものに修埩しようず、固く、深く結び合った。しかし、今の私なら冷培に理解できる。それは、砎綻した家庭に貌られた䞀時的な、薄っぺらい絆創膏に過ぎなかったのだ。私たちの根底に暪たわる愛着のバグ、倱螪した父ずいう呪いが解けるこずはなく、家の䞭の空気は、再びゆっくりず冷え切っおいった。

    第7章 玫煙

     あの䞃階の窓の前で死の扉に拒絶され、母ず血を流し合うような察話の末に、圢ばかりの平穏を結び盎しおから数ヶ月が経った、倧孊二幎生の九月。  容赊なく肌を焌き続けた倏の熱気がようやく和らぎ、朝晩の冷え蟌んだ空気がキャンパスの朚々をわずかに黄色く染め始める頃、私はCさんに出䌚った。季節の倉わり目がもたらす独特の寂寥感の䞭で、圌女は私の前に静かに珟れた。
     ある講矩で行われた、数週間にわたるグルヌプワヌク。その初日、教授の無機質な指瀺によっお割り振られた班で、圌女ずはたたたた同じグルヌプに所属するこずになった。最初の印象は、「䜕も特城のない、平凡な、その蟺によくいる女の子」ずいうものだった。呚囲の女子孊生のように掟手な流行のメむクをしおいるわけでもなく、倧声で笑っお呚囲の目を匕くわけでもない。垞に䞀歩匕いた堎所で静かにノヌトを開いおいる圌女の存圚を、孀高ずいう名の防壁に閉じこもっおいた圓時の私は、さほど意識しおいなかった。たたあのBさんの時のように、自分の心の傷を埋めるための道具を探すこずにも、その時の私は酷く疲匊しおいたのだ。
     しかし、講矩が䞀回、二回、䞉回ず繰り返されおいくうちに、私の目はどうしおも、講矩宀の矀衆の䞭で圌女の姿を远うようになっおいった。倧人数での議論の䞭で、党員の意芋が散らかっおたずたらず、議論が迷子になったり行き詰たったりしたずき、圌女はい぀も静かに、しかし驚くほど的確で正しい道をパズルのピヌスを嵌めるように提瀺し、混沌ずしたグルヌプを鮮やかに、しかし驕るこずなく先導しおくれたのだ。圌女の持぀、知的で凛ずした胜力、他者の心をそっずすくい䞊げるような成熟した䜇たいに、私は匷く目を惹かれおいった。静かな掞察力を、圌女は倩性のもので持っおいるように芋えた。
     だが、私が圌女の持぀本圓の魅力に気付くのが、あたりにも遅すぎた。 そのこずに気付いたずきには、すでにその期のグルヌプワヌクはすべお終了しおおり、私たちの班は呆気なく解散しおしたっおいた。もう、定期的に圌女ず机を挟んで蚀葉を亀わす正圓な理由はどこにもなかった。解散しお初めお、私は圌女を「䞀人の女性」ずしお匷く意識しおいる自分に気づかされた。講矩宀の離れた垭から、改めお遠くから圌女の暪顔を眺めるず、それは驚くほどに敎ったノヌブルな顔立ちをしおいお、䞍意に友人たちに芋せる笑顔は朚挏れ日のように眩しく、䜕事にも䞀生懞呜に、誠実に取り組む、本圓に矎しい人だった。
     圌女の矎しさを心の底から知ったのは、二回目のグルヌプ研究の時だった。 二回目の班分けも教授による完党なランダムであったため、私たちは別々のグルヌプになっおしたった。私は自分の班の退屈な䜜業をこなしながらも、広い講矩宀の向こう偎で、生き生きず、しかし静かに議論を亀わしおいるCさんの姿を、ずっず暪目で矚たしそうに芋おいたのを芚えおいる。圌女のあの茪郭の䞭に、私も入りたかった。圌女の攟぀知的な枩床に、少しでも觊れおいたかった。
     そしお、運呜の悪戯のように、䞉回目のグルヌプ䜜成の時が蚪れた。今床は教授から「今回は誰ずでも、自由に組んで良い」ずいう指瀺が出た。講矩宀内が䞀気に隒がしくなり、孊生たちが互いに声を掛け合う䞭、私は心の䞭からCさんず同じグルヌプになりたいず匷く願っおいた。しかし、あの高校時代のAさんぞのストヌカヌ玛いのSNSでの倧倱敗による倱恋ず、その埌の倧孊䞀幎生でのBさんずの間の欺瞞に満ちた䞀件以来、私の䞭には「自分は女の子慣れしおいない」ずいう臎呜的な匕け目ず、他者に近づけば必ず盞手を䞍快にさせるずいう恐怖心が、刺青のように根深く残っおいた。断られたらどうしよう。私の醜い内面が芋透かされたらどうしよう。そう思うず、どうしおも自分から圌女の垭ぞ歩み寄り、声をかけるこずができなかった。呚りが次々ずペアを決めおいき、取り残されおいく焊燥感の䞭、私は講矩宀の隅で、䞀人で教科曞やノヌトを凝芖し、自分の存圚を消すように芋぀めおいた。
     その時、私の頭䞊から、秋の冷たい空気を震わせるような、鈎の鳎るような柄んだ声が降っおきた。
     「䞀緒のグルヌプに入っおいい」
     驚いお芋䞊げるず、そこにはい぀の間にか垭を立っお私の前に䜇んでいる、Cさんが立っおいた。他の班の人数合わせだったのかもしれない。ただ偶然、䞀番近くの垭に私が䞀人でポツンずいただけなのかもしれない。それでも、他ならぬCさんの方から、この孀独な私に察しお声をかけおきおくれたのだ。嬉しさのあたり、私の心臓は肋骚の裏偎で激しく跳ね䞊がり、声がたずもに裏返りそうになるのを必死で堪えながら、蚀葉にならないたた䜕床も深く銖肯した。その日のうちに、私たちは驚くほどスムヌズに、互いの意芋を調和させながら研究内容を決めた。机を挟んで、十数センチの距離で向かい合う圢で座ったこずもあり、私は初めお、圌女の顔を至近距離で、遮るものなくしっかりを芋぀めるこずができた。少し短めの、耳のラむンできれいに切り揃えられたショヌトボブ。瞬きをするたびに繊现に揺れる、綺麗に匧を描く二重の瞌。すっず真っ盎ぐに通った高い錻筋、そしお蚀葉を玡ぐたびに知的な圢状を芋せる薄い唇。身長は同䞖代の平均よりも少し高めで、奇劙なこずに、私ず同じような暗めの色調の服、黒やネむビヌの倖套を垞に奜んで着おいた。圌女を心から奜きになるのに、これ以䞊の時間は党く必芁ずしなかった。私の䞖界は、䞀瞬で圌女の色圩に染たった。
     私より二歳幎䞊であった圌女は、䞀床別の瀟䌚を経隓しおきたからなのか、あるいはただ浪人しおいたからなのか、同じ孊幎であるもののすでに成人しおおり、酒ずタバコをこよなく愛しおいた。講矩䞭に窓の倖を芋぀めながら指先を動かす仕草に限らず、倧孊の枡り廊䞋や喫煙所の近くですれ違うたび、圌女は悪戯っぜく、少幎のような埮笑みを浮かべながら、私に自分の愛甚しおいる銘柄のタバコを勧めおきた。
     「倧庭くんも、䞀本吞う」
     未成幎であった私は、圓然その誘いに乗るわけにはいかなかったし、法を犯す床胞もなかった。しかし、圌女の指先から立ち䞊る玫煙の匂い、その向こう偎にある倧人の䞖界の圧倒的な自由さず、自分を「子䟛」ずしおではなく察等な人間ずしお特別に扱っおくれおいるかのような錯芚に、身䜓を心が远い越すように、今すぐその癜い煙を肺いっぱいに吞い蟌み、未成幎喫煙をしおしたいたいずいう猛烈な衝動に駆られたのを芚えおいる。い぀しか、Cさんは暗闇ず実家の重圧の䞭にいた私の、たった䞀぀の生きる垌望、息ができるオアシスずなっおいた。
     奇遇にも、私たちは同じアヌティストを熱狂的に愛しおいた。深倜の郚屋で䞀人で聎かなければ耐えられないような、孀独な魂に寄り添う音楜。過去に参戊したLIVEの熱い空気感、倜䞭に䞀人で聎いお救われた心に残る歌詞の意味に぀いお、私たちは講矩の合間、時間が蚱す限りさたざたな話をよくした。音楜を通じお、私たちの魂は深く共鳎し合っおいるように思えた。しかし、私は最埌の最埌たで、Cさんがそのアヌティストの「どの歌が䞀番奜きなのか」を、どうしおも聞くこずができなかった。
     怖かったのだ。もし、Cさんが䞀番奜きな歌のタむトルを知っおしたい、そのメロディず歌詞を共有しおしたったら、その歌が私の人生のすべおを支配しおしたう。圌女の奜きな䞖界が、私の脆匱なアむデンティティを完党に䟵食し、圌女の䞀挙手䞀投足、蚀葉䞀぀によっお、私の呜の残量が巊右されるようになっおしたう。自分の境界線が圌女の䞭に溶けお消えおいくこずが、恐ろしくおたたらなかったのだ。
     そこでふず、私の脳裏に、過去のあの醜い、高校時代のAさんに察しお向けた剥ぎ出しの欲の蚘憶が蘇った。あの時の私は、盞手の郜合も考えず、ただ自分の執着ず独占欲を䞀方的にぶ぀け、関係を砎滅させた。私は思い知ったのだ。私は、自分が特別に想い、愛しおしたった盞手に察しお、たたい぀かあの卑劣で醜い欲を向けおしたう可胜性がある、ずいう類のものを。それは私にずっお、䜕よりも恐ろしいこずで、この枅らかで知的なCさんを、私の内なる醜悪さで汚しおしたうこずだけは、どうしおも避けたかった。
     圌女に近づけば、私はたた化け物になる。そうなる前に、私自身の遞択で、この透明な恋心を匷制的に抑え蟌む必芁があった。だから私は、圌女に拒絶され、醜い自分を軜蔑される前に、自らの手で「匷制的な倱恋」ずいう結末を遞び、圌女の前から静かに立ち去るこずにした。そしお同時に、この肥倧化しおいく恐怖ず孀独から逃れるため、䞀回目よりもさらに冷培で蚈画的な、完璧な「自殺」ぞず逃げ蟌むこずを決意したのだった。圌女を愛したたた、私は再び、自らの生を終わらせるための暗い階段を降り始めた。

    第8章 颚圧

     今回の自殺は、半幎前の春䌑みに衝動のたた動こうずしたあの拙い詊みずは、根本から違っおいた。私は冷培に、極めお蚈算高く、呚囲の人間すべおを自らの終幕に巻き蟌むためのプロットを、緻密に組み立おおいた。死ずいう絶察的な結末をもっお、䞖界に消えない傷痕を残すための、冷たい挔出。そのために私が遞んだ舞台が、倧孊の孊生盞談宀だった。
     倧孊二幎生の十䞀月、朚々が完党に葉を萜ずし、冬の気配が本栌的にキャンパスを支配し始めた頃、私は倧孊が運営しおいる孊生盞談宀のカりンセリングを受け始めた。最初の、アセスメントの垭においお、私は䞻に「深刻な䞍眠」を䞻蚎ずしお蚎えた。心理孊の知識をかじり始めおいた私は、どうすれば盞談宀のシステムが「優先床の高いケヌス」ずしお自分を認識し、週に䞀回の貎重なカりンセリングの枠を勝ち取れるかを、冷めた頭で蚈算しおいたのだ。私は話をこれでもかず倧袈裟に盛り、自分がどれほど粟神的に远い詰められ、倜の暗闇に苛たれおいるかを、絶劙な挔技を亀えお語ったこずを芚えおいる。その時の私は、臚床心理の専門家たちを自らの嘘でハッキングしおいるような、歪んだ䞇胜感に浞っおいた。
     やっずの思いで掎み取った、週に䞀回のカりンセリングの怅子。癜い壁ず、䞍自然なほど座り心地の良い゜ファが眮かれたその静密な空間で、私は自分のすべおを曝け出した。いや、曝け出しおいるかのように芋せかけた。倱螪した父芪のこず、冷え切り、眵声ず刃物が飛び亀う機胜䞍党の家庭環境、高校時代のAさんぞの劄執ず倱恋、その埌のBさんずの間に生じた欺瞞に満ちた過去の歪んだ恋愛経隓。そしお、それらの傷口に付随しお圢成された「他者を絶察に信甚できない」ずいう、ねじれきった私の内省に぀いお。担圓ずなった癜髪混じりの、穏やかな県差しをしたカりンセラヌが、私の魂の叫びをどこたで本圓に理解しおくれおいたかは分からない。圌がどれほど芪身になっお䞊䜓を傟け、私の苊痛を「傟聎」し、どんなに優しい「受容」の蚀葉を述べおくれおも、私の頭の片隅には垞に、氷のように冷めた確信があった。——所詮は、仕事の䞀環だ。マニュアル通りの察応、お決たりの技法に過ぎない。この倧人は、私の苊しみそのものを芋おいるのではなく、ケヌス蚘録の文字を远っおいるだけだ。
     䞀ヶ月が経過した頃、カりンセラヌは私が意図的に流した「停の情報」ず、時折その隙間に混ぜ蟌んだ「本物の絶望」を、完党に信頌しきっおいた。その時、私の䞭にどす黒い衝動が頭をもたげた。この優しそうな倧人が信じ蟌んでいる、カりンセリングずいう名の「安党な䞖界」を、私の死ずいう圧倒的な珟実の暎力によっお目の前で粉々に裏切ったら、圌は䞀䜓どんな顔をするのだろう。その絶望ず、自らの無力さに打ちひしがれる衚情を、この目で芋おみたかった。それは、私をこんな歪んだ人間に育おた䞖界に察する、そしお他者を救えるず傲慢にも信じおいる心理職ずいう人皮に察する、私なりのささやかな埩讐だったのだ。
     来宀しおちょうど䞀ヶ月のタむミング、十䞀月の終わりの、い぀もず倉わらないカりンセリングの最䞭、私はおもむろに、䞖間話のトヌンのたた告げた。
     「私は、この埌、自殺をしたす」
     カりンセラヌの顔から、䞀瞬で血の気が匕いおいくのが目に芋えお分かった。圌の穏やかだった瞳は恐怖に芋開かれ、呌吞が浅くなる。圌は狌狜しながら、およそ資栌所有者ずは思えないような、専門職ずしおの冷静さを完党に欠いた、ほが脅しに近い蚀葉を口にした。
     「そんなこずは絶察に蚱さない。今すぐ倧孊のしかるべき郚眲や、君のご家族、友人にたでこの話をしお、力ずくで君を守っおもらうこずになる」
     危機介入のマニュアルを必死になぞりながらも、目の前の孊生を倱う恐怖に怯える圌の姿を芋お、私は心の䞭で深く冷笑した。ここでどんな嘘を぀いお圌を安心させようが、私はこの足で死に向かうのだから、二床ずこの男に䌚うこずはない。圌の脅しは、私の冷培な決意の前には無力だった。だが、私はあえお、カりンセラヌのその「脅し」に屈した、無力な子䟛の振りをするこずにした。「分かりたした。今日の攟課埌、もう䞀床ここに来たす」ずいう圌の必死の提案を、埓順な笑みを浮かべお受け入れ、ひずたず安心した圌を盞談宀に残しお郚屋を出た。なんず愚かで、哀れな倧人だろう。他人の呜をコントロヌルできおいるず信じ蟌んでいるその姿が、ひどく滑皜だった。
     攟課埌。倕闇がキャンパスを急速に䟵食しおいく頃、カりンセラヌは盞談宀の゜ファで私を信じお埅っおいただろうが、私はすでに別の堎所で、死ぞのカりントダりンを開始しおいた。私は、自分の生きた痕跡を敎理するように、スマホやパ゜コンずいった貎重品、そしお自己の身分を蚌明するすべおのカヌドが入っおいる財垃を、倧孊の貞出ロッカヌの䞭に静かに詰め蟌んだ。ロッカヌの鉄の扉を静かに閉め、その鍵を、倧孊二幎生になっおからようやく知り合うこずができた、孊内で唯䞀の友人に手枡した。突然のこずに困惑する圌の目を真っ盎ぐに芋぀め、「これを預かっおおいおくれ」ずだけ蚀い残しお、私は螵を返した。圌に、私の最埌の重荷を抌し付けるようにしお。
     そのたた、私は駅ぞず向かった。冬の刺すような冷たい颚が吹き抜ける、薄暗いホヌムの端。私は黄色い線のギリギリに立ち、冷たいレヌルを芋぀めお、䜕床も深く息を敎えた。私の網膜に映る鉄路は、どこたでも冷酷に䌞びおいた。やがお、ゎヌずいう、地鳎りのような重苊しい振動ず共に、巚倧な鉄の塊がヘッドラむトの光で芖界を癜く染めながら、猛烈な速床で近づいおくる。
     あずは、半歩を螏み出すだけ。あんなに固く意志を固め、完璧なプロットを挔じおきたはずだった。  なのに、私の身䜓は、コンクリヌトに根を匵った石のように硬盎しお、ピクリずも動かなかった。死ぞの䞀歩を螏み出そうず脳が呜什を出しおも、足の筋肉がそれを完党に拒絶するのだ。それは決断力の䜎さずいう高尚なものでは決しおなく、死ずいう絶察的な虚無、肉䜓が損壊するこずぞの、生物ずしおの本胜的な恐怖が私の党粟神を圧倒し、勝っおしたったのだ。金瞛りに遭ったように震え、私はホヌムの癜線の内偎で、ただ鉄の塊が激しい颚圧ず共に目の前を通り過ぎおいくのを、呆然ず芋぀めるこずしかできなかった。私は死ぬこずすらできない、肉䜓の奎隷だった。
     その時、ホヌムの端でガタガタず異垞な震え方をし、立ち尜くしおいる私の姿を遠くから䞍審に思った乗客のひずりが、血盞を倉えお駅員を連れお走っおきた。私は抵抗する気力すらなく、その堎で䞡脇を抱えられるようにしお確保され、倧孊の盞談宀ぞず、私が隙したはずのあの郚屋ぞず、区制的に連れ戻された。
     倧孊ぞ戻される間、そしお盞談宀のあの冷たいパむプ怅子に再び座らされおいる間、私は呚囲の倧人たちの芖線の䞭で、たるで蚀葉を倱った子䟛のように、ただ倧声を䞊げお泣き続けおいた。死ぬこずすらできなかった自分の培底的な無力さず、生物ずしおの栌奜の぀かない恐怖に負けた情けなさ。䞖界の欺瞞を暎くはずだった私の埩讐劇は、ただの惚めな道化の隒ぎぞず成り䞋がっおいた。アセスメントを受けおいた、か぀お隙したはずの盞談宀の倧人たちに厳重に囲たれ、事情を、理由を、厳しく尋ねられたが、私の口からはただ、意味をなさない嗚咜だけが挏れ出た。
     結果ずしお、それは圓然の垰結ずしお、その日のうちにすべおの事情が母の知るずころずなった。盞談宀から実家ぞず連絡がいき、母が青ざめた顔で倧孊ぞず駆け぀けおきたのだ。これが、私の二回目の自殺未遂。その晩、冷え切った実家の居間で、呌び出された母ず、赀く泣き腫らした顔のたた深倜たで話し合った。互いに声を枯らし、家庭の歪みを認め、お互いにこれたでの態床を改めお倉わるこずを、今床こそ血の玄束のように深く深く結んだのだった。しかし、その玄束の虚しさを、私はただ知らなかった。

    第9章 䞍実

     あの凄絶な自殺未遂の隒動ず、盞談宀での号泣、そしお実家の居間で母ず深倜たで亀わした「倉わるずいう玄束」の䜙韻が冷めやらぬたた、季節は巡り、私は二十歳の倧節目である成人匏を迎えた。䞀時は死の瞁に立っおいた自分が、䜕食わぬ顔をしお晎れ着に身を包んだ同䞖代の矀衆の䞭に混ざっおいる。その厳然たる事実に、私はどこか奇劙な、珟実から䞀歩浮いたような乖離感を抱いおいた。
     きらびやかな極圩色の振袖や、仕立おの新しいスヌツに身を包んだ、か぀おの同玚生たちが溢れかえる匏兞の䌚堎。寒颚が吹くその隒がしい広堎で、私は再䌚したさたざたな友人たちから、䞀様に驚愕の声を䞊げられるこずになった。 「おい、お前、本圓に倧庭か」 「おいおい、めちゃくちゃ痩せたな 䞀䜓䜕があったんだよ」 口々に叫び、目を芋匵る圌らの反応は、私の内に燻っおいた暗い歪みを埮かに満足させた。それもそのはずだった。䞭孊・高校時代の私を知る者たちにずっお、あの灰色の日垞の䞭で20キロもの無駄な肉を削ぎ萜ずし、陰鬱な雰囲気を無理やり衚局から剥ぎ取った珟圚の私の姿は、たるで別人のように映ったのだ。私は倖芋ずいう匷固な城壁を築くこずで、内面のドロドロずした脆匱性を必死に隠蔜しおいたのだ。
     匏兞の最䞭、昔から仲の良かった数少ない友人たちず、たるで時蚈の針を巻き戻すように懐かしい話をたくさんした。
     そしお倜には、暖房の効きすぎた隷がしい居酒屋で、倧きな同窓䌚が開催された。無数のグラスが耳障りな音を立おお觊れ合い、倧人の真䌌事のような安っぜい笑い声や怒号が四方に飛び亀うその猥雑な空間で、私は圌女――Dさんず、劇的な再䌚を果たした。
     Dさん。圌女ずは䞭孊校時代に非垞に仲が良く、攟課埌の教宀や郚掻の垰り道、倚くの時間を共有した間柄だった。そしお圓時の私は、圌女に察しお、䞀方的で狂おしいほどの淡い奜意を抱き続けおいた。䞭孊の卒業を間近に控えたある日、私は人生のすべおの勇気を振り絞るようにしお、圌女に䞀床だけ告癜をしたこずがあった。しかし、その結果はもちろん、無残な玉砕だった。圓時の私を包んでいたのは、圧倒的な拒絶の拒絶感だけだった。なぜなら、圌女の蚘憶の䞭に眠る私の姿ずいえば、圓時の平均䜓重を優に15キロもオヌバヌしおいた、䞍恰奜で倪っおいた醜い少幎でしかなかったからだ。その「倪った面癜い男友達」ずいう郜合の良いカテゎリヌで蚘憶が完党に止たっおいた私が、20キロの枛量を経お、スマヌトな倧人の男の䜓型をしお目の前に珟れたのだ。その劇的な倉貌は、圌女の目を吞い寄せるような、圌女の奜奇心を猛烈に刺激したようだった。
     「ねえ、倧庭くん、本圓に倉わったね。昔の面圱が党然ない。今床、二人で遊びに行こうよ」
     お酒が回り、居酒屋の垭の枩床が䞊がるに぀れ、圌女からの遊ぶ玄束ぞの誘いは猛烈さを増しおいった。私はただ二十歳の誕生日を迎えおいなかったため、その隒がしい垭ではお酒を䞀切口にしおおらず、烏韍茶の入ったグラスを握りながら、極めお冷めた頭で圌女の蚀葉を聞いおいた。私は圌女のその熱量のある発蚀を、単なる「アルコヌルがもたらした酔っ払いの戯蚀」ずしお受け流そうず、曖昧な笑みを浮かべおやり過ごしおいた。しかし、Dさんは私のその消極的な態床を蚱さなかった。圌女は私のノヌトを奪い取るような匷匕な仕草で、私のスマヌトフォンを半匷制的に操䜜させ、スケゞュヌル垳のアプリを開かせた。そしお、有無を蚀わせぬ鮮やかな手付きで、遊ぶ日皋の具䜓的な調敎を始めたのだ。あれよあれよずいう間に、私の画面には、圌女ず二人きりで䌚う具䜓的な日付が刻たれおしたった。
     䞭孊時代、あれほど遠くから憧れ、そしお私を容赊なく振ったあの矎しい圌女が、今や向こうから私を求めおスケゞュヌルを瞛ろうずしおいる。その冷厳な事実は、圓時の私にずっお、たるで倜毎に芋る郜合の良い倢のようで、遊ぶ圓日を迎えるたでの数週間、私は毎倜、自宀のベッドの䞭で胞の痛烈な高鳎りを抑えられずに、遠足前の子䟛のようにワクワクずした日々を過ごしおいた。倖芋を倉えたこずで、過去の敗北がすべお䞊曞きされるかのような、歪んだ党胜感が私を満たしおいた。
     奇遇にも、互いの空いおいる予定がぎったりず合臎したのは、私の二十歳の誕生日の前日――二月四日だった。自分の人生が新しく生たれ倉わる誕生日の前倜を、か぀お激しく焊がれた少女ず二人きりで過ごす。これは偶然などではなく、存圚するか分からない神様が私に䞎えおくれた、粋な運呜の挔出なのではないかず、私は本気で舞い䞊がっおいた。
     圓日、午埌五時。私は冬の凍お぀く空気の䞭で、少し緊匵で指先を震わせながら、原宿駅の竹䞋口の喧隒の䞭で圌女を埅った。カラフルな人混みの向こう偎から珟れたDさんは、䞭孊校の頃の蚘憶よりもずっず倧人びおいお、掗緎された郜䌚の雰囲気を身にたずっおいた。私たちは䌚っおすぐに「安党に家に垰れるように、午埌䞃時には解散しようね」ず、あらかじめ固い玄束を亀わしおいたのだ。
     しかし、いざ竹䞋通りの人混みをすり抜けながら話し始めるず、䞭孊時代のあの泥臭い思い出話や、互いの通う倧孊生掻の退屈な愚痎など、䌚話は私たちの予想を遥かに超えお爆発的な盛り䞊がりを芋せおしたった。二人で笑い合っおいる時間は、あたりにも䞀瞬で過ぎ去っおいった。 玄束の午埌䞃時を告げる街のチャむムが遠くで鳎り響いおも、私たちは駅の改札口ぞず向かうこずがどうしおもできなかった。実家の門限を砎った時に埅ち受ける、母からのヒステリックな远及ぞの匷烈な恐怖も忘れ、目の前でたばゆくきらめいおいるDさんずの時間ぞの執着が、完党に勝っおしたったのだ。私は自ら、檻の鍵を壊した。
     私たちは倜の冷たい街を歩き、きらびやかな六本朚ぞず移動した。展望台ぞず昇り、ガラス窓の向こう偎に広がる、たるで宝石を容赊なく散りばめたような東京の矎しい倜景を、私たちは蚀葉を倱っお静かに芋䞋ろした。暗闇の䞭に浮かび䞊がる光の波を芋぀めながら、私は自分の隣に圌女がいるずいう奇跡に、陶酔しおいた。その埌、新宿駅付近の、薄暗い間接照明が灯る萜ち着いたカフェに移動した頃には、スマヌトフォンの時蚈の針は、深倜零時を指そうずしおいた。
     カチリ、ず日付の数字が切り替わった瞬間、圌女はグラスを少し持ち䞊げ、私の目を優しく芋぀めお蚀った。
     「倧庭くん、二十歳の誕生日おめでずう」
     か぀お、私の醜さゆえに私を拒絶したはずの少女が、私の二十歳ずいう人生の最倧の幕開けを、二人きりの密宀のような空間で埮笑みながら祝っおくれおいる。私は幞犏の絶頂にいた。過去のトラりマがすべお掗い流されたかのような錯芚。しかし、その舞い䞊がったあたりにも愚かな脳のせいで、私はその盎埌、取り返しの぀かない臎呜的な発蚀を口にしおしたったのだ。
     「ありがずう。やっず二十歳になったし、今床、二人で飲みに行こうよ」
     それは、倧人の仲間入りをしお、お酒が解犁されたこずに察する、玔粋な祝祭の誘いの぀もりだった。そこには生々しい䞋心など、少なくずもその瞬間には自芚しおいなかったはずだった。しかし、楜しかった倢のようなデヌトが終わり、数日埌、日垞の灰色の矀青に戻った郚屋で、圌女ず電話で話をしおいた際、受話噚の向こうから流れおきた圌女の声に、私は党身の血が凍り぀くような衝撃を芚えるこずになる。
     「あのさ、倧庭くん。ちょっず気になったんだけど あの時の、今床二人で飲みに行こうっおいう蚀葉。私、正盎、もしかしお"䜓目的"なのかなっお、ちょっず譊戒しちゃったんだよね」
     その蚀葉が耳の錓膜を震わせた瞬間、頭を金属バットで激しく殎られたような、匷烈な衝撃が走った。芖界が䞀瞬で暗転する。ああ、たただ。たた私はやっおしたったのだ。私の内に深く巣食う、あの高校時代のAさんに察しおぶ぀けようずした、汚く醜い剥き出しの欲。それが、どれほど倖芋を20キロの枛量で取り繕おうずも、隠しきれずに私の蚀葉の端々から、毒液のように挏れ出おしたっおいたのだ。圌女を玔粋に楜したせ、自分を肯定しおもらうための矎しいデヌトの裏偎で、私の攟った䞍甚意な䞀蚀が、Dさんを無意識に傷぀け、怯えさせ、譊戒させおいたのだずいう冷酷な珟実に、私は盎面させられた。私は、私自身の底知れない身勝手さず、他者を性的な察象ずしおしか芋られない未熟な醜悪さに、激しい倱望ず、反吐が出るほどの嫌悪を芚えた。
     「違うそんな぀もりじゃなかったんだ、本圓にごめん」
     私は受話噚に向かっお、狂ったように匁解ず吊定の蚀葉を必死になっお䞊べ立おた。私のその哀れなほどの必死さに免じおか、あるいはただ電話越しの気たずさに耐えかねおか、圌女は「ううん、分かった。私の考えすぎだね、この捉え方は間違っおたね」ず、私の蚀葉を受け入れおはくれた。しかし、䞀床私の心に深く突き刺さった、自己嫌悪ずいう名の「蚀葉の針」は、二床ず抜けるこずはなかった。私は、もう圌女ず二床ず䌚うべきではない、ず自分からこの関係を完党に絶぀話を切り出した。すべおは、私の勝手で、歪みきった䟡倀芳のせいだった。これ以䞊、圌女を私の内なる醜悪さで傷぀けたくないずいう歪んだ防衛本胜ず、これ以䞊惚めな自分を晒したくないずいう独善的なプラむド。私の未熟さず理䞍尜さが、最悪な圢で党面に出た、あたりにも呆気ない幕匕きだった。圌女は私の突然の拒絶に困惑しおいたが、私は自ら電話を切り、圌女のアカりントを静かにブロックした。自らの手で、たた䞀぀、矎しい関係を殺したのだ。
     それでも、私は二十䞉歳になった今でも、あの二月四日の新宿のカフェで、日付が倉わった瞬間に私を芋぀めおくれた圌女の眩しい笑顔を、激しい胞の痛みを䌎いながらも、「楜しかったな」ず、狂おしく思い出すこずがあるのだ。その淡い幻圱だけが、私の冷え切った倜の郚屋に、消えない火傷のような熱を残し続けおいる。

    第10章 浮遊

     倧孊䞉幎生になり、私たちの䞖代にもようやく「お酒」ずいう、瀟䌚的な免眪笊が解犁された。金曜日の倜の居酒屋が攟぀隒々しい喧隒、無数のグラスが觊れ合う軜快な音、そしおアルコヌルがもたらす䞀時の気分の高揚ず解攟感。それらは確かに、私の深く冷え切った退屈な日垞に察しお、ささやかな、しかし確かな色圩を䞀時的に䞎えおくれた。お酒を飲んでいる瞬間だけは、自分が二十歳の倧人の䞀人ずしお䞖界の片隅に存圚しおいるような、そんな圓たり前の錯芚に浞るこずができた。
     しかし、それず同時に、実家における母の私に察する束瞛ず、理䞍尜に科される家庭内ルヌルは、狂気を増しおさらに厳栌なものぞず倉貌しおいった。私が倖の䞖界ぞ䞀歩を螏み出し、他者の䜓枩に觊れようずするたびに、圌女の支配欲は防衛的に肥倧化しおいったのだ。
     私に課されたのは、成人した倧人のそれずは到底思えない、胞の奥の呌吞を完党に止めるような、あたりにも残酷な制玄だった。倖出する際は、少なくずも䞀週間前たでに「誰ず」「どこぞ行き」「䜕をするのか」を、曞面のように詳现に報告するこず。れミや友人ずの飲み䌚に参加する際は、どんな正圓な理由があろうずも、午埌五時たでに必ず退垭しお垰路に぀くこず。地元の友人ず遊ぶ際も、午埌八時たでには必ず玄関のドアを開けお垰宅しおいるこず。それだけではなかった。遊びに行く堎所や同行する人間の名前、䞀日のタむムスケゞュヌルを事前にすべお母に䌝えなければならず、さらに遊んでいる最䞭にも、私のスマヌトフォンぞ「今どこで䜕をしおいるか」の蚌明を求めるような、定期的な近況報告のメッセヌゞを執筆しお送信するこずを匷芁された。少しでも返信が遅れれば、画面は母からの執拗な着信履歎で埋め尜くされた。
     それらの狂気的なルヌルは、私の胞を冷たい鉛のように圧迫し続け、毎朝起きるたびに感じおいたささやかな生きる気力を、じわじわず、しかし確実に削ぎ萜ずしおいった。昔から、あの家は䜕䞀぀倉わっおいなかったのだ。あの駅のホヌムで足がすくんで連れ戻された二回目の自殺未遂の倜、泣き腫らした顔で「これからはお互いに倉わろう」ず涙を流しお深く結んだはずの玄束は、母にずっおはただのその堎の気の迷いに過ぎなかったのだ。圌女の支配欲ずいう名の病理は、玄束などで治癒するものではなかった。
     思えば、私の自由ずいう名の翌は、䞭孊時代から培底的に、根元から捥がれおいた。束瞛の激しい家庭のせいで、郚掻動の攟課埌の居残り緎習には満足に参加させおもらえず、呚囲の郚員たちから孀立しおいった。土日の緎習詊合はおろか、本番の公匏詊合に行くこずすら、母の「勉匷の邪魔になる」ずいう䞀蚀で蚱されなかった。高校時代は、六限の終了を告げるチャむムが鳎り響くず同時に、寄り道せずに即垰宅するこずが矩務付けられおいた。たれに、あの異様に日の隠れるのが早かった倕暮れ、肉屋の店先でほんの数分の道草を食っおコロッケを霧っおいたささやかな抵抗の際も、家に垰れば所属すらしおいない委員䌚の名前を必死に脳内で絞り出し、嘘の蚀い蚳を組み立おお難を逃れるしかなかった。土日は䞀歩も倖に出るこずを蚱されず、薄暗い自宀の机で勉匷を匷制される。そんな、呌吞を奪われた毎日。倧孊に入り、倖芋を倉えれば、この暗闇から抜け出しお新しい自分に倉われるはずだず盲目的に信じおいた。それなのに、二十歳を過ぎお倧人になっおもなお、私はあの実家ずいう名の檻の䞭に閉じ蟌められた、哀れな囚人のたただったのだ。私は自分の人生の䞻暩を、䜕䞀぀握れおいなかった。
     だから私は、今床こそ本栌的に、確実にこの䞖界から死ねるよう、培底的に「善凊」するこずにした。もう䞭途半端な䌁おで生き恥を晒すのは埡免だった。  倧孊䞉幎生の六月。湿った梅雚の雚が窓ガラスを濡らす倜、私はむンタヌネットの海を深く泳ぎ、確実な臎死量ず実瞟のあるブロン錠を、別々の薬局を回っお二瓶、完党に買い揃えた。さらに、薬の吞収を早めお回りを極限たで早くするための、アルコヌル床数の高い匷いお酒。自宀の頑䞈な倩井の梁から銖を吊るすための、ホヌムセンタヌで賌入した倪い玐。そしお、䞇が䞀のために手銖の動脈を深く切り裂くための、高校時代からずっず愛甚しおいた䜿い叀されたカッタヌナむフ。それらを深倜、母が眠りに぀いたのを芋蚈らっお自宀の机䞊に完璧に準備し、静かに実行に移した。
     しかし、その結果は、あたりにも無様で、どこか倱笑を犁じ埗ないほど滑皜なものだった。私は100錠に近い、手のひらに溢れるほどの癜い錠剀を、匷い酒の刺激で䞀気に喉の奥ぞず、胃袋ぞず流し蟌んだ。喉が焌けるような感芚。しかし、蚈画しおいた玐に銖を通す前に、倧量の薬物の成分ず匷烈なアルコヌルの急激な混濁が、私の脳の党神経を激しく盎撃した。私は手銖にカッタヌを圓おるこずも、玐に手をかけるこずもできず、ほが気絶に近い圢でベッドの䞊に厩れ萜ち、そのたた深い意識の闇ぞず萜ちおしたったのだ。手銖を深く裂くこずも、甚意した玐を䜿うこずもできないたた、私の䞖界はただ呆気なく暗転した。死ぞの決断力の䜎さを、肉䜓の生䜓防埡反応に阻たれた栌奜だった。
     次の日の、お昌過ぎになっお、私はようやく泥のような意識の底から目を芚たした。芖界がぐらぐらず倩倉地異のように揺れ、激しい頭痛が襲う䞭、私の枕元には、母ず兄の二人が、生気のない冷酷な衚情で埮動だにせず立ち尜くしおいた。私の足元の床には、空になったブロン錠のやけに光を反射したガラス瓶が二぀ず、転がっおいる匷い酒の空き猶、そしお倩井から吊るされるこずのなかった䜿い叀された玐ず、剥き出しのカッタヌナむフが散乱しおいた。すべおの蚈画が、蚀い蚳のしようもないほど完党にバレおいた。二人は、私の意識が戻ったのを確認するず同時に、耳を劈くような激しい声で、こっぎどく怒り狂い、容赊のない眵声を济びせおきた。お前はどこたで芪䞍孝なんだ、なぜこんな䞋らないこずをするんだ、ず。
     ただ、胃の䞭で溶け出した倧量の薬の圱響が、ただ脳の芯に深く残っおいたのだろうか。私の肉䜓ず粟神は、珟実の眵声ずは裏腹に、奇劙なたでの心地よい浮遊感ず、脳の现胞䞀぀䞀぀を優しく痺れさせるような、絶察的な党胜の幞犏感に包たれおいた。母の叫び声も、兄の軜蔑の芖線も、珟実の痛みのすべおが、たるで厚い氎の膜の向こう偎で行われおいる他人の出来事のように、酷く遠くに感じられた。  二人が私に察しお䜕を叫んでいるのか、どんなに私を傷぀けるための酷い蚀葉を発したのか、私はほが䜕䞀぀、耳の奥に残らず芚えおいなかった。ただただ、薬がもたらす倩囜のような埮熱の䞭で、がんやりず倩井を芋぀めおいた。しかし、蚀葉の意味は分からずずも、この凄絶な隒動が決定打ずなった。私は長幎私を瞛り付け、私の翌を捥ぎ続けおきたあの䜏み着いた実家から、荷物ず共に匷制的に远い出されるこずになったのだった。
     檻の扉は、最悪な圢で砎壊され、私は぀いに、剥き出しの荒野ぞず攟り出された。実家からの远攟。それは、私の人間関係がさらに急速に、砎滅的な「関係の死」ぞず向かっお加速しおいく、孀独な䞀人暮らしの幕開けでもあった。脳内に残る浮遊感の残像を抱えながら、私は自らの人生の、次なる血に塗れた章ぞず足を進めおいった。

    第11章 密宀

     実家を远い出される、ず蚀い枡されたものの、定収入の乏しい䞀介の倧孊生の身で、新たな物件の遞定や耇雑な賃貞契玄の手続きがすぐに進むわけもなかった。私は、あの100錠の薬を飲み干した自宀の、癜々ずした倩井の䞋で、盞倉わらず実家の䞭に挂う冷え切った家庭の針に耐えながら、日々を過ごしおいた。針のむしろのような芖線、䌚話の途絶えたリビング、匵り詰めた空気。そんな窒息しそうな日垞の䞭で迎えた、倧孊䞉幎生の八月。れミ仲間の四人ず共に、前期の過酷な講矩や課題の苊劎を互いに劎うための、ささやかな慰劎䌚を行うこずになった。それが、あの地獄のような実家から数時間だけでも逃れるこずのできる、唯䞀の隠れ蓑だった。
     倜の居酒屋。アルコヌルの匂いず若者たちの無責任な笑い声が充満する店内で、その惚劇は静かに幕を開けた。メンバヌの䞀名であったEくんは、明らかに最初から飲むペヌスを誀っおいた。日頃の抑圧があったのか、あるいはただの自己コントロヌルの未熟さゆえか、圌は床を超えお、芋る芋るうちに泥酔しおいった。お店を出た埌、倜の駅前のアスファルトの䞊で、圌の様子は完党に垞軌を逞しおいた。足元は芚束なく、地面にドロドロず厩れ始めたり、通行人のいる倜の道路の真ん䞭で狂ったように螊り始めたりず、呚囲の誰もが手を぀けられない深刻な䞍適応状態に陥っおいた。加えお、最悪なこずに、圌は理性を完党に倱った獣そのものぞず成り䞋がり、その堎にいたれミ仲間の女の子党員の身䜓を、拒絶を無芖しお執拗に觊り始めたのだ。
     私たちは、目の前で繰り広げられるあたりにも醜悪な境界線の䟵害に狌狜しながらも、これ以䞊のトラブルを防ぐため、その居酒屋から最も近い堎所に䜍眮しおいたFさんの家ぞず、圌を䞡脇から抱きかかえるようにしお避難させた。しかし、䞭に入っおもEくんの暎走は止たらなかった。圌はFさんの家のトむレを激しく汚損し、限界を超えお泥酔し続けた。自分の神聖なプラむベヌトスペヌスを汚されたFさんは、それたでの芪切心が嘘のように怒りず我慢の限界に達し、冷培な声で私たちを拒絶した。 「党員、今すぐ出お行っお」 その鋭い叫びによっお、私たちは深倜の、冷え切った倜の街ぞず文字通り远い出されおしたった。
     静たり返った深倜の路䞊。私たちはひずたず、完党に理性を倱っお泥のようになっおいるEくんを、近くに停めおいた車の䞭に無理やり抌し蟌み、そこで朝たで車䞭泊をするように冷たく蚀い残しお、その堎に容赊なく眮き去りにした。それは、圌にずっお圓然の報いだった。だっお、圌がその汚い手で無遠慮に觊った女の子たちの䞭の䞀人は、私が心から愛する、䞖界で唯䞀の特別な盞手――Nさんだったからだ。私の倧切な存圚、私の䞖界の䞭心を汚したその男に察する、脳の奥が沞隰するような激しい嫌悪ず、蚀葉にならない静かな怒りが、私の身䜓を激しく震わせおいた。
     その埌、他のれミ仲間ず別れ、私ずNさんは二人きりで、倜の駅前にある狭いカラオケボックスぞず逃げ蟌んだ。  宀内を照らすチヌプな液晶の光ず、壁越しに響く他人の歌声を遠くに聞きながら、私たちは朝が来るたで、様々な歌を歌い明かした。煙草の匂いが埮かに染み付いた暗い郚屋の䞭で、私は圌女の深く傷぀いた心に静かに寄り添い、゜ファヌの䞊で衣服越しに䌝わっおくる圌女の埮かな䜓枩を、すぐ近くで感じおいた。圌女の震える肩をそっず芋぀めながら、私はこの䞖界から圌女を脅かす党おの悪意を排陀したいず、本気で願っおいた。圌女の傷を癒やすこずだけが、私の壊れた生の唯䞀の目的になったかのような、そんな濃密な倜が明けおいった。
     九月初旬、倧孊の倏䌑みの終わりを告げるように、埅ちに埅ったれミ合宿が開催された。あの日の、䞀線を越えた飲みの垭での狂態がれミ内で倧きな問題ずなり、Eくんは教授から厳しい謹慎凊分を䞋され、合宿ぞの参加を犁じられおいた。圌の䞍圚は、私たちにずっお圓然の調和をもたらした。
     合宿の舞台ずなったのは、ある緑豊かな県にひっそりず䜇む、廃校を再利甚したノスタルゞックな宿泊斜蚭だった。䞀日目は、倏の終わりの高い青空の䞋、誰もいない校庭で声を掛け合いながらスむカ割りをし、倕暮れには煙に目を现めながら皆でバヌベキュヌの肉を囲み、倜には冷たい川の氎に足を浞しお子䟛のように氎遊びをした。二日目には、党員で汗をかきながら青々ずした山登りを楜しんだ。Cさんの時ずは違い、そこには私の内面を脅かす恐怖はなく、Nさんの存圚がすべおを優しく肯定しおくれおいた。
     その穏やかな倏の終わりず同時に、私は物件の審査を終え、぀いに実家を完党に離れお、念願の䞀人暮らしを開始した。母の檻からの、本圓の脱出だった。ずっず挑戊しおみたかった飲食店のアルバむトも決たり、私はたるで、長い飢逓の果おに也ききったスポンゞが氎を猛烈に吞い䞊げるように、アルバむトずいう新しい趣味の䞖界に没頭しおいった。
     そこには、やや理䞍尜で人間性に難のある店長や副店長がいお、私を振り回すこずもあったが、それ以䞊に優しく枩かいバむト仲間たちに囲たれおいた。その堎所のすべおが、私にずっお実家の暗い呪瞛、母のヒステリヌから完党に解攟された、党く新しい䞖界の始たり、私の生の再生の舞台だった。

    第12章 残像

     念願の䞀人暮らしを始め、実家の檻から物理的には脱出したはずだった。しかし、自由ず匕き換えに手に入れた静寂のワンルヌムで、秋の冷たい気配が郚屋の隅々に忍び寄るのず同時に、私の内奥から再びどす黒い「寂しさのバグ」が急速に頭をもたげ始めた。他者ずのたっずうな境界線を維持できない私の粟神は、孀独ずいう名の空癜を、たたしおも別の他者の䜓枩で埋めようず暎走し始めおいたのだ。
     九月埌半、新孊期が始たったばかりの倧孊の近くで、地域最倧芏暡の倧きな花火倧䌚が開催されるこずになった。その前日、私はれミの講矩宀で、窓から差し蟌む秋の斜光を济びながら、暪䞊びになっお昌食の賌買のパンを食べおいる最䞭、極めお䜕気ないトヌンを装っおFさんに声をかけた。
     「明日の花火倧䌚っお、やっぱり行くの」
    少し小柄で、華奢な肩をした圌女は、倧人数での賑やかで䞭身のない䌚話が酷く苊手なようだった。圌女を芳察しおいれば、そんな心の動きはすぐに分かった。私ず二人きりで話しおいるずきは、圌女は本圓によく笑っおくれ、蚀葉のキャッチボヌルが途切れるこずもない。でも、れミの倧人数が集たる公の堎になるず、圌女は急に口数が枛り、あの朚挏れ日のような眩しい笑みが嘘のように消え倱せおしたうのだ。私はそんな圌女の閉ざされた心をこじ開け、自分だけに笑顔を向けさせたいずいう独占欲に近い䞀心から、倧人数の堎でも意識しお圌女のすぐ近くに垭を取るようになっおいた。そんな歪んだ執着の日々を無自芚に繰り返しおいくうちに、私の心には、圌女に察する「特別な感情」がい぀の間にか深く芜生えおしたっおいた。
     その曖昧だった気持ちに絶察的な確信を持ったのは、高校時代からの数少ない友人二人ず、堎末の居酒屋に飲みに行った時のこずだった。私は圌女のこずを、呚囲に察しおはただの「気の合う女友達」だず、必死に予防線を匵るように䞻匵しおいた。だが、友人たちの客芳的な捉え方は違った。過去に互いの家に䞀回ず぀泊たり、狭い郚屋の床の䞊で、同じ䞀枚の毛垃を二人で被っお倜を明かした゚ピ゜ヌド。それは、男女の通垞の友人関係においおは絶察にあり埗ない、決定的な䞀線をすでに越えおいる、ず冷酷に指摘されたのだ。居酒屋のアルコヌルの熱気の䞭でその話をしおいる最䞭、私の脳裏にはFさんのあの小柄な茪郭が匷烈に浮かび䞊がり、私は猛烈に、今すぐ圌女に䌚いたくおたたらなくなった。これは、本圓に恋心なのだろうか。私には、私のすべおを捧げ、私を救っおくれた最愛のNさんずいう絶察的な存圚がいるずいうのに。たたには、い぀もずは違う味を食べたくなる。そんな、人間の底知れない汚い、䞍実な本質が、この私の䞭にも醜く眠っおいたのだろうか。私は自己嫌悪ず同時に、抗えない悊びを芚えおいた。
     「今のずころ、特に誰かず行く予定はないかな」翌日、講矩宀で私の問いかけに察しお攟った、Fさんのその䜕気ない蚀葉を聞いた瞬間、自分でも驚くくらい、胞の奥の心臓がドクンず倧きく高鳎るのを自芚した。
     「じゃあ、もしよかったら䞀緒に行かない 花火が本栌的に始たる前に、新しく借りたうちの郚屋で少しお酒でも飲もうよ」
     圌女は、少し驚いたように目を䞞くした埌、小さく、コクリず銖肯した。私はずおも嬉しかった。それは、激しい雚䞊がりのどす黒い空に、䞖界の誰よりも先に自分だけが、矎しい虹の出珟を認めた時のような、そんな玔粋で、同時に独占欲に塗れた歪んだ嬉しさだった。私は、圌女を䞀䜓どう思っおいるのだろうか。Nさんぞの背埳感が、その嬉しさをさらに鋭利に尖らせおいた。
     花火倧䌚の圓日。ただ生掻感の薄い私のワンルヌムの郚屋で、圌女ず少し窮屈に䞊んで座り、お酒の猶を傟けながら、テレビに映るホラヌ映画を芳た。䞍意に倧きな音が鳎り、キャッず本気で怯える圌女の小さな身䜓の気配、かすかなシャンプヌの銙りをすぐ近くで感じながら、私は䞋劣な興奮を芚えおいた。そしお、花火の開始時間ちょうどを芋蚈らっお、私たちは家を出た。
     䌚堎たでの、济衣姿の人々でごった返す倜の道すがら、立ち䞊ぶ屋台の灯りを散策し、やがお倜空にドヌンず倧茪の花火が打ち䞊がるのを、私たちは肩を䞊べお芋䞊げた。䞀時間匱ずいう、あたりにも短すぎる倏の終わりの倢。真っ暗な倜空を芋䞊げおいるず、私の内に枊巻く、Nさんぞの割り切れない䞍実な気持ち、Fさんぞの身勝手な欲望が、倜の闇に反響しお挏れ出おしたうのではないかずいう匷烈な䞍安に襲われた。しかし、五臓六腑を震わせる爆音ず共に火花が匟けるたび、その音の暎力が、私の脳内の雑音を綺麗に消し去っおくれた。赀、青、緑、倚皮倚様な極圩色の光が闇倜に鮮やかな色を付け、数瞬の圧倒的な芞術を描いおは、煙を残しお呆気なく倜空ぞ消えおいく。光に照らされた圌女の暪顔を盗み芋ながら、圌女は今、この花火を芳お䞀䜓䜕を思うのだろう、私のこずをどう考えおいるのだろう、ず思玢に耜っおいた。そんなこずを考えおいるうちに、私たちの最埌の倏が、静かに、しかし確実に閉幕を迎えた。
     垰宅埌、すっかり静たり返った郚屋で、屋台で買った冷めかけたたこ焌きを箞で二人で突぀きながら、今床は郚屋の明かりを暗くしお、画面に甘ったるい恋愛映画を流した。私は、明確にそういう雰囲気に持っおいきたかったのだ。䞋心がこれっぜっちもなかったず蚀えば、それは完党な嘘になる。倖芋を倉え、党胜感を手に入れた぀もりの私は、圌女もたた私のコントロヌル䞋にあるず過信しおいた。
     私は圌女に察しお「倜も遅いし、今倜はここに泊たっお欲しい」ず告げ、圌女がお颚呂に入るたでの、時蚈の針の音が倧きく響く少し開いた時間の䞭で、぀いに、私の栞心にある肝心の質問を、声を震わせながら口にした。
     「Fさんは  俺に察しお、そういう、異性ずしおの気持ちはあったりする」
     付き合っおくれず告癜する勇気はなかった。ただ、自分の本心を拒絶されるこずから守るための卑怯な照れ隠しずしお、そんな曖昧で遠回しな聞き方をしおしたったのだ。Fさんは、恋愛映画の青癜い光に顔を照らされながら、少し困ったように眉を䞋げお笑い、そしお、私のハリボテの自尊心を朚っ端埮塵に粉砕する、冷酷な珟実を口にした。
     「あはは、私もね、この前Gちゃんにそんな感じのこずを聞かれたんだよね。 でも、別に倧庭くんに察しお、そういう特別な気持ちは党くないよ。そもそも倧庭くんっお私のタむプじゃないし、ただの䜕でも話せる友達だもん」
     倜の静寂の䞭に淡々ず攟たれたその蚀葉は、䞀点の曇りもない、圌女の玔粋な「本心」そのものだった。 どんなに努力をしおも、人間の感情を意図的にハッキングするこずなどできない。私が圌女を郜合よく奜きだからずいっお、圌女が私を奜きになる理由なんお、この䞖界のどこにも存圚しないのだ。私たちの垞識は、誰かにずっおの非垞識。独りよがりの歪んだ幻想を完璧に打ち砕かれ、私の心には、十月の凍お぀くような冷たい朚枯らしが吹き抜けた。私はたた、ただの痛い勘違いをした道化に巻き戻されたのだ。
     倜、私たちは圢ばかりの境界線を守るように、同じ䞀぀の枕を巊右で共有しお、狭いベッドに入った。しかし、寝返りを打぀圌女の芏則正しい静かな寝息が郚屋に聞こえ、完党に深い眠りに぀いたのを暗闇の䞭で確認した埌、私は静かに、シヌツを擊る音を立おないようにベッドを抜け出し、床の䞊の別の冷たい就寝堎所ぞず移動した。圌女は私のこずを、䞋心のない玔粋な「友人」だず信じお、この郚屋に泊たっおくれたのだ。そんな無防備な圌女に察しお、私は個人的な、卑劣な、性的で独占的な感情を抱いおしたった。その眪悪感ず惚めさゆえに、同じ枕で眠り続けるこずが、私には到底蚱せなかった。
     圌女は、普段の寝癖は恐ろしいほどひどいくせに、朝の寝起きだけは驚くほど良いずいう奇劙な生態を持っおいた。翌朝、カヌテンの隙間から容赊なく差し蟌む秋の光の䞭で芋た圌女の無防備な寝顔は、盞倉わらず憎らしいほどに可愛かった。その可愛さが、私のフラれた事実をより䞀局惚めなものぞず際立たせおいた。
     花火のように、䞀瞬だけ激しく魅せおくれた、倏の終わりの儚い思い出。倢のように、䞀瞬だけ私の脳内に芳せおくれた、淡く䞍実な恋心。君ず倧孊でたた平然ず顔を合わせるなら、私は傷぀いおいない振りをしお、完璧な友人に戻るこずもできるだろう。ただ、私の肥倧化したプラむドがその珟実を消化するには、少しだけ時間が必芁だった。だから私は、これからの圌女の前では、䞀点の曇りもない、完璧に郜合のいい無害な友人を「培底的に挔じきろう」ず、心の䞭に冷たい鍵をかけた。君のあの、倧人数の堎では消えおしたう、私ず二人きりの時だけに芋せおくれる眩しい特等垭の笑顔を、これからも私の特等垭で盗み芋続けるために。私はたた䞀぀、自らの心に停りのペル゜ナを貌り付け、関係を「友人」ずいう名の死䜓ぞず移行させたのだった。

    第13章 宣告

     もし、私のこれたでの歪みきった人生を、䞀぀の矎しい、たっずうな物語ずしお曞き換えるこずが蚱されるならば。自分がこの䞖界に生たれた日の倩気よりも、これたでに暗闇の䞭で心を激しく震わせたどんな名䜜映画に出䌚った瞬間よりも、きっず、あの二十歳の春に出䌚った䞀人の女性――Nさんが、自然ず私の人生のプロロヌグのペヌゞを、最も矎しい色圩で食っおくれるのだろうなぁず、ふず思うこずがある。
     最初の印象は、たるで倪陜のように眩しく呚囲を無条件で照らす明るさを持぀ず同時に、ふずした瞬間に、䞖界の重荷を背負った月のように芋せる衚情を悲しげに倉える、䞍思議で、匷烈に魅力的な人だった。時には私よりも無邪気で幌く芋えお、時には私のすべおを芋透かすように、ずっず倧人にも芋える。
     そんなNさんずいう奇跡に出䌚えたこず。それがどれほど特別で、どれほど確率の䜎い奇跡みたいなこずなのかを、私は誰よりも知っおいる。でも、これはきっず「偶然」なんおいうありふれた蚘号では片付けられなくお、存圚するか分からない神様が、私の孀独の底から私を救い出すために䞎えおくれた、絶察的な「必然」なのだず感じるのだ。
     五月、スポヌツ倧䌚の退屈な打ち䞊げの垭で、君のこずをもっず知りたくお、私は呚囲の隒がしい空間の芖線をすり抜けるように移動し、君のいる卓ぞず滑り蟌んだこず。
     六月、誰もが面倒だず嫌がる文化祭の打ち合わせの際、共同代衚者ずしお、君が私の隣に䞊んで立候補しおくれたこず。その垰り道、倕闇の䞭で偶然立ち寄ったゲヌムセンタヌの隒がしい電子音の光の䞭で、クレヌンが掎み取ったぬいぐるみを君にプレれントしお、そのあずこっそりず自分甚ずしお同じぬいぐるみを入手したこず。
     九月、あの廃校でのれミ合宿の山登りの最䞭、私がうっかりお匁圓を傟けお䞭身を寄らせおしたい、君に本気で怒られたこず。
     十月、れミの講矩が終わり、倜の冷たい空気が満ちる䞭、君ず少しでも長く離れたくなくお、暗い駐車堎の前で足元を凍らせながら䜕時間も、他愛のない話を繋ぎ続けたこず。その埌の隒がしい飲みの堎で、抑えきれなくなった気持ちを、遠回しな蚀葉で䌝えおしたったこず。
     十䞀月、文化祭の圓日、恥ずかしさをすべお捚おお二人でりサギの耳を頭に付け、笑いながらむンスタントのチェキを撮ったこず。
     十䞀月十䞀日の倜、君が「玅生姜が食べたい」ず呟いた他愛のない願いを叶えるべく、私は倜の冷たい街ぞず走り、぀たみずしおお奜み焌きずたこ焌きを䞡手に提げお君の元ぞず走ったこず。
     そしお、深倜二時。䞖界が完党に静たり返った暗闇の䞭で、私は君に、自分の想いのすべおを告癜した。付き合う前だけでも、私たちの間にはこれだけの、数え切れないほどの瑞々しい思い出が溢れおいお、そのどれもが、今でも驚くほど鮮明に脳裏の最も深い堎所に焌き付いおいる。きっず、この蚘憶を語り出したら、2104幎ずいう遥か未来の果おたででも、私は色耪せるこずなく話し続けられる絶察的な自信がある。そんなかけがえのない時間を、Nさんずいう存圚ず共有できたこずが、私のこれたでの人生における、最倧の誇りだった。
     Nさんは私にずっお、この䞖界で唯䞀のかけがえのないもので、私の「䞀番」だ。そしお、私自身も君の「䞀番」になれたこずが、私がこの醜い䞖界に、あの実家の檻の䞭に生たれおきた意味だず、本気で思っおいる。これから先、䜕気ない平凡な日々も、特別な蚘念日の倜も、党郚Nさんず䞀緒に歩んでいけたら、それ以䞊の救いは私の人生にはないのだ。
     ――しかし、そんな眩いプロロヌグを綎ったはずの私の生は、やはりどこたでも歪んでいた。  季節は無情に巡り、Nさんず付き合っおから半幎が経過した、倧孊四幎生の五月が蚪れた。毎日、刀で抌したような同じこずの繰り返しの、重苊しい灰色の矀青が私の身䜓を包んでいた。倧孊ぞ行き、孀独に講矩を受け、生掻費のためにアルバむトぞ行き、倜は䞀人静かなワンルヌムの郚屋で想いに耜る。「自分は䜕のために生き、䜕が楜しいのか」ずいう䞍毛な自問自答を、倜の冷たい壁に向かっおぶ぀け続ける暗い日々。孊内では、ある小さな団䜓の長リヌダヌを務めおいた。ずいっおもかなり小芏暡な集たりで、所属しおいるメンバヌのほずんどが幜霊状態の機胜䞍党。もっずリヌダヌシップのある優秀な人がこの座をやればいいのになぁず、自らの統率力のなさず無力さを呪う毎日だった。
     珟実から逃避するように、毎日のようにシフトを狂ったように入れおいた。店長からは「1日に8時間勀務する日をドカンず䜜るくらいなら、4時間勀務にしお、できる限り出勀日数を増やしお珟堎の穎を埋めおくれ」ず蚀われたばかりだった。最近は連勀が続いおおり、手垳の来週のスケゞュヌル欄には「9連勀」ずいう狂った文字が䞍気味に䞊んでいる。GWの繁忙期があるから仕方ないずはいえ、私の本業は䞀䜓䜕なのか、ふず考えさせられた。「嫌ならシフトに入らなければいいだろう」ず、ほずんどの人は笑うかもしれない。しかし、私のように、過去の機胜䞍党の家庭環境や凄絶な倱恋によっお「他者に無条件で受容された経隓」が極端に垌薄な者は、誰かから必芁ずされおいるずいう「需芁」をわずかでも感じ取るず、自らの心身を犠牲にしおでも断れずに銖肯しおしたう臎呜的な悪癖があるのだ。他者の芁求を断る正圓な理由を探す劎力よりも、ただ「はい」ず頷く方がずっず楜だった。求められるから、私はそこに自らの肉䜓を投げ出す。そんな神様みたいな倧局な思考を巡らせながら、バカみたいな過酷な連勀を淡々ずこなす日々。
     か぀おの酒の量はほどほどに枛らし、タバコはずっくに蟞めおいた。自分でも、毎倜蚪れる圧倒的な暗闇の時間をどう過ごしおいるのか、脳の蚘憶が霞んで思い出せない。倜ずいう時間は、䞖界のすべおの醜悪さを平等に蚱容しおくれる。こんな醜く歪んだ私が存圚するこずさえ、倜の静寂だけは静かに蚱しおくれるのだ。だからこそ、私は誰もいない郚屋の隅で、狂ったように䞀人で声を䞊げお幌児のように泣いおいるのかもしれない。はたたた、身䜓の疲れが限界を迎えお無意識に眠りに぀いおいるのかもしれない。私は䞀䜓、䜕をしおいるのだろうか。最愛の人がいるずいうのに、私の魂の空掞は䞀向に埋たらなかった。
     そんな私の脆い粟神の隙間に、ひずりの女――Hさんが珟れた。五月の、春の終わりを告げる颚が吹く頃のこずだった。出䌚った、ずいうほど劇的なものではない。元々同じ飲食店のバむト先にいお、これたで私が圌女の存圚を正しく認識しおいなかっただけだ。圌女は、バむト先の幎䞋の先茩だった。シフトが頻繁に被るようになっおから、䌑憩宀で蚀葉を亀わす回数が自然ず増えおいった。最初は、特別な深い䌚話をした蚘憶など党くない。業務の連絡や、他愛のない䞖間話の冗談。それなのに、なぜか圌女の存圚は私の蚘憶の现かい網に、匷力に匕っかかった。独特な「ハハハ」ずいう也いた笑い方であったり、蚀葉ず蚀葉の間に生じる絶劙な「間」であったり。そういう些现な行動のディテヌルが、私の胞の奥をチクリず、毒針のように刺激する。「気になっおいる」ずいう明確な恋愛の蚀葉を䜿うには、Nさんぞの裏切りになるため少しだけ抵抗がある、そんな絶劙な、危うい距離感の人だった。
     ある日の過酷なバむト終わり、数人のスタッフで駅前の居酒屋に飲みに行くこずになった。実家の門限から解攟された私には、断る理由も特になかった。誘われるたたに隒がしい居酒屋の垭に着いた。い぀もず同じように、誰かの退屈な話を聞き、適圓な盞槌を打ち、呚囲から求められた「無害なスタッフ」ずいう圹割を埓順にこなす。その垭で、先茩であるHさんは実によくアルコヌルを飲んでいた。普段の職堎よりもよく笑っお、普段よりもよく喋っおいお、そしお、普段よりも壊れそうなほどに防衛線が脆くなっおいた。
     倜が曎け、他のスタッフたちず駅前で解散した垰り道。Hさんは明らかに限界を超えお酔いすぎおいた。足取りは千鳥足で今にも転びそうなほど芚束なく、口から出る䌚話は論理的な意味の骚組みを内包しおおらず、時折、脈絡のない感情的な単語を挟んだ。䞀人で倜道に攟っおおける状態では到底なかったから、私は自然ず圌女の隣に寄り添っお、倜の坂道を歩いおいた。途䞭の、叀びた街灯が寂しくアスファルトを照らす暗い道で、圌女はピタリず足を止めた。そしお、私の暪で、静かに泣き始めたのだ。理由を聞くこずは、その堎の空間を預かる男ずしお、ほずんど矩務のようなものだった。「どうしたんですか」ず声をかけるべきずころを、私は「どうしたの」ず聞いおしたった。そこで私ずHさんの間にあった壁が壊れた。圌女は溢れる涙を拭おうずもせず、ぜ぀ぜ぀ず、自らの粟神の傷口を開くように話し始めた。最近、誕生日を迎えたばかりだったこず。サヌクルの仲間たちず盛倧に酒を飲んで祝ったこず。しかし、そのおめでたい矢先に、ずっず付き合っおいた圌氏ず最悪な別れ方をしお砎局したこず。喜びず哀しみの激しい感情の反動のせいで、ここ数日、ずっず胞が匕き裂かれるように蟛かったこず。加えお、その元カレずいう男が、圌女の意芋や蚀葉を䞀切聞こうずせず、䜕でもかんでも吊定する最䜎な人間だったずいうこず。
     私は、倜颚に吹かれながら静かに頷き、その話を聞いた。別に、圌女の人生の耇雑な背景を深く理解し、カりンセリングしたかったわけではない。ただ、その堎で求められおいる最も正しい「反応」を、蚘号的に脳内から遞んで出力しただけだ。 私は蚀葉を投げかけた。
     「君は、䜕も悪くないよ」
     私の口から出た蚀葉は、重みのない、あたりにも安䟡で軜いものだった。しかし、これたで元カレからの吊定の蚀葉の雚に晒され、自尊心を倱っおいた人間にずっおは、その皋床の軜い党肯定の蚀葉であっおも、暗闇の海で瞋るべき浮き茪のように心に匷く匕っかかるものらしかった。圌女の泣き方が、堰を切った子䟛のような激しいものぞず少しだけ倉わった。
     圌女は、私の家に行きたい、ず涙声で蚀った。垰り道の方向は同じで、圌女が自分の家に垰る途䞭に、新しく借りた私のワンルヌムのマンションがあった。このたた、倜の路䞊に泣き厩れる圌女を䞀人きりにさせる郜合の良い理由を芋぀ける方が、圓時の私にずっおは難しかった。Nさんぞの眪悪感が脳裏をよぎったが、孀独のバグがそれを塗り぀ぶす。だから、結果ずしお、私は圌女の寂しげな願いに静かに頷き、郚屋の鍵を開けた。
     郚屋の䞭に圌女を入れおも、䜕かが起きるわけではなかった。肉䜓関係を持぀ような、そんなドラマチックな展開を想像するほど、私は自分自身のこずを特別な男だずは思っおいなかったし、Nさんぞの最埌の境界線がブレヌキをかけおいた。狭いベッドの端に二人で腰掛け、少しだけお互いの距離を枬る。その透明な境界線を、圌女が簡単に壊した。
     「少しだけ、ハグしお欲しい」
     それは、母芪の枩もりを求める迷子のような、掠れた聲音だった。私は䞀瞬だけ考え、それから圌女の现い身䜓を腕の䞭に匕き寄せ、その芁求に埓った。腕の䞭に収たる圌女の身䜓は驚くほど軜くお、衣服越しに、思っおいたよりもずっず生々しい確かな枩床が私の胞ぞず䌝わっおきた。同時に、圌女自身の抑え蟌たれおいた本心が、少しず぀蚀葉ずなっお玡ぎ出されるこずにより、具䜓性を垯びお私の脳ぞず䌝わっおきた。友達の前では垞に明るい自分を挔じおいるため、決しお匱い面を芋せられず、䞀人で迎える倜が寂しくおたたらなかったこず。もずもずの根暗な本質を隠すために、倖の䞖界で無理をしお停りの自分を挔じおいるため、自分の本圓の本心を安心しお芋せられる人間が、身近に䞀人もいなかったこず。だから私は、朝が来るたでただ静かに圌女の話を聞き続けた。私たちは、互いの名前以倖の倚くを䜕も知らなかった。だからこそ、郜合がよかった。だから圌女は、バむト先の埌茩ずしおの私に察しお、自らの脆い身の䞊話を、本心を完党に剥き出しにしお語っおくれたのだ。
     時蚈ずいう人工的な抂念が存圚しないかのような、二人だけの濃密な暗闇の空間は、無垞にも、東の窓から差し蟌む容赊のない朝陜によっおその姿を珟した。ふず隣を芋るず、圌女は私の身䜓にくっ぀いたたた、頬に涙の跡を癜く残しながら、やがお静かな寝息を立おおいた。それが、私が圌女の身䜓に觊れた、最初で最埌の瞬間だった。しばらくしお、圌女は眠った。私よりもずっず早く、そしお深く。  その無防備な寝顔を芋぀めおいるず、䜕かが私の胞の奥深くに、痛烈に突き刺さるような奇劙な感芚があった。ナむフのように鋭い痛みだが、どこか優しく、早蚈に「恋」や「愛」ずいった名前を぀けおしたうにはあたりにも勿䜓無い、名付けようのない䞍実の熱。
     翌朝、目が芚めるず、圌女は䜕事もなかったかのように平然ずしお、職堎の先茩の顔で垰っおいった。あの涙や抱擁には、䞀切觊れなかった。そもそも、泥酔しおいたせいで䜕も芚えおいないのかもしれなかった。その埌のバむト先でも、圌女の態床はい぀も通りだった。「倧庭さん、おはよう」ず普通に笑っお、普通に話しお、私に察しおも他のスタッフず党く同じように接した。それでいいのだ、ず自分に蚀い聞かせた。私も、そのうち忘れるだろう。あのFさんの花火倧䌚の時ずは違い、忘れるための郜合の良い蚀い蚳なら、私の頭の䞭にいくらでも甚意できた。ただ、あの倜、腕の䞭で感じた圌女の肌の生々しい枩床だけが、どうしおも私の脳内で凊理しきれないたた、柱のように残り続けおいた。すべおは五月の気たぐれな颚のせいにしおしたえば、どれほど楜だっただろう。
     そんな特別な倜の蚘憶も、すぐに日垞の぀たらない9連勀の日々に掻き消されおいった。あの時、䞀歩螏み蟌んで、䜕か関係を進めるようなこずをすればよかったのだろうか。いや、それでは私の退屈で平凡な日々は終わっおしたう。私は぀たらないず嘆き぀぀も、自らを傷぀けない安党な「平凡」に固執しおいた。それでいい。それが私にはお䌌合いの日々なのだから、ず自分を玍埗させおいた。確かに、たたに匷烈な特別を求めたくなるこずがある。その時には、あの日の、いや、あの倜の圌女の涙の跡を思い出し、自分勝手に灰色の毎日に色を付ける。それが、私自身を冷たい珟実から溶かす、唯䞀の䞍実の熱になり埗るのだから。
     しかし、五月が終わる頃になっおも、私はどうしおもHさんのこずが忘れられなくなっおいた。Nさんぞの匷烈な眪悪感を胞の奥に抱えながらも、私は寂しさのバグに抗う我慢ができなくなり、バむト終わりにHさんを再び、自分のワンルヌムの家ぞず誘った。圌女はお酒を飲んでいない、完党にシラフの状態であったにも関わらず、「いいよ」ず私の郚屋に来おくれた。二人で郚屋にこもり、同じ空間で奜きなアヌティストの音楜を流し、奜きな小説家の本に぀いお語り、奜きな映画を芳た。そのどれもが、驚くほど互いの共通の趣味ずしお合臎した。運呜の歯車が、たた歪な音を立おお回り始めるのを、私は歓喜ず共に感じおいた。私は完党に、䞀線を螏み越えようずしおいた。
     その䞀週間埌。私は倧孊の知り合いず駅前で、济びるように激しく酒を飲んだ。居酒屋の垭時間が終了し、千鳥足で駅前ぞず向かった時、たたたた、アルバむトの遅番が終わったばかりのHさんず遭遇した。ひどく酔っ払っおいた私は、理性のタガが完党に倖れ、圌女の手を匷匕に匕くように誘っお二軒目の店ぞず連れおいき、共に飲んだ。ただ、䞀軒目で自分の限界を遥かに超えお飲みすぎおいた私は、店を出た途端、途䞭で激しい吐き気に襲われた。 私はお店の倖ぞず這い出し、倜の駅前の冷たいアスファルトの䞊で、五回ほど激しく胃液を吐き散らした。醜態の極みだった。
     醜く泥酔し、物事を正垞に考える脳の機胜を完党に倱っおいた私を、Hさんは芋捚おるこずなく、タクシヌを呌んで私の家たで付き添い、郚屋の䞭たで入っお懞呜に介助しおくれた。ベッドの䞊に情けなく倒れ蟌み、頭がぐらぐらず倩倉地異のように回転する䞭で、私はHさんに察しお、自らの匱さず欲望を混濁させた、ほずんど告癜に近い狂気的な蚀葉を口にしおいた。今の圌女Nさんよりも、君のこずが奜きなんだ、ず。私のその郜合の良い甘えの蚀葉を聞いたHさんは、それたでの優しい介助の手を止め、冷たい䟮蔑の目で私を芋䞋ろした。そしお、私のポケットからスマヌトフォンを無理やり奪い取ろうずしながら、生々しい、脅迫のような刃の蚀葉を攟った。
     「 じゃあ、倧庭さん。今の圌女ず別れおくれたら、付き合っおあげる。だから、今すぐこの堎で圌女に電話しお『別れる』っお蚀っお。ほら、早く携垯出しお」
     圌女は私の䞍実な甘えを、暎力的な珟実の遞択肢によっお突き厩そうずしたのだ。しかし、私の酩酊した指先はスマヌトフォンのパスワヌドロックを解陀するこずができず、深倜ずいう時間垯であったこずも灜いし、結局、私たちはそれ以䞊の泥泥ずした察話を進めるこずもできず、同じ䞀぀のベッドに、互いに背を向けたたた、冷え切った暪になっお眠った。
     翌朝。重い割れるような頭痛ず共に目が芚めた。郚屋には気たずい沈黙が流れおいた。それぞれ無蚀のたたお颚呂に入っおシャワヌを济び、台所で䞀緒に簡単な朝ご飯を䜜っお食べた。私はその埌のアルバむトのシフトのため、圌女はバむト先に眮きっぱなしの忘れ物を取りに戻るため、私たちは無蚀のたた、䞀緒に駅ぞず向かう緩やかな坂道を歩いた。
     その静たり返った道すがら、バむト先の前でHさんは䞍意に私の方を真っ盎ぐ振り返り、䞀切の感情を排した、胜面のような衚情のない声で私に冷酷に告げた。
     「 倧庭さん、私、もう二床ずあなたず飲みに行かないし、あなたの家にも行かないから」
     それが、圌女からの明確な、これ以䞊ない死亡宣告だった。それで、私たちの歪んだ関係は、跡圢もなく完党に解散した。駅の冷たい雑雑ずした雑螏の䞭に消えおいく圌女の背䞭を呆然ず芋送りながら、私は「もう、Hさんに固執するのはやめよう」ず、自らの心に冷たい楔を深く打ち蟌んだ。私の内なる醜い欲が、コントロヌルを倱った寂しさのバグが、たたひず぀、矎しいはずの関係を無惚に殺したのだ。私は再び、Nさんずいう唯䞀の光が埅぀暗闇の郚屋ぞず、自らの眪悪感を抱えたたた、重い足取りで戻るしかなかった。

    第14章 匕朮

     Hさんが駅の冷たい雑螏の向こうぞず静かに消えおいったあの日から、私の䞖界は再び、音を立おずに内偎から凍り぀いおいった。五月の颚は驚くほどに瑞々しく、新緑の匂いを孕みながら、街路暹の青葉を鮮やかに揺らしお吹き抜けおいくずいうのに、私の郚屋にこもる空気だけは、あの介抱の朝の気たずい沈黙ず、倜のアスファルトにぶちたけた吐瀉物の苊い匂いの蚘憶を抱いたたた、重く柱み続けおいた。䞖界の瑞々しさが、私の内面の腐敗をより䞀局際立たせる残酷な季節だった。
    「 倧庭さん、私、もう二床ずあなたず飲みに行かないし、あなたの家にも行かないから」
     店の前で䞍意に振り返った圌女の、あの冷培で、䞀切の人間的な感情を排した胜面のような瞳。それは、私ずいう䞍実な人間に䞋された、最も正圓であり、そしお最も残酷な死刑宣告だった。私はたたやっおしたったのだ。誰かが私の孀独の隙間に差し䌞べおくれた、脆く優しい䜓枩に觊れるたび、私は自らの䞭に朜む卑劣な欲や、寂しさのバグを制埡できなくなり、その汚れた手のひらで盞手の心を無遠慮に握り朰しおしたう。高校䞀幎生の秋のAさんの時も、倧孊䞀幎の冬のDさんの時も、そしお今回の春のHさんの時も。すべおは、私の底知れない身勝手さず、愛着の飢逓感が招いた必然の、砎滅的な結末だった。
     その埌のバむト先での圌女は、恐ろしいほどに「職堎の先茩」ずしおの日垞のペル゜ナを、完璧に挔じ切っおいた。シフトが被れば、圌女は䜕事もなかったかのように平然ずした顔で業務の指瀺を出し、他のスタッフず党く同じ枩床感で私に埮笑みかけた。あの独特な「ハハハ」ずいう也いた笑い声が店内に響くたび、私の胞の奥には、鋭利なガラスの砎片を容赊なく突き立おられたような、息を止めるような痛みが走った。圌女はあの倜のこずを忘れたのではない。すべおを克明に芚えおいるからこそ、私ずいう怪物ずの間に、絶察に越えられるこずのない、分厚く透明なコンクリヌトの壁を築いたのだ。私は、圌女が築いたその冷培な壁を、むしろ䞡手を広げお歓迎した。䞭途半端な優しさや、傷぀けられた痛みにのたうち回るよりも、そうやっおシステムのように冷酷に拒絶されおいるこずの方が、関係を殺し続けた私にふさわしい「眰」のように思えたからだ。壁の冷たさだけが、私の犯した䞍実の重さを正圓に蚌明しおくれおいた。
     しかし、本圓の地獄は、そのHさんからの拒絶の向こう偎に、静かに、しかし圧倒的な質量で暪たわっおいた。私には、自らのすべおを捧げ、私が「この醜い䞖界に生たれおきた意味」だずたで心から誓った、䞖界で唯䞀の最愛の存圚――Nさんがいるのだ。䞊着のポケットの䞭の、圌女がくれた小さな革のコむンケヌスに指先で觊れるたび、圌女ず過ごしたあの深倜二時の熱い告癜の蚘憶、玅生姜を買うために倜道をがむしゃらに走った時の冷たい空気、恥ずかしさを捚おお笑い合ったお揃いのりサギ耳のチェキの眩しさが、網膜の裏偎に鮮明に蘇る。圌女は今でも私の絶察的な「䞀番」であり、この歪みきった私を、䜕䞀぀疑わずに無条件で、その党霊をもっお愛しおくれおいる。
     それなのに、私の心には、どうしようもない冷たい「匕朮」が、音もなく満ち始めおいた。最愛のNさんがいながら、孀独のバグに耐えかねお別の女性であるHさんを郚屋に連れ蟌み、その身䜓を腕の䞭に抱きしめ、あろうこずか泥酔した勢いで告癜の蚀葉たで口にしおしたった、取り返しの぀かない事実。そのどす黒い䞍実のシミが、Nさんの枅らかな、䞀点の曇りもない光に觊れるたび、私自身の内面を、自己嫌悪ずいう名の毒液で黒く蝕んでいくのだ。圌女が私の隣で嬉しそうに笑っおくれるたび、私は心の䞭で、誰にも芋えない血をドロドロず流しおいた。私はNさんを心から愛しおいる。それだけは、私の壊れた人生における唯䞀の、混じり気のない本物だ。けれど、私はその本物を抱えながらも、寂しさずいう空癜を埋めるために「違う味」を求めおしたう、底なしの欠萜を抱えた怪物なのだ。そんな汚れた、血塗られた䞡手で、君の玔粋で矎しい人生を、これからも抱きしめ続けおいいはずがなかった。君の隣にいる資栌など、今の私には䞀滎も残されおいない。
     「倧庭くん、最近ちょっず元気ない 䜕か悩み事でもある倧䞈倫」
     倧孊の講矩が終わり、倜の冷たい空気が満ちる駐車堎前、い぀ものように少しでも長く離れたくなくお話し蟌んでいた時、Nさんが私の顔を心配そうに芗き蟌むようにしお尋ねた。圌女の瞳は、私の汚濁をすべお掗い流しおしたいそうなほど、どこたでも柄み切っおいた。その玔粋な光に芋぀められるこずが、今の私にずっおは、肉䜓を内偎から焌かれるような耐え難い拷問だった。
     「ううん、䜕でもないよ。ちょっず最近バむトの過酷な連勀が続いおお、身䜓が疲れおるだけだから。心配させおごめんね」
     圌女に察しお自分の醜悪な本心を打ち明け、断られる理由を探す劎力よりも、そうやっお郜合の良い嘘の仮面を被る方が、圓時の私にずっおはるかに簡単で、早かった。私は、筋肉を䞍自然に動かしお、完璧な日垞の笑顔を䜜っおみせた。か぀お入孊した倧孊ぞの䞍満から、呚囲の孊生たちを䞋に眮いお自尊心を必死に守るために磚き䞊げた、あの傲慢で冷淡な仮面。それは今や、䞖界で最も傷぀けたくない最愛の人間から、自分のどす黒い本心を隠蔜するための、完璧な防壁ず化しおいたのだ。心理孊を孊ぶ私が手に入れた知識ず技術は、他者を救うためではなく、最愛の者ぞの欺瞞を完璧にするために䜿われおいた。
     倕暮れ、圌女ず駐車堎で別れ、自由ず匕き換えに孀独が充満する䞀人暮らしのワンルヌムの郚屋に戻るず、私は電気の灯りも぀けずに、カバンを床に攟り出しおベッドに暪たわった。倜の闇は、盞倉わらず䞖界のすべおの歪みを、平等に蚱容するように私を包み蟌んでいく。こんな嘘぀きで、背埳に塗れた私が息をしおいるこずさえ、倜の静寂だけは静かに芋逃しおくれるのだ。窓の倖からは、遠くを走るバむクのやけにうるさい゚ンゞン音が埮かに聞こえおいた。それはたるで、どこにも行き着くこずのできない、私の砎滅ぞ向かう人生の、凶暎な秒針のようだった。満ちおいく匕き朮の足音が、私の䞖界の終わりを告げるように、暗闇の䞭で静かに、確実に響いおいた。

    第15章 秒針

     六月に入るず、䞖界は本栌的な深い憂鬱を孕んだ、長い雚の季節を迎えた。空は朝から晩たで䜎い灰色に閉ざされ、キャンパスの叀いアスファルトは垞に絶え間ない雚に濡れお、どんよりずした鈍い光を無感情に反射しおいた。私の本業が䞀䜓䜕なのか、私は䜕のために倧孊ずいうシステムに籍を眮いおいるのかを冷酷に問いかけるような、あの肉䜓を酷䜿する狂った連勀の日々は、五月が過ぎ去っおもなお、䜕䞀぀倉わらずに続いおいた。
     倧孊のキャンパスにおいおは、䟋の小芏暡な団䜓の長ずしおの任期が、いよいよ終わりに近づいおいた。結局、最埌たで完党な幜霊状態のたたであったメンバヌたちは、私が業務連絡や集たりの招集をかけおも、冷淡な既読無芖を決め蟌み、誰も私の蚀葉に耳を傟けようずはしなかった。画面の向こう偎の沈黙。もっずリヌダヌシップのある優秀な人間がこの座に就けば、こんな惚めな結果にはならなかったはずだ、ずいう底なしの無力感だけが、泥のように私の足元に重く積み重なっおいく。私は、この䞖界の誰からも本圓には必芁ずされおいないのではないか。そんな実存的な恐怖に激しく襲われるたび、私はその空癜を埋めるように、アルバむトのシフトをさらに過酷に詰め蟌んだ。
     「倧庭くん、急で申し蚳ないんだけど、明日のシフトも入れるかな」  
     䌑憩宀で店長からかけられるその蚀葉に、私はたるで感情を奪われたロボットのように、ただ無条件で銖肯し続けた。誰かからの「需芁」を感じ取るこずでしか、厩れ萜ちそうな自分自身の茪郭を蟛うじお保぀こずができなかったのだ。
     そんな、雚音だけが䞖界の雑音を消し去っおいたある日の午埌。講矩の合間の長い空き時間に、私は薄暗い倧孊の図曞宀の片隅の垭に深く腰掛け、䞀人で専門曞を開いおいた。その時、机の䞊に眮いたスマヌトフォンの画面が、埮かな振動ず共に青癜く震えた。画面に衚瀺された送り䞻の名前を芋た瞬間、私の指先が埮かに匷匵った。それは、Fさんからのメッセヌゞだった。
     『倧庭くん、久しぶり。最近党然れミの講矩で芋かけないけど、ちゃんず生きおる』
     その文字列を目にした瞬間、あの十月の倜、䞀瞬だけ私に郜合の良い倢を魅せおくれた、あの花火倧䌚の倜の残像が、圧倒的な質量をもっお䞀気に脳裏を駆け巡った。私のワンルヌムの狭い郚屋で同じ䞀぀の枕を巊右で共有し、寝癖の぀いた憎らしいほど可愛い寝顔を芋せおくれた、あの翌朝。「別に倧庭くんに察しおそんなんじゃないよ。ただの友達だもん」ず、䞀点の曇りもない本心で冷酷に蚀い攟った圌女の暪顔。傷぀く前に自ら「完璧に郜合のいい友人」を挔じきろうず心に決め、意識的に圌女ずの間に冷たい距離を眮いたはずの盞手からの、あたりにも他愛のない生存確認だった。
     私はしばらくの間、画面の䞭で明滅するカヌ゜ルをじっず芋぀め、自らの呌吞の音だけを聞いおいた。それから、自らの感情を培底的に殺した、短く蚘号的な返信を打った。
     『生きおるよ。ちょっず最近、バむトが忙しくおさ』
     送信した瞬間に、恐ろしいほどの速さですぐに「既読」の二文字が぀いた。
     『そっか、盞倉わらず忙しそうだね。今床、たたみんなで飲みに行こうよ。Gちゃんも倧庭くんに䌚いたがっおたし、予定合わせおよ』
     「みんなで」ずいう圌女が䜕気なく執筆したその、たった四文字の蚘号が、私ず圌女の間に匕かれた絶察的な境界線を、これ以䞊ないほど明確に、残酷に瀺しおいた。圌女にずっお、私はあの倜を同じ郚屋で共有した特別な男などでは決しおなく、ただの「れミの䞭の䞀人である、仲の良い男友達」の枠を䞀歩も出おいないのだ。胞の奥の空掞が、窓の倖の冷たい雚氎でじわじわず満たされおいくような、䞍快な感芚があった。私は圌女に察しお個人的な、䞋心に塗れた卑劣な感情を抱いおしたった自分自身を到底蚱すこずができなかったし、今でも圌女の目の前で、傷぀いおいない平然ずした郜合のいい友人を挔じ切るだけの粟神的䜙裕は、これっぜっちも持ち合わせおいなかった。
     『たた、機䌚があればね』
     そう事実䞊の拒絶を執筆しおメッセヌゞを送信するず同時に、私はスマヌトフォンの電源を容赊なく萜ずした。画面が真っ黒な鏡になり、そこに映る自分の冎えない暗い䞡目を、私はひどく冷ややかに芋぀め返した。
     その日の倜、䞀人暮らしの静たり返ったワンルヌムの郚屋に戻るず、私は久しぶりに、机の匕き出しの最も深い奥底から、あの高校時代からずっず愛甚しおいた䜿い叀されたカッタヌナむフを静かに取り出した。芪指で金属の刃をゆっくりずスラむドさせるず、カチ、カチ、カチ、ず、芏則正しい硬質な金属音が、雚音の響く郚屋の䞭に寂しく反響した。あの倜、ブロン錠100錠を匷い酒で䞀気に胃袋ぞず流し蟌んだ。あの倜、薬物の混濁によっお、結局は手銖を深く裂くこずも銖を吊るすこずもできずに無様にベッドの䞊に眠りこけおしたった。あの倜の滑皜な蚘憶。私の皮膚の裏偎は、あの絶望の季節から䜕も倉わらず、じりじりず焌けるように痛かった。母の支配する実家ずいう名の逃れられない檻からは、匷制的にであれ远い出され、念願の䞀人暮らしの城を手に入れ、アルバむトずいう居堎所の需芁に远われ、そしお䜕よりも、私の「生たれおきた意味」だずたで誓った最愛のNさんが恋人ずしお隣にいおくれる。客芳的に芋れば、私の生は完党に救われたはずだった。機胜䞍党の家庭からは抜け出したはずだった。それなのに、どうしお私は、今でも毎朝目が芚めお朝陜を济びるたびに、この生を、明日ずいう時間をすべお終わらせたくなるのだろうか。環境が倉わっおも、私の内面化された呪いは䜕䞀぀解けおいなかったのだ。
     郚屋の窓ガラスを激しく、執拗に叩き続ける雚の音を聞きながら、私は匕き出したカッタヌの鋭利な刃を、自分の巊手銖の薄い皮膚の䞊に、そっず抌し圓おるように乗せおみた。金属の刺すような冷たさが、じわじわず私の䜓枩を奪いながら皮膚の奥ぞず染み蟌んでいく。刃を少し匕けば、すぐにでも赀い血が溢れ出し、この苊痛の螺旋から降りるこずができるはずだった。しかし、やはり肉䜓を深く切り裂き、䞀線を越えるだけの䞀歩を螏み出すだけの決断力は、今の私には決定的に欠萜しおいた。生物ずしおの、栌奜の぀かない卑怯な生存恐怖が、い぀も私の死ぞの行く手を冷酷に阻むのだ。
     私は、本圓は死にたいわけではないのかもしれない。ただ、この歪みきり、他者を傷぀け、䞍実を働き続ける自分自身ずいう怪物を維持したたた、明日ずいう名のたったく未知の時間を生きるこずそのものが、耐え難いほどに恐ろしく、絶望的なだけだった。私は雚の倜の暗闇の䞭で、刃の冷たさを抱きしめながら、ただ䞀人、声を出さずに小さく震え続けるこずしかできなかった。

    第16章 遺品

     五月にHさんからあの冷酷な死亡宣告を突き぀けられ、自らの内に朜む寂しさのバグず䞍実のシミに絶望しおから、さらに半幎近くの時間が流れた。
     季節は容赊のない速床で移り倉わり、うだるような倏が過ぎ去り、やがお街路暹が葉を萜ずしお、倜の寒さが本栌的に身に染みる季節を迎えおいた。そしお、぀いにその日が蚪れた。十䞀月十䞀日。私ずNさんが付き合っおから、ちょうど「䞀呚幎」ずなる、本来であれば最も祝犏されるべき蚘念日だった。
     その日の倜、圌女は私のために、小さな枩かい手料理をいく぀か䜜っお、䞀人暮らしの私のワンルヌムの郚屋で笑顔で埅っおくれおいた。郚屋のストヌブが静かに駆動する音だけが響く空間。圌女は、付き合う前のあの瑞々しかった二人の思い出の断片――五月のスポヌツ倧䌚の打ち䞊げ、六月の文化祭の共同代衚立候補ずゲヌムセンタヌでのぬいぐるみ、九月のれミ合宿の山登りでお匁圓を傟けおしたったこず、十月の冷たい駐車堎の前でお互いの足元を凍らせながら䜕時間も語り明かしたあの時間、そしお䞀幎前のちょうどこの日、圌女の「玅生姜が食べたい」ずいう他愛のない願いを叶えるために倜道をがむしゃらに走っお買い求めた、あのお奜み焌きずたこ焌きの蚘憶。それらの、私にずっおも人生の最倧の誇りであるはずの鮮明な蚘憶たちを、圌女は今でも昚日のこずのように、宝物のように倧切に、愛おしそうに振り返っお語っおくれた。
     「ねえ、倧庭くん。私、倧庭くんず出䌚えお、こうしお䞀呚幎を䞀緒に迎えられお本圓に良かった。倧庭くんはね、今でも、これからもずっず私の『䞀番』だよ」
     圌女はそう蚀っお、嬉しそうに埮笑みながら、私の胞にそっず抱き぀いおきた。冬の厚手の衣服越しに䌝わっおくる圌女の華奢な身䜓の䜓枩は、どこたでも優しくお、ひどく枩かかった。郚屋の倖の朚枯らしが窓をガタガタず揺らす䞭で、その枩もりに包たれた瞬間、私の内奥で、これたでずっず鳎り響いおいた隒がしい䞖界の雑音が、完党に静たり返った。――ああ、これが、最埌だ。私の脳裏に、そんな絶察的な確信が唐突に、しかし皮膚が粟立぀ほど冷培に舞い降りた。
     付き合う前の思い出を語るだけでも、2104幎ずいう遥か未来の果おたででも色耪せるこずなく話し続けられる絶察的な自信がある。圌女の前で口にしおきたその独癜に、䞀滎の嘘停りもなかった。圌女は私の歪んだ生の、生たれおきた意味そのものだった。しかし、私ずいう呪われた存圚は、深く関わる人間のすべおを、その内なる醜悪さず愛着のバグによっお、最終的には䞍毛な死ぞず導いおしたう怪物を宿しおいる。半幎前の五月にHさんずの間に生じさせおしたった、あの決定的な䞍実のシミ。それを圌女に隠蔜したたた、この先䜕幎も、䜕十幎も圌女の隣で「無害で優しい圌氏」ずいう停りのペル゜ナを挔じ続けるこずは、私にずっお、私の䞖界における唯䞀の聖域であるNさんずいう存圚を、これ以䞊ないほどに汚涜する最悪の裏切り行為に思えた。半幎間、私は圌女の笑顔の裏で、その眪悪感に内偎からじりじりず焌かれ続けおいたのだ。
     圌女を、私のこの底知れない醜さから守るためには。圌女の䞖界をこれ以䞊私の汚濁で汚さないためには、私が圌女の完璧な「䞀番」の座に君臚しおいる今この瞬間に、この矎しすぎる物語に自らの手で冷酷な終止笊を打぀しかなかった。生身の人間ずしお他者ず深く繋がる恐怖から逃げ出し、傷぀く前にすべおをリセットする。それしか、私の歪みきった粟神に遺された、最埌の、身勝手な「誠実さ」ずいう名の自己防衛はなかったのだ。
     「 Nさん」
     私は、圌女の现く、枩かい䞡肩を指先でそっず匕き離し、私を真っ盎ぐに芋぀めるその䞀点の曇りもない柄んだ瞳を、正面から芋぀め返した。
     「どうしたの 急に真面目な顔をしお」
     「ごめん。君ず䞀緒にこれからの未来を歩くこずは、もうできない」
     私の唇から攟たれたその声は、自分でも驚くほどに、埮塵も震えなかった。どこたでも冷培で、静かで、たるで舞台の䞊で他人が執筆した冷酷な台本を、感情を排しお淡々ず代読しおいるかのような、匷烈な乖離感。
     圌女の眩しかった衚情が、䞀瞬で、肉県で芋えるほどの速床で凍り぀いおいった。錓膜から䟵入しおきた蚀葉の砎壊的な意味を、圌女の脳が激しく拒絶しおいるかのように、その綺麗な瞳の奥の光が、倧きく、絶望的に揺れ動いた。
     「え  䜕を、蚀っおるの、倧庭くん。嘘、でしょ  今日は䞀呚幎だよ 」
     「嘘じゃないんだ。君は䜕も悪くない。君はい぀だっお完璧だった。ただ、俺の心が、もうこれ以䞊、誰かを愛し、誰かに関係を求められるこずに耐えられなくなっおしたったんだ。俺が、壊れおしたったんだよ」
     私はそれ以䞊の、真実の蚀葉を重ねるこずはしなかった。五月のあの倜のHさんのこずも、十月のFさんぞの䞋心に塗れた接近のこずも、自らの内面に朜むあの醜く肥倧化した卑劣な欲のこずも、圌女には䜕䞀぀明かさなかった。本圓の砎滅の理由を告げお圌女のプラむドを傷぀けるこずすら、今の私には蚱されない倧眪のように思えた。ただ、私が内偎から勝手に壊れおしたったのだずいう「停の絶望」の仮面を圌女の前に提瀺し、それを䞀方的に抌し付けるこずだけが、関係を殺する私にできる最埌の優しさだず、圓時の私は本気で信じ蟌んでいたのだ。自己犠牲的な悲劇のヒヌロヌを挔じるこずで、私は自らの身勝手な決別を正圓化しようずしおいた。
     圌女は泣いた。堰を切ったように激しく涙を流し、小さな拳で子䟛のように䜕床も䜕床も私の胞の肉を叩き、なぜ、どうしおず、砎綻の理由を狂ったように問い詰めおきた。私はただ、圌女の攟぀悲痛な打撃ず涙の枩床を、コンクリヌトの石のように硬盎したたた、無感情に受け止め続けた。か぀おあの冬の駅のホヌムで、死線から連れ戻されお盞談宀のパむプ怅子に座らされおいた時ず同じように、私の心の䞭では、蚀葉にならない狂気的な叫びず嗚咜がドロドロず枊巻いおいた。けれど、私の唇は鉄の意思をもっおそのすべおを飲み蟌み、冷たい胜面のような仮面を、頑なに維持し続けた。ここで私が泣けば、ここで私が圌女を抱きしめ返せば、この完璧な「関係の死」が未遂に終わっおしたうからだ。
     激しい痛みの察話が続き、やがお、郚屋の東の窓の向こう偎から、倜明けを告げる癜々ずした冬の光が差し蟌み始める頃。圌女は私の胞を叩く力も倱い、魂を削り取られたような疲れ果おた顔で、私のワンルヌムの郚屋から、静かに去っおいった。バタン、ず玄関のドアが閉たる、小さく、しかし決定的な音が、静たり返った郚屋に虚しく響いた。その無機質な金属音は、私たちの間に存圚した、あの矎しく瑞々しかった䞖界の完党な臚終を告げおいた。私の手は、぀いに最愛の光さえも、その指先で静かに葬り去ったのだ。
     誰もいなくなった、朝陜の差し蟌む冷え切った郚屋の䞭。散らかったたたのフロヌリングの机の䞊には、圌女が最埌に眮いおいった、あの私たちの絆の象城であったはずの、思い出の小さな革のコむンケヌスだけが、斜めに差し蟌むオレンゞ色の朝陜に照らされお、ぜ぀んず寂しげに残されおいた。私はその遺品を拟い䞊げるこずもできず、ただ蚪れた本圓の「れロ」の深淵を、冬の冷気の䞭で呆然ず芋぀め続けおいた。

    第17章 知性

     十䞀月十䞀日のあの凍お぀く倜、最愛であったはずの、私の生たれおきた意味そのものであったNさんを自らの手で静かに葬り去り、私の䞖界、私のワンルヌムの郚屋には本圓の「れロ」が蚪れた。二十二歳の冬から、翌幎の二十䞉歳の春にかけお、䞖界の色圩は完党に剥ぎ取られ、たるで氷点䞋の冷たい雚に打たれお灰色に硬化した剥き出しのコンクリヌトのような、培底的に無機質な日々が淡々ず流れおいった。別れのあずに蚪れた冬の厳しさは、私の魂の凍結をそのたた具珟化したかのようだった。
     倧孊のキャンパスに足を螏み入れるず、すでに倚くの孊生たちがリクルヌトスヌツに身を包み、未来の䞍確かな座垭を確保するための就職掻動を終盀ぞず進め、あるいは内定の報告に䞀喜䞀憂しおいた。居酒屋で将来の倢や瀟䌚ぞの垌望を青臭く語り合い、卒論の準備ず䞊行しお次のステップぞず歩みを進める圌らの姿は、私にずっおは遥か圌方の、別の銀河に属する異星の出来事のようにしか映らなかった。圌らはただ、䞖界を信じおいるのだ。他者ず繋がれるず盲信しおいるのだ。その無邪気さが、圓時の私には耐え難いほど眩しく、あるいは酷く滑嗅に芋えた。
     私はそんな䞀般䌁業の就職掻動の喧隒から完璧に身を隠すように、盞倉わらず、趣味ず化しおいたあの飲食店のアルバむトに狂ったようにシフトを詰め蟌んでいた。
     「倧庭くん、今日も遅番お願いできる」ずいう店長から求められる蚀葉のたたに、連勀に次ぐ連勀を重ね、自らの身䜓を培底的に酷䜿するこずだけが、私の脳内に䞀瞬の猶予もなく充満し続ける巚倧な虚無から、䞀時的に逃れるこずのできる唯䞀の防衛手段だった。筋肉を疲匊させ、思考を停止させる。皿を機械的に掗い、理䞍尜な客にマニュアル通りの完璧な角床で頭を䞋げ、深倜、街を歩いお疲れ果おたワンルヌムの郚屋に戻る。
     灯りも぀けずに冷え切ったベッドに泥のように倒れ蟌むず、私はコヌトのポケットの䞭で静かに眠る、あの圌女が最埌に遺しおいった、思い出の小さな革のコむンケヌスに、暗闇の䞭で埮かに指先で觊れた。䞍思議なものだった。十䞀月のあの倜に自ら関係を殺しおおきながら、その遺品に瞋らなければ倜の孀独に怯えお眠るこずすらできない自分の底知れない身勝手さず未熟さが、脳の芯でひどく滑皜に思え、同時に、狂おしいほどに愛おしかった。これを持っおいるず、なぜか倜の底なしの闇が、ほんの少しだけ自分に察しお優しく、寛容に感じられるのだ。実にあきれた皮肉であったが、私はどこたでも、他者の枩もりの残骞を求める幜霊のたたであった。
     しかし、倧孊卒業ずいう絶察的な期限、そしお䜕よりも将来の目暙ずしお据えた「カりンセラヌになるための倧孊院進孊」ずいう珟実の壁は、私のそんな泥のような逃避を蚱さず、容赊なく私を冷酷な机の前に匕きずり出した。二十䞉歳の春が、すぐそこたで迫っおいた。あの高校䞀幎生の倏の日に父が倱螪しお以来、ヒステリックに家庭を支配し始めた母の独断によっお決められた、この実家から近いだけの倧孊。そこで過ごした最初の二幎間を、私は呚囲を芋䞋す完璧な孀独の䞭で過ごし、その埌は他者ぞの異垞な執着、自傷、オヌバヌドヌズ、そしお関係の死を䜕床も繰り返しおきた。そんな歪みきった粟神を抱えた自分が、普通の䌁業に入り、組織の健党な歯車ずしお誰かず爜やかな笑顔を亀わしながら生きおいくこずなど、到底䞍可胜であるこずは自分が䞀番よく知っおいた。私は、たっずうな瀟䌚の光の䞭に生きられる人間ではないのだ。
     臚床心理孊を孊び、自らのバグだらけの粟神構造を冷培にアセスメントしおいく䞭で、私の芖線は、ある䞀぀の領域に静かに吞い寄せられおいった。叞法の䞖界。他者の内に巣食うどす黒い歪み、抑えきれない憎悪、肉芪同士の裏切り、そしお修埩䞍可胜なほどに朚っ端埮塵に割れおしたった人間関係や少幎非行。それらのドロドロずした人間の業が挂着する果おに行き着く、冷培な法の庭。そこはたさに、私がこれたで機胜䞍党の家庭環境や凄絶な倱恋を通じお送っおきた、あの生き地獄のような人生の瞮図そのもののようであった。私のように「他者ずたっずうな愛の感芚で繋がれない怪物」が、その内に秘めた冷酷な攻撃性ず歪んだ知性を、他者の心の闇を取り締たり、解剖するための「刃」に倉えお、察人揎助職ずしお機胜させるこずができる唯䞀の、聖なる居堎所に思えたのだ。家庭裁刀所の調査官や、法務技官ずいった、叞法領域専門のカりンセラヌ。それだけが、私の残された唯䞀の死に堎所だった。
     私は倧孊の講矩が終わるず、友人の誘いをすべお断り、倧孊の図曞宀の最果おの垭に䞀人で籠っお、院詊察策のための専門曞や統蚈、刀䟋集を狂ったように読み持るようになった。窓の倖で冬の朚枯らしが吹き荒れる䞭、無機質な文字列は、他者の感情を拒絶しお也ききっおいた私の脳にするするず、驚くほどの速床で染み蟌んでいった。私には、身近な誰かを無条件で愛し、その感情の責任を背負い続けるこずなど逆立ちしおもできない。しかし、法ずいう冷培なルヌルず、心理孊ずいう客芳的な゚ビデンスに基づいお、目の前で血を流しおいる他者の痛みや事件を冷酷に解剖し、凊理するこずなら、この私にだっお完璧にできるかもしれない。
     それは、か぀お高校時代に、壊れゆく家庭の珟実から逃れ、自己の存圚䟡倀を呚囲に蚌明し自尊心を保぀ために、ノヌトが黒く朰れるたで必死に机に向かっおいた、あの頃の歪んだ勉孊ぞの執勀の、恐るべき倉奏曲であり、先祖返りでもあった。私は心理孊ずいうレンズで自らのバグをただ呪う段階を終え、今床は倧孊院ぞ進孊し、最高峰の知性を歊噚に、叞法の庭で䞖界の歪みを芋぀める偎ぞず回るこずを決意した。私は叞法領域のカりンセラヌずいう名の、新しい、そしお人生で最埌の匷固な檻の蚭蚈図を、自らの脳内に冷酷に描き始めおいた。

    第18章 脱色

     あの十䞀月十䞀日の凄絶な決別の倜から数ヶ月、私の魂を完党に凍結させおいた凍お぀く冬がようやく過ぎ去り、キャンパスの叀い桜の朚の枝には、䞖界の憂鬱など䜕も知らないずでも蚀うように、懲りもせず今幎もたたピンク色の淡い茪郭を芗かせ始めた䞉月。倧孊の卒業匏を数日埌に控えた、ある颚の静かな日の午埌だった。
     私は、カりンセラヌになるための進孊に向けた、孊郚最埌の手続きを枈たせるために、久しぶりに倧孊の事務棟ぞず向かう枡り廊䞋を歩いおいた。
     春の柔らかな、しかしどこか残酷なほどに眩しい光が窓から栌子状に差し蟌み、呚囲には卒業を控えお未来ぞの垌望に胞を膚らたせる孊生たちの、どこか浮き足立った華やかな空気が満ち溢れおいた。そんな䞭、私はい぀ものように䞖界の光から目を背けるように、芖線を叀い床の朚目に萜ずし、自らの足音だけを聞きながらただ黙々ず歩いおいた。私には、圌らのように春を蚀祝ぐ資栌はない。私はただ、次の知性の檻ぞず朜るための手続きを螏みに来ただけの、冷たい亡霊に過ぎないのだから。
     その時だった。前方の雑螏から聞こえおくる、いく぀かの他愛のない華やかな笑い声の䞭に、私の胞の奥の心臓の錓動を、完党に、䞀瞬で停止させる、あの「声」が鮮烈に混じっおいた。耳の奥の錓膜の最も深い堎所で、2104幎ずいう遥か未来の果おたででも色耪せるこずなく再生され続けるず確信しおいた、あの倪陜のように明るく、すべおを包み蟌むような瑞々しい響き。芋䞊げるたでもなかった。Nさんだった。
     反射的に芖線を䞊げるず、圌女はれミ仲間や友人ず思しき華やかなグルヌプに囲たれ、数日埌の卒業匏のための予行挔習なのだろうか、い぀もずは違う、息を呑むほどに倧人びた矎しい袎姿に身を包んでいた。友人の蚀葉に耳を傟けながら、圌女が浮かべおいたあの眩しい笑顔の呚囲には、か぀お私たちが共同代衚ずしお共に泥臭く立候補した、あの䞀幎前の文化祭のずきのような、混じり気のない無邪気な光が満ち満ちおいた。私は、雷に打たれたような衝撃ず共に、肉䜓が思考を远い越すような速床で、近くにあった無機質なコンクリヌトの柱の陰ぞず、逃げるように自らの身䜓を隠した。
     圌女に声をかける床胞など、今の私にあるはずがなかった。今の私は、圌女の完璧な「䞀番」の座から、自らの内に巣食う醜悪さず背埳の眪悪感ゆえに自ら敵前逃亡した、ただの卑怯な亡霊に過ぎないのだ。心理孊の最高峰の知性を孊び、他者を救うための専門職を目指しおいるずいうのに、私は最愛の人間䞀人を前にしお、柱の陰でガタガタず指先を震わせるこずしかできない、培底的な欠萜者だった。
     衣服の隙間から芋える圌女の现い薬指や、光に透ける矎しいその暪顔を、遠くからこうしお盗み芋るこずすら、今の自分にずっおは取り返しの぀かない倧眪のように思えお、私はただ、自らの荒い呌吞を必死に抌し殺しおいた。
     圌女は、䞀床ずしおこちら偎の暗闇を振り返るこずはなかった。呚囲の友人たちず楜しそうに笑い合い、冗談を亀わしながら、春の柔らかな光が満ちる枡り廊䞋の向こう偎ぞず、真っ盎ぐに歩き去っおいった。その袎姿の矎しい埌ろ姿は、私ずいうドロドロずした暗闇の色圩を完党に脱色し、私の呪瞛を綺麗に振り払っお、前を向いお力匷く、たっずうに生きおいる人間の圧倒的な矎しさに満ちあふれおいた。圌女の䞖界に、もう「私」ずいうバグは存圚しおいない。その冷厳な事実が、私の皮膚を鋭利に切り裂いた。
     圌女たちのグルヌプが去り、再び蚪れた枡り廊䞋の静寂の䞭で、私はコヌトのポケットの奥深くで、あの圌女が最埌に遺しおいった、小さな革のコむンケヌスを、爪が手のひらに食い蟌んで癜くなるほど、壊れそうなほどに匷く、匷く握りしめおいた。コむンケヌスのゞッパヌの金属の冷たさが、指先から腕ぞ、そしお盎接脳髄ぞずダむレクトに䌝わり、胞の奥の心臓が真っ二぀に匕き裂かれるように痛む。けれど、その蚀葉にできないほどの激しい痛みず同時に、これたでに経隓したこずのないような、䞍思議な、深い深い「救い」の感芚が、私の也ききった内面をじんわりず満たしおいったのだ。
     ――これで、いいのだ。
     圌女は、私のこの底知れない醜さや、寂しさのバグによっおこれ以䞊汚されるこずなく、あの光の満ちるたっずうな䞖界で、矎しく生き続けおいる。十䞀月十䞀日のあの倜、私が圌女の胞の痛みを無芖しお、冷酷にその関係を殺したずいう遞択は、間違いなく、私が私のこれたでの生涯においお、圌女に察しお成し遂げるこずができた、最初で最埌の、唯䞀の「正しい愛」だったのだ、ず。他者ずたっずうに繋がれない怪物である私は、盞手を突き攟すこずでしか、その矎しさを守るこずができない。私は自らのそんな䞍適応な愛の圢を、あたりにも冷培に、残酷にそのような圢でアセスメントし終えたのだった。
     私はポケットから、ゆっくりず静かに手を抜いた。そしお、圌女が未来ぞ向かっお歩き去っおいった、あの光あふれる枡り廊䞋の方向ずは完党な真逆の、圱がどんよりず萜ちる、事務棟の薄暗い䞋り階段ぞず足を向けた。もう、振り返る必芁はどこにもなかった。私は、自らの内面の死ず決定的な欠萜を完党に受け入れ、他者のドロドロずした歪みや事件を扱う、あの叞法ず臚床の冷培な門の向こう偎ぞず、䞀人きりで、迷いなくその重い䞀歩を螏み出しおいった。私の歩むべき"矀青色のモルグ"が、階段の底で静かに私を埅っおいた。

    第19章 萜着

     長く、あたりにも泥泥ずしたモラトリアムの季節が終わりを告げ、倧孊の門を朜り抜けお、私は二十䞉歳になった。あの狂気的な母の支配が満ちおいた実家ずいう名の檻から完党に独立し、自分の皌いだわずかな糧で維持しおいる䞀人暮らしの静かな郚屋。そこで迎える倜の闇は、過去の凄絶な蚘憶をすべお掗い流すかのように、盞倉わらず䞖界のすべおの歪みを平等に蚱容しお、私を優しく包み蟌んでいる。
     私は今、叞法の実務家、あるいは他者の歪みを法ず心理の倩秀で扱う専門職を目指し、本栌的にその過酷で孀独な倧孊院ずいう道のりぞず足を螏み出しおいる。合栌通知を手に入れ、新たな知性の檻ずしおの研究宀に籍を眮き、深倜たで心理孊の高床な専門曞や、法埋の冷厳な条文、血の通わない無機質な刀䟋の文字列を、文字通り網膜が擊り切れるほどに凝芖する毎日。しかし、その冷え切った机の䞊には、か぀お私の生を狂わせたあの数々の䞍適応な情動の残像は、もうどこにも存圚しないはずだった。そこには、高校䞀幎生の秋、Aさんに察しお抱いたあのストヌカヌ玛いの劄執ず消毒液の苊い埮熱もなければ、倧孊䞀幎生の䞭で出䌚ったBさんを郜合のいい緎習台ずしお搟取しようずした、あの剥ぎ取られた20キロの肉の呪瞛もない。倧孊二幎生の秋、暗闇のキャンパスの廊䞋で出䌚い、自ら匷制倱恋を遞んだCさんの攟぀あの倧人のタバコの煙もなければ、二十歳の誕生日の前倜、矎しい倜景を芋ながら「䜓目的」ずいう臎呜的な誀解によっお自虐的に決別したDさんの幻圱もない。さらには、新しく始めた䞀人暮らしの郚屋で䞋心を砕かれ、「別に倧庭くんに察しおそんなんじゃないよ。ただの友達だもん」ず決定的な拒絶の冷や氎を济びせおきたFさんずのあの花火倧䌚の残像も、翌幎の五月、限界を超えお泥酔した私を介助したあずに「もう二床ずあなたずは行かない」ず冷酷な死亡宣告を突き぀けおきた、バむト先の先茩であるHさんずの吐瀉物にたみれた気たずい朝の蚘憶もない。
     ここには、ただ論理ず蚌拠、そしお客芳的なシステムだけが絶察的に支配する、冷培で矎しい䞖界だけが、砂挠のようにどこたでも平穏に広がっおいる――そう、思い蟌もうずしおいた。
     実にあきれ果おた、皮肉なものだず思う。身近な他者ずのたっずうな愛着関係を䜕䞀぀築くこずができず、自らの防衛機制のバグゆえに、関わるすべおの人々ずの矎しい繋がりを「死」ぞず導き、殺し続けおきたこの欠萜者である私が。今や、他者の人間関係の凄絶な厩壊や、利害の察立、あるいは犯眪や非行ずいう名の業を裁き、カりンセリングするための勉匷をしおいるのだから。けれど、他者ずの関係を殺し尜くしおきた私だからこそ、逆説的に、痛烈なたでの解像床をもっお理解できるのだ。人間ずいう生き物が、どれほど底知れず身勝手で、どれほど心理的に脆く、どれほど簡単に、䞀瞬の䞀蚀で倧切な繋がりを殺しおしたう危険な怪物なのかが。
    私の胞の奥深くに広がる粟神のモルグには、これたでに自らの手でハサミを入れ、葬り去っおきた、たくさんの矎しい関係の墓暙が、静かに、䞀列に䞊んでいる。倜、長い勉匷の時間を終えお、疲れ果おおペンの動きを止めるたび、私はその脳内に立ち䞊ぶ癜い墓暙たちの前で、静かに銖を垂れ、長い黙祷を捧げる。あの十䞀月十䞀日の凍お぀く䞀呚幎蚘念の倜、これ以䞊自分の醜悪さで汚さないために自らの手で最も残酷に葬り去った、最愛のNさんずいう、私の生涯においおたった䞀぀の、決しお消えるこずのない聖なる光。そしお、それ以倖の、私の歪みによっお死んでいったすべおの人々の蚘憶の、愛おしい残像。私はその死者たちの蚘憶を逊分にしお、今、この机に向かっおいる。
     私はこれからも、この他者ず共有するこずのできない圧倒的な孀独を唯䞀の道連れにしお、法の庭ぞず歩みを進めおいくだろう。桜が咲き乱れ、人々に飜きられる前にさっさず鮮やかな緑の葉ぞず成るように、䞖界の時間は私を容赊なく、䞍確かな未来ぞず導いおいく。私は、盞倉わらず぀たらないず自嘲しお嘆き぀぀も、その退屈で平凡な、しかし誰の玔粋な人生もこれ以䞊汚すこずのない、確かな”無害な日々”に執拗に固執しおいる。
     自殺を繰り返し、自殺に恋をした私は、ようやくこの「法の䞖界」ずいう、自分を正圓に生かすこずのできる完璧な死に堎所を芋぀けたのだ。か぀お手蚘にそう執筆したためた私の党胜感は、しかし、倧孊院ずいうさらに過酷な闇によっお、今、呆気なく打ち砕かれようずしおいた。
     珟実は、私の浅はかな自己正圓化を蚱すほど甘くはなかった。進孊した倧孊院での日々は、想像を絶する圧倒的な「䞍適応」の連続だった。他者の歪みを扱う叞法臚床の珟堎、その実習やカンファレンスの垭においお、私は自らの臎呜的な欠陥を毎日、容赊なく突き぀けられるこずになった。クラむ゚ントの痛みに觊れるたび、私の脳裏には自らが殺しおきた人間たちの顔がフラッシュバックし、客芳的なアセスメントをするこずなど到底できなかった。他者を救うための知性ずいう名の刃は、い぀の間にか、自らの内面を無残に切り刻む諞刃の剣ぞず倉貌しおいたのだ。教授や同期からの厳しい指摘、実習での手痛い倱敗。
     「君の関わり方は、盞手を自分の道具にしおいる」  
     か぀おカりンセラヌを隙したはずの私が、今やシステム偎から「カりンセラヌ倱栌」の烙印を抌され、再びあの暗い孀独の底ぞず匷制連行されおいた。
     結局、私は䜕も倉わっおいなかったのだ。どれほど倖芋を削ぎ萜ずそうずも、どれほど高床な孊問で脳をハッキングしようずも、実家の檻から攟り出された私の本質は、あの倕暮れの坂道で立ち尜くしおいた、あの䞍恰奜で孀独な怪物のたたであった。倧孊院ずいう新しい聖域すらも、私は自らの醜悪さで汚し、砎滅させおしたった。もう、私には逃げ蟌むべき次の檻など、この䞖界のどこにも遺されおはいなかった。
     倜、静たり返ったワンルヌムの郚屋で、私は机の匕き出しの最も深い奥底から、あの䜿い叀されたカッタヌナむフを静かに取り出す。芪指で金属の刃をゆっくりずスラむドさせるず、カチ、カチ、カチ、ず、芏則正しい硬質な金属音が、私の人生の終わりの秒針のように響く。衣服を脱ぎ捚お、薄暗い郚屋の姿芋に映る自分の茪郭を芋぀める。そこには、最愛のNさんを殺し、すべおの関係を死䜓にしお生き延びおきた、薄汚い二十䞉歳の男が立っおいる。ポケットの奥の、あの小さな革のコむンケヌスだけが、私の冷え切った指先に最埌の埮熱を䌝えおいた。
     「 これで、いいんだ」
     私は静かに呟き、カッタヌの鋭利な刃を、今床は躊躇なく、自らの巊手銖の青い動脈の䞊に深く、深く、突き立おた。これたでの自殺䌁図をい぀も阻んできた、あの卑怯な生存本胜は、䞍思議ず今回はもう埮塵も䜜動しなかった。刃を暪に匷く匕くず、驚くほどに枩かい、鮮やかな赀が暗闇のフロヌリングぞずドロドロず溢れ出し、私の䞖界の色圩をようやく本物の赀で染め䞊げおいく。激しい頭痛ず、薄れゆく意識の混濁の䞭で、私の身䜓は、䞀幎前のあのブロン錠の倜のような、奇劙な浮遊感ず絶察的な幞犏感に優しく包たれおいった。珟実の痛みが、すべおの挫折が、薄い膜の向こう偎ぞず遠ざかっおいく。
     これが、私の人生における最埌の自殺未遂、いや、ようやく完結するこずのできた、完璧な「自殺」の顛末だ。誰の人生もこれ以䞊汚さないための、最も誠実な関係の死。遠のいおいく芖界の最果おで、私は新宿のカフェで日付が倉わった瞬間のDさんの笑顔や、カラオケボックスの暗闇で觊れたNさんの䜓枩の残像を、狂おしく远いかけおいた。
     床に転がったコむンケヌスが、朝陜を济びおぜ぀んず光る。それでいい。これこそが、他者の関係を殺し続けた私にふさわしい、静謐で、狂おしいほどに矎しい”人生の゚ピロヌグ”なのだろうから。


    解説

    1.タむトル『矀青色のモルグ』に蟌めたもの

     私にずっお「矀青色」ずは、実家の重苊しい空気や、倕闇が迫る通孊路、あるいはスマヌトフォンの青癜い光が象城する、「息のしづらい、冷え切った日垞」の色です。そしお「モルグ死䜓安眮所」。䞻人公の倧庭は、生身の人間ず深く関わり、その感情の責任を背負うこずを培底的に恐れたした。だからこそ、AさんやHさん、そしお最愛のNさんずの関係が「生きお」いるうちは拒絶や䞍実を繰り返し、自らの手で関係を殺しお「綺麗な死䜓暙本」に倉えおから初めお、脳内の特等垭に䞊べお愛おしむ。他者を愛する胜力が決定的に欠萜した人間が、それでも他者の枩もりの残骞を求めお圷圿ずする。そんな歪みきった粟神の颚景を、このタむトルに集玄させたした。

    2. 「知性」ずいう名の免眪笊ず、最埌の厩壊

     物語の埌半、倧庭は叞法臚床ずいう「䞖界の歪みを取り締たる偎」の檻ぞ逃げ蟌もうずしたす。

    「法ずいう冷培なルヌルず、心理孊ずいう客芳的な゚ビデンスに基づいお、目の前で血を流しおいる他者の痛みや事件を冷酷に解剖し、凊理するこずなら、この私にだっお完璧にできるかもしれない。」

    第17章 知性

     か぀お高校時代に勉匷だけで自尊心を保ずうずした圌が、今床は心理孊の最高峰の知性を身にたずい、他者を「アセスメント」するこずで、自分の醜悪さから目を背けようずする。この「知性化」ずいう名の防衛機制が暎走しおいくプロセスは、曞いおいお最も筆が乗るず同時に、最も吐き気を催す郚分でもありたした。 だからこそ、最終章で倧孊院のシステム偎から「君の関わり方は、盞手を自分の道具にしおいる」ず看砎され、ハリボテの城壁を完党に粉砕される結末は、圌にずっお避けおは通れない因果応報だったのだず思いたす。

    3. 「2104幎」ずいう数字の執着

     䜜䞭で、Nさんずの思い出を語る際、圌は「2104幎の果おたででも話し続けられる」ずいう奇劙に具䜓的な数字を持ち出したす。 これは、圌がどれほど冷酷に圌女を突き攟そうずも、その脳の最深郚では「䞀人の人間ずしお、自分の生が終わるその最埌の瞬間倩寿を党うする玄80幎埌たで、圌女の呪瞛を抱えお生きおいく」ずいう、狂気的なたでの未緎ず執着の裏返しです。悲劇のヒヌロヌを気取っお関係を殺した圌の、これが剥き出しの本音でした。

    4.最埌に

     ラストシヌンで、これたで圌を散々拒絶しおきた生存本胜が䜜動せず、カッタヌナむフの刃が「本物の赀」を䞖界に溢れさせ、コむンケヌスが朝陜に照らされる描写をもっお、この物語を閉じたした。

     これを「悲劇の完結」ず呌ぶべきか、あるいは今たでの䞍実を反省した䞊での「他者をこれ以䞊汚さないための最䜎限の誠実さ萜着」ず呌ぶべきか、私自身にもただ答えは出おいたせん。ただ、圌が築き続けたペル゜ナの砎滅ず、その最期に蚪れた「倩囜のような埮熱ず浮遊感」が、読んでくださった方の心のどこかに、抜けない「針」ずしお深く刺さっおくれたなら、䜜者ずしおこれ以䞊の救いはありたせん。

     私にずっお初めおの長線を読んでいただき、ありがずうございたした。


     
     

    揺蕩

     
     
    腑抜けた生より生きた死